第十二幕『作り物の狂気』

  体は鉛のように重たい。視界も、熱によって眼球が乾いてしまったのかぼんやりとしている。全身の打撲と裂傷に溜まった熱に浮かされ、意識が朦朧とする。


 だがそれでも、致命的な怪我はない。


 とは言え先ほど受けた毒の影響で急速に体が動かなくなってきている。もう動けてあと数秒だろう。


 ならばその数秒に全て賭けよう。


 ならばその数秒に命を賭けよう。


 俺が今から切る切り札は普通ならば絶対に使ってはいけないものだろう。いや、普通ではない時にも絶対に使ってはいけない。


 思いついた時、自分に対して嫌悪感を抱いたほどだ。本当に最低な考えで、悪辣な策だ。


 見知らぬ黒幕なんかよりずっと狂っているんじゃないかと思った。

 そして、それをしてしまえば俺はきっと自分が一生許せなくなるだろう。


 しかし、俺は全てを賭けると誓ったのだ。こいつを――みんなを救うために全てを賭けると。


「歯ぁ食い縛れよッ! バレレンッッ!!」


 罪悪感すら置き去りにして、俺は前に足を踏み込む。

 右手に握りしめたそれをもう一度握りしめ歯をくいしばると、俺は鉈を振りかぶるバレレンに対してふらつく体を叱咤し拳を振るう。


 ドーピングによって動体視力までも底上げされたその目には、さぞかし俺が鈍く見えている事だろう。


 しかし、今それは好都合だ。


 ぐらつく決意を無理矢理に支えて、良心押し殺し黙らせて、俺はバレレンの目の前に右手に握りしめていた“ペンダント”を投げる。


 目の前に放るように。


「――え?」


  そのペンダントを目にした瞬間バレレンの動きが止まる。


 それは、細工も施されていなければ仕掛けなどもないただのペンダントだ。普通ならば、こんな凄惨な状況には全く意味をなさないものだろう。


 俺たち以外には――、


 そのペンダントは、人狼に襲われたあの暗い森で俺の支えとなった物であり、俺が初めてクレアから貰った彼女の物だ。それはつまり、彼女が元から身につけていたもののはずだ。


 それは、バレレンへのクレアの生存の証拠だ。しかし、それを見せて説得を試みたところできっと今のバレレンでは一瞬動揺するだろうが、偽物だと決めつけ取り合わない。


 だが、それは同時に気を惹くには十分だという事だ。


 世界が一気にスローになる。停滞しそうなほどゆっくりと進む時間の中、俺はバレレンを見る。

全身の感覚が研ぎ澄まされ、どこからか力が湧き上がる。

 極限まで酷使した肉体と精神が一時的に限界を超えたのだ。


 この作戦はかなり危ない綱渡りだった。条件が一つでも欠けてしまば失敗に終わる。


 だが、それは全て揃っている。


 だから――、


「当たれぇッ!!」


 もう、いいだろ――。


 振るわれる鉈をすり抜け、突き出した拳がバレレンの顎に吸い込まれる。拳の痛みと共に鈍い音が厨房に響く。

 顎から響いた振動に脳が揺れ、脳震盪を起こした少年が、目の前で糸の切れた人形のように崩れ落ちる。


 眠るように目を瞑る少年を見下ろしてやっと張り詰めていたものが解ける。


 同時に、意識が急速に遠ざかっていく。


「ああ……、だめ、だ……まだ……俺には……やることが――」


 俺の意識は暗転する。



******************



 暗い――、暗い――、


 目の前に広がる闇は俺の全身をその周りの空間ごと包み込んでいる。その闇には視覚も聴覚も嗅覚も反応しない。ただただ闇だけが認識できる。


 怖い――、


「いやだ……いやだ……! 誰かっ…! だれか……!!」


 怖い怖い怖い――、


 枯れ果てた喉から掠れた悲鳴をあげる。だが、漆黒に染まる空間は俺への返答をしない。

 その悲鳴すら飲み込み無に帰す。


「ひか、り……?」


 ふと、色のない世界に光が浮かび上がったのは、様々な色の光だ。

  その光は停滞していた俺の脳を、鼓動を、肺を、動き出させる。視界が広がり、音が蘇り、匂いが生まれる。世界が徐々に色を帯びていく。安堵や幸せといった感情が、溢れてくる。


