~2~
またぼくたちは、八月の中旬には一緒に野球の試合を見にもいった。宇原が親戚の人から数枚の子供用チケットを貰ったので、ぼくも誘ってもらったのだった。午後五時の試合開始に合わせて、午後四時に、ぼくたちは最寄駅で待ち合わせをした。
約束の五分前にぼくが着いたときには、二人はもう来ていた。慎司は日焼け予防の長袖シャツとキャップ帽、ジーンズという格好で、宇原はデニムスカートに白いブラウスを着て、赤いバッグを肩にかけていた。鎖骨くらいまでの長さの真っ黒な髪に、白い服はよく似合っていた。
「お父さんは職場の人と遊びに行っちゃうし、お母さんは野球興味ないし、弟の友達もみんな塾やら旅行やらで予定つかなかったから」
はい、と宇原は球場に向かう電車のなかで、にこにこしながらチケットを手渡してくれた。ぼくは「ありがとう」とお礼を言いながら受け取った。
西武球場前駅には十五分ほどで到着した。ぼくたちは手荷物検査をすませ、係りの人にチケットを見せて、試合開始時刻の少し前に、球場に入った。それから売店で飲み物とホットドッグなどを買って、宇原が持って来ていた小さなビニールシートを外野の自由席の後ろの方に広げて、そこに座った。慎司は試合が始まるとすぐにフェンス際まで歩いていき、プロの外野手の後ろ姿を眺めていた。宇原は、球団のマークが入ったブレスレットを手首につけていた。薄いピンク色をしたそれは、きらきらと照明の光を反射していて綺麗だった。
「試合、よく見にくるんだっけ?」とぼくは尋ねた。彼女はそろえた足を横に倒して座り、のんびりとグラウンドや周囲の風景を見ていた。
「これで、五回目くらい。四年生のころに、始めて慎司とお父さんの三人で一緒にきたんだけど、お祭りとピクニックが両方楽しめるみたいで、楽しかった。それから野球に興味もったの」
「そうなんだ」とぼくは言って、無意識に、換えてきたばかりの白い包帯をいじった。
「指、まだ治らないの?」と、彼女は少し心配そうな声音で言った。
ぼくは、事情を説明した。数日前の練習中に、治ったと思っていた傷が開いてしまったのだった。蒸れたグローブのなかで指先がふやけてしまっていたところに、ちょうどボールが当たってしまい、キャッチした瞬間、鋭い痛みを感じた。グローブを外すと、念の為に軽く巻いていた包帯に、赤い血がにじんでいた。その場で治療してもらったものの、ぼくはしばらく間、グローブをつけた練習やバッティング練習をしないようにと、コーチから言い渡された。
「大変だね」
「うん……。この分だと、夏にある試合は、一試合も出られない」
なかなか外れない包帯を見ながら、もどかしい気持ちで言った。そのときのぼくは、そもそもの傷を作ってしまったときの不注意な自分に対してかなり腹を立てていた。
「そっか」と宇原はため息を吐いて、膝を抱えるようにして座り直した。そのとき西武の選手が長打を放って周囲から歓声が沸き、応援団の人たちが太鼓を叩き始めた。ぼくたちも二人とも、グラウンドのほうへ視線を向けた。
それから、「そういえば北野君は、どうして野球始めたの?」と宇原がぼくに訊ねた。
「――始めたのは、特にはっきりした理由もなくて、なんとなくだったけど。でも、やってるうちに、もっと上手くなりたいって思うようになって、それで今まで続けてる」
「プロの選手にまでなりたいって、思ってるの?」
ぼくは少し考えた末に頷いた。そのことを、同じチームにいる親友や監督以外には、ほとんど誰にも言ったことはなかった。密かに、自分のうちにその目標を持って、今まで練習してきた。それが難しい目標だということと、プロ野球選手になりたいという言葉そのものにどこか子供っぽい響きのあることが、恥ずかしかった。しかし、宇原はたぶんバカにしたりしないだろうという気がした。
「やっぱりそうだったんだ」と、彼女は普段と同じ口調で言った。
「宇原は、なにか目指してるものとかあるの?」
「ううん。わたしは特に、北野君みたいな高い目標はないよ。なんでも真ん中よりちょっと上くらいにいければいいやって思ってるから。それでのんびり暮らしていくの」
「それも、いいかもしれないね」
彼女は売店で買ったアイスティーを飲み、それからぼくの方を見て言った。
「北野君って、一見落ちついているけど、いつも気が張ってるよね。力抜かないと、怪我するよ。っていうか今は彫刻刀の傷で済んでるかもしれないけど、この先、肩とか肘を壊しちゃったら、どうするの」
ちらりと、彼女は僕の包帯を巻いた手に視線をやった。たしかにぼくは最近、しばらく通常練習をしていなかったことに焦っていた。だから、治りかけの状態にも関わらずに練習を再開してしまった。もしあと少しの間、グローブをつけた練習を我慢していれば、この傷もしっかり治っていたかもしれない。ぼくは逆に、怪我の期間を長引かせてしまったことになる。
「今度はちゃんと治るまで、グローブつけないよ」
ぼくが言うと彼女は表情を柔らかく緩めて、それから少し冗談めかした口調で言った。
「そうそう。少しはゆったりしてなきゃ。ゆっくりと歩くものが、最も遠くまでたどり着くって言うしね」
「言うの?」と聞くと、彼女はこくりと頷いた。
「この間読んだ本にそう書いてあった。イタリアの格言らしいんだけど、気に入ったから、覚えちゃった」
その日の試合は午後八時過ぎに終わり、ぼくたちは人混みに混ざりながら、帰りの電車に乗った。家に着いたのは午後九時ごろ。宇原たちと別れてから一人で自宅まで歩いていたときに、暗い空に浮かんでいる月が、とても綺麗に見えたことを、今でもよく覚えている。
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