第十五幕『救済という名の断罪』
尽きぬ殺意を剥き出しにして、溢れる憎悪を力に変えて、残った右手で絞めるのは、忌々しい男の首だ。
「ぐぁ……」
しかし、残り一本しか無い右腕も、長時間枷に繋がれていた手首はひどい有様で、力を入れるほどに新たな血が溢れる。
「死ね、死ね、死ね、死ねっ!」
それでも、のたくる激痛を激情で押し流して、俺は右腕に無理矢理に力を込めた。
そうして、呪詛のように言葉を重ねて、言葉の度に憎しみを重ねて、作り上げようとするのは物言わぬ屍だ。
「ご、ぁが……」
苦しげに呻くこの男が、もう二度と戯言をほざかぬよう。
夢も、願いも、思惑も、大切なものも、作り上げたものも、遺したものも、全て残らず壊し尽くす。
「アルバトァァトォォ――!!」
――それだけが、今俺の中で唯一の願望で、意思だった。
「殺す! 殺してやる! お前は、お前だけはッ!! 絶対にッ――!!」
潰れた喉から発せられる痛々しい咆哮。
それを最期まで言い切るその前に、
眼前の男が最期を迎えるその前に、
「――が、ふっ……!!」
気づけばそんな盲信的な悪意ごと、俺は壁際まで吹き飛んでいた。
状況を理解するより先に、背中かから打ち付けられた壁の衝撃に肺が絞られ、俺は床に転がる。
「ぐ、ぁ……」
抗いようの無い力の本流に体は空に投げ出され、その先の壁に体をしたたか打ち付けて俺は地を転がった。
それはわかる。だが何故だ。
なんで、俺の邪魔をする――。
「アンチェンタァッッ!!!」
疲労感の見える蒼白の面持ちで手をかざし、その人知を超えた力で俺を飛ばした彼女の名を、俺は怒号によって発した。
「よくも――邪魔をしてくれたなァ!! この薄汚い魔女がッッ!!」
「――は?」
だが、俺がその怒りを口にするそれより前に、さらなる叫びを上げるものがいた。
「計画の歯車をあの小娘によって狂わせただけでは飽き足らずッ! 僕の新たな願いまで邪魔をする気かァ!!」
それは、アンチェンタの魔法によって命を救われることになったはずの――アルバート・センレンスだった。
「は、ぁ……?」
邪魔? 彼女たちは、いったい何を言っているのだろう。
邪魔も何も、あのまま行けばあの忌々しい男の鼓動は間違いなく止められたはずで、
息の根を、止められたはずで――、
「――妖狐の、能力」
そうだった。あいつは、あの
そして、それはアルバート本人から聞かされたことだったはずだ。
「そうだよ、ギルくん。こいつは、わざと君をけしかけて自分を殺させるつもりだったんだ」
「で、でも、それじゃあ早く朽ちるって……!」
「対象の精神が正常ならね。そして、君の今の状態は正常とは言えないはずだ」
「――っ!」
ならば、今も尚渦巻くこの暗い感情は奴による感情操作か。
本当に、何度人の
本当に、どこまでもどこまでも――、
「アルバァァトォ――!!」
わかっていてもその力は抗い難く、俺の思考は再び殺意に染まる。
そこに段階的な積み重ねなどなく、どれだけこらえようとも吹き出してしまう。
「お、落ち着け! ギルくん!」
「――っ、」
そんな暗い感情に突き動かされ、ズタズタの身体を引きずるように突き進む俺をアンチェンタが受け止めた。
「今の君は危険だ。不安定で、彼の干渉を受けやすい。気持ちはわかるが……」
言葉の途中、アンチェンタは服の袖だけが垂れ下がる右肩に気づき、痛ましげに顔を歪めた。
「――今は、堪えてくれ」
「…………」
それでも彼女は目をそらさず、俺にはっきりとそう言った。
その気遣いと優しさが身にしみて、俺は少しだけ冷静になれた。
「堪えろ……? くははっ、相変わらず酷なことを言うなァ……キミは」
「知ったような口を聞くな」
「知っているさ。少なくとも、君よりはね」
あちらも幾らか落ち着いたのか、飄々とし態度を取り戻してアルバートは嗤う。
「今回はもうダメだ。僕は、どうも失敗をしたらしい」
「やけに、すんなりと受け入れるな」
そんな彼への嫌悪感を隠さず――いや、彼自身の影響によって隠せず、俺は吐き捨てるように言う。
「くははっ、当たり前じゃないか」
