3
心臓がばくばく鳴る。
紺色のスーツ姿の母さんは、僕を見て怒りに震えていた。裁判所に行ってきたんじゃなかったのとか。予定より早く終わったのとか。聞いていいこともあると思うのに、どれもうまく言葉にならない。
「変なところに寄り道するなって、言ったじゃない」
「変じゃないよ。ほら、ゲームセンターにも行ってないし」
「屁理屈言わないの! お母さん本当にがっかりよ。これから二人でがんばってかないといけないのに、こんなんじゃ全然ダメじゃない……」
額を抑えてため息をつく母さん。二人でってことは、決まったんだね、離婚。
良かったね、なんて──言えるわけないじゃないか。
「……じゃあ僕……父さんと暮らす」
母さんのこめかみが、ぴくりと震えた。
「どういうこと?」
「母さんと一緒なんて嫌だよ。勝手に決めるな。嫌なもんは嫌だ」
「馬鹿!」
母さんが、僕の頬をひっぱたいた。
「あ、あなたは。あの人が何したか……わかって……私がどんな思いで調停までして」
「そんなの知らないよ」
「馬鹿! 馬鹿! 馬鹿!」
母さんはヒステリックに叫びながら、何度も僕のことを揺さぶった。僕が床に転がっても泣きながら「馬鹿」と叫んで叩くことをやめなかった。
「馬鹿!」
「──やめなよ、おばさん」
母さんが平手を振り上げたその鼻先に、『たも網』が差し出された。
魚をすくう、柄付きの網である。使用済みだからちょっと水がしたたってて、それが僕の服の上にも落ちた。
メガネだった。
「ここは釣りするところだから。やらないなら出てって」
横ではセレブさんが、文句あるかって感じの、上から目線の仁王立ちで威嚇をする。
「ささ、どうぞご婦人。こちら特等席が空いておりますよ。どうぞ」
「……は、はあ……」
最後はヒゲジイが、現役時代を思わせるゆるやかな接客で、母さんを座布団付きのベンチへと移動させたのだった。
水面はいつものように、透明度ゼロで、緑色に泡だっていた。
僕は餌の団子を針につけて、一本の竿は母さんに、もう一本は自分で持って釣りをはじめた。
「……これ、水に入れればいいの?」
「そう。ぽちゃんって好きなとこに」
母さんは、いまだにキツネにつままれたままっていうか、なんでこんなことになってるのかよくわかってない感じだった。僕も半分ぐらいは同意だった。
ベンチを半分ずつ分け合って座る僕らの周りには、メガネたちがいた。
みんな好きな席で、ばらばらにまた自分の釣りをはじめているけど、さっきみたいなことがあったら助けてくれるんだって。そう思えるのは心強かった。
大丈夫。僕は言える。
「……ここね、昔父さんが連れてきてくれたんだ」
「……知ってるわ。だから」
だからなんだろう。僕は思った。だから居場所がわかった、だろうか。だからこそ許せなかった、だろうか。
「離婚、しなきゃいけないのはわかるよ。わかるけど……僕にとっては、悪い人ってだけでもなかったんだ」
置いてかれちゃったけど。戻ってこなくなっちゃったけど。
「そんなの……お母さんだって一緒よ……」
「父さん、僕のこといらないって言ってたの?」
母さんは、何も言わずに自分の浮きを見ている。
それが何よりも答えだった。
「……一つだけ、確かなことがあるならね。もし争点があなただったとしたら、私は何があっても譲らなかったわ。絶対に譲らなかった」
心に決めたことが、僕の心にやわらかく突き刺さる。
「離れるなんて嫌だもの。お母さん寂しくて干からびて死んじゃうわ」
僕は我慢ができなくて、竿を持ってない方の手で涙をぬぐった。悲しいのか嬉しいのか、自分でもよくわからなかった。
そして気がついたんだ。
「……母さん、竿、引いてるよ」
「え?」
「ほら、浮き動いてるでしょ。上げて上げて」
母さんが、慌てて自分の竿を引き上げる。水面に浮いてきた魚の色を見た瞬間、僕は叫んだ。
「メガネ、たも持ってきて!」
ダメだ間に合わない。途中で水へ落ちるのだけは避けたくて、僕は身を乗り出す。空中でびちびち暴れるそいつを、両手でそっと受け止めた。
「あら──なんだか不思議な金魚ね。ピンク色じゃない」
そうなんだ。
僕の手のひらからはみ出るくらいに成長した桜和金が、ぴかぴかに光っていた。
「体長十五センチってとこじゃないかね」
「もっとあるでしょ」
「ないない。尾まで入れてもかっきり十五センチ」
バケツの中に入っている桜和金を、みんな物珍しそうに眺めて好き勝手言っている。
恵比寿屋は景品交換制で、釣った魚は基本的に生け簀に戻さないといけないから、別れも惜しくなるというものだ。
「あら──お魚まで持って帰れるんですか?」
なのに受付で景品を受け取っていた母さんが、そう言ったから驚いた。
「ああ。今月で閉店するからね。欲しいなら好きにすればいいよ」
ババアはしかめっ面で言った。え。
──閉店って……マジで?
みんな呆然としたと思う。
「……お店、閉めるんだ……」
「まあ、古いところではありますから。寂しくはなりますなあ」
「ち、ちょっと、待って! ここ閉店したら、私どうやってネーム作ればいいの!」
その中でもセレブさんが、この世の終わりのような悲鳴をあげたのは、また別の話だ。
***
三年たった今でも、あの店の特殊さは、折りにつけて思い出すことがある。
僕はこの四月で中二になった。恵比寿屋が閉まってから、店の常連とはまったく会わなくなったけど、『牧島あぽろ』の新刊は本屋に並んでいるし、今日なんて懐かしい奴と会ってしまった。
桜舞い散る、中学校。新入生の一年坊主に、あのメガネがいた。
小学校は別だったけど、中学は同じ学区なんだな。初めて知ったよ。
「よっ」なんて明るく声をかけた僕に、メガネは不思議そうな顔をした。何これ、誰この先輩って。気づいてないなこりゃ。
「僕だよ僕。サクラだよ」
「サク──ラ」
「で、キミはメガネ」
そこまで言われたメガネは、ようやく思い出したみたいだった。今までで一番ってぐらいのでっかい大声をあげて、それからまじまじと僕の格好を凝視する。
「──いつ性転換したの!?」
「いや、前からだけど」
メガネは僕のセーラー服を見て、そりゃもう自分の眼鏡をずり落とさんばかりに驚いてくれた。セレブさんの正体は見破ったのに、僕はこれってひどくないかな。
「釣り、まだ好きなら海でも行く? 見下ろす方が落ち着くんだろ?」
今度は十五センチ以上を目指して。
あの店にいる時、僕はサクラで、キミはメガネで。それ以上でも以下でもなんでもなかったけど、世界はもっともっと広いんだ。だろ?
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