 しかし、新しくできたその空間を、さらなる闇が覆うように迫る。俺はそれを阻止するべく、守るべく、その足りない手を伸ばす。


 全ての光へ。手を伸ばして行く――。


 守るために伸ばした指先が、金色に輝く光に触れた瞬間破裂し、弾けた光から吹き出す赤に目の前が一瞬で染まる。


「…………ぁ……」


 伸ばした俺の手や顔や体は生臭い鮮血と臓物でべっとりと染まっていた。


 世界は、再び闇に飲まれる。


******************



「うわああぁぁぁあぁあああああッッ!!」


 恐ろしく生々しい悪夢。それから目を覚まし眼を開けば、そこにはいつも通りの世界が広がっていた。


「はぁ、はぁ……はぁ……朝、か? にしても……」


 嫌な夢を見たものだ。と言ってもほとんど覚えていないけれど。


「――あ」


 横を見れば目を見開くシャルルが見える。どうやらまた驚かせてしまったようだった。


 と言うか、こいつは俺が起きる時には必ずいるな。


 看病のため、医学知識がこの中では高い彼女が怪我人である俺に付き添うなど、当たり前のことだ。 そんなことはよくわかっているのに、歯痒くて、気恥ずかしくて、嬉しくて、口もとが緩む。

 誰かがそばに居てくれるというのは、悪く無いものだ。


 だが、そんな思いとは裏腹に、最初は俺を心配しいたわる様な目を向けていたシャルルだったが、起きてすぐ叫んだかと思うと笑顔になったり険しい表情になったりする俺を見て、その目はかわいそうな者を見る目に変わる。


