第十六幕『拙い策』

 俺は叩きつけるような向かい風を姿勢を低くして切り、ゴツゴツとした岩の覗く山道を全速力で駆け抜ける。

 後ろから伝わる地響きのような振動は、目測で先の大蛇の四、五倍はあろうかというさらなる化物級の蛇の、地を削るような這いずる音だ。


「あ、あぁあ……あぁぁぁぁぁあぁあああぁあッッ!!」


 痛む喉を震わせ、血混じりに叫ぶその声は弱々しく――大蛇のそれに比べるのもおこがましい、現状の打破には無意味な絶叫だ。だが、そうして叫ばなければ、今にもこの力の入らない両足は動くことをやめてしまいそうだった。

 そんな焦燥感と迫り来る死から逃げるため、ひたすらに俺は走り続ける。


「くそッ! くそッ! くそッ! なんでだッ! ふざけんなッ!」


 理不尽に、不条理に、いつも通りに打ちのめされて――、


「くそッ! どうする!? どうするッ!!」


 尚、諦めない自分に驚いていた。


 思考は2匹の蛇の戦闘不能、もしくは殺害目論み、今までにないほど回転している。

 いや、それは諦めていないわけではないのかもしれない。ただ、そちらに集中する事で目の前の出来事から目をそらしているだけ。

 そうでもしなければ諦めてしまいそうで、そうでたもしなければ逃げ出してしまいそうだ。

 ――だが、その選択肢は俺にはもう無いのだ。


 ガルディを救えなかった。これは彼を同行させ、みすみす危険に晒した俺の責任だ。


 だが、そこで止まれば更に誰も救えなくなる。後ろにべったりと張り付き執拗に追いかけてくる大蛇を横目で見る。大蛇の見た目はよく見れば少しずつ違う。


 片方の大蛇の顔はやや細長く、暗い黄色の瞳はギラつくような鋭い光を宿している。鱗は艶やかな光沢の見られる淡青で、一つ一つが硬質な鎧として大蛇の身をあらゆる衝撃から守っている。

 もう片方は青い大蛇に比べ丸みを帯びた顔立ちだが、暗黄食の瞳に宿る獰猛な輝きは全く引けを取らない。その身に纏う鱗は淡紅で一つ一つが小さく細かい。また、原因かは分からないが変則的な動きをする為、次の動きが予測しにくいのだ。


 そして、この2対の大蛇は恐らく――、


「あの、蛇の……親かッ……!!」


 思い至った事実を誰に伝えるでも無く途切れど切れになりながら呻くように呟く。なるほど、復讐か。実にわかりやすい。

 先に襲ってきたのは彼方なのだが、我が子を殺されればそれは怒り狂うだろう。


 その二匹の蛇の片割れ。俺の息の根を止めるべく、右後方から速度を上げながら追跡を続ける赤い大蛇はガルディを襲った大蛇だ。

 ガルディは吹き飛ばされ大量の鮮血を撒き散らして地面に横たわっていた。その体を拾いに行くことは叶わなかった――いや、もしかすると死んでいないかもしれない。


 ただ、あの量の血を出してしまっては生きていたとしても今頃――、


「だめだッ!! 考えるな、考えるな……!!」


 漏れそうになる弱音を嚙み殺し、歯を食い縛って気を引き締める。チラリと後ろを確認し、靴底から土煙が上がるほど踏ん張り急停止。振り向いて2対の大蛇に向き直り直剣をかまえる。

