心臓がばくばく鳴る。

 紺色のスーツ姿の母さんは、僕を見て怒りに震えていた。裁判所に行ってきたんじゃなかったのとか。予定より早く終わったのとか。聞いていいこともあると思うのに、どれもうまく言葉にならない。


「変なところに寄り道するなって、言ったじゃない」

「変じゃないよ。ほら、ゲームセンターにも行ってないし」

「屁理屈言わないの! お母さん本当にがっかりよ。これから二人でがんばってかないといけないのに、こんなんじゃ全然ダメじゃない……」


 額を抑えてため息をつく母さん。二人でってことは、決まったんだね、離婚。

 良かったね、なんて──言えるわけないじゃないか。


「……じゃあ僕……父さんと暮らす」


 母さんのこめかみが、ぴくりと震えた。


「どういうこと?」

「母さんと一緒なんて嫌だよ。勝手に決めるな。嫌なもんは嫌だ」

「馬鹿!」


 母さんが、僕の頬をひっぱたいた。


「あ、あなたは。あの人が何したか……わかって……私がどんな思いで調停までして」

「そんなの知らないよ」

「馬鹿! 馬鹿! 馬鹿!」


 母さんはヒステリックに叫びながら、何度も僕のことを揺さぶった。僕が床に転がっても泣きながら「馬鹿」と叫んで叩くことをやめなかった。


「馬鹿!」 

「──やめなよ、おばさん」


 母さんが平手を振り上げたその鼻先に、『たも網』が差し出された。

 魚をすくう、柄付きの網である。使用済みだからちょっと水がしたたってて、それが僕の服の上にも落ちた。

 メガネだった。


「ここは釣りするところだから。やらないなら出てって」


 横ではセレブさんが、文句あるかって感じの、上から目線の仁王立ちで威嚇をする。


「ささ、どうぞご婦人。こちら特等席が空いておりますよ。どうぞ」

「……は、はあ……」


 最後はヒゲジイが、現役時代を思わせるゆるやかな接客で、母さんを座布団付きのベンチへと移動させたのだった。




 水面はいつものように、透明度ゼロで、緑色に泡だっていた。

 僕は餌の団子を針につけて、一本の竿は母さんに、もう一本は自分で持って釣りをはじめた。


「……これ、水に入れればいいの?」

「そう。ぽちゃんって好きなとこに」


 母さんは、いまだにキツネにつままれたままっていうか、なんでこんなことになってるのかよくわかってない感じだった。僕も半分ぐらいは同意だった。

 ベンチを半分ずつ分け合って座る僕らの周りには、メガネたちがいた。

 みんな好きな席で、ばらばらにまた自分の釣りをはじめているけど、さっきみたいなことがあったら助けてくれるんだって。そう思えるのは心強かった。

 大丈夫。僕は言える。


「……ここね、昔父さんが連れてきてくれたんだ」

「……知ってるわ。だから」


 だからなんだろう。僕は思った。だから居場所がわかった、だろうか。だからこそ許せなかった、だろうか。


「離婚、しなきゃいけないのはわかるよ。わかるけど……僕にとっては、悪い人ってだけでもなかったんだ」


 置いてかれちゃったけど。戻ってこなくなっちゃったけど。


「そんなの……お母さんだって一緒よ……」

「父さん、僕のこといらないって言ってたの?」


 母さんは、何も言わずに自分の浮きを見ている。

 それが何よりも答えだった。


「……一つだけ、確かなことがあるならね。もし争点があなただったとしたら、私は何があっても譲らなかったわ。絶対に譲らなかった」


心に決めたことが、僕の心にやわらかく突き刺さる。


「離れるなんて嫌だもの。お母さん寂しくて干からびて死んじゃうわ」


 僕は我慢ができなくて、竿を持ってない方の手で涙をぬぐった。悲しいのか嬉しいのか、自分でもよくわからなかった。

 そして気がついたんだ。


「……母さん、竿、引いてるよ」

「え?」

「ほら、浮き動いてるでしょ。上げて上げて」


 母さんが、慌てて自分の竿を引き上げる。水面に浮いてきた魚の色を見た瞬間、僕は叫んだ。


「メガネ、たも持ってきて!」


 ダメだ間に合わない。途中で水へ落ちるのだけは避けたくて、僕は身を乗り出す。空中でびちびち暴れるそいつを、両手でそっと受け止めた。


「あら──なんだか不思議な金魚ね。ピンク色じゃない」


そうなんだ。

 僕の手のひらからはみ出るくらいに成長した桜和金が、ぴかぴかに光っていた。




「体長十五センチってとこじゃないかね」

「もっとあるでしょ」

「ないない。尾まで入れてもかっきり十五センチ」


 バケツの中に入っている桜和金を、みんな物珍しそうに眺めて好き勝手言っている。

 恵比寿屋は景品交換制で、釣った魚は基本的に生け簀に戻さないといけないから、別れも惜しくなるというものだ。


「あら──お魚まで持って帰れるんですか?」


 なのに受付で景品を受け取っていた母さんが、そう言ったから驚いた。


「ああ。今月で閉店するからね。欲しいなら好きにすればいいよ」


 ババアはしかめっ面で言った。え。


 ──閉店って……マジで?


 みんな呆然としたと思う。


「……お店、閉めるんだ……」

「まあ、古いところではありますから。寂しくはなりますなあ」

「ち、ちょっと、待って! ここ閉店したら、私どうやってネーム作ればいいの!」


 その中でもセレブさんが、この世の終わりのような悲鳴をあげたのは、また別の話だ。



***



 三年たった今でも、あの店の特殊さは、折りにつけて思い出すことがある。

 僕はこの四月で中二になった。恵比寿屋が閉まってから、店の常連とはまったく会わなくなったけど、『牧島あぽろ』の新刊は本屋に並んでいるし、今日なんて懐かしい奴と会ってしまった。

 桜舞い散る、中学校。新入生の一年坊主に、あのメガネがいた。

 小学校は別だったけど、中学は同じ学区なんだな。初めて知ったよ。


「よっ」なんて明るく声をかけた僕に、メガネは不思議そうな顔をした。何これ、誰この先輩って。気づいてないなこりゃ。


「僕だよ僕。サクラだよ」

「サク──ラ」

「で、キミはメガネ」


 そこまで言われたメガネは、ようやく思い出したみたいだった。今までで一番ってぐらいのでっかい大声をあげて、それからまじまじと僕の格好を凝視する。


「──いつ性転換したの!?」

「いや、前からだけど」


メガネは僕のセーラー服を見て、そりゃもう自分の眼鏡をずり落とさんばかりに驚いてくれた。セレブさんの正体は見破ったのに、僕はこれってひどくないかな。


「釣り、まだ好きなら海でも行く? 見下ろす方が落ち着くんだろ?」


 今度は十五センチ以上を目指して。

 あの店にいる時、僕はサクラで、キミはメガネで。それ以上でも以下でもなんでもなかったけど、世界はもっともっと広いんだ。だろ?

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