「ギルさん……大丈夫ですか? 薬の影響で記憶に影響とか――」


「え? あ、いや、大丈夫だ! 別になんともない」


「ああ、じゃあやっぱり普段からそうなんですね。それは……大変ですね」


「――おい」


 相変わらずな少女を半目で睨みつけていると、シャルルは『冗談です』と笑った。

 未だに壁を感じるが、それなりに話せるようになってきた気がする。


「はあ……くそ、ありがとう。おかげですっかり目が覚めたよ」


「お役に立てましたか?」


「いいや、腹が立った」


「それは良かったです。みなさん心配していたんですよ」


「お前なぁ――ん? 皆って……?」


「はい、私が薬を調合して解毒剤を作って助けてあげた皆さんです」


 腰に手を当て、薄い胸を張って随分と恩着せがましい言い回しをするシャルルに苦笑しながら、俺は考えをまとめる。


 しかし、なるほど、彼らの容体を回復させたのはシャルルか。確かに彼女は何故かかなり薬草や医学に精通している。原因さえ分かれば治す事が出来たわけだ。


「って、お前本当に花屋かよ……」


「はい、正真正銘の花屋ですよ。それ以外は何もできません」


「嘘つけ」


 しかし、なるほど。俺はまたシャルルに命を救われたらしい。


「――そ、そうだ!クローズさんやリナさん、バ、バレレンはッ!?」


「大丈夫……とは言えませんが幸い死人は出ていません。バレレンさんも私たちの説得で落ち着いています。薬の効果を打ち消す精神安定剤も飲んでくれましたし――」


「じゃ、じゃあ、クローズさんは!?」


「クローズさんは……まだ、意識が戻っていないんです」


 喚くような俺の声に応えたのは部屋の隅の椅子に座るリナさんだ。

 俺はゆっくりと首を動かし彼女を見る。


「私の、所為です……本当に……本当なごめんなさい……」


 リナさんは眉を寄せ唇を噛みながら謝罪を口にする。声は震えていたが、なんとか聞き取れた。


「いや……それは違うよ。君の所為じゃない。それに、君は俺が頼んだ助けを呼んできてくれたじゃないか」


 恐らくバレレンの目的が彼女だった上に、拒絶してしまったせいでああなった事を言っているのだろう。だが、それは違う。


「……それに、今回は俺が甘かった。最初から“あれ”を使っていれば良かったんだ」


  “あれ”とはクレアのペンダントの事だ。しかし、それでも使いたくはなかったのも本音だ。

いくら打開策になろうとも人の愛情を道具として扱ってしまった俺は自分を許せないだろう。


 それに一歩間違えれば全員死んでいたかもしれない。あんなものはただ運が良かっただけだ。


「ギルさん? どうしたんですか?」


 俯き黙り込んだ俺の顔を覗き込みシャルルが声をかける。その表情には怪訝さや困惑――そして僅かに心配の色も浮かんでいた。


「いや、ちょっと考え事をな」


  それに対して俺は無理やりに頰を吊り上げて、不自然にならないような笑顔でそう言った。


「考え事……?」


「ああ、考え事だ。それで今まさにまとまったとこだ」


 痛ましげにこちらを見つめる碧眼を振り切っつ、俺はそう呟くのと同時にベッドのバネを利用して勢いよく立ち上がる。


「ど、何処に行くんですか?」


 その子供っぽい行動に顔をしかめるシャルルに変わって、リナさんが困惑を口にする。


「ちょっとバレレンのとこに……話をつけに行ってくる。」


 なるべく力強く言い切って、何かを聞かれる前に俺はドアを開け放ち、部屋から廊下に出る。

 だが、そのまま歩き出すのではなく一旦開いたドアの裏へ回り、後手にドアの部を持って押す。


 そうして、ドアが閉まりきったのを確認すると、俺は震える手でドアに持たれながら、ずるずると座り込んだ。


「――あっぶねぇ……以外と毒抜けんの遅いんだな……」


 カクカクと笑う膝をさすりながら、俺は小さく呟く。

 治療が済んだと聞いてすっかり油断していた。折角恰好をつけて立ち上がったというのに、危うく倒れて無様を晒すところだった。


 全く万全には程遠い。むしろ、ここ最近で一番悪いではないか。


 だが、バレレンの説得という難関が、俺にはまだ残っている。


「だけどまあ、無い体力振り絞って見栄はって格好つけるよりは……」


 きっとまだ、簡単なはずだ。



********************



  部屋は風通しが良く涼しいのに、体にはじっとりと汗が滲んでいる。

 バレレンの部屋で、ベットに腰掛ける彼との間に沈黙が続いてから30分ぐらいは経ってしまったんじゃないだろうか。時計がないため定かではないが、俺にはその時間は永遠にも感じられた。


 ここまで時間をかけてしまうといろいろと始め辛い。

 沈黙による圧迫感に胃がキリキリ痛み脂汗がじんわりと滲む。

 だが、一度決めた事だ。曲げるものか。


「バレレン……ペンダントのことなんだが――」


「ギルさん」


 何はともあれまずは謝罪だ。それから原因の解明と協力の依頼だ。

 そう頭の中で順番立てし、まだ考えがまとまらない頭でなんとか言葉を紡ごうと口を動かした俺を、掠れた声が遮った。


「僕は……いったい何人殺しましたか……?」


「――は?」


 一体どれほど難航するのだろうと身構えていたせいもあったが、それを差し引いたとしても拍子抜けするほどの弱々しいその様子に、思わず声が漏れた。それに、いくらなんでもその質問はおかしい。


「い、いや、誰も死んでないけど……なんでお前がそれを聞くんだよ……?」


「そ、それは……」


「お前、まさか記憶がないのか?」


 罪を軽くするための演技というのも考えられる。あれだけの狂態を晒した少年だ。いくらでもそんな考えは浮かんでくる。


 しかし、何故か嘘じゃないと――俺は何処かで確信を持っているのだ。勘なんて当てにならないのはわかっている。でも、それでもそれを捻じ曲げてでもそう思ってしまうほどの、確信的な予感。


 ならば今はそれでいい。それよりも今は原因だ。


「どうして、あんなことになったんだよ?」


「……薬を、飲んだんです。あいつから渡された薬を――僕は飲んでしまったんです」


「――薬?」


「……はい。それを飲めば苦しみから解放される。終わらない苦痛に背を向けられる。そんな甘い……いかにもな誘い文句なんかに乗っかって僕は、取り返しのつかないことをした」


