第四夜

 深夜、零時過ぎ。布団の中にもぐった香乃は何度目かになる寝返りを打ち、はあっと溜め息を吐く。

 二時間ばかり前、オジサンから言われたことが頭に引っかかっていた。勉強にも集中できず、今夜は早めに切りあげて寝てしまおうとしたのだが――


「ああああ、もうっ! 全然眠れないんですけど!?」


 跳ね起きて、香乃は両手でわしゃわしゃ頭を掻きむしる。闇を睨んで嘆息し、


「……はあ。喉、渇いたな」


 呟くと、香乃はベッドを抜け出して、冷蔵庫がある一階へ向かった。

 階段を降りた先、ドアのガラス窓から漏れる明かりはリビングにまだ人がいることを表している。

 香乃は一瞬迷ったが、構わず入ることにした。かちゃり、とドアを押し開ける。

テレビやソファが置かれたリビングには誰もいなかったが、左奥にある食卓の方から

微かに話し声が聞こえた――ような気がする。けれど、


「げっ」


 食卓にいたのはパジャマ姿の中年男性、一人だけだった。ハゲた頭に太鼓腹、小さいオジサンをそのまま大きくしたみたいなルックスだが、目つきは悪く、今日も今日とて仏頂面だ。なにを隠そう、香乃の父親である。


(タイミングわるっ!)


 仕事終わりだろうか。テレビもつけずに黙々と食事している父を見て、香乃は露骨に顔をしかめた。父もビールを飲みながら、香乃をじろりとめつけてくる。


「「……」」


 お互い、そのまましばらく無言。

 香乃はふいっと視線を逸らし、食卓の前を足早に通り過ぎると、キッチンの冷蔵庫を開けた。コップにミネラルウォーターをぎ、一気飲みする。


 そしてシンクに空のコップを置くや、さっさとこの場を立ち去ろうとした。


「香乃」

「!?」


 低い声で呼び止められる。香乃はギクリと足を止め、父のことを半眼で睨んだ。


「……なに」


 負けじと低い声音で尋ねる。使ったコップはきちんと洗え、とでも言うんだろうか。あるいはまた進路や成績、テストの話? うざったい。

 香乃がイライラしていると、父はグラスに注いだビールをぐいっとあおり、


「お疲れ」

 ――と言った。


「……………………」

 

 父の口から飛び出してきた言葉が予想外すぎて、一瞬なにを言われたのかよくわからなかった。父がぷいっと顔を背ける。ぶっきらぼうに訊いてきた。


「最近、勉強がんばってるんだってな?」

「え? あ、ああ…………うん。まあ、それなりに」


 誰から聞いたんだろうと思いながら答える。お母さん? 猛勉強したテストの結果が微妙だったらカッコ悪いから、こっそりやってるつもりだったんだけど…………。


「そうか。まあ、あんまり無理はするなよ。体には気をつけなさい」

「えっ――」


 無愛想な父がこんな言葉をかけてくるのは珍しく、香乃は反応に困った。

 いつもなるべく見ないようにしている父の横顔をまじまじと見てみれば、耳が微かに赤くなっているのに気づく。香乃は目をまたたいた。


「あ……え、えっと……うん」


 見ているこっちが照れ臭くなり、髪を弄くる。

 ずっと引っかかっていたオジサンの言葉が、ストンと落ちるような気がした。香乃はぼそっと吐き捨てる。


「…………あ、ありがと」


 お父さんも仕事お疲れ、そっちこそ体には気をつけて――とまでは、こそばゆくって口にはできなかったけれど。

 顔を背けた自分の耳も今、同じくらい赤くなっているのかもしれないな……と、香乃は密かに苦笑した。


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