第十四幕『悲しみの意味』
眼下に広がる光景は何と言うか――有り体に行ってしまえばタチの悪い悪夢のようだった。それも、最大級に最悪な悪夢だ。
「いや、夢ならまだマシか……」
今、俺がいるここは鬱蒼とした山の中だ。一応太陽は昇っているが、木の葉に遮られた光は木洩れ日程度しか届かない。あの森を思わせる、君の悪い薄暗さ。
対して地面はあの森とは違い、硬い土の上に長々とした雑草が生い茂っており、その上ところどころに鋭利な岩が露出している。叩きつけられでもしたら一発で戦闘不能になるだろう。飛び乗った頑丈そうな木だけが、今の俺の命綱だった。
「それに加えて雑草は蛇の体を隠すわ、こっちの足は取られるわ……完全に地の利はあっちにあるな」
更に俺の体は万全ではなく、武器もない。かと言って相手が弱っているわけでもなく、逆に元気と食欲は有り余っていると言っていいだろう。その相手が自分の10倍ほどデカいとくれば勝機なんてあるわけがない。
あれに挑むなんて正気じゃない。みすみす命を捨てに行くようなものだ。
でも、それでも――、
「バレレン……」
俺は、あの一件以来あえて口に出さないようにしていた、1人の少年の名を口にする。大切な友の名を口にする。
考えないように、思い出さないように――そんなものできるわけがない。物理的にも、感情的にも。
だから、俺は辛くないように振る舞う事を選んだ。そうすれば皆に要らない心配もかけずに済むし、彼を忘れないでいられる。そう思ったのだ。
だが、自分の利己的な願望のため選んだ選択は、皮肉にも俺を一番苦しめるものだった。考えれば考えるほど、思い出せば思い出すほど、己の傲慢と怠惰に怒りと後悔が湧き上がる。止めどなく溢れる。
しかし、俺はそれを止めたりはしない。
「いや……『やめられない』か」
これは戒めだ。誰かを失う度に、そうすると決めた。
だから、だからこそ、そうならないためにも、あんな犠牲を生まないためにも――次そこは守り切る。
「もう、誰も死なせたりなんて……しない」
優秀な武器がない――なら作ればいい。周りにある物を利用すればいい。
体が動かない――なら頭を動かせばいい。知恵を働かせればいい。
勝機がない――なら作ればいい。勝っている部分を最大限に使えばいい。
利用できるものは何でも使う。
「まずは、有利な点だ」
見ていてわかったのだが、大蛇は片目が潰れているのだ。それによってあいつは俺の位置を把握できていない。これならば、不意打ちが可能だ。
そして、二つ目は木が近くにあるので武器が作れることだ。およそ武器にはならない小ぶりな収納型ナイフは、それによって木の枝の先端を尖らせて武器を作ることも、そのものを先端に括り付けて武器にすることもできる。
それに、極め付けはこの高低差だ。これならば、落下の勢いを攻撃力に換算できる。
「いける、かもしれない……」
呟くと、俺は近くに実っていたりんごサイズの、赤黒く熟れた柔らかい木の実を千切り取る。熟れきったそれは、半分崩れかかっていた。
だが、今はそれが丁度いい。
俺は、赤色の木の実を大蛇の顔に向けて投げつける。一直線に飛来した果物は、大蛇の頭部を逸れ、近くの岩に当たって弾けた。
「――ッ!!」
すると、その弾けた破片は残った左目の視界を覆うようにへばりつく。
「よし……っ!」
視界が真っ赤に染まった大蛇は、一瞬体が硬直した。ただ、視界が閉ざされたことによりもっと混乱して暴れ回るかと思ったが、そうはしない。大蛇はただ、じっと成り行きを見守るように、ずるりずるりとその周りでとぐろを巻き、小さくなる。
その上、こちらではないにしろ、投擲のあった上空を見据える知性と冷静さに、俺はまるですべて見透かされているような感覚を覚えた。