 そう言って腰までかかっていた布団を握りしめ、歯を食い縛るバレレン。

 確かに安い言葉だ。そんなもの『この話には裏があります』と言っているようなもの。

 それに手を伸ばしてしまうなんて――、


「…………」


 だが、誰に彼を責められるのだろうか。

 暮らしていた村の人々全員に憎悪と殺意を向けられ、唯一の味方だった妹を失い、両親にまで見捨てられる。

 それもまだ手が届く世界の狭い幼い頃にだ。


 そんな、想像を絶する体験をしてしまった彼に、まともな判断が出来たとは思えない。


「僕を――殺してください」


 そんな悲しい過去を持つ少年は、俯いたまま掠れる声で呟いた。


「い、いや、待てよ! なんの薬かは知らないけどお前がああなったなはそれのせいなんだろ!? だったらもう飲まなきゃいいだけじゃねえか!」


「確かに……あれは精神を不安定にする薬です。でも、元から無い憎悪や殺意を生み出すものじゃ無い。あれは、あの時あなたが見たのは、まぎれも無い僕の本性です。だなら……また、いつ同じことをするかわからない。そうなる前に僕をッ……!!」


「殺してくれ――ってか……? 俺に、人殺しになれって……そう言うのかよ?」


「……あ」


 自分の口走った言葉の意味をやっと理解したのか、バレレンは目を見開いて固まる。

 そのまま口の開閉を繰り返すバレレンに尚も、俺は言葉を浴びせる。


「俺が、一体なんのためにこんなんなったと思ってんだよ?」


 自分の、ひどく不恰好な――包帯とガーゼまみれの体を指差し、おどける様に肩をすくめる。


「それは……みんなを守る為に……」


「だから、俺的にはその“みんな”の中にお前も入ってるって言ってるんだよ」


「な、なんで……?」


 ――なんでか?

「それは――、」


 そんな事わかってる。嫌という程、分かりきっている。


「友達、だからだ」


 自分で言って、アホらしくなってくるような理由だった。しかし、それが本音なんだから仕方ない。


「は、あ……?」


「それに、お前はもうあんなことしないだろ?」


「なんで……? なんでそんなことがわかるんですか? 僕は弱い……! その所為であんなやつの言葉に耳を貸し、いい様に操られて皆を危険に晒してしまった! 貴方の事も、殺そうとしたんですよ!?」


「そう、だな。正直……俺はどこかで――完璧には信用できてないのかもしれない。そうなるには、俺とお前じゃ過ごした時間が短すぎる」


「だったら……!」


「でも、そんなの――お互いの事をよく知らないなんて、普通の友人関係なんじゃないのか?」


「そんなの……限度がありますよ……!」


「やっぱ、そうなのかな……?偉そうなこと言ってたけど、俺も正直よくわからないんだ」


 暗い森に引きこもって、1人黙々と木を切って薬を買うための金を稼ぐ。会うのは妹が森の動物くらい。俺の対人経験なんて、そんな足りなさすぎる情けないものだ。

 この口からは、含蓄ある言葉も、かっこいい台詞も、何も出て来やしない。出るのは、せいぜい自分勝手な本音くらいだ。


「……でも、そんな俺でも、お前が良いやつだってことは、わかる」


「な、何を訳の分からないことを!!」


「じゃあなんで、お前は料理に致死性の無い毒を盛ったんだ?」


「――え?」


「……そうか、覚えてないのか。でも、そうなんだ。お前はわざわざ毒殺じゃなく、襲撃を選んだ。それも一番殺傷力の高い鉈最後まで出し渋ってな」


「そんな事が……」


「何処かで、止めて欲しかったんじゃ無いかって……そう俺は思いたいんだ。――いいや、ちがうな。俺はそう、信じたいんだ」


 きっと、俺は今、馬鹿なことを言っている。マルコスあたりに聞かれれば、徹底的にこき下ろされるような世迷言。でも、それでもそれしか浮かばない。俺の対人経験なんて、そんなものだ。


