3段目


「最近、重箱を作っているようだな。どういう心境の変化だ」


 夕食中に親父が訊ねてきたので、俺は「さあね」としらばっくれた。

 どうやら筆や粉筒などの道具を持ち出していることは、とっくにバレていたらしい。


「少しは家を継ぐ気にはなったのか」


 千代に会ってから、重箱の奥深さを知ったのは確かだ。でもそれと、家を継ぐかどうかは別の話。親父の言葉には、どうしても重みというか、プレッシャーを感じてしまう。

 こういうときは、話を逸らすに限る。


「なあ。うちの家って、どうして『与の重』を封印するんだ?」


 良い機会だ。以前、気になっていたことを聞いてみようと思った。

 今夜、千代と話すときのネタにもなるかもしれない。


「……あまり愉快な話じゃないぞ」


 俺をじろりとにらみ、そう前置きしてから親父は語り出した。


「明治の頃、この家には才のある少女がいた。彼女が作り出す重箱は、まるで命を吹き込まれたかのように瑞々しく、美しかったという」


 俺にはすぐに、その少女というのが千代だと分かった。


「ところがある時を境に、少女に異変が起きた。自分の作り出した『与の重』に熱心に語りかけるようになったのだ。まるで、重箱に魅入られたようだったという」

「それが『与の重』を封印する理由?」


 つまり、ウチの風習を生み出す原因となったのは、千代の話相手である俺ってこと?

 なんだかおかしな気分だった。じゃあ、俺が風習を馬鹿にせず、蔵掃除を命じられなかったら、風習自体が存在しなかったことになる。


「まだ話は終わりじゃない」


 矛盾を感じている俺を見て、また馬鹿にしていると親父は思ったんだろう。

 さっきよりも口調を神妙にして続ける。


「それから一月が経った頃だ。彼女の使っていた作業場から火が上がったのは」

「火事……?」


 それは初耳だった。


「幸い、そのとき職人は誰も作業場にはいなかった。だが、その少女は重箱が燃えてしまうと言って、火のなかに飛び込み――そのまま戻っては来なかった」


 ドクドクと、俺の心臓が早鐘のように鳴り始める。


「それ以来、少女を供養する意味も込めて、与の重は蔵に封ずるようになったんだ」






 食事も終わらぬうちに、俺は蔵へと駆け出していた。

 千代にこれから起こることを教えなければ。

 火に気をつけろ。作業場に与の重を置いておくな。

 万が一のことがあっても、絶対に炎のなかに戻ろうとするな。

 そのどれかひとつでも伝えられれば、最悪の事態は回避できる。

 なのに、嫌な予感が止まらなかった。

 蔵を開いた瞬間、襲ってきたのは灰色の空気。

 あまりの煙たさに咳き込みながら、俺はなかへ足を踏み込む。

 悪い予感が当たった。煙を発しているのは、千代の重箱だった。

 昔、火事で死んだという少女はやはり千代で、今まさに、歴史は決定づけられようとしている。


「千代! おい、返事をしろ!」


 俺は熱を帯びた重箱の縁を掴むと、向こう側へ呼び掛ける。


「吾一……?」


 千代の声が、かすかに聞こえた。

 彼女は重箱を持ったまま、床に倒れ込んでいるようだ。


「与の重を取りに、火の中へ飛び込んだのかよ! 死ぬかもしれないのに!」

「だって、これが燃えちゃったら、もう吾一と会えなくなるじゃない……」


 煤で汚れた顔で、彼女が言う。

 馬鹿、と叫びたかった。それで死んだら意味がないだろ。

 でも、そんなことは後回しだ。助かってからでいい。

 俺は泣きそうになるのをこらえながら、声を張り上げた。


「しっかりしろ、蔵の外に出るんだ!」


 千代をこっちの時代へ引き込めないのがもどかしい。

 あるいは、俺が向こうへ行けたら、千代を担いで外へ出られるのに……!


「長生きしてガリガリ君の当たり棒を使うんだろ! こんなところでヘバるなよ!」


 俺は重箱のなかに手を突っ込んで、千代の頬をはたく。


「痛っ。……なにするのよ。弟子が師匠に向かって生意気なんじゃないの?」

「なんだ、そんな憎まれ口を叩けるなら、まだ元気じゃないかよ」

「ふん……。こんな熱いなかで死ねるもんですか」


 千代はそう言って、ふらつきながらも起き上がった。


「どうせ死ぬなら、あいすくりんの風呂に入って死ぬわ」

「よし、その意気だ」


 でも、重箱の向こう側は火の海のまま。絶望的な状況に変わりはない。

 なにか、なにかこっちから渡すことはできないか。千代の運命を変えられるなにかを。


「そうだ……!」


 俺は蔵の壁に消火器が備え付けてあったのを思い出す。


「今からそっちに、火を消すことができる道具を渡す。俺が言うとおりに使うんだ」


 俺は消化器に取り付けられた黄色のピンを抜くと、底のほうから重箱へ突っ込む。

 幸い、消火器の直径は十五センチより短かった。途中でホースが引っ掛かったが、なんとか無事に向こうへ渡すことができた。


「これ、どう使うの?」

「ホース……、紐の先端を炎に向けろ! そうしたら、赤い筒のつまみを握るんだ!」


 消火器を扱うには、両手を使わなきゃならない。

 千代は与の重を着物の胸元に差し込むと、消火器のレバーを握った。

 瞬間、強烈な勢いで噴き出した消火剤が、廊下を塞いでいた炎をかき消す。


「わっ!」


 だが消火器を知らない千代にとって、その衝撃は大きかった。驚いた拍子にバランスを崩し、俺が重箱越しに見ている世界が何度も回転する。

 彼女の胸元から与の重が滑り落ち、床を転がったんだと分かった。

 与の重から見える視界が、炎に包まれた。


「吾一!」


 千代は与の重へ消火器のホースを向けようとした。


「行け! 外に向かうんだ!」


 俺は叫び、それを制止する。今、与の重を取りにこっちへ戻ったら、せっかく開けた道が再び炎で塞がれてしまうかもしれない。

 消火器の容量だって、無駄遣いできるほど大きいわけじゃないんだ。

 俺の顔を見て、千代が躊躇ったのが分かった。

 けれど彼女はすぐに意を決し、外へ向かって駆け出す。

 遠ざかっていく後ろ姿。それも長くは続かなかった。


 さよならを言うことすらできず――


 手のなかにあった美しい与の重は、真っ黒な、ただの焦げた木材に変わっていた。

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