それに対するアルバートの反応は、やはり嫌に余裕を感じさせる。
だが、それは当たり前といえば当たり前なのだ。
なにせ――、
「だって、キミのお陰でもう後数回くらいはやり直しがきくからねぇ……」
「――あ?」
そう言って、化物は天を仰ぐ。クスクス、クツクツ、ケラケラと、ころころ笑い方を変えて、その喜びを小さく震える体で体現する。
「――そ、そうだ。リナは! あの子は今どこにいる!!」
そんな余りの狂態に目を奪われる俺の隣で、アンチェンタが叫んだ。
「ああそうか、君は知らないんだったね。まあ、それもそうか。なんせ僕が今まで閉じ込めていたんだからね。
あ、そうだ……どうやってあの結界を破ったのか、参考までに教えてくれないかな?」
「何処にいるッ……」
「あはは、君は彼女のこととなると本当に怖いね。それに君に嘘は通じないんだったか。ああ、やっぱり君はつまらない……」
「早く、しろッ!!」
「はあ……――君の隣の厨房だよ」
珍しく怒りをあらわにするアンチェンタに、アルバートがうすら寒い笑顔でそう答えた。
瞬間――、
そう言ったアルバートの笑顔が、文字通り一瞬で
「あ、え……?」
頭部を失った体から鮮やかな鮮血の噴水が迸り、先ほどまで彼が仰いでいた天井に赤い斑点を作る。
「ぐ、ぁぁああッ……!!」
対して、さらに苦しげに額を押さえ苦鳴を上げるのは隣に立っていたアンチェンタだ。
「なにが、起こって……?」
それに対し、俺は恐怖と驚愕に裏返った声で問いを発し、狼狽えることしかできない。
「ギルくん――!!」
そんな俺の名を、アンチェンタが呼んだ。
「この屋敷に火を放ったのは、アルバートだ! このままじゃ、呪いはアルバートだけにかかる! そうなれば、もうどうしようもなくなってしまうッ!!」
理屈はわかる。わかってしまう。
確かに、今この場でそれを――リナさんを殺してもう一度惨劇をやり直すことをできるのは、俺しかいない。
アルバートを自らに憑かせて足止めをしているアンチェンタにも、今は亡き館の住人にも、当然アルバートにも、その役目は負わせられない。
「君にしかッ、できないんだ!」
――だけど、なんで俺なんだ。
アルバートはああ言ったが、俺は特別なモノなんて1つも持っちゃいない。
ただ、人より少しだけ自分を騙すのが得意だっただけだ。
ただ、人より少しだけ自分を扱うのが得意だっただけだ。
アンチェンタのような魔法も、マルコスのような剣術も、ガルディのような腕力も、クローズさんのような知識も、バレレンのような薬学も、リナさんのような意志も、シャルルのような強さも――、
「俺は、なにも持ってなんかいないんだよッ!!」
ちっぽけで無力で無価値で、そのくせ叩く口は一丁前で、それなのにできることは何にもなくて、
感情すらも作り物で、本当の自分は空っぽで歪な失敗作で、
「それなのに、なんで俺なんだよッ――!!!」
なぜ、俺なんかが生き残った。なぜ、俺なんかが招かれてしまった。
もっと、有能な人物が選ばれていたなら、
もっと、有力な人物が選ばれていたなら、
せめて、俺なんかが選ばれていなければ――、
「確かにそうかもしれない……! でも、今そこにいるのは君なんだッ!!」
「――っ、」
「自分勝手なことを言っているのはわかっている! なんの関係もない君に何もかもを背負わせて、そんな記憶を背負わせて――」
「だったら!!」
だったら、もう勘弁してくれ。
このままもう一度戻って、もし上手くいったとしても、俺はきっと壊れてしまう。
この膨大な惨劇の記憶と、ここ数日間の間に崩された心の均衡は、そのまま残ってしまう。
また、
「だったらッ! だったら俺はッ!」
「それでも――!!」
嫌々と首を振って必死に叫ぶ俺に、アンチェンタも喉を枯らして叫び、語りかける。
彼女も、きっと必死なのだ。彼女が縋ることができる一縷の希望は、きっと俺なのだ。
「助けて、くれないか……?」
大粒の涙を零し、罪悪感と悔恨に溺れながら、そう一言アンチェンタは嗚咽とともに絞り出した。
「――ぅぅううッッ!!!」
やめろやめろやめろやめろ――!!
