その③
七月の空を見ていると、小学生の頃を思い出した。
年齢は覚えていないが、今と同じソフトクリームみたいな入道雲が浮かんでいたから、夏だったと思う。
初来店のお客さんが、雑誌の切り抜きを持ってきて、奇抜な髪型を父さんに要望した。父さんは笑顔で了承、椅子に座ったお客さんが近くで遊んでいた俺に、「似合うと思うか?」と機嫌よく尋ねた。
何の気なしに聞いたのだろうお客さんに、俺は正直に、「似合わないと思う」と答えてしまった。お客さんは機嫌を崩し、父さんからは怒られた。
――直の素直なところ、私は好きだよ。一緒にいて、安心できる。
しょげている俺を、梨沙はそう言って、慰めてくれた。正直に話すのは、嘘を付いておだてるよりも誠実な行動だと、褒めてくれた。
中身は単純なんだもんなぁ。今日、そう嘆いた岡本を思い出す。その反応には慣れていた。女子受けが良くない俺だけど、第一印象は、いつもそれほど悪くない。ずけずけと物を言うせいで、徐々に好感度が落ちていくだけだ。
俺の短所を褒めてくれたのは、今も昔も梨沙だけだ。あの時も、梨沙は控えめな笑顔を浮かべ、綺麗な黒髪を揺らしていた。幼さの残るその表情を、今でも思い出せる。
真っ白な入道雲の中に、あの時の梨沙の顔を思い浮かべて、はっとする。
俺はとうとう、気づいてしまったのだ。
どうして岡本をいいな、と思ったのか。答えは簡単、少しだけ梨沙に似ていたからだ。
学校での梨沙じゃなくて、商店街の梨沙に。
俺の家に来る時、梨沙は髪を結ばない。ゆっくりと話し、控えめに笑う。
初めて会った時の岡本の雰囲気は、梨沙のものと良く似ていた。
岡本と過ごすうちに、何かが違うと感じるようになった。日に日にその頻度は多くなる。岡本の快活さを可愛いと思うし、茶髪だって似合っているのに。
違和感を覚えるのは、たった一つの理由。梨沙じゃないから。
俺は多分、もうずっと前から、梨沙のことが好きなのだ。
美味しいものを食べたら、食べさせたいと思うのも、髪を触るのが嬉しかったのも、全部梨沙が好きだったからなのだ。
自覚がなかったとはいえ、俺は最低だ。岡本に対しても、梨沙に対しても。
大きく息を吐き、店に入り、あの日、梨沙が座っていた椅子に腰をかける。
ケジメを付けよう。明日、岡本に別れを告げる。そして、梨沙に告白しよう。
不抜けた顔の自分に約束し、俺はバリカンを手に取った。
「髪、どうしたの?」
待ち合わせた中庭で、俺を目にした瞬間、岡本は目を丸くした。
「突然だけど、別れたい。髪はケジメ。最低だってわかってるんだ。本当にごめん」
なじられるのを覚悟していたのだが、岡本は口元を緩めてケラケラと笑い始めた。
「そんなことで、坊主にしたの?」
恋人だった二人が別れるのが、そんなこと? 俺が呆然としていると、
「最低って、重く考えすぎでしょ! まだキスもしてないのに。直は真面目だなぁ」
岡本は俺の肩をぽんと叩くと、あっけらかんとして言う。
「いいよいいよ。私、思ってたのと違ったでしょ? 私も同じこと思ってたし。……それよりさぁ、直、坊主、似合わないよ。見かけだけはクールな感じだったのに、もったいない。直の良いところは雰囲気だけなんだから、そこを大事にしないと」
散々な言いぐさに気が抜けてしまい、思わず聞いてみる。
「……雰囲気以外を好きって言ってくれる女の子がいたら、どうするべきだと思う?」
岡本はきょとんとした後、真面目な顔になって、力強く言う。
「貴重だから、とにかく大切にすること!」
岡本の言う通りだ。俺は梨沙を大切にするべきだった。
岡本と別れたその足で、梨沙のいる四組に向かう。
「梨沙、ちょっと来て」
名前で呼ばれたせいなのか、俺が坊主だからか、そもそも俺から話しかけられる事態に驚いたのかはわからないが、梨沙は目を丸くして固まった。
