僕とキミの15センチ
ファミ通文庫
「たった一人のお客さん」 三田千恵
その①
夕方だというのに、五月の空はまだ明るい。俺が綿あめのようなふわふわの雲をぼんやり眺めていると、カラコロとドアベルが鳴った。
「カット、お願いしまぁす」
響いてきた甘ったるい声にはっとして、起き上がって背伸びする。
「なーおー! あんたのお客さんだよ」
続けて聞こえた母さんの大声に慌てて返事をしながら、のそのそと階段を下りた。
俺の家は、明咲商店街の隅っこにある小さな理容室だ。
街で流行りのオシャレな理容室ではなく、昔ながらの古臭い店。
店頭には今時珍しいサインポール――赤と白と青の三色がくるくると回っている看板のことだ――が置いてあるし、店内には招き猫やらスノーボールやら、統一感の欠片もない置物がごちゃごちゃと飾られている。太鼓腹の冴えないおっさん(俺の父さんだ)が店主を務めていて、「篠崎理髪店」という素っ気ない看板を掲げた、あか抜けない店。
「梨沙、お待たせー」
俺のお客さん、その言葉が指すのはたった一人。目の前に座る、町田梨沙だ。
あか抜けないうちの店には似合わない、ピチピチの女子高生で、一五歳。
生まれた病院から保育園、小、中学校、春から通い始めた高校まで同じの幼馴染だ。
「直、今日も宜しくお願いします」
顔を上げた梨沙と、正面の鏡越しに目が合った。
大きな瞳が細くなり、唇の端が少しだけ持ち上がる。すっかり見慣れた控えめな笑顔。肩にかかった艶やかな黒髪が、ふわりと揺れる。
「今日のお礼は直の好物だよ。梨沙お手製、生クリームたっぷりのホールケーキです」
「アザーッス!」
得意げに言った梨沙にパチンと両手を合わせると、梨沙はくすくすと声を出して笑う。
梨沙は篠崎理髪店の五軒先にある町田洋菓子店の一人娘で、お菓子を作るのが抜群に上手い。プロであるおじさんが作ったものよりも美味しい気がするのは、大の甘党である俺の味覚の問題かもしれない。だけどそれを告げると梨沙は喜び、お礼と称して、店の余り物の他に、気合の入ったお手製のお菓子を持ってきてくれるようになった。
「いつもと同じで、痛んでるとこを少しだけ。絶対に、切りすぎないでね」
以前五センチほど切ったのを、未だに根に持っているのだろう。絶対に、の所を強調する梨沙に苦笑して、髪の毛を一房手に取った。しっとり艶々の、綺麗な黒髪だ。
「全く痛んでないよ。切る必要ないと思うけど」
「念入りにトリートメントしてるから、痛んでないのは当然! 短くなるのは嫌だけど、伸びすぎも困るの。結べるし、邪魔じゃないし、今の長さが一番いいの。直、切って」
自分の髪を愛おしそうに触りながら、鑑越しに目配せする梨沙に苦笑して、俺は仕方なく頷いた。左手で髪を抑えて、右手の鋏を動かしていく。
「あのさ」
そのタイミングで口にしたのに、特に意味はない。あえて言うなら、思いついたから。
「俺、彼女できたんだ」
言ったのと同時に梨沙が勢いよく振り向いて、手元から、ザクリ、思ったより大きな音がした。鼓膜に直接響いてくるような重々しい金属音。控えめに毛先を切ったのとは、どう考えても違う音。
その耳障りの悪い音を聞きながら、黒髪がふわりと宙に浮かんだのを、俺は呆然として見つめていた。
一五センチ。
ひらひらと舞い落ちる髪の毛を見て、無意識にそう思った。
目算できたのは、日頃の訓練の賜物だ。「人様の髪に手を加えるなら、パッと見で、何センチかわかるようになれ」俺が梨沙の髪を切ることを知ってから、父さんが口うるさく言うようになり、瞬時に長さを当てるという練習を散々させられたのだ。
はらりと床に散った黒髪を見て、ようやく我に返る。
正面の鏡には青い顔の俺。
目の前には、俺以上に真っ青な顔をした梨沙。
梨沙の艶やかな髪の毛は、顔の右側の一房だけ、極端に短くなっていた。
俺が切った。右手にはまだしっかりと、鋏の感触が残っている。
「ごめん」