「もう許してくれよ!! 次……次に思い出すのは、もっと多くて鮮明な記憶なんだろう!? あいつが、アルバートが持っていた記憶すらも、俺に入るんだろう!?」
そんなの、冗談じゃない。冗談じゃない。冗談にもなってない。そんな冗談は笑えない。冗談だと言ってくれ。
「それにもう限界なんだよっ! 俺は、もう保っていられない!! 今はお前が支えてくれてるから大丈夫なだけで、記憶を保有しているだけのお前にはそれを継続することはできないんだろ!?」
俺は、俺は、俺は――、
「死にたくない! 消えたくない! 嫌われたくない! 気持ち悪いって、気味が悪いって、捨てられるのは、置いていかれるのは嫌なんだよ……ッ!!」
一度吐き出した感情は、とめどなく溢れる。
約18年間、繰り返しの期間も合わせればそれ以上の間、ずっとずっと押し殺し続けてきた感情は、堰を切って吹き出した。
「ギル、くん……私は――」
涙ぐむアンチェンタ。そこから続く言葉を聞きたくないと、俺は耳を塞ぐ。
だが、視界から、口の動きから、俺はそれがわかってしまう。
――だから、目を閉じようとした。
音のない世界で、色すらも消し去ろうとした。
「――――え?」
だが、それはついぞ叶わなかった。
目の前で繰り広げられた真っ赤な衝撃が、それを許さなかった。
「ぁ、ぅ……」
振り下ろされた大きな『何か』によって吹き出したそれは、この数時間でなんども目にした、ここ最近で何度も目にした、その鮮やかで生々しい紅。
「ひっ」
引き上げられた『何か』にへばりつく肉片と骨片に、全身の毛が粟立つ。
本能的に、感情的に、俺は逃走を図った。
震える膝で後ろへ走り、ドアを蹴破るように開いて中に転がり込む。
燃え盛る屋敷には逃げ場はなく、唯一後ろに火の手が及んでいない場所があったから、そこに入った。
それなのに、それだけなのに――、
「――なんで、こんな……」
そこは、アルバートの言っていた厨房ではなく、いつか見たアルバートの寝室だ。
薄暗く、じっとりとした空気の漂うそこには、様々なものが置かれていた。
不思議な色の石や、水晶玉。コードの無い黒電話に、小ぶりのナイフ。何か液体の入った小瓶に、たくさんの薬品。
ごちゃごちゃと、規則性のかけらもなく乱雑に置かれたそれら。
「――リナさん……」
その奥に位置する寝台で、黒髪の少女は眠っていた。
安らかで穏やかで、それでいてどこか儚い。そんな寝顔だった。
「…………」
見れば、ベッドは既に赤く染まっている。
恐らく、『不死の加護』について知っていたアルバートが、その効力をなくすため一度殺しておいたのだろう。
――下準備は、できているということか。
「君との約束を……俺は守れそうに無い……」
そんな寝台に背中を預けて、俺はずるずると床に座り込む。
「アンチェンタの頼みも、シャルルの信頼も……すべて裏切った……」
そのまま項垂れて、ただじっとそうしていれば、外で暴れる『何か』か燃え盛る業火が全てを終わらせてくれる。
この命を、終わらせてくれる。
「――なのに、なんで……」
それなのに、俺は手近にあったナイフを片手に寝台の隣に立っていた。
きっとこの行為には、救いたいだとか、助けたいだとか、そんな殊勝な理由は微塵もない。
そんな感情は、作り物だと言われてしまった。
だから、これはただの
「はぁ、はぁ、はぁ……っ」
早鐘のような鼓動に呼応して、息は自然と荒くなる。
「くっ、ぁは……っ、はぁ、はあっ!」