歴戦の猛者のような風格を持ったあの大蛇にとっては、視界が閉ざされるなど大した事ではないのだろうか。
だが、それは好都合だ。動かないのなら、急所を狙いやすい。
「一撃で、決めてやる……」
震える声で意を決し、俺は木から飛び降りる。
落下の力を生かして自作の杭もどきで首を貫いて殺す。やることは、ただそれだけだ。罪悪感はあったが、躊躇はなかった。
ズドンと、手製の杭が硬い地面に突き刺さる。
その衝撃に手が痺れる。
その衝撃に目を見開く。
大蛇は俺の攻撃を明らかに“避けて”いた。
「そう、か……っ!」
その刹那、俺の脳裏にある記憶が横切った。
――ピット器官。
蛇などの生物に存在する、生きた恒温動物を餌とし、一撃で仕留めるために発達した『熱を感じ取る器官』だ。その強力な性能は、数十センチ離れたものの温度変化を0,1度単位で探知するものと言われる。
それにこのサイズだ。探知域も並ではないだろう。
恐らく、とぐろを巻き上を向いたのも、攻撃できる範囲を狭め、ピット器官の存在する鼻先をこちらへ向けて次の動作を察知するため――、
ならば、どうする。この状況を打破する策を思索し、思考を巡らせながらも、俺は痺れる手足に鞭打って立ち上がる。
だが、次の瞬間には俺の身体は跳ねていた。
「ご、ふ……っ」
荒ぶる蛇の巨体に吹き飛ばされ、地を跳ね、転がる。
幸い岩にはぶつかる事は無かったが、それを成した元凶は未だ眼前でとぐろを巻いている。
――こっちに来る。
考えるより先に体が動いた。俺は前に飛び込むように避ける。
「……っ!!」
視界の端で、俺のすぐ隣にいた白いウサギが身代わりとばかりに丸呑みにされるのが見えた。
背後で鮮血が硬い岩肌に弾ける。
――さながら、先の果実のように。
対する俺は飛び込んだ先が斜面だったせいでゴロゴロと転がり続ける。
「うぐぅぅうッ……!!」
痛む腕を酷使して自作の杭を地面に刺し、勢いを殺す。
生い茂る草によりなんとか無傷で止まることはできたが、槍はもう使い物にならなくなっていた。
「くそ……っ」
仕方なくその杭を投げ捨て、ふらつく体を叱咤して立ち上がり前を見る。
すると転がり続けてきた斜面に生い茂る腰の高さほどある草たちが、風もないのに不気味に蠢きだした。
その揺らめきは、だんだんとこちらへ近づいてくる。
「おいおいおい……」
蛇の体は草に隠れほとんど見えない。しかし、近づいてくるのが、草の揺らめきでわかる。
完全に、状況は悪化した。
「最悪だな、くそ……!」
草の揺らめきがかなり近づいたであろうタイミングで横っ飛びに避ける。見てからでは避けられないなら、予想して先に動くしかない。
すると数秒前まで背後にあったあった木の枝が粉砕する。その顎の力は、もはや岩すらも砕きかねないほどに思われた。ましてや俺の――人間の体など容易く破壊するだろう。
『 恐怖 』
それを理解した途端、抗いようのないその感情が、俺を支配した。
逃げて仕舞えばいい。蛇は本来、臆病な動物だ。こちらから向かわず、全力で逃げて仕舞えば、或いは助かるかもしれない。可能性は確かに低い。でも、目の前の絶対的脅威に無謀にも立ち向かうよりは、圧倒的に生存率は跳ね上がる。
しかし、それは麓へ逃げているはずの彼らを危険に晒し、重傷を負って床に伏すクローズさんを見捨てる事になる。そして、クローズさんが死ねば、あの少年を人殺しにしてしまう。
それは、俺にとって目の前の脅威よりも怖い事になっていた。
だったら、俺は楽な方へ進む。逃げた先の最悪より、進んだ先の災厄を選ぶ。
再び揺らめく軌道を引きながら迫る大蛇の動きを予測して、俺は手近にあった棍棒のような折れ枝を拾い上げ、振りかぶる。