人気のない倉庫裏まで連れ出すと、梨沙を見つめて、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「……俺、彼女と別れた。やっと気づいた。梨沙が、好きなんだ」
梨沙はしばらく呆然と俺を見つめてから、小さく口を開く。
「何で今更そんなこと……私がどれだけ苦労して、直のこと諦めたと思ってるの?」
涙目で俺を睨み、「自分勝手」と付け加えた。
「私のこと好きって言ってくれる人がいる。私も好きになれたらいいなって思ってる」
そう言い残して走り去る梨沙を、俺は追いかけることはできなかった。
数日後、梨沙が隣のクラスの男と仲良さげに歩いているのを見かけた。
思わず唇を噛みしめて、全てが遅かったのだと悟った。
どれだけ後悔しても、時間は取り戻せない。
だけど、当分の間、俺は梨沙のことを好きでい続けるだろう。少なくとも、梨沙が俺を想ってくれたのと同じくらいは、梨沙のことを考えていたかった。
梨沙に告白してから三ヶ月が経った一〇月のこと。
気温はぐっと下がり、半袖だった制服は長袖に代わった。商店街の飾りはハロウィン仕様になり、町田洋菓子店の店頭にモンブランが並び始めた。
帰宅すると、外はもう暗くて、すっかり夜の気配がする。空に輝く金平糖みたいな星をぼんやりと眺めていると、カラコロとドアベルが鳴った。
「カット、お願いしまぁす」
聞きなれた声が聞こえて、俺は飛び起きる。
「な―おー! 梨沙ちゃん、きたよ」
母さんが心なしか嬉しそうな声を出した時には、もう階段を駆け下りていた。
鏡越しに目が合うと、梨沙はぎこちなく笑う。
「……まだ、間に合うかな?」
俺が大きく頷くと、梨沙は嬉しそうに笑う。
梨沙の髪の毛は、俺がばっさりと切る前の長さまで伸びていた。そっと手に取ると、相変わらずの艶々した黒髪から懐かしい香りがした。
梨沙は少し緊張しているかのように、俺をじっと見つめる。
「最近、お父さんが栗を仕入れてね。それ見て、直を初めて好きって思った時のこと思い出したの。そしたら、急に会いたくなっちゃった」
前に小学生の頃だと聞いたけれど、具体的なきっかけがあったなんて知らなかった。
俺を見て小さく笑うと、梨沙は懐かしそうに話し始める。
「覚えてる? 昔、私がからかわれて、必死で庇ってくれたことあったでしょ?」
「そもそもの原因は俺だった」
「それでも、私、すごく嬉しかったんだ。皆の前で堂々と守ろうとしてくれた。あの時初めて直のこと、男の子として好きだって思ったの」
頬を紅潮させ、照れくさそうに笑う梨沙に、「ありがとう」と俺は呟く。
「えっと、前くらいの長さにして。そうだな……一五センチくらい、切ってほしいな」
せっかく伸びたのに。俺が目を丸くすると、梨沙は言い訳みたいにぶつぶつと言う。
「本当は、ショートも好きなの。ショートは切るの難しいっておじさんが言ってたから、今までロングにしてただけ。でもね、この前の直、うまかったから」
中学に入り、人目を気にするようになって、学校で話す機会が減った。寂しく思っていたら、梨沙が家に来てくれるようになって、本当に嬉しかった。毎週火曜日は友達の誘いを断って家で待機したし、父さんに頼んでマネキン人形でカットを練習した。
自分で気づかなかっただけで、俺だってずっと、梨沙が好きだったのだ。
「それに、もう来る口実がなくても、いつでも会ってくれるでしょ?」
にこりと笑った梨沙の頭を、思わずぎゅっと抱きしめる。甘い香りがする髪の毛に顔を埋めて、「もちろん」と呟いた。
この日、たった一人の幼馴染、たった一人のお客さんの町田梨沙は、
――たった一人の俺の恋人になった。
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