【後編】

 出雲さんは謎のデスゲームに巻き込まれることもなければ、ツチノコを見かけることもなく、割り箸を割るのも下手くそのまま、平坦で平和な学園生活はつつがなく進行していった。


「――というわけで、文化祭での出し物はコスプレ喫茶に決まりました」


 そんな花咲絵理奈の声とほぼ同時に、拍手が湧き上がった。


 僕や出雲さんとは関わりなく、クラスの物語は健全に万全に紡がれていく。


 僕らの高校は夏休み明けの九月頭に文化祭がある。期末テストが終わってからのホームルームでクラスの出し物を決定し、夏休みいっぱいを準備期間に当てるというわけだ。


 そのホームルームが今まさに終わり、期末テストが終わった解放感と、来たる夏休みと、さらにその後の文化祭への期待感でクラス中が浮き足立っていた。


 大半の生徒が部活での出し物との掛け持ちではあるものの、ごく一部を除いて非常に仲のいい我がクラスでは、文化祭に向けてクラスTシャツを作ろうなんて動きまであるらしい。そんな情報を誰から聞いたかというと、ごく一部の一人である出雲さんだ。


 出雲さんは最新のスマホを持っていたが、その画面は気の毒なくらいバッキバキに粉砕されていた。「128ギガバイト」と彼女は誇らしげに言うが、粉が吹いてるんじゃないかと思うくらい細かく粉砕された画面ではギガバイトも何もないだろう。


 ともあれ、彼女がそんなスマホで何をしているかというと、クラスメートのSNSを、特に花咲絵里香のTwitterとFacebookとInstagramをこまめにチェックしており、クラス内の事情にはけっこう詳しいのだ。その詳しさが哀しい。


 出雲さんのスマホの画面に表示された「クラスTシャツ作ったほうがいいと思う人はいいねして、いらないよって人はリツイートしてね」というツイートに、87いいねが付いていた。クラスの人数軽く超えとるやんけ、と出雲さんがなぜか関西弁で呟いた。


「しかもなんかこれから駅前のカラオケボックスで、期末テストの打ち上げと文化祭への決起集会を兼ねたしゃらくさい会を催すらしいよ」


「らしいね」


「それはそれとして、今日これからどうするの?」


 荷物を鞄に詰めながら、出雲さんが僕に訊いた。


「うん。いちおう僕も会の隅っこくらいにいようと思うんだけど」


 そう僕が答えたとき、出雲さんは不思議そうな表情を浮かべ、首を三十度傾げた。


「パードゥン?」


「発音いいな。いやだから、しゃらくさい会の隅っこにでもいようかって」


「……いや、あのさ、そんなの誘ってないやつが来ると空気おかしくなるよ。そんな変なとこで勇気出さなくても……」


「え、いや、僕も誘われては……いるんだけど」


「えっ」


「いや、来ないの? 来るだろ? くらいの誘われかたではあったんだけど。ってかクラスのほとんど全員行くみたいだし。それでさ――」


「しょ、しょせんおまえも大きな物語に組み込まれることをよろこぶタイプだったか!」

 出雲さんは拳を握り締め、わなわなと震えていた。


「あ、いや、だから――」


「しねっ!」


 出雲さんは、引ったくるように鞄を持って廊下へダッシュした。


「あっ、ちょ――」


 僕が静止する間もなく、出雲さんは入り口のところでたむろしていた女子グループを突き飛ばすようにして教室を飛び出して行った。悪いことに、突き飛ばされてよろめいたのはよりにもよって花咲絵理奈で、取り巻きのクラスメートに険悪な表情が浮かんだ。


 これでは出雲さんの教室内での立場がますます悪くなってしまう。


 とにかく出雲さんを呼び戻そうと電話を掛けてみたら、すぐ近くでスマホの震える音がした。出雲さんの机の上で、画面の粉砕されているスマホが哀しげに震えていた。急いで飛び出して行ったので、忘れてしまったらしい。


「ねえ」


 いつの間にか僕の前に立っていた花咲絵里香は、彼女にしては珍しいくらい無表情のまま、その細い指先で廊下を指差した。


 ――お前らはこの教室から、この私の物語から出ていけ。なぜならこの私がむかつくから。


 そういう宣告だと僕は思った。


 それならそれで仕方ないか、でもちょっと残念だな――そうも思った。


「明日から夏休みだしさ。間空けるとこじれたりするかもしんないよ」


 続いたその言葉でようやくにして理解したとき、この人正しすぎね? と思った。


「そうだ、あとさ、Twitterであたしのことフォローしてる中に、ほぐし水アイコンの鍵付きアカウントがいるんだけど、あれって出雲さんかどうか聞いといてくんない?」


 ああ、女王様は全てお見通し。そしてとてつもなく正しい。




 出雲さんの負のオーラが招き寄せたのか、ついさっきまで真っ青だったはずの空は一面の黒雲に覆われ、大粒の雨が地面へと叩き付けられていた。このどしゃ降りの中に、傘も持たずに出雲さんは飛び出して行ったと思われるが、問題はどちらへ向かったかだ。