 が、後ろを向くため足を止めた途端、青い大蛇が余りある巨体を自在に駆使して喉笛を噛み切らんと体を伸ばす。


「く……っ!!」


 そんな大砲の様な一撃を、間一髪木の後に回って躱せたのは、ほぼ奇跡だ。

 だが、そんな奇跡に安堵する暇はない。身を隠した巨木に根元にヒビが入り、こちらに倒れ込んでくる。


「嘘だろ……!?」


 それを避けようと体を傾ける。すると木に気を取られていた俺の左半身に衝撃が走った。


 ――赤い大蛇による体当たりだ。


 視界の端に高速で蠢く影を捉え咄嗟に構えはしたものの、その圧倒的な衝撃に足を浮かされ吹き飛ばされる。

 幸運にも枯葉の山と長草がクッションとなり、大地に叩きつけられる衝撃はさほどのものではなかった。

 だが、当然大蛇から受けた衝撃はモロに伝わっている。転がる体が停止すると同時に訪れた、内臓を直接殴られたような鈍い痛みが俺の体を蹂躙する。


「う、ぁあ……っ」


 激痛によって白濁とした意識を唇を噛み切る痛みで無理矢理に引き戻して体を起こそうするが、手をついた瞬間訪れた嘔吐感に俺は胃の中身を全て絞り出すように吐瀉した。


「あぁ……くそ……」


 内容物を全てぶちまけ終わり、口元を乱雑に拭った手の甲についた血に、血は止まっていたはずの削れた額から再び血が垂れていることに気付く。


 そこに青い大蛇の追撃が入る。


 だが、今度はそれをうずくまった姿勢のまま地を蹴り横に転がって回避する。すると、狙いを見失った大蛇は硬い地面に顔を盛大に叩きつける事になった。


「ぐっ、うおあぁッッ!!」


 軽い脳震盪を起こし眼を回す大蛇。そこに、痛む身体を無視して全力の斬撃を叩き込む。

 直剣の重みを利用するための上からの斬り下ろし。全身を使うよう身を捻って、踏み込みも十分。その大気を薙ぐような渾身の一撃が首元に吸い込まれていき――、


 硬い鱗に阻まれ、まるで金属と金属のぶつかり合うかのような甲高い音が響き渡る。


「――ッ!!」


 渾身の一撃が作り上げた血の滲む薄い傷を見て唇を噛む。体もさっきの蛇より頑丈なようだ。

 硬い鉄を叩いたような間隔に、手まで痺れている。


 ――しかし、今動きを止めるのはまずい。


 後方にバックステップで後退すると今までいた地面に巨体が降ってくる。降って湧いた赤い蛇の追撃を身を捻って、転がって、飛び退って――躱す、躱す、躱す。


 最後の一撃は無理な姿勢となり足がもつれ転がるような形になる。それをチャンスと見たか、赤い蛇は大口を開けて俺に食らいつこうとする。


 ――今だッ!


 だが、俺は倒れこむ寸前に掴んでおいたツタを引き、無理矢理に態勢を立て直して、棍棒を盾にした時と同じ要領で大蛇の口に直剣を突っ込む。


「くふ……っ!!」


 すると前回以上の物凄い力で押し込まれ、すでにガタガタの体が更に軋む。


 ただ、先ほどの棍棒とは違いらこれは刃物だ。


 それもかなり鋭い――。


 俺は大蛇の舌の裏にある剣の向きを横から縦に変え、肩に担ぐようにして斬り上げる。


「ラァァアッ!!」


 嫌に生々しい感触とともに、舌と呼ぶにはあまりにも大きく長いそれは鮮血の帯を引いて舞い上がり、硬い地面に重い音を立て落下する。

 すると遅れたように大蛇の傷口から血が噴出し、俺の体に赤い斑点を作った。


 激痛に叫びを上げ、それでも尚喰い下がらない大蛇と、ビチビチと別の生き物のように動く二股の舌に俺は思わず顔をしかめる。


 確かにそれは今までの中で最大のダメージだ。

 しかし、それは大蛇たちのさらなる怒りを買うことになった。


「シャァァァォアアアッッ!!」


 万力のような顎から解放され、息をついたのも束の間、大音量の怒声が森の静寂を切り裂く。

 共鳴するように重なり合う2匹の叫びが、轟音となって木々を軋ませ大地を揺らす。それは、剣を取り落とし、思わず耳を塞いでしまうほどだった。


「がぁッ――!?」


 がら空きになった腹に大蛇の体がめり込む。その一撃に、ミシミシと肋骨の鳴る音を聞かされた。

 今度こそ防御もできずに攻撃を受け先の倍吹き飛ばされる。


 斜面を滑るように転がり、幾度も切り替わる視界と体を打ち付ける痛みに翻弄される。傾斜が緩やかになっていくと同時にスピードも落ちてくる事だけが唯一の幸いだった。

 何回転もしてやっと止まったが全身がくまなく痛い。特に飛ばされる原因となった一撃を喰らった右脇腹が焼き付けるような激痛を訴えかけている。――恐らくは骨折、内臓もかなりのダメージを負ったはずだ。


