#3

 女神の実業団のグラウンドにいってみようか。


 俺がそう思い立ったのは、翌々日の定休日。わざわざつけ回したりしたら犯罪だが、散歩するついでに寄るぐらいなら罪はあるまい。まあ、それにしちゃ長い距離の坂を三〇分は越えなきゃならんのだけど。


 キンと痛いほど冷たい分、空気はどこまでも澄んでいる。まっ平らな関東平野の縁にく青空を背負った富士山がくっきりと見渡せる河原の一画に、目当てのグラウンドはあった。小さいながらもちゃんとしたスタンドがあり、見物客らしき姿もぽつりぽつり。


「思ってたより本格的……」


 戸惑いながら巡らせた視線の先、グラウンドの果ても果てに―――彼女が、いた。


 いつもはデニムに包まれているほっそりとした両脚が、短い裾の競技パンツから延びていてひどく眩しい。一つにくくった髪のおくれ毛が風に靡いているのが遠目にも判る。


「雪村、また調子上げてきたよな!」


「なるかなあ、夢の7メートル・ジャンパー」


 誰かの交わしあう囁きにさりげなく耳を傾けながら、俺は風の中に立つ彼女へとじっと視線を注いだ。


 細い。


 いつもの私服に比べて、一回りは細く見える。特に、腹部なんてまったいらのぺったんこだ。とても、15センチもあるケーキを吸い込んでるとは思えない。


 そのくせ、その背が大きく広く感じられた。


 チームエンブレムらしき、広げた翼のマーク。青いユニフォームの中、白いシャープなラインのそれがやけに眩しく目に映った。


「まじかよ……」


 目前のアスリート然としたムードと店でのギャップに、俺が思い悩んでいたとき。


 ピッ!


 どこからか聞こえてきた笛にあわせて、その体が動き出す。律動的に運ばれる、長い脚。どこへ向かっているのかは、すぐ判った。フィールドに盛られた、黒い砂地。白い踏切板が淡い陽光に輝いていた。


 風を引き連れ、彼女はなおも加速する。


 か細い両脚が力強くしなった、次の瞬間。


 ぽん、と。


 その肢体が、青空に投げ込まれた。


 冬の陽射しを胸に受け、その足が宙を駆ける。一段、二段。まるで、本物の翼でも広げたかのように。


 周囲から、いっせいに巻き起こる拍手。ひそひそと話していた一団が、「ゆっきーゆっきー」と彼女を呼ぶ。その目が、わずかに和んでこちらへ向いた。俺はなんとなく息をつめてその視線を受け止めたが、まあ、何も特には起きない。


 そのジャンプを最後に、彼女の練習は終わりだったらしい。グラウンドの端でしばらくストレッチをしたあと、建物に吸い込まれて消えていった。それと同時に周囲から人影が一つまた一つと消えていくけど、俺はその場を動けないままだった。


 人の動きに---「走って」「飛ぶ」という、たった二つの動作の鮮やかさに、あんまにも胸を掴まれたのは初めてだった。古びたスニーカーに包まれた自分の爪先をじっと見やる。これがあんな風に動くとは、とても思えない。


 無人のベンチから俺が立ち上がったのは、たっぷり30分は経った頃。一度立ったら、今度は止まらない。店へと戻る足が、どんどんと速まっていく。うんざりするような長い坂を、できうる限りの勢いで上り切り、最後は半ば転がり込むように厨房へと戻った。明日の仕込みを始めていたらしい親父が、怪訝そうにこちらへ振り返る。


「俺に! メッセージプレート書かせてくれよ!」


「卒業するまでは商品には触らせないって言ってあるだろが」


 意気込む実の息子へ、ケーキ「MIYOSHI」の店長は無情に言い放つ。


「お客さまにお出しする品なんだぞ、おまえみたいな適当根性のやつに触らせられるか」


「適当根性は卒業します! あと、一枚だけでいいんだよ、『祝・新記録』ってのだけ!」


 俺は必死に頭を下げ続けた。生まれてこの方、こんなに下げたことねえってくらいに。


 本音は、俺がホール丸ごと作りたいが、まだ腕がないのは判ってる。でも、せめて。


「いまの10倍は練習しないと無理」


 ぎゃんぎゃんとやかましくまとわりつく息子に閉口したのか、不肖の弟子の熱心さにほだされたのか、15分ほどの攻防の末、親父の口調がちょっとだけ変わってきた。


「します」


「道具も材料もタダじゃねえんだけどよ」


「俺の給料からさっ引いてください」


 そんな押し問答の末、親父は折れた。


 自費で買い込んだプレートで200枚練習して、その結果で判断すると。


 俺は一も二もなく承知して、さっそくその日の夜から行動した。次に女神が出場する競技会は、一ヶ月後。そのときレコードが出されたら、またうちのケーキの出番になる。 そうして、予想通り。彼女は現れた。


 競技会は日曜で、俺はまず店を休めない。でも、結果だけはネットで知っていた。


 彼女、雪村選手は日本新を5ミリだけ改めて優勝した。このままいけばまず間違いなく、代表選手として五輪にも出られるだろう。あらゆる陸上メディアがそう伝えていた。


「こんにちは、このホールケーキお願いします!」


「プレートはいつものでよろしいでしょうか?」


 訊ねる俺の声は震えていなかったらしい。ショーケースの向こうの彼女は、いつも通り輝くような笑顔で頷く。


 俺はその場をおかんに任せ、恭しくケーキを捧げ持つと厨房へ引っ込んだ。大きく一つ呼吸して、チョコプレートを取り上げる。息をつめ丁寧に、けど、一気に書き上げた。プレートの端っこに親父はハートマークを描いてるが、俺は翼にする。彼女のチームのエンブレムにちょっとだけ似せた、小さな小さな天使の翼。


「こ、これでよろしいでしょうか?」


 確認にと差し出したケーキを、彼女はいつになくまじまじと眺めている。いつもなら、出して1秒で「完璧です!」て言うのに。やっぱ、半人前が書いたって判るのか?


「……あのですね」


 プレートをじっと見やったまま、彼女はわずかに首を傾けた。


「もし、わたしの勘違いだったらすっごく恥ずかしいんですけれども……ケーキ屋さん、ときどきうちのグラウンドにいらしてません?」


 俺はうっかり大事な商品を取り落としそうになる。だって、そんな、まさか。ときどき目が合うような気がしてたけど、スタンドからけっこう距離あるのにっ?


「前に……タウン誌で……うちのケーキについて話してらしたので、その」


 何をどう言ったら、ストーカー呼ばわりされずに済むんだろ? 頭ばかりがぐるんぐるん回って、舌がうまいこと動かない。


「ち、ちょっと覗きにいったら……意外に、おもしろくて」


「へえ!」


 我ながらたどたどしいことこの上ない訴えに、彼女は明るく破顔した。


「陸上ファン、増やしちゃいましたか、わたし? やったー!」


 ええ、ホントに。日本女子ジャンプの記録は、この雪村さゆみが現れるまでずっと6メートル86センチのまま15年以上破られなかった。女子の7メートルジャンパーは、世界でもまだたった三人しか誕生していない……と、俺はもうそのへんの事情にまで通じた、いっぱしの陸オタだ。口では「ああ」とか「うう」とかしか、言えないけど。


 そんな挙動不審極まりない菓子屋の若僧を、女神は特におかしいと思わなかったらしい。「またグラウンドに来てください」と何度も言い置いて、ケーキを抱えて帰っていった。これまでとまったく変わりのない、朗らかな笑顔で。

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