後編 6月7月
6月に入って雨が続いた。
ある日の雨はとても激しく、打ちつける雨粒で部屋の窓ガラスが割れるんじゃないかと思うほどだった。
俺は雨合羽を着こみ、ビニール袋に給食のパニーニを入れて家を出た。地面からの跳ねかえりであっという間に膝まで濡れる。
蔵の中は盛大に雨漏りしていた。しかもあろうことか、打たせ湯的な水流がお社の屋根を直撃している。ブルーシートがあったのでお社全体にかぶせた。
「おーい、だいじょうぶか?」
板戸を開けると、中は閑散としてた。人数がいつもの半分くらいしかいない。みんな体操着のTシャツとショートパンツという服装で、濡れた制服を欠席者の机にひろげて置いてある。ぽたぽたと屋根から水滴が落ち、床に染みを作っていた。
2階に本条雫の姿があった。友人たちもいっしょだ。
「そこ開けといて。湿気すごい」
雫が下敷で顔をあおぎながらいう。
「今日は休み多いな」
俺のことばに雫とその友人たちは笑う。
「雨の日は雀が飛びたがらないから」
「流華んちの子は特に雨嫌いだもんね」
「でもこんな日は休んだほうがいいよ。私なんか来るだけでびしょ濡れ」
彼女たちの声が甲高いものに切りかわる。内輪の話に移ったようだ。
俺は雨滴のついたビニール袋からパンを取りだした。
「これどうするかな。この人数だと余りそうだ」
「あなたが半分食べれば?」
雫がいうと、まわりの者たちも「そうだそうだ」と同調する。そこで俺はパニーニをふたつに割って半分もらうことにした。生徒たちも集まってきて切りわける。
「明日給食いらないからね」
雫がチーズの塊をかじりながらいう。
「なんで?」
「卒業式」
「また?」
先月もやっていたような気がする。
「そのときに2年生だった人たちが今度卒業するんだよ」
「え? でも1月しかたってないじゃん」
「人間の1月が私たちにとっては1年だから」
「どういうこと?」
「時間の感じ方が私たちと人間とではちがうんだよ。私たちの方が約10倍、時間の流れを速く感じる。1日の流れだけは働きやすくするために人間と合わせてあるんだけどね。私たちがしゃべるのも動くのも、あなたにしたらすごく速く感じられるだろうけど、私たちにはこれがふつう」
「じゃあ、おまえらも来月には卒業すんのか」
「そうだよ」
「早くね? たった3ヶ月で卒業って」
「人間みたいに3年かかってたら、私たちおばさんになっちゃうよ」
雫は笑う。
ずっとこういう時間が続くんだと思っていた。学校というのは、ずっとそうだったから。退屈な時間がくりかえされる場所だったから。
それが急に動きだした。動けない俺だけが置きざりにされる。
雨漏りがブルーシートに当たってぱたぱたと音を立てる。聞いているとやがてその間隔が短くなっていくように感じられた。口の中のパンをもぐもぐと咀嚼する。俺は焦りに駆られてそれを強引に呑みくだした。
○
雫たちが湖に行きたいといいだした。
うちの近所には湖があって、周囲16kmとなかなかでかい。
「私たちだけで行くと危ないからさ。人に見られたらまずいでしょ?」
学校が終わって、俺は自転車、彼女たちは雀に乗って現地集合ということになった。
7月の猛暑日で、3時すぎの一番熱い時間だ。俺は汗だくで自転車をこいだ。
湖畔公園という、波打ち際で遊べる場所があって、そこが集合地点だ。芝生にレジャーシートを敷いて彼女たちを待つ。
4羽の雀が芝生の上におりたった。背中には雫たちが乗っている。
「ねえ、あの人だいじょうぶ? こっちに来たりしないかな?」
雫が指指す先を見ると、ベンチで寝転がる上半身裸のおっさんがいた。
「あのおっさんが来たらおまえらフィギュアのふりしろ。『妹たちと湖を見に来たんです』っていってごまかすから」
「あなた社会的に死ぬけどだいじょうぶ?」
俺が持ってきたバスケットの中で彼女たちは水着に着がえた。
ビキニ姿になった彼女たちは石だらけの浜を駆けていく。小さな水飛沫を立てて彼女たちは遊ぶ。海よりずっと穏やかな波が寄せて、小さな歓声があがる。
俺は座ったまま湖を見ていた。遠い向こう岸まで真っ平らで、たいした波風も立たなくて、どこまでものんびりした光景だ。
彼女たちの目にはどう映っているのだろう。目をつぶって想像してみる。この湖はまるで大洋だ。近くにある
3年でおばさんになってしまうという人生は、瞬く間の出来事だ。
水からあがってきた彼女たちに水筒の麦茶をふるまう。彼女たちは体育座りする俺の陰で横になった。
「あなたの学校はどこ?」
雫にたずねられて、俺は正面を指差した。
「湖の向こう」
本当は家の近くにある高校に入りたかった。そこが第1志望だったのだが、落ちてしまったのだ。
「雀ならすぐだね」
雫たちが笑う。
「本当だな」
