#5

 翌日、河原沿いのグラウンド。


 俺は授業を抜け出して様子を見に行ってみたが、雪村の姿はなかった。その翌日も、そのまた翌日も。


「五輪もだいぶ危なくなったし、下手するとこのまま引退するんじゃないか」


 練習見学の常連の中には、そんなことを囁く者もいる。ネットとなったら、なおのこと。やれ「オワコンだ」やれ「劣化だ」と言いたい放題の嘲笑と罵倒。


 実際、雪村があんな失敗ジャンプをしたのは、彼女が小学生以来……つまり、競技を始めて日が浅い頃にしかなかったという。


「どいつもこいつも勝手なことばっかり言いやがって……!」


 俺は、ネットも新聞も見るのはやめた。そして、店の厨房でホールケーキの金型を睨みつけた。


 5号。いまとなっては忌まわしき、直径15センチ……だけど。


「これしか、ないもんなあ……」


 溜め息と共に、それを取り上げる。三代受け継いだアルミ合金の円がひどく重く感じられたが……でも、俺は有り金全部を親父に渡して、練習を始めた。今度作りたいのはプレートじゃない。丸ごと、ホールケーキ。難易度が段違いだ。「売るわけじゃないから」とさんざん念を押したのがよかったのか、この一年の取り組みぶりにそれなりに功を奏したのか、いまのところ、我が店長はアドバイス以外は何も言わない。


 そして、あの競技会から一週間後。


 俺は、初めて川沿いの社屋、その更に奥にある実業団寮の呼び鈴を押していた。彼女の携帯メアドにもラインにもあらかじめ連絡は入れてあるが、顔を出してくれるかどうかは、判らない。


 今日も凄まじい暑さだった。


 風は煮えたぎるように熱く、一歩進むごとに体力を奪う。保冷剤をしこたま仕込んだケーキボックスですら溶けるんじゃないかと思うほど。もちろん、寮のドアが開くまでの時間が、とてつもなく長く感じられたのは、猛暑のせいなんかじゃないけれど。


「……はい」


 古い両開き扉の間、顔を覗かせたのは、間違いなく雪村さゆみ本人。但し、俺が知ってる中でいちばん顔色悪くて一番しょげ返ってる、異例中の異例の雪村さゆみだった。それを見たとたん、用意してきた言葉がすべて喉奥て蒸発してしまう。しばらく何も言えないまま、俺は箱を差し出した。


「これ……焼いてきたんだ」


「三好さんが? 店長さんじゃなくて?」


「うん、俺が」


 その箱へ視線を落とし、彼女は一段と暗い顔になる。いつもの大箱、ファミリーユースの例の箱。


「5号サイズ?」


「5号サイズ」


 更に重い沈黙が、落ちる。つまり、それは……15センチ。


「お祝いにしか食べないって知ってるけど……た、たまには、元気出すためにとか、どうかなって……」


 しどろもどろに、俺は並べ、それから俯いた。


「ごめん、嘘です。他に、何も思いつかなかった……俺にできること」


 大箱を捧げ持つ手が震えてくる。己の無力さが悔しくて、もう顔すら上げられなかった。大観衆の中、凄まじいプレッシャーに耐えながらその長身を宙に放つ彼女に比べて、俺という人間のなんてちっぽけなことか。


「やっぱ、帰る……押し掛けてきてごめん」


 それだけをなんとか吐き出し、俺は一歩二歩と後じさった。そのまま、バックステップで逃亡しようと思ったんだけれども。


 がっし。


 伸びてきた細い強い指に、箱を抱えた腕ごと掴まれる。恐る恐る向けた視線の先、彼女もまた俯いたままだった。深く覆い被さった前髪で、目元が見えない。どんな表情しているのか、判らない。


 けれども。


「見せて」


 聞こえてきた、そんな囁き。


「あなたの作ったケーキなんて、初めてなんだから。よく見せて」


 ぐい、と強い力に引かれて中へと招き入れられる。玄関エントランスの横に設えられたソファへ半ば引きずるようにつれていかれて、リボンを解く。箱を、開く。


 真っ白い平らな円柱に、苺が6つ。ホイップしたクリームをふんわりくるりと飾り付けるのが、我が「MIYISHI」の定番だ。その中心に、徹夜で作った天使のシュガードールをちょこりと載せた。丸い手に持たせた、楕円のチョコプレートには悩んで悩んで書いたメッセージ。


『ゆっきー信じてる! 祈・新記録』


 負けるな、とか。頑張れ、とか。励ます言葉はいくらでもあるけれども、とても簡単には言えなかった。


 だけど、信じてる。


 君ならきっとまた跳べると、俺だけは信じている。罵倒や批判の声になんか無視して、またあのジャンプを見せてくれるんだって。それだけは、嘘偽りのない俺自身の気持ちだから……伝えたかった。俺なりの方法で。


 彼女は何も言わなかった。


 重く口を引き結び、その小さな天使をみつめていた。


「可愛い……でも、やっぱり食べられないな」


 ぽつりとした呟きに、俺は肩を落とす。そうだよな。箱ごとを突っ返されなかっただけ上出来か。


 そう思って、腰を浮かしかけたとき。


「それは、勝ったとき用のセレモニーだから。なので」


 覗き込んできた彼女のそれと、目が合った。


「半分手伝ってくれません?」


 眦の隅にほんのり涙が光っている。


 けれど、間違いなく口元にいつもの笑みを含ませてーーーそれがあんまり綺麗だったので。グラウンドで駆ける彼女とおんなじぐらい綺麗だったので、俺は自分がこのときなんて答えたのか、未だによく思い出せない。


 気が付いたときは、二人で六人前中三人前ぐらいを平らげていて。「午後の練習を始めるから」と寮の戸口へ導かれていた。


 外は、更に過酷な暑さ。相変わらず陽射しが厳しいし、坂はきつい。川は涼風を運ぶどころか、その照り返しで容赦なく人を灼き尽くす。


 だけど、俺の足取りは軽かった。


「午後の練習を始めるって、さ」


 どっしりと甘い当店自慢のクリームをくっつけた唇が、確かにそう言って笑っていた。あのグラウンドに戻ってくれるんだってさ……それだけで、いまのところはもう充分。


 色濃い影を踏み越えるように、俺は進む。歩く。ほんのちょっとだけ力をこめて、坂の最後をぽんと跳ぶ。体を投げ込むような感覚の先、その下に広がる真夏の青空が、彼女につながっているような気がして。


 ただ。


「やっぱり、いつもの方が美味しかったな。要修行!」


 という直球の感想だけは……まあ、ちょい胸に痛いけどもね。

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