不規則に、不明瞭に、鼓動と視界が波打つようにぶれていく。
わずかに残った心の支えすらも、音を立てて崩れていく。
手は震え、歯の根は鳴り、目は泳ぎ、脂汗が浮かぶ。
手に持ったナイフが、カタカタと揺れる。
「はあっ、はあっ、はあっ――!!」
眠る少女に跨り、定まらない焦点に狙いを定め、俺は目を閉じる。
目の前で起こる、自分によって引き起こされる、酷く残酷な光景から目を逸らす。
――少女の死から、目を逸らす。
「うぁあぁぁぁああッッ!!!」
そのまま、悲鳴のような叫びをあげて、俺は少女の心臓に手に持った凶器を振り下ろした。
ドスリと、肉を断つ振動と感触。
吹き出す赤に、頰が染まった。
「か、ぁ……っ!」
すると、その激痛によって少女が目を覚ました。
その事実に驚いて、俺は思わず目を開いてしまう。
「あ、ぁあっ――!」
そうして映り込むのは、狙いを損ねて肺のあたりを貫いた真っ赤なナイフと、驚愕のままに固まるリナさんだ。
「……ギル、さ……な、で……っ?」
彼女は、自分の胸に突き刺さった暗く光る刃物とそれを成した張本人である俺とを何度も見比べて、血泡混じりにそう問うた。
震える手で俺の手を掴んで、震える瞳で俺を見上げて、涙混じりにそう問うた。
「う、ぁあ……ち、ちがっ――」
いいや、何も違わない。
俺は、確かに彼女を殺そうとしているのだから。
何も知らない。何も悪く無い。だだの少女を殺そうとしているのだから。
「う、あぁっ」
アルバートに向けた行為と根底の部分は同じはずなのに、その感触のなんたる惨酷なことか。
「――ぁあぁぁあぁぁあぁあああッッ!!」
だから、俺は声を上げた。
悲鳴と苦鳴で激情を押し流して、助けを求めて掴むその手を振り切って、俺は何度もナイフを振り下ろした。
何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も――、
目前の少女の息が途絶えるまで、
瞼の向こうの少女の息が途絶えても、
「――あ、は、はは、」
その内に、自分の意思とは関係なく口の端から笑みが溢れた。
「ははは、ははははは、ははははは、はははははははははは」
その内に、支えを失った器から濁った感情が勢いよく溢れた。
「ははは、ははははは、ははははは、ははははははははははははは、ははははは、ははははは」
次第に声量を増していく笑い声は、まるで別の誰かのものみたいで、
俺はそれが堪らなく嫌だった。
「ははは、ははははは、ははははははははははははは、ははは、ははははは、ははははは」
不規則に鳴り響く不協和音の笑声は、次第に音の形すらも失っていく。
再び世界は捻じれ歪み、均衡を――形を失っていく。
俺の意識だけを取り残して、世界だけが戻っていく。
壊れた心と枯れた涙を取り残して、俺は世界から消えていく。
消えて、消えて、消えて――、
「は、はは、はははは」
消えて、消えて、消えて――、
「は――」
――消えていくその途中で、俺は潰れた。
崩壊した天井から降り注ぐ瓦礫と、その向こうの『何か』に押し潰されて、
自分が潰れる感覚を、瓦礫と潰れた体が混ざる感覚を嫌という程味わって、
それはもう呆気なく――俺は死んだ。
それは文句のつけようの無い、どころか思わず笑ってしまうほどの、
――最悪の
ナイトウォーカー-人狼の館- ニノマエ ハジメ @nenomae
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