「十五センチ一本勝負」 庵田定夏

001


 放課後の教室で、半ば無理矢理指名された体育祭実行委員の書類仕事を、やっとこさ片付け、さあ帰ろうかとした時だ。


 開いた窓から吹き込んできた風に煽られ、机の上に積み重ねられたプリントに雪崩が発生した。


「おっと!?」


 ダッシュで机に走り、床にばらまかれる寸前だったプリントを両手で押さえた。


 なんとかギリギリ、間に合った。


 ほっと息を吐く――その瞬間に再び風が吹いた。


「くっ!?」

「ちょっと!?」


 もう一人、自分と同じく半ば無理矢理指名され体育祭実行委員を務めている女子――朝比奈陽葵あさひなひまりも惨状に気づき助けに入った。


 結果、プリントの飛散は避けられたわけだが。


 俺――夕川太陽ゆうがわたいようは前のめりで机上のプリントを押さえる体勢になり。


 朝比奈も同じように前のめりで、広がった他のプリントを押さえ。


 互いに正面から向かい合うことになった。


 その距離およそ――。



 十五センチ。



 近い。近すぎる。いくらなんでも。ありえないくらいに。


 しかもさらにありえないことに、なぜかお互いすぐ離れずに、距離感を保ったまま硬直してしまった。


 一秒、二秒、三秒。


 互いに両手でプリントの山を押さえつけたまま、息を止めたまま、見つめ合う。


 超どアップの朝比奈の顔がそこにある。


 長いまつげも、ぱっちりとした大きな瞳も、形のよい鼻も、潤いを持ったくちびるも、少しだけ日に焼けた頬も、そのすべてが俺の視界いっぱいに広がっていて、それ以外のものはほとんど見えない。


