2段目
修行は、漆をつけた筆で、木版に絵を描くことから始まった。
蒔絵は、漆工芸における伝統技法のひとつだ。
漆で黒く塗った重箱に、さらに漆で絵柄を描く。
その線が乾かぬうちに、金粉を蒔いて色をつけることから、蒔絵。
「下手くそね。金を蒔くまでもない」
しかし出来上がった俺の絵を一瞥して、千代は冷ややかにそう評価した。
ぐうの値も出なかった。俺から見てもひどい出来だ。千代を真似て桜を描いてみたのだが、花びらの縁はところどころかすれたり、潰れたりしている。
当然といえば当然だった。重箱職人の家に生まれたものの、もう三年は家業から遠ざかっていたし、最終工程である蒔絵については親父から一度も教わっていなかった。
「まあいいわ。吾一が下手なら下手なだけ、私はあいすくりんが食べられるから。早く上達しなきゃ金欠になっちゃうわよ」
千代はアイスをかじりながらニヤリと笑う。
「わーこわい。がんばらないと」
俺は棒読みでそう返し、修行を続ける。
そのうち、自然とウチにある風習の話にもなった。
時代は違えど同じ家。特に説明しなくても話が通じると思ったんだ。
「与の重を売らない? なにそれ」
ところが、千代はきょとんとした表情でそう言った。
「え? そっちの時代じゃ与の重を封印しないのか?」
「当たり前でしょ。むしろ重箱は四段が主流だし、そんなの聞いたことない」
ということは、ウチが与の重の封印を始めたのは、意外と近年ってことになる。
「なんで与の重を封印するんだろう……」
俺の呟きに、千代は首をかしげる。
「私に聞かれても、なんとも言えないな」
「そりゃそうだ。調べるとしたらこっちの時代で、だよなあ」
親父なら詳しい言い伝えとかも知っているんだろうか。
しかし、それを訊ねるのは家に関心を持つようになったと思われそうで癪だ。
丁度良いタイミングがあれば、何気ない雰囲気で質問することもできそうだけれど。
「筆をためらわない。手が止まった瞬間、絵も死ぬと思いなさい」
「重箱を平らだと思わないこと。そうすれば絵の浮き沈みは自在になる」
「金粉は、自分の魂をそこに置いてくるくらいの気合で蒔くこと」
彼女の言うことは、技術だけじゃなく精神論にまで発展した。
千代は兄妹のなかで一番年下、しかも女だったことから、これまで誰かに技術を伝える、なんてことはできなかったらしい。
そのためか指導には熱が入り、俺は毎夜、土蔵でしごきにあった。
一週間、二週間と経つうちに、筆に振り回されるばかりでよれよれだった漆の筋は、流れるような意思あるラインへと変化していった。
漆に金粉を振りかける許可が下りてから、さらに二週間。
俺の手がけた重箱には、桜の花びらがくっきりと現れていた。
「吾一、意外と貴方、才能あるんじゃない?」
千代はガリガリ君を片手に、俺の作った重箱をまじまじと眺める。
「たった一月でここまで上達するとは思わなかった」
「マジか」
千代に褒められたのは、それが初めて。
嬉しくないわけがなかった。
「まあ、師匠の私には全然敵わないんだけどね」
彼女はいつも一言余計だ。
「あ、私の教え方が上手いのか……。つくづく自分の才能が恐ろしい」
今回は二言余計だった。
「ま、俺もこんなんじゃまだ全然満足してないからな。これからもアイスキャンディーを貢ぐことにするよ」
一本一本は安いけど、さすがに毎日買い続けるのは財布にとってダメージだった。
でも、そんなことがどうでもよくなるくらい、千代は本当においしそうにガリガリ君を食べるんだ。
俺は蒔絵を教わるのと同じくらい、彼女の顔を見るのが楽しみになっていった。
食べきった後も名残惜しそうに木の棒を舐めるのが千代の悪癖だったが、その日は様子が違っていた。
「ん、なにか書いてある。当たり……?」
じっと彼女が見つめる棒の先には、確かに文字が刻まれている。
「おっ、やった。それお店に持っていくと、もう一本もらえるんだよ」
俺は重箱のなかに手を差し入れ、千代から棒を返してもらおうとした。
でも、千代はその手を避けるように棒を俺から遠ざける。
「なんだよ。それ返してくれたら、俺としては多少節約になるんだけど」
そう言って改めて手を伸ばすが、千代は着物の帯に棒をしまい込んでしまう。
「おい。よこせよ」
「やだ。これを当てたのは私なんだから、私が使う」
「いやいやいや」
なに言ってるんだこいつ。
「そっちの時代じゃ使えないだろ。そのアイス自体が存在しないんだから」
「そんなこと分からないじゃない? うんと長生きすれば、吾一と同じ時代まで生きていられるかもだし」
「それは……」
ガリガリ君が発売されたの、多分昭和の終わり頃だろ?
当たりの刻印だって当初からは変わってるだろうし……、ちゃんと棒が引き替えられるようになるまで、明治時代の千代がそんなに長く生きられるはずがない。
そう言おうとしたけれど、千代の寂しげな表情を見て、途中でやめた。
彼女だって分かっているんだ。
そして当たり棒を使えないと指摘することは、俺と彼女がこれからも、この小さな窓を介してしか会えないと結論づけることと、同義だった。
「……分かった。当たりを使って、こっちの時代で一緒にガリガリ君を食べようぜ。それまで棒は、千代が持ってなよ」
「千代じゃなくて、師匠、でしょう?」
彼女はにっこりと笑う。
俺は、いつか本当に彼女が当たり棒を使えたらいい、なんて思った。
それが叶わぬ願いだとしても、想像するだけなら自由だ。
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