「ゴブッ……ぐ……ぁ、…ぁぁ……」


 口の端から泡立った血液を零して地を転がる俺にとどめを刺すべく、上から木々を薙ぎ倒しこちらに迫る巨体の立てる音が響いてくる。

 迎え撃たなければいけない。そうで無くても、せめて逃げなければいけない。

 だと言うのに、俺の意識は搔き消えるように薄れていく。視界が端から白くなっていき、考えることが出来なくなる。


 ああ、やばい……これは――、



「ギ、ギルさん!?  大丈夫ですか!!」


 途絶えかけた意識はそんな声で一気に引き戻される。目を見開き霞んだ視界に映り込む不鮮明な影をなんとか見ようとする。

 だが、そんなものは必要無い。くぐもった耳からでも確認出来た話し方や声、そして不鮮明な世界でもなんとか確認できるシルエットに――見覚えがあるのだから。


「リナ……さん……?」


 なんで、こんな所に?


 目を見開く俺の視界の先には、逃がしていたはずのリナさんとアンチェンタが唖然とこちらを見下ろしていた。


「俺が……山を、下って……きたのか……!」


 それだけの事をされてまだ死なない自分のしぶとさに、初めて良い意味で驚きを得た。

 まあそれも、これからの行動次第で水の泡になりかねない危ういものだが。


「そ、うだ……! ここは、危ないんだ。馬鹿……でか、い蛇が――!」


 後ろから木々をなぎ倒す大音量の破壊音が近づいてくる。

 まずい。このままでは巻き込んでしまう。そうなれば、ガルディの死は――、


「それは、見ればわかる! と言うか今わかった! それで!? どうするんだ!?」


 そうだ。そんなことを考えている暇は――無い。


『どうする……!?』


 今から俺が突っ込んでいってもきっと殺されて終わりだ。だからと言ってみんなで協力して倒すにしても最大戦力のガルディはもういない。俺もこのダメージでは、流石に戦闘は不可能だ。


 逃げるにも落ちてきた途中か吹き飛ばされた直後かは定かでは無いが左足を痛めていた。もしかするとこちらも骨折。もしくはひびが入っているかもしれない。


  逃げるための、足すら無いのか。


 ……いや、違う。


「そう、だ……足は、ある……!」


 直ぐ近くにはここまで来るために使った馬車が止まっている。俺は痛む足を引きずりそれに手を掛けて叫ぶ。


「一旦……逃げる、ぞ! うぐ……っ、早くッ!」


「“一旦”って――一体君は何をするつもりだい……?」


「アンチェンタ! 蛇が!!」


 リナさんの叫びに後ろを振り向く。そこにはもう目で確認できるほど近づいた大蛇がいた。


「――くそ……っ! もう、追いつかれたのかよッ……!!」


 迫り来る大蛇は俺たちを叩き潰そうと大きな体をたわませる。

 その光景を目にした俺は、すぐさま痛む体を酷使して御者台に乗り込み手綱を握った。


「うぉお!?」


 だが、手綱を振るう前に馬たちは駆け出し、影から抜けた瞬間、蛇の巨体が地面に叩きつけられ盛大に砂埃を巻き上げる。その爆風に馬車の荷台に掛けてあった白い布がめくれ上がり直接砂風にさらされる。