 中三、一五歳にもなって、女子とこんな至近距離に顔を近づけあったことがあっただろうか。


「いや、近いから」

「それは俺のセリフだよ」


 あまつさえそのまま会話を始めてしまう。


 声を発する際に吐き出される息がかかってしまうくらいの距離だ。


 流石に自分の息を女子に嗅がせるのも気が引けたので、小声で、なるべく息を小さくしか吐き出さないようにしたけれども。


 息の匂いは大丈夫だろうかと、心配になる。


 なぜそうしたのかと、あとで聞かれたらとても困る。


 だけどどうしてか、俺と朝比奈はその体勢から動こうとせずに静止を続けていた。

 一度膠着状態に陥ると、時間が経つにつれどんどん動き出すことが難しくなってしまう。


「離れなさいよ」

「朝比奈が離れろよ」


 そして己ではなく相手を動かそうとする。お互いに。

 一五センチの距離で攻防が始まる。


「なにがしたいのよ?」

「別に、なにも。俺は紙が飛ばないよう押さえただけだし」


「わたしも。太陽がどいてくれたら、わたしがまとめるんだけど」

「いいよ、俺がやるよ」


「わたしがやるって」

「俺が動くとこっちの山が崩れそうなんだよ」


「わたしも動くとこっち側の山が崩れそうだから」

「……どう見てもちょっとくらい手を離しても大丈夫だろ?」


「太陽もだよね?」

「だから俺がやるって」


「わたしに任せるのになにか不都合ある?」

「お前……」


「なんで意地張るのさー」

「朝比奈も一緒だろ!」


 ここまでくると、もう完全に譲れない。

 朝比奈に対して俺が譲歩するなど、あってはならないのだ。


「はぁ……。これだから意地っ張りの太陽ちゃんは困るなぁ」

「『ちゃん』づけはやめろ」


 俺と朝比奈は、幼なじみ……と周りからは言われる。


 だけど幼なじみだと俺が思ったことはないし、それはたぶん朝比奈も同じだった。

 小学校二年の時に朝比奈が俺の家の隣に越してきて、同学年だからと親同士がすぐに意気投合して交流が始まって以来、なんだかんだと関係が続いている。


 お互い一人っ子ということもあってか、なにかと互いの両親が俺たちを比べたがった。


 わかりやすい比較対照ができたのが、親にとっては嬉しかったのだろう。


 しかし何度も「お隣の陽葵ちゃんはテストで~」「陽葵ちゃんは部活動で~」と言われれば、嫌でも対抗意識が出てくる。


 というか、面倒くさいので「朝比奈より点数よかったから」で話を終わらせたい。

 だから俺にとって朝比奈は常に勝たなければならない敵だった。


 仲よく遊んだ記憶もさほどないわけで、間違っても幼なじみではない。


 この状況も俺たちの中では勝負になってしまった。


 腐れ縁も長いから、それがわかる。


 ここで顔を逸らそうものなら「やーい、わたしのこと意識して照れてやんのー。おばさーん、太陽が思春期だよー」などと親の前でバカにされるに決まっている。


 この勝負、負けるわけにはいかない。

 朝比奈が白目を剥いて口をすぼめた。


「……なにやってんだ?」

「笑いなさいよ」


「にらめっこかよ」


 俺を笑わせて先に机から離れさせるつもりらしかった。


 しかしそんなもので俺も動きはしない。


 朝比奈が今度はちろりと舌を出す。


「なんで笑わないの」

「面白くないからだよ」


 むしろ今のはちょっと可愛かった。

 もちろん一般論として、あくまで女子の可愛い動作として。


 俺も攻撃をしかける。


「こんな距離で見つめ合ってると勘違いされるぞ」


 夕日に照らされほんのりとだけ朱色に染まった教室には、俺たち以外は誰もいない。


 でもいつ誰かが入ってくるか、もしくは廊下を通った誰かが俺たちを見つけるかわからない。


「勘違いって?」


「……ほら、抱き合ってるとか。付き合ってるとか」


 顔がこれだけ近いということは、当然体もお互いの熱が感じられそうなくらいに近い。


 白い夏服を着た朝比奈の体からは、不思議とひんやりと冷たい空気を感じたけれど。


「抱き合ってないし、付き合ってないじゃん」


「そうだけど……うわさされるぞ」


「またあの野球部のキャプテンみたいに?」


 朝比奈は、割かしモテる。

 裏表のない性格だし、はつらつとして可愛いことは認める。もちろん一般論として。


 複数人からの告白を袖にし続けていた朝比奈だが、去年の夏ついに、当時三年生だった先輩と付き合いだしたといううわさが流れた。


 しかし実際は、まさかあの学年でも一、二を争う人気の先輩からの告白を断る女子はいないだろう、という勝手な断定から生まれた与太話だった。先輩が告白=彼女になる、という方程式が成立すると、誰もが思い込んでいたのだ。