 校外に出るルートは主に二つ、正門から出るか、裏門から出るか。電車通学の生徒は正門を、バス通学と自転車通学の生徒は裏門を利用することが多かったはずだ。登下校をいっしょにしたことはないので、出雲さんがどちらのルートを日常的に使っているのかはわからない。


 一か八かで正門の方へと走り出そうとしたとき、突然、何者かに肩を掴まれた。


 出雲さんがフェイントをかけてまだ校内に留まっていたのかと思って振り返ると、そこに立っていたのは出雲さんに輪を掛けてトリッキーな桑畑君だった。彼は誰よりも先に教室を出て行っていたので、打ち上げにも参加せずに帰るものだと思っていたが。


 桑畑君は握り締めた右手を僕の顔の前に差し出し、左手は人差し指で遠くを指差すというポーズを取った。


 だが、その彼のトリッキーな動作の意味を、その時の僕は瞬時に理解した。


 彼の右手には傘が握られており、左手の人差し指は学校の裏門を指差していた。


「あ、ありがとう!」


 天気予報では晴れの日に大きな傘を持ってきているという桑畑君のトリッキーさに僕は助けられたのだ。


 僕の感謝の言葉には何ら反応せず、桑畑君はどしゃ降りの雨の中を平然と歩き、正門のほうへと向かって行った。僕は桑畑君の傘を差し、裏門へと走った。果たして、裏門を出てすぐのところに、出雲さんと同じサイズのボロ雑巾が転がっていた。


 出雲さんは傘も差さずに雨の中を走り、裏門を出たところで足を滑らせて引っ繰り返り、そしてもう全てのことがどうでもよくなったらしい。


 僕はその傍らへと歩み寄り、桑畑君が貸してくれた傘を差し掛けてあげた。


 叩き付けられる雨粒の感触が絶えたことに気付いたのか、出雲さんはゆっくりと体を起こし、そして僕に気付いた。


 出雲さんはしばらく無言だったが、いきなりずぶ濡れの髪をぐしゃぐしゃと指で梳き、僕を見上げて「ほぐし水」と小さな声で言った。笑えなかった。


 出雲さんはその場にしゃがみ込んだまま、僕の眼の前に拳を突き出し、ゆっくりと開いた。


 掌の中で、駅前にあるファミレスのドリンクバー無料券がくしゃくしゃになっていた。


「これで……ふたりで……クラスの連中の悪口を言って盛り上がろうと思ってた……」


「――うん」


 それもいいな、と僕は思った。


「それもいい。でも――僕は、出雲さんを例のしゃらくさい会に誘おうと思ってたんだ」


 雨に濡れた前髪の向こうで、出雲さんがわずかに眼を見開いた。


 教室を飛び出しながら、僕は出雲さんが求め続けた15センチについて考えていた。


 この日常にはたらく重力は、人によって違う。


 教室の中で軽々と飛び跳ねられる人たちには笑われるかもしれないけれど――クラス全員参加のイベントで、決して中心人物にならなくたって、その隅っこに居場所があって、ちびちびとジュースを啜っていられたら――。


 それは僕らにとって、日常から15センチくらいの出来事なんじゃないか。


 たったそれくらいのことで、僕らは舞い上がれたりする。教室の中で、初めての友達ができたとき、僕は15センチくらい体が浮き上がったような気がしたのだから。


 だいたい、クラスの情報をSNSでこまめにチェックしてるなんて、それでいてそれをディスり続けるなんて、そんなの本当はそこに参加したいに決まってるじゃないか。


「他の器用な連中にとっては地に足の付いた当たり前のことでも――僕らにとってはツチノコを見かけるくらいの、15センチ浮き上がったくらいの非日常だろ」


「……そんなの、私にとっては三十センチだし」


 出雲さんは、泣き笑いみたいな表情で、言った。


「いま15センチ地面に埋まってるようなものなんだから、三十センチ浮かぶくらいで丁度いいだろ」


 そう言って、僕は出雲さんへと手を延ばした。


 出雲さんは僕を見上げたまま、ゆっくりとその手を握り返し、立ち上がった。


 どしゃ降りの雨の中を、僕らは並んで歩き出した。




 夏休みも半ばを過ぎたある日、僕は出雲さんに誘われて映画を見に行くことになった。単館系のマイナーな映画で、けっこう遠くの街の映画館でしかやっていないとのことで、朝早くに家を出て、電車を乗り継ぎ、僕は映画館の前に立っていた。


 迂闊にも間抜けにも、当日待ち合わせのその時まで、僕はそのことに思い至らなかったのだが――。


「……あれ? これってひょっとしてデートってやつか?」


 そう意識した途端に、なんだか腹の傷が開きかけてくるような気がした。この傷痕がなければ、僕は出雲さんのことを単なる薄気味の悪い女の子くらいにしか思っていなかっただろう。そういえばこの傷痕も、15センチくらいだ。