俺の声は、掠れていた。梨沙は相当ショックに違いない。
髪の毛の一部は不自然に短い。他の箇所も合わせて切るしかないだろう。
「…………彼女、できた、の?」
しばらくの沈黙の後、梨沙が口にしたセリフは思ってもみない内容だった。
「うん。そうだけど、でも、そんなことより髪が」
俺が言うと、梨沙は今気づいたとでもいうようにチラリと髪を見て、おもむろに掴む。
「……直、これに合わせて、他のところも切ってくれない?」
「無理だよ! お金なら出すから、ちゃんとした美容室行って」
梨沙の申し出に驚いて、俺はすぐさま首を振る。
今回の作業は、今までやっていた毛先を整えるのとはわけが違う。梨沙の髪を一五センチ短くすれば、肩に付かないくらいの長さになる。イメチェンと言ってもいいくらいの、大きな変化だ。俺にできるはずもない。
「……お願い」
梨沙はまっすぐに俺を見て、喉の奥から搾り出したような声でそう言った。
「本当に、いいの?」
深く頷く梨沙を見て、俺はしぶしぶ鋏を手に取った。
縋るような梨沙の瞳、あんな目で見つめられたら、とてもじゃないが断れない。
梨沙はぎこちない手つきで髪を切る俺に、口出し一つせず、鏡で確認すらしない。
「ありがとう。あのね、直に、髪切ってもらうの、これで最後にするね」
ぼんやりと前を向き、ぴくりとも動かなかった梨沙が、突如思い出したように呟いた。
とんでもない失態をやらかした俺に今後も髪を切られるなんて、まっぴらなのだろう。もう一度謝ろうと口を開いた時、俺の顔色を読んだのか、梨沙がぎこちなく笑った。
「責めてるんじゃないのよ。さっきのは変なタイミングで振り返った私が悪いんだから」
梨沙はやけに明るい声で言ってから、一旦言葉を切って、改まった声を出す。
「直、彼女ができたんなら、私の髪を切ってちゃダメだよ。彼女さんが嫌がるよ」
考えなしに行動する俺を、梨沙は時々こうやって窘める。いつもはなるほどと頷いて、梨沙の言葉を受け入れるのだが、今回ばかりはそうはいかない。
「別にいいだろ? 俺たちは、幼馴染なんだから」
彼女ができたからって、俺の幼馴染は梨沙だけだ。同じ商店街で兄妹のように育ったのも。情けないところを見せても平気なのも。母さんがとびきりの笑顔で歓迎するのも。
それに何より、俺は、梨沙の髪を切るのが好きなのだ。梨沙がもうこりごりだというなら仕方がないけど、彼女ができたなんていう理由でお役御免なんて、納得できない。
「ダメ。直は本当にデリカシーないなぁ。ほら、早く髪切って」
急かすように言った後、「ばっさりいって」と付け加えて、梨沙は視線を膝元に落とす。
「大丈夫だって。逆に、どうしてダメなのさ?」
俺が問うと、梨沙はしばらく考えるような素振りを見せた後、小さく呟いた。
「…………ただの幼馴染ならいいかもしれない。だけど、私はダメ。直が好きだから」
すきだから。頭が真っ白になって、言葉が出てこなかった。
「大丈夫だよ。ちゃんと諦めるから。今日髪切ってもらったら、それでおしまいにする」
淡々と続ける梨沙に、俺はやっとのことで言葉を返す。
「……あのさ、いつから?」
「そうだな、小学校六年生くらい、かな。……もう何も、聞かない、で」
尻すぼみに小さくなった梨沙の声が、頭に反響する。
三年以上もの間、梨沙が俺を想ってくれていたなんて。全く気づかなかった。
俺は何も言えず、ひたすら手だけを動かした。梨沙は俯いていて、表情はわからない。
しばらくの間、鋏が髪の毛を絶つ金属音だけが部屋に響いていた。
肩に付かないくらいのさっぱりしたショートカットになった梨沙は、「ありがとう」と言ってから、「これからは、単なるご近所さんね」と付け加えた。足早に店を出て、一度も振り向かなかった。俺は何も言えずに、ぼんやりとその後ろ姿を見つめていた。
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