自転車で湖を半周するのは、地図で見たら楽勝っぽかったが、実際は遠くてうんざりした。
「みんなは卒業したらどうするんだ?」
俺はたずねた。
「私は東京の医療機器の工場で働く」
「私は宮城県の水産加工場」
「私はオルゴール作る」
春日流華がいう。
「それって湖の向こうのとこか?」
「そうそう」
「近いな」
「私はスイスで時計組みたてる」
雫がいう。「機械式で、1個1000万円するやつ」
「
「私たちが作るのは高級なの。あなたも将来買えるようになるといいね」
「あの蔵の地下から石油でも湧かない限り無理だな」
「あなたは高校卒業したらどうするの?」
流華にきかれて俺は肩をすくめた。
「さあなあ。すごく先のことのような気がして想像できない」
「あっという間だよ、高校生活は」
雫のことばに俺はうなずく。
風が吹いてレジャーシートの角がめくれあがる。雫たちの小さな体も波に浮かぶみたいにいっしょに持ちあがり、彼女たちは甲高い声をあげて笑う。日光浴のおっさんがこちらをいぶかしげに見ていたが、俺が見つめかえすと、15cmの妹たちと遊びに来たお兄ちゃんへのうらやましさに耐えきれなくなったのか、目を逸らした。
○
7月の暑い日に彼女たちは卒業していった。
卒業式はお社の体育館で行われた。1学年30人しかいないし、あの早口で読みあげるので、卒業証書授与も送辞も答辞もすぐ終わる。
俺は麦茶飲みながらそれを聞いていた。
式が終わると生徒たちは教室にもどり、しゃべったり笑ったり泣いたりして別れを惜しむ。
蔵の天井から雀がおりてきてお社の前に並ぶ。生徒たちが出てきてそれに跨った。
雀の背に乗った雫がぴょんと跳ねてこちらにやってきた。
「いままで給食ありがとね」
「ああ」
彼女が雀の腹をぽんと蹴ると、雀はぴょんと飛ぶ。息が合っている。
「スイスにはどうやって行くんだ? 渡り鳥に乗るのか?」
「飛行機だよ。向こうから人が来て運んでくれる」
「いいなあ。俺、飛行機乗ったことねえわ」
雫が雀の頭を撫でる。
「いつかまた会えるといいね」
「そうだな」
お社から在校生たちが出てきて、最後の別れをする。
俺は蔵の戸を押しあけた。
甲高い声で在校生と何かいいかわしていた卒業生たちが舞いあがる。
雀の群れが外へと飛びだしていく。
「さよなら!」
雫の声がした。
「さよなら!」
「さよなら!」
「さよなら!」
「さよなら!」
流華に美樹、奈緒、そして卒業生全員の声が俺のそばをとおりすぎる。
彼女たちの10倍大きい俺は、10倍大きく、10倍ゆっくり「さよなら!」と叫んだ。
まばゆい空に彼女たちが消えていくのを見届けて俺は、蔵の戸を閉めた。正午近い
「いつかまた」と雫はいったが、きっともう会うことはないだろう。学校にもどってくる奴なんていない。俺だって卒業以来小学校にも中学校にも行っていない。
世界は広い――とりわけ彼女たちにとっては。簡単にもどってくることはできない。
彼女たちひとりひとりのさよならは小さいけれど、30人分ともなると重たくて、俺は動けなくなった。
地面を見つめる。強い日差しに白む地面の上で黒い影がくっきりと映っていた。俺の足元にまとわりつくそれは大きくて、ひとりで、どこにも行かなかった。
○
学校に行こうと思いたったら、その日は夏休み前最後の日だった。
俺が制服を着て朝の食卓に就くと、両親も祖母もびっくりしていた。
今日はお供えができないと祖母に告げた。祖母は笑顔でうなずく。
「康太がお供えしてくれて、コダマサマもきっと喜んでるよ。ずっと我が家でお
俺は肩をすくめ、トーストをかじった。俺の子供の代になったら、コダマサマの方は雫の孫とか
朝から暑い日で、湖畔の道へ出るまでにワイシャツが汗で肌に張りついた。
朝の光が湖面の波頭にちりばめられている。ぬるい風が湖から、俺を後押しするでもなく吹きぬける。運動していなかったせいか、自転車をこぐ脚が疲れてパンパンだ。学校まではあと6km。
家で
だが時代はかわって、家の仕事で完結することはなくなった。蚕の世話をしていたコダマサマも外で仕事を見つけなくてはならない。
俺もいつかきっと外に出ていく。
これからのことを考えるとうんざりする――まだ半分以上もある学校への道。クラスの連中。今日は全校集会だから、校長の話も。何もかも退屈だ。
退屈だけど、そこから逃げて後悔はしたくない。雫のいうように、あっという間なのだから――さよならをいうそのときまで。
視界の端で湖面の反射がちらちらと瞬く。自転車用のサングラスでも買おうかな、なんて考えながら俺は、退屈が待っているその場所へ向けていっそう加速していった。
了
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