「それに……もうお前には家族がいるってわかったんだろ?お前の妹は生きてるって――シャルルからそう聞いたろう?だったら、もうあんなことになる訳ない」


「クレア……」


「そうだ、クレアだよ。……あいつは少し――俺にはできた妹過ぎるからな。手に余るんだよ」


「そんな! あ、合わせて、くれるんですか……!?」


「そ、そりゃ当たり前だろ。兄妹なんだし。逆になんでダメなんだよ……?」


「――あ。」


 何を言っているんだと、肩をすくめて聞き返した俺の言葉に、バレレンが固まった。

 そしてすぐに、深緑の瞳が大きく揺れ、嗚咽とともに涙が零れ出す。


「ああ……っ、よかった……よかった……! 僕は……僕は……!」


 ぐしゃぐしゃの顔で涙を流し、心の底から喜びを噛み締める少年。その震える背中を、俺は黙って見ていた。


 すると、バレレンは突然絞り出すように言った。


「ありがとう、ございます……!」


「な……っ、は!? い、いやいや! 俺は感謝されるようなことは何もしてないぞ?」


「ありがとうございます……!」


「いや、だから……だな……」


 重ねて。ただただ感謝を口にするバレレンにたじろぎ、口ごもる。でもその嬉しそうな反応は心地よくて、悪い気はしなかった。


 だが、まだ終わりじゃ無い。なにせ何も解決していないのだから。

 そう再び決意を固めると、俺は自分の言っている歯の浮くような台詞と、それにまんまとほだされたバレレンに苦笑しつつ、説得を続ける。


「なら、もし俺に感謝を感じているなら……俺を信じてくれ。お前の言う“あいつ”に背を向けて、俺達を取ってくれ」


 何かを言いかけて口を開きそれを止めて黙り込みまた口を開く。

 そんな事を繰り返しているバレレンに俺は、自分勝手をそのまま口にする。


「お前の力が借りたい。実は今は……切羽詰まってて猫の手でも借りたい気分なんだよ」


「――僕は、猫の手ですか……」


「おいおい。ここに来て今更文句とか言うなよな?」


 弱々しくもあるが、あの一件から初めて浮かんだ少年の笑顔に、こちらも微笑みを返して手を伸ばす。


「――分かりました。僕は貴方の手を取ります。それに、僕が傷つけてしまった人達に……せめて償いをさせてください。その後で、然るべき罰を受けます」


 そう言って少年は俺の手を取りベッドから降りて立ち上がり、頭を深々と下げてそう言った。


「おい、お前が傷つけた人に俺も入ってるんだぞ?」


「ギルさんは、いい人なので大丈夫ですかね?」


「それはいい人じゃなくて都合がいい人だろ……?」


  少し元気を取り戻してきたバレレンの軽口に、苦笑いで応じると『冗談ですよ。』と彼は笑った。


「あなたは僕の恩人です。本当に……一生かけても尽くし切れない、借りができました。だからこの借りを返す事を、そしてもう一度クレアに会う事を、僕は生きがいにして生きていきます」


 前半の、あまりに見に余るその言葉と姿勢には納得しかねるが、今まで糧としてきた憎悪よりは幾らかマシだろう。

 それに『一生掛かっても尽くし切れない生きがい』というのは、彼が生きていく事を決意した証だ。それは、何よりも喜ばしい事のはずだろう。


「――ところで、僕が傷付けた人っていうのは心をというだけじゃありませんよね……? もちろん心を傷つけたという事実も許される事ではありませんが……」


「ああ、そうだ。クローズさん――て言えばわかるか?あの人が重症でまだ、意識も戻ってないんだ。お前の鉈の毒でな」


「あ、あの人が……!? そんな……ありえない。あの人が僕なんかに……い、いや、でもそんな筈は――」


 その名に想像以上のショックを受けたらしいバレレンは何かを口走る。この反応や先の一件での言動。やはり彼は何かを知っているのか?