すると、木の葉を撒き散らし、砲弾のように、凶悪な隻眼をギラつかせた大蛇の頭部が、高速でこちらへ発射された。
「くっ、ふッ!!」
凶悪な牙を持った砲弾が体を後傾にそらす前に頭があった位置を噛み砕き、その先の木に激突する。
「――ラァァッ!!!」
そこへ振り切られた棍棒が横っ面を殴りつけ、大蛇は横にあった大木と挟まれる形になった。そのまましばらくフラフラと頭を動かしていたが、それもものの数秒で回復し、苛立たしげな唸りを上げて元のゆったりとした動きを再開する。
「シャァォァアアッッ!!!」
「ぐ……っ!!」
叫び声をあげこちらに噛み付いてくるその口に、俺は棍棒を押し込むようにして防ぐ。
だが、万力のような力にギリギリと押し込まれ、木と骨が嫌な音を立てて軋みだした。
その音に限界を感じた俺は、棍棒を手放すとすぐに下に潜り込む。
限界まで下げた姿勢で先ほど予備として作っていたアイスピック程度の小さな武器をベルトから引き抜き、比較的柔らかい下っ腹を貫くために――。
「オオオ――ッ!!」
膝のバネを利用し、懐に入り込んで逆手に握った杭の底を逆の手のひらで押し込むように刺すと、小さな傷口から血が噴き出し右腕と頰が血に染まる。
「まだ――!!」
短く叫ぶと、俺は刺した枝を蹴り飛ばして後ろに飛ぶ。しかし、より深くへ刺さる事はなく枝はくしゃりと音を立てて潰れた。
後転し、舌打ちしながら立ち上がる。あの程度の細い枝では大したダメージにはなっていないはずだ。
大蛇は押し込まれた棍棒を噛み砕いて口を自由にするとこちらに向き直る。視線が交錯し冷や汗が伝う。
――突然視界が一変した。
「――がぁッ!!?」
何もわからぬまま背中から地面に叩きつけられ、肺の空気が一気に押し出される。
背骨が軋み息が苦しくなる。内臓を絞られるような痛みに視界が赤と黒に点滅する。
――見れば、体には大蛇の体躯が絡みついていた。
「し、しまっ――」
蛇は大抵獲物を丸呑みにするか毒で弱らせるか“体を巻きつけて窒息死させて”から食べるという。まさにこれは、最後の方法を連想させた。
蛇の体が巻きつき身動きができない俺の体を締め上げていく。
みしみしと体の至る所が軋み骨が悲鳴をあげる。
苦しい……痛い……死ぬ……
「離、せ……っ!」
ただ唯一動く口で蛇の体に噛み付くが全く無関心とばかりに締め上げてくる。
……息が、出来ない。
俺は、今度こそ死ぬのか?
みんなは……
逃げ切れただろうか?
どうだろう……?
さあ――わからない。
でも、逃げ切れていると……いい……
ああ……、
意識が、薄れ――、
「――オラァァアッッ!!!」
――かけた瞬間、野太い声の気合いと共に、何が重量のあるものが大蛇の体へ叩きつけられる。
それを受け、今度こそ悲鳴をあげて大蛇が俺から遠ざかっていく。
「カハァ……ッ! ぐっ、ゲホッ! ゴホッゴホッ!!」
すると、解放された肺に空気が入り込む。むせ返りながら荒い呼吸を繰り返し空気を求めて喘ぐ。
「よぉ、ギル……お前の言う通り下に降りて晩飯食おうとしてたらよ、肝心のお前が降りてこないから仕方なく迎えに来たぞ」
霞む視界の向こう、仰向けになって見上げればそこには――巨漢の男、ガルディが立っていた。
「俺は先に食っちまおうって言ったんだが嬢ちゃんとアンチェンタがうるさくてなぁ。仕方なくきてやったってワケだ。――感謝しろよ?」
そう言って、巨漢の男はニヤリと笑う。随分と、癪にさわる笑顔だ。
しかし、すぐさまその不快な笑顔を消すと、ガルディは右手に持った大きな斧を担ぎ上げ大蛇を真剣な眼差しで睨む。
「――ってかなんだ、こいつは……? 俺ぁ、爬虫類は食うのは好きだが生きてんのを触をのは苦手でな……早いとこ済ませて晩飯にしようぜ、ギル」