「つーかもう待ち合わせ時間二十分も過ぎてる……」


 スマホで時間を確認し、そのまま連絡を取ろうとしたその瞬間。視界の隅に過ぎった、遠くから歩いて来る二人連れの少年と少女に、僕の視線は吸い寄せられ、そして思わず「は?」と声が漏れた。


 互いの右手の親指と左手の親指が触れ合わない程度の距離を――15センチくらいの間隔を保ったまま、少年と少女は歩いてゆく。


 少年は我がクラスの孤高のトリックスター・桑畑君であり、少女は花咲絵理奈だった。


 何か言葉を交わしている様子もないし、二人の距離は近付きも遠ざかりもしない。けれど、保たれたままのその15センチの間には、僕の知らない物語があるはずだった。


 その距離を壊してしまってはいけないような気がして、僕は声も掛けず、ただその二人の間の空間を見ていた。


 その時、僕は、視界の中のあらゆるものに同時にピントが合ったような感覚をおぼえた。彼と彼女の間にある物語の引力に引き寄せられるかのように、様々なものが次々と、くっきりとした輪郭を伴って僕の視界の中に立ち現れていった。


 それは自販機と地面との15センチの隙間に滑り込むツチノコの姿だった。


 それは麦わら帽子を被った少女の手に握られた刃渡り15センチのナイフだった。


 それは時速15センチでゆっくりと動く青銅像の指先だった。


 それは地面に描かれた直径15センチの怪しげに光る魔方陣だった。


 それは15センチだけ開いた扉の隙間からのぞく怪物の眼だった。


 それはベンチの上に放置された15センチの子供靴だった。


 それは秒速15センチで転がってくるおにぎりだった。


 それは隊長15センチの羽が生えた妖精だった。


 そして、遠ざかってゆく少年と少女の指先の距離も15センチを保ったままだった。


 僕の眼の前には数々の、日常から15センチ浮き上がった物語の断片があった。


 彼の。


 彼女の。


 僕と。


 キミの。


 日常へささやかな飛躍をもたらす、それぞれの物語の、わずかな断片としての15センチ。 無造作に放り出されたマクガフィンとしての15センチ。


 手を延ばしてみようか、どうしようか――僕がほんのわずか逡巡していた瞬きのうちに、それらは再び、それぞれの物語へと回収されてゆく。


 少女のナイフはスカートのポケットへと滑り込み、青銅像の指先はぴたりと静止し、ツチノコはわずかに尻尾を見せて自販機の奥へ滑り込み、魔方陣は光を失った。おにぎりは速度を失って停止し、子供靴は犬が咥えて持ち去り、怪物も妖精もどこかに消えてしまっていた。それら全てが、まるで白昼夢だったかのように。


「ごめんごめん。立ち食いステーキ屋でごはん食べてたら遅くなっちゃった」


 そんな呑気な声が、僕を完全に現実へと引き戻した。


「ああ、ステーキね、なら……なんで!? 昼前の待ち合わせなんだから、そこから一緒に昼ご飯食べる流れじゃない!? なんで一人でガッツリ重いもん食ってんの!?」


「500グラムはちょっと後半きつかった」


「だろうね! しかも何なんだよその格好! それ外で着るモンじゃないだろ!」


 正直、ちょっとどんな私服か期待していたのに、出雲さんが着ていたのは文化祭用のクラスTシャツだった。


「イエーイ、絆最高」


 出雲さんはむかつく口調で言いながら、1-2と書かれた部分を指先で引っ張った。


「あっさりとクラスの物語に組み込まれてんじゃねーよ! それはそれで何かガッカリだよ!」


「いつまでもフワフワしたこと言ってないで、地に足を着けて生きねば。友情ってすばらしいね」


「お前誰だよ……こんなの出雲さんじゃないよ……若干うざいよ……」


 そう嘆きつつ、僕はついさっき瞼の裏に焼き付いた光景のことを思い出した。


「そういや出雲さんがよく言ってた、地面から15センチだけ浮いた程度の物語って、意外とその辺にゴロゴロ転がってるのかもよ」


「うん? あっ、そうだ、ステーキの写真インスタに上げなきゃ」


 出雲さんは僕の話にはさほど興味がなさそうに、相変わらずバッキバキに画面の割れたスマホを操作しはじめた。出雲さんの変わっていないところを見つけて、僕は少し安心した。


 今の出雲さんにはもう、日常の謎もツチノコも割り箸関連の異能も必要ないのだろう。


 それでもいつかまた、彼女が今の重力に慣れたとき――大きな物語の心地よさに抗いたくなったとき。


 再び、地上から15センチ浮いた物語を彼女が必要としたとき、僕はまた、次の小さな物語を一緒に探せればと思う。


 いきなり空高く浮き上がることはできなくても、ほんの少しずつ。15センチくらいずつ。


 出雲さんは機嫌がいいのか、テンションが無駄に高くなっているのか、スキップ気味の足取りで、僕をおいてどんどん先へと進んでいく。


 地面から15センチ浮き上がったスキップを追いかけ、僕も僕のささやかな物語の中を歩いてゆく。

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