「なあ、バレレン……お前は一体なにを――」


「ギルさん。今いいですか?」


「う、うわぁああ!? な、なんだ!? い、今?あ、ああ、全然大丈夫だぞ!?」


 怪しい密会を遮ってドアの向こうから聞こえた声に、俺は無意味に飛び上がる。

 しまった。虚を突かれたせいか後ろめたい気持ちに襲われ、誤魔化してしまった。


「すいません、お邪魔してしまって。クローズさんの解毒に必要な薬草を取りに行くための経路が決まりました。」


「あ、ああ。悪い。俺が伝えてくれって言ってたんだったな。ありがとう。」


「どういたしまして。あとで何か労ってくださいね?では、私はマルコスさんに説得をしてみます。」


「う……っ、何から何まで本当に悪いな。絶対この借りは返すから。」


「当然、10倍返しですよ?」


「ははは……」


 シャルルが出ていくと、乾いた笑いと共に立ち上がり、振り返ってバレレンを見る。困惑顔の少年に俺はなるべく柔和な笑顔を向ける。


「だから、お前も行くんだよ。

早くに荷支度でもしてこいよ」


「え……で、でも大丈夫――なんですか?」


「ああ、みんな了承してくれたよ。それに、原因が薬と洗脳まがいの事でそれが解けたなら、それこそもう心配もないだろ」



 そう言って――俺はドアノブに手をかけた。


****************


 小走りに皆が待つ庭園へ向かう。

 だが、そこには出発時間より少し前にも関わらず何人かのメンバーいなかった。自分も今来たところであまり人の事は言えないが、時間を指定しておいた筈だ。


「あいつら……」


 細かく言えば黒肌の巨漢と長髪の女性とキザな剣士様がいない。

ガルディの奴は馬車を運転できる唯一の人材だし、マルコスはこの屋敷に残る予定のシャルルとクローズさんの護衛を頼まなくてはいけない。アンチェンタさんは……特に用というわけでは無いが。


 まあ、最後のは大方来ないだろうと予想していたのでさして驚きでもない。

 だが、俺のすぐ後に出て行ったはずのバレレンの奴がいないのはおかしい。


「あいつ、まだ――」


 気にしているのか、と言いかけ口をつぐむ。そうだ。あれはバレレンが一生背負わなくてはいけない十字架だ。途中で下ろすことなんて許されない。


「でも……少し支えてあげるくらいはいいだろ」


「やっぱり優しいですね……」


 ポツリと、俺の独り言をきいた黒髪の少女が隣で小さく呟く。だが、その声はこの時の俺には届かなかった。


「ちょっと探してくる! 待っててくれ!!」


 走り出しながら叫ぶ俺に手を挙げて応える一同。それにもう一度手を振って、俺は走り出した。

節々が淡く痛む全身に鞭を打って、硬いレンガを踏み鳴らす。



 そうして捜索を開始して――20分が経過した。


「はぁ……っ、はあ……っ」


 息を切らして花壇の近くのベンチに寄りかかる。これだけ走り回って見つからないとは少し変だ。


 嫌な予感が頭を過る。


 嫌な汗が額に浮かぶ。


 まるで急かすような言い知れぬ脅迫感に駆られて、俺はもう一息と駆け出そうとする。

 その時、視界の端に少年の後ろ姿をとらえた。膝ほどの高さのレンガ製の花壇に寄りかかり小さく蹲っている。

 

「いた……」


 安堵の気持ちから声を漏らす。


 対する少年は眠っているのかまったくこちらに気づかない。これだけ探させておいて、自分は居眠りとはいい度胸だ。


 大方考え込んでいるうちに眠ってしまったのだろう。いい天気だし心地よい風が吹いている。涼しげな風に暖かな陽気、気を抜けば俺も寝てしまいそうだ。


 しかし、仕方のないやつだ。

少し驚かしてやろうと悪戯心が働き、花壇を膝くらいの高さまで持ち上げているレンガの陰に隠れ、手探りに探り当てた彼の腕を乱暴に掴んで引き起こす。


「うわ……っ!?」


 すると引いた腕は拍子抜けするほど軽く、後ろ手に引っ張っていた俺は勢い余ってつんのめる。


 薬の影響? ――いや、違う。そうだとしても軽すぎる。


 だが、そんな疑問も、対象を一目見れば解決した。なんのことは無い。当たり前のことだった。体重が消失しただとか、肉体が薬の影響でスカスカになっていただとか、そんな奇天烈なものなんかじゃ無い。単純明快で、いかにも現実的な事実だ。


 だってそれは腕だけだったのだから。


 だだ――俺の手には冷たく白く血の気のなくなった掌から肘までの腕が、ぶらりと握られていのだから。










「――は?」

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