「ぐッ――!?」


 いつまでも消えない粉塵の中、落ちないようしがみついて爆風から逃れ、走り続ける。よく見れば馬車の装飾である飛び出た木が持って行かれていた。


「あ、あとでクローズさんに……謝らない、とな……ッ」


「そ、そんなこと言ってる場合ですか!? は、早く逃げないと!」


「へ、蛇みたいだけど――おいおいおい……流石にデカすぎだろう!」


「説明は、後だ……馬車は、初めてだからな。もし失敗したら大変だろ……」


「初めて!? おい、大丈夫なんだろうな? た、頼むよ?」


「任せ……とけッ! 死ぬときは、俺も……一緒だ!」


「わかってると思うけど、そうゆう意味じゃないから!!」


 不満そうなアンチェンタを無視して大きく手綱を振るう。

 すると更に馬車のスピードは上がり、風を切るように地を駆ける。

 だが、見よう見まねでよく出来たものだ。まるで昔に何度も乗ったことのあるような感覚。相当クローズさんの教育がいいのだろう。


「あ、後その怪我……酷いな。あー、これを食べるといい。少しは良くなるはずだ」


「は、はあ……? なんだよ、それ……ブルー、ベリー……? そんなもんで……っ、こんな傷が、治る訳――もがっ!?」


 荒い呼吸を繰り返し、台詞も途切れど切れになっていた俺を見かねたアンチェンタが、何やら黒っぽい小粒大の果実を取り出し、不審がる俺の口に突っ込む。


「グズグズ言わず飲み込めばいいの! さん、ハイ!」


「――ッ!!」


 掛け声と共に背中を思い切り叩かれ、唐突に炸裂したその衝撃に口の中の謎の果実が喉を通って胃の中に消えていく。

 消えていった果実の代わりに湧き上がるのは、意味不明な行動を仕出かした自称占い師への純粋な不満と怒りだ。


「いってぇな!? 怪我人になんてこと――ん? あ、あれ……?」


 その怒りを思うさま吐き出そうと声を荒げるが“声が荒げれた”というその事実に驚いて怒りはすぐさま鎮火する。


 そうして残ったのは今現在、自分の身に起こった変化――具体的にはあれほどのたくり回っていた痛みの、大部分の消失への疑念だ。


「な、なんだこれ? お、おいアンチェンタ、お前俺に何したんだ……? さっきの果物みたいなのはなんだよ?」


 痛みの消えた体のあちこちを軽く叩きながら、俺は理解が追い付かない頭に沸いた疑問の数々を、そのまま口にする。

 しかし、それに対するしっかりとした答えが返ってくるのは微塵も期待していない。なにせ、相手が相手だ。


「おいおい、女性に質問攻めとは感心しないな」


「馬鹿言うな、今はそんなこと言ってる場合か!?」


 ただ、身構えているのと実際されるのではまた、違うのだ。

 歯切れの悪い答えに俺は焦りから変換された怒りを露わにするが――、


「じゃあ逆に聞くが、今はそんなこと言ってる場合か?」


「うぐっ……!」


 返されたもっともな反論に、なすすべなく閉口を余儀なくされる。

 それを片目で見て、意地の悪い悪戯っぽい笑みを浮かべ長髪の占い師は舌を出す。それに歯軋りで答え、俺は意識を切り替えた。


 若干の痛みは残るものの、普通に動くようになった体を捻って後ろを見れば、波打つ巨体を躍らせ馬車にも引けを取らない速度で追いすがる大蛇が見える。


「てめえらが付いてきちゃ、やっぱり屋敷には帰れねえな……!」


 叫ぶと同時に帰り道を逸れて、一気に軌道を旋回させていく。

 急なカーブに馬車がきしむがそこはクローズさんの私物ということもあってかなりの上物だ。大きな揺れもせずこの無理な操縦に耐え切ってくれた。

 しかし、速度は当然落ちる。そこを見計らった赤い大蛇にまた一部の装飾を嚙み砕かれる。


「くそ……っ!!」


「ど、どうする!? ……あ、言っておくが私達何も武器とか持ってないぞ?」


「知ってるしそんな期待はしてねえよ!」


「あ、そうだ! 馬車の中に何か、使えるものがありませんかね?」


「そ、そうか! 確かに馬車の中なら……!」


