~4~

 ぼくたちが中学一年生だった昨年の夏、彼女は来なかった。今年の夏休みも、その兆候もなく、淡々と過ぎていった。もしかしたら、あの約束はこのまま、ぼくたちが積み重ねていく日々の記憶に埋もれ、ゆっくりと薄れ、消えていくのかもしれないと思った。けれどそんな日々のなかで突然、予想もしていなかった仕方で、はやってきた。


 中学二年の夏休みも残り五日となった、八月二十七日。その日もぼくが今所属している硬式野球のチームの練習日だった。基礎練習のあと、フィールディングやハーフバッティングといったメニューをこなしたあと、ピッチャーは投球練習に入り、その後ベースランニングをして、一日の練習メニューを終えた。


 ぼくは上を汗や土埃で汚れた練習着から青色のトレーニングウェアに着替え、靴をスパイクからスニーカーに履き替え、荷物の整理をしていた。そのときに、同学年のチームメイトのひとりに訊ねられた。


「北野、お前、彼女いたの?」

「いや、いないけど。なんで?」

「なんか、女子が来て、北野君いますかって」


 それを聞いて、息の詰まるような衝撃を胸に感じた。ぼくは一度唾を飲み込んで、「それで?」と聞き返した。


「いるよって答えて、お前の方を指さして教えた。それから、しばらくフェンス越しに見学してたみたいだけど」

「いつ頃?」

「お前らが投球練習してるころ」


 一番練習に集中していた時間帯だった。自分の身体とボール、それからキャッチャーミットの他に注意など向けておらず、まったく気がつかなかった。


「彼女じゃないなら、あの女子、お前のなに? ファン?」

「わからない。でもたぶん、小学校のときの友達」

「なんだそれ?」


 意味わかんねぇ、とそのチームメイトは言った。そんなことを言われても、意味は正直、ぼくにだってよくわからない。でも、とにかく彼女が今日、あのときの約束を果たしにきてくれたということは、わかった。


――宇原が、今日、近くまで来ていた。


ぼくは家へ帰らずそのまま最寄り駅のほうへ向かった。彼女がどんな交通手段でこの街までやってきたのかはわからなかったけれど、もし会えるとしたら駅が一番その確率が高い場所だと思った。駅のすぐそばにある市営の自転車置き場に自転車を止めて、しばらくその周囲を歩いた。空は嘘みたいにきつい紫色をしていた。ひとけもなく薄い影と濃い影が入り交じり、踏み切りの音や車の音、夕方の虫の鳴き声など、街に響いているすべての音が空虚に聞こえ、なんだか違う世界に迷い込んでしまったみたいだった。


 そして、そんなことを考えていたとき、ぼくは遠目に、その姿を見つけた。あまりにも自然に、彼女はぼくの視界のなかに入ってきた。逆光になっていて、顔はよく見えない。でも、その姿の全体の印象や、歩き方なんかで、間違いなく彼女だとわかった。

 ぼくは彼女の近くまで歩いていった。そして、「宇原」と声をかけた。


「え?」と、立ち止った彼女は、ぼくを見上げ、困惑した表情を浮かべていた。誰かわからないのかと思って、ぼくは動揺した。近づいてみて初めて、ぼくも強い違和感を感じたのだ。二年前は、こんなに上からの角度で、彼女の顔を見ていなかった。


「あ、」と彼女はなにかを言いかけたまま、右手をぼくの方へ伸ばした。ぼくも無意識に、名乗るよりも先に彼女へ右手を差し出していた。彼女はぼくの右手を取った。練習のあとのぼくの手には、その感触は、ひやりと冷たく感じた。彼女はそのままぼくの手を目の前に持ち上げて、人差し指の側面を見た。まだ微かに残っている、二年前に刻まれた、薄い線。


「北野君」と、宇原はびっくりしたように言った。

「……来てたって聞いたから。まだいるかと思って」

「……そうなんだ」


 それから、沈黙が訪れた。なにかを言おうと必死に頭から言葉をしぼり出そうとしても、胸と喉元が締めつけられるようで、しばらくなにも言葉が出なかった。彼女も、困ったように、足元を見たり、ぼくの顔を見たりを繰り返している。やがて、


「背、伸びたね」「ひさしぶり」


 同時に発せられたぼくたちの声が重なった。宇原は苦笑して、それからもう一度、落ちついた声で言った。


「今、身長どのくらいになったの?」


 それは夕方の薄暗さに溶けてしまいそうな、ぽつりとした一言だった。


「春に測ったときで、ちょうど170だった。中学に入って、十五センチ伸びた」


「あらー」と、宇原は驚いたような声を上げながら再びぼくを見上げ、背を計るように、ぼくの頭と、自分の頭に手をやった。その彼女の両手の間の距離は、ぼくたちが離れていた時間そのものだと思った。


 駅前のベンチに座りながらしばらく話をしているうちに、かつて彼女と一緒にいたときの感覚が少しずつ蘇ってきて、変なぎこちなさは徐々になくなっていった。


「宇原、よく俺があそこのグラウンドにいるって、わかったね」


「実は去年一度、こっちにきたことがあるの。そのときに、友達に君のことを聞いて。だから、君がこの間、全国大会に出てたのも、知ってるよ。おめでとう。わたしも自分のことみたいに嬉しかった」