「太陽相手じゃそーはならないでしょ。……いやでもやっぱあれか」


 朝比奈が苦い顔をする。


「確かに周りは『お前ら夫婦はやっと付き合ったのか』とか言ってきそう」


「だろ?」


 家が近いことで勝手に幼なじみ認定をする周りからは、なぜか“夫婦”とセット扱いでいじられることがあった。思い違いもいいところだ。


「はじめて付き合う人が太陽ってことにされるのかー」

「今まで誰とも付き合ったことないのかよ」


「あんたはあるの?」

「……ないけど」


「情けないなー。中三だよ?」

「お前もなんだろ」


「十五にもなってキスもしたことないとか」

「……」


「え……なにその沈黙? まさかキスだけはしたことあるっていう……」

「ね、ねえよ別に」


「だよねー」


 くちびるに思わず視線がいってしまったことは、不可抗力だ。

 だって潤んだくちびるが、すぐそこにあるのだから。



「キスしたい?」



 くらりと、脳が揺れた。

 たぶん、初夏の陽気に熱された教室が暑かったから。


「いや、なんで、いきなり」


 よく目を逸らさなかったな、俺。よく耐えたぞ。


 朝比奈が黙って、目を閉じる。


 そのままじっとしている。


 かすかにまつげだけがひくひくと、動いている。


 たっぷり、それこそ十五秒くらいは、そのままだった気がした。


「――ちぇっ、ダメかぁー」


 目を開いた朝比奈は言った。


「こうしたら絶対太陽は恥ずかしがって逃げると思ったんだけどなぁ」


「やめろよ、それは」


 自分の発する声が思いの外に低くなってしまったことに、驚いた。


「なにが?」

「よくないだろ、そういうのは」


「そういうのって?」

「本当にキスされたらどうしてたんだよ」


「されてないからいいじゃん」

「無防備すぎるんだよ」


「あれー、なんか怒ってる?」

「怒ってるよ」


 自分で言って、自分の今の感情をやっと理解する。


「……怒られる理由がイマイチわかんないなぁ」


 それは、実のところ俺もだった。


「だって……危ないだろ。相手は一応……男なんだし。俺だとはいえ」


 朝比奈には、自分をもっと大事にしてほしいと、思った。


「太陽なんだからいいじゃん」

「よくないって」


「言い間違えた。太陽ならいいもん」

 一瞬、時が止まる。


 十五センチのその距離は、変わらない。


「その言い方だと……意味変わってくるぞ」

「わかって変えてるって言ったら?」


 朝比奈はまっすぐに俺を見たままで言ってくる。


 どこまで演技で、どこまで冗談で、どこまで本気なのか。


 近くて、でも幼なじみでもなくて、家が近いだけで、結局は遠い存在の異性が、問うてくる。


「ねえ、太陽はどうするの?」

「じゃあ俺と付き合うか?」


 そちらがその手でくるなら、俺も同じ手で反撃する。やられっぱなしじゃいられないのだ。


「……『じゃあ』って、なに?」


 俺の反撃に効果はあった。

 朝比奈の態度が急激に変わったからだ。でも。


「『じゃあ』っておかしくない?」


 朝比奈は怒っていた。


 怒っているだけじゃなくて、悲しそうで、――泣きそうな顔をしていた。


 俺は混乱した。


 わけがわからない。


 そもそも状況からしておかしい。


 俺たちはさっきからわずか十五センチの間を空けて、なにをやっているんだ?

 急にバカらしくなって、手を離して後ろに下がろうかと思った。


 俺が押さえているプリントを多少まとめて、手を離して、あとは朝比奈に任せればいい。それで問題は解決だ。


 意地を張る必要ないじゃないか。


 距離をとって、この茶番を終わりにすればいい。


 それが正しいはずなのに、そうしちゃいけない気がした。


 逃げてはいけない。


 たぶんここで逃げてしまうと、俺と朝比奈の距離は一生離れてしまう、そんな予感があった。


「……俺たちはずっとこれくらいの距離な気がしたんだよ。十五センチくらいの距離感」


 本当なら口にすべきではない、脳内会議で留めておくべきようなことを口にしている。その自覚はあったが。


「近づくのも、遠ざかるのも、嫌だなって……」

「続けて」


 朝比奈は言う。


「この関係が壊れるのが、怖くて」

「わたしもだよ。……触れなければ、壊れないもんね」


 触れ合わなければ壊れない、それは真理だと思った。

 だけどそれじゃあ、温もりもえられない。


 俺はもう、認める。

 朝比奈は、可愛い。


 朝比奈は、変なところで律儀で、真面目で、でも面白くて、一緒にいると楽しくて、俺とたくさんの時間を積み重ねてきていて――。


 つまり俺は、朝比奈のことが好きなのだ。


 一般論ではなく個人的に、魅力があると思うのだ。


 それに気づいてしまって俺は、今のこの関係を、距離感を、変えなければならなかった。


「俺と、付き合ってほしい」


 俺は十五センチ先の朝比奈に想いを届けるために、言った。


「本気で言ってる?」


 真顔で質問される。


「……い、言ってる」


 急に足下がぐらつく。


 まさか、朝比奈の俺を騙すための演技は続いていて、俺は早まってしまったのか。朝比奈にはそんな気が、まったくないのではいか。


「おばさんとお母さんはなんて言うかな?」

「あんまり顔を思い出させないでほしかった」


 急に恥ずかしくなる。


「あはは、そうだね」


 その時風が吹いて、朝比奈の髪が風に舞った。

 夏の薫りに混じって、朝比奈の匂いがした。


「で、答えはどうなんだよ?」


「答えは……。あ、ところでさ、先に勇気を出したのはどっちだと思う?」


「……朝比奈だよ」


 負けを勝ちだと言い張るほど、厚顔無恥ではない。


「よし、勝った」

「でも最後にちゃんと頑張ったのは、俺だぞ」


 そこは強調しておきたい。


「自分で頑張ったって言う~? 普通?」

「い、いいだろ。これで一勝一敗だ」


「なるほど、じゃあ最後にどっちが先に動くかの、勝負か」

「まだ続いてるんだなこれ……」


 まったく不毛な……いや、そのおかげで生み出された一歩を考えれば、俺たちの運命を変える有意義な戦いになったのかもしれないが……。


「ていうか、返事はどうなってるんだよ――え」


 十五センチの距離が。


 ここから離れていくことしか考えていなかった距離が。


 ゼロになる。


 朝比奈の閉じられたまぶたが、本当に目の前にあった。

 口が塞がれている。


 つまり俺たちは、キスをしていた。

 その一瞬はあっという間に過ぎ去って、朝比奈は俺から離れて、数歩下がった。


「答えを出してみたんだけど……」


 にやりと笑って言う。


「これはどっちの勝ち?」


 半ば放心状態になりながら、もうしかたがないと認めた。


「……俺の負けでいいよ」


 プリントが数枚ひらひらと机から床に落ちていく。

 この次の勝負ではきっと負けないと、俺は固く誓った。

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