Section.6
名前。僕はそう繰り返した。僕達の名前。
確かに、名前とは重要なものだ。個人を識別するのに、これほど便利な記号もない。名前を与えられた時点で、僕達は自己を認識するための有効な手段を得たことになる。だが、現在、僕達は互いの名前を知らなかった。
僕は『僕』でしかなく、彼女は『彼女』でしかない。それも当然だった。
僕には記憶がないのだから。
「それで、私に名前を尋ねる必要性も、自分の名前を思い出したいという欲求も覚えないと?」
彼女の指摘に、僕は腕を組んだ。確かに不自然だ。だが、そうおかしくはないだろう。
何故ならば、彼女は最初に、僕について答えることを拒否したのだ。その段階で、僕が僕についての情報を得ることを、いくらか諦めるのは自然な流れではないだろうか?
僕は尋ねた。一体、僕はどんな人物なのかと。
彼女は応えた。話すべきことなど何もないと。
不意に、僕はゾッとした。今更気がついた。彼女の答えは二重の意味に取れるのだ。
一つは、『お前には話すことなんて何もない』という、意味。
もう一つは『本当に話すべきことが何もないのだ』という、意味。
つまり、僕自身が虚無であるという可能性。
相変わらず、彼女は僕に哀れなものを見る目を向けている。
発作的に僕は叫び出しそうになった。そんなはずがない。僕はここにいる。理不尽にデス・ゲームに巻き込まれている。殺されかけている。僕は被害者だ。または被験者だ。
彼女は僕について、何か情報を握っている。
それなのに、何故、僕が『話すべきことが何もない』存在だなんて話になるんだ。
明らかにおかしい。理屈に反している。そう考えながらも、僕の動悸は収まらなかった。それこそ彼女自身は何も語っていない。けれども、僕の嫌な考えは止まらなかった。
僕は被害者だ。被験者だ。果たして、本当にそうだろうか?
もしそうだったとして、『実験』の目的は一体なんなんだ?
不意に、カランッと硬い音がした。見れば、彼女はナイフを手放していた。僕に向けられていた凶器は、今や真っ白な床の上に落ちている。歓喜しなければならない状況だろう。それなのに、何故か、僕は全く喜べなかった。彼女は前に出る。
十五センチメートルの距離は一瞬で埋まる。
そうして、彼女は僕の手から、ナイフケースを奪い取った。
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