Section.2

 待ってくれ。僕はそう訴える。どうやら僕は記憶喪失なんだ。君が、僕が誰なのかもわからない。どうしてこんなことになっているのかもね。一体僕はどんな人物なんだ?


「話すべきことなんて、何もありません」


 取りつく島もない答えが返った。どうやら、彼女のナイフの切っ先は、僕の腹に飛び込みたくてうずうずしているらしい。それなのに、彼女が今すぐ行動に出ないのは、タイミングを計っているからだろう。何せ、彼女は女で僕は男だ。当然、僕は抵抗する。


 そうなれば今度は彼女の方が危うくなりかねない。だというのに彼女に話し合いをする意志はなさそうだ。何という頑固さ。しかし、彼女が態度を変えない以上仕方がない。


 部屋の中へ、僕は慎重に目線を移した。


 何か新しい情報が必要だろう。それは、彼女を思い留まらせる材料になるはずだ。

 デス・ゲームには、一見して『これしかない』と限定された条件内に、わざと穴が設けられている場合が多い。余白が設定されている、と言い換えてもいいだろう。


 最初のヒントは大体室内に隠されているものだ。犯人からの第二、第三のメッセージやキャラクターの抵抗の余地に繋がるものが。そうでなければ映画は八十分ももたない。


 僕は室内を見回す。そして、軽くがっかりした。


 僕達は真っ白な立方体の部屋にいた。ここにはテレビもパイプも便器も水槽も排水溝も死体も謎の数字もなかった。床の上に開きっ放しのナイフケースが落ちているだけだ。


 ナイフケース。


 彼女から目を逸らすことなく、僕はそろそろと腕を伸ばした。彼女は動かない。まるで臆病で慎重な草食動物のようだ。その隙に、僕はサッと床からナイフケースを攫った。


 蓋の内側は鏡面になっている。ナイフの嵌っていた型はベルベット張りだ。ケースと型の間には何か仕込めそうだが、しっかり固定されている。素手では壊せそうにない。


 ここで、僕はピンときた。殺し合う立場の二人が協力できるか、試されているのだ。

 ナイフを貸して欲しいと、僕は彼女に訴える。ほら、ここに希望があるんだ。


「そこには何もありません」


 不可解なほどきっぱりと、彼女は断言した。僕は唖然とする。試すこともなく言い切るなんて理不尽な話だ。再度、僕は訴える。ナイフがわざわざケースに入れられていたことには大きな意味がありそうだよ。彼女は首を横に振った。それならば、仕方がない。


 今はケースの実体がどうかよりも、彼女がそう思い込んでいることの方が重要なのだ。


 引き続き話し合わなくてはならない。今度は別の切り口を試してみるしかないだろう。

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