「ぐ……っ、その流れでよく晩飯の話ができるな。――それに、あんなの食くえるのかよ?」
そのまま真剣な剣幕でいるのかと思えば真顔で馬鹿な事をいうガルディに、必死に体を起こしながら苦言を呈する。
「へっ! じゃあ俺たちだけで食っとくからよ、お前はそこらへんの木の実でも食っとけよ」
「ハッ――冗談言うな。俺は好き嫌いはしないんだよ!」
立ち上がる。また、俺は助けられてしまったようだ。毎回助けるために奔走しているつもりでいながら、結局は役に立たずに助けられてしまう。
情けなくて、どうしようもなくて、無力な自分を、それでも救ってくれる人達。それに助けられるのも――悪くはない。
「行くぞ、ガルディ。その脳味噌まで犠牲にした筋肉で――筋力の怖さを教えてやろうぜ!」
「おうよ……蛇のあとはお前だからな。覚悟しとけよ」
どこか本気っぽい軽口を交わし終えると、俺は目の前の大蛇を見やる。
――こいつ、今までずっと様子を伺っていたけど、なんでいきなりこんな静かになったんだ?
そう思って大蛇の睨みつけるような視線を追えば、その先にはガルディの肩に担がれた大斧かあった。斧に何か嫌な思い出でもあるのだろうか?
「おい、ギル」
そんな益体もない事を考えていると、ガルディが腰にさしていた直剣を渡してくる。
「こいつを使え。かなりの上物だ。ちっとばかし重いがふだんから斧を振ってるなら使えるだろ?」
そう言って放られたそれを、俺はおっかなびっくり受け取る。
その直剣は森で使った銀の短剣と比べれば、装飾もほとんどない簡素で無骨なものだった。どちらかと言えばバレレンの使った鉈に近い。
ただ、それこそが相手の命を刈り取るために特化した“武器”だ。
黒に近い焦げ茶色の鞘に収められたそれを、透き通るような高音とともに引き抜く。
重さは今まで使っていた大きめの斧より少し重いくらい。まっすぐと伸びる刃は少々太く分厚い。その刀身は丁寧に手入れされているようで鋭く光る。
少し振ってみる。何となくだが、今まで長く使ってきたような感じがした。要するに、手に馴染んだのだ。
――恐らくかなり高い。
「いいのか? こんな……」
「いいんだよ。忘れたか? お前は俺たちの命の恩人なんだぞ?」
「は……?」
その言葉を受け、俺は固まる。その言葉は理解できたが、それを言う理由がわからなかった。
「お前がなけりゃ俺たちはあのバレレンとか言う奴に殺されてたんだろ?」
「い、いや……、それは――!」
いや、それは違う。俺は何もしちゃいないんだ。俺がいなくても、クローズさんだけで何とかなったはずで……いや、少なくともリナさんは殺されてしまうのか?
それに、手負いのクローズさんだけでは薬を使ったバレレンには勝てないのか?
ならば――、それならば――、
「無駄じゃ……無かったのか?」
あの行動は、あの痛みは、あの苦痛は、俺は――、
「ああ、当たり前だろ。無駄じゃ無かった。だからそんなしけたツラしてんなよ。ほら、そろそろ目の前の爬虫類様が痺れ切らしてるぜ?」
見れば大蛇はガルディの言った通り体をこちらに向け臨戦態勢に入っている。
「――そう、みたいだな」
肺の中の空気を一気に吐き出し再度吸い込んで溜め込む。歯を見せるように笑い、恐怖を何処かへ押しやる。
そうして外見を取り繕えば、自然と心もついてきてくれる。
だから俺は、その場で半身を落とし直剣を片手で構えこちらも臨戦態勢に入る。
「行くぜぇ! 久しぶりの蛇鍋だぁ!!」
高らかに、ガルディの荒々しい鼓舞が静かな森に響き渡った。
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