「二回戦でボロ負けしたけどね。先発が炎上して、俺もリリーフで出たけど、止められなかった」


 ぼくが軽く言うと宇原は少し笑った。それから彼女はメモ帳をバッグから取り出し、なにかを書いて、「これ、なにかあったら……」と、ぼくに渡してくれた。それは彼女の家の住所と電話番号だった。その見慣れない住所を見て、改めて、彼女が遠くに住んでいるのだということを実感した。ぼくは宇原がくれた紙を折りたたみ、バッグのなかに仕舞った。そのときの指はかすかに震えていた。


 その後、「少し歩きたい」と宇原が言ったので、ぼくたちは、線路沿いの道をゆっくりとした歩調で歩いた。涼しい夜だった。ぽつぽつと立っている街灯は光を落とし、アスファルトの上に白い光の水たまりを作っているように見えた。線路にある信号の光が赤色や緑色に移り変わり、遠くの踏み切りの音が、わずかなうねりを伴いながら響いていた。


 今、ぼくと彼女の身長は頭一つ分くらい違い、宇原の頭頂部にあるつむじと、髪の分け目の白い地肌が見える。この二年間に、知らず知らずのうちに、ぼくが見る世界は少しずつ変わっていたんだと思った。たぶん、彼女も変わったんだろう。彼女の背はあまり伸びていないようだけれど、服装も、話し方も、二年前とはどこかが、――どことは言えないのだけれど、――はっきりと、違っている。ぼくたちはこれから先も、それぞれに違う生活を積み重ねていくのだろうと思う。身長差が広がるにつれて、ぼくと彼女の景色の見え方も変わっていく。そのことを、少し寂しく思った。


 やがて、宇原が腕時計をちらりと見て言った。

「そろそろ、帰らないと」


 ぼくは頷き、彼女と一緒に、駅の方へ引き返していった。ぼくは入場券を買って、彼女を見送ることにした。ホームにある四角い時計の針は、午後七時半を示していた。次の電車までは五分ほどだった。ぼくたちはベンチに並んで座った。会話はなかった。ホームのなかは静かで、時間が止っているかのように思ったけれど、しかし、ぼくの気分や思いなんかにかかわらず、確実に、世のなかは運行していた。騒音とともに滑り込んできた電車が止まると、彼女は立ち上がり、電車のなかに入っていった。


「またね。探しにきてくれて、嬉しかった」


 ぼくの方を見て、宇原が言った。とたんに、寂しさがふくれあがった。ぼくは、「俺も、久しぶりに話せてよかった」と答えた。もっとなにかを言いたかったけど、それはうまく言葉にならなかった。


 ドアが閉まるというアナウンスがホームに響いたとき、「あの」と、彼女は言った。電車のドアが閉まり始め、それから完全に閉まるまでのわずかな時間に、「また、来年」と、小さくつぶやいた。


 はっとして宇原の顔を見ると、彼女は窓のそばでにっこりと笑いながら、小さく手を振っていた。ぼくもとっさに手を上げた。すぐに電車は走り出して、窓の向こうの彼女の姿は見えなくなる。宇原を乗せた電車の光は遠ざかり、闇のなかに消えていった。乗降客が少ないホームは再び静かになった。鈴虫が鳴いている。冷たい風が吹いている。季節が、夏から秋に変わろうとしている。


 またかよ、とぼくは思った。


 ぼくは頭のなかに、一年後の夏を思い浮かべた。炎天下での、クラクラするようなきつい夏練習。汗で身体中にへばりついた練習着や泥、家に帰りながら見る燃え盛っているような赤い夕陽、シャワーのあとで飲む麦茶の味、そして、今日見た宇原よりも、もっと大人びている彼女の姿がぼんやりと浮かぶ。そのころにはきっとぼくの背も、さらに伸びているだろうと思う。一年分の経験をし、今よりももっと高い場所から世界を見るようになったぼくの目に、来年の宇原はどう映るだろう。彼女はそのときのぼくを見て、どう感じるだろう。


 宇原と過ごした時間とその記憶は、これからも一日毎、一秒毎に、遠ざかっていく。ぼくと彼女は離れた場所で、それぞれに新しい日々を積み重ねていく。


 それでも、とぼくは思った。「真ん中よりもちょっと上がいい」という世界の見方もあることを、彼女は二年前の夏に教えてくれた。あのときも今も、彼女が言っていることは、間違っていないと思う。野球に関してもそうだけれど、なにかにすべてを捧げて、駄目な人間になってしまう人もいるということを、ぼくは中学生になって知った。


 だから、どうしようもなく「今よりももっともっと上に行きたい」と思ってしまうぼくの気持ちと、「半分よりちょっと上」で、いろいろなことを楽しんで生きていける宇原の気持ちの、二つがあれば、ちょうどいい。いろんなことを、きっと補い合える。それぞれが離れていたときに出会った、この世界の知らないことを、教え合える。


 そんなことを考えながら、ぼくは、駅を出て、秋の気配の漂う夜道を歩き出した。

今年の夏はもうすぐ去る。でもまた来年、新しい夏がくる。それまでに、もっと成長していようと、ぼくは思った。

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