 これはクローズさんの御者用の馬車だ。中にあった荷物は大部分降ろしたが、邪魔にならない荷物はまだ載せてあるのだ。


「――アンチェンタ! リナさん! 何かないか探してみてくれ!!」


「わかった、探してみる! でも、君は馬車引くのに集中しといてくれよ、頼むから!」


「分かったッ!!」


 俺は馬車を山に隣接する小高い丘の周りを回る軌道に入れる。

 こうしておけば、かなり時間が稼げるはずだ。その間になんとか作戦を練らなくては――、


「……あったものは、砂糖の入った袋が4つと空の木箱、ライター、それに樽に入った油、あとはでかい盾だ! 良さそうなものは少ないが……使えそうかな!?」


 後ろからアンチェンタがそう叫ぶが、パッとしたものがないのは予想していたことだ。

 それどころか、なかなかに使えそうなものが揃っている。


「空の木箱と砂糖袋、後でっかい盾は正直微妙だが後の2つはかなり頼りになるな!」


「はい……! ――ですが油をまいて火をつけるのなら油が少なすぎます! 開けてみたら半分も残っていませんでした」


「嘘だろ!? やっぱダメだ! 油は使えない!」


 勝手な評価を受け、結局その評価もすぐさま覆された報われない油だが、確かに使えない。

 小タルサイズに半分以下となると、量的に火をつけて転がしても大した爆発も起きず普通に燃え上がったのを避けられて終わりだろう。


 ちらりと山の方をみる。こちらにも何か使えるものは無いだろうか。なんだって利用しなくては背後に迫る脅威には対処すらできないだろう。ましてや倒す事など、土台無理だ。


 よく見ろ。


 よく考えろ。


 なにか――、


 なにかないのか――?


「――ん?」


 ふと、最初の場所まで戻ってきてしまったことに気づく。もう一周してしまったようだ。

 それを意識した瞬間、何故かフラッシュバックのように、もう体感時間的に昔のことのようになっている数時間前の出来事を思い出す。


その場所を見て――、


「あっ……たぞ。使えるもの!」


 策を思いつく。策と言えるかも怪しいそれは、もはや賭けと言っていい程、再び危険な要素の強い綱渡りだ。だが、そんなものいい加減慣れっこだ。


「それに、今はこれ以上は無いだろ……!」


 そうだ――元から無理な話だ。


 それに希望が一筋でも見えた。


 ならば十分に上出来だろう。


 不安な箇所は、命を賭けてでも埋めてみせる。


 ただ、最終的に賭けるのは“俺の命”だけだ。それは譲れない。

 勝負は2周目。そこまで持ちこたえられれば、いけるはずだ。


「リナさんッ! アンチェンタッ! あいつらをなんとかする作戦を考えた! ひとまずは俺の言うことに従ってくれ!」


「は、はい……!」


「わ、わかった!」


「まず、俺が言ったタイミングで砂糖をばら撒いてくれ! よーく舞い上がるようにな……!」


「え? め、目眩しですか……?」


「半分正解半分ハズレだな……今だッ!」


 掛け声に応じて大袋4つ分の小麦粉がばら撒かれ、空気に溶け込む様に先の砂埃よろしく空中に舞い上がる。

 ここの地形は岩石の壁を抉ったような浅い洞窟のような地形になっておりほぼ無風状態なのだ。

 ちなみに、これは先程の蛇によって引き起こされた砂埃によって気づいたことだった。いつまでもなくならない砂塵は、まだ微量だが漂っている。


 その粉塵の目眩しを、鬱陶しそうに大蛇がすり抜けてくる。ご丁寧に間を縫うようにだ。


 それを横目に、俺は油の入った樽を小脇に抱え更に馬車のスピードを上げる。


「あと少しだ……頑張ってくれ!」


 そう小さく叫ぶのは、馬車を引いてくれる馬達への鼓舞か労いか、それとも恐怖に竦み上がる弱々しい自分への虚勢か鼓舞か――、


「後一周……全力で耐えてくれ!!」


 急カーブに差し掛かる。目的地が目の前の証拠だ。

 しかし、馬ではなく馬車が悲鳴を上げ出す。先程とは比べ物にならない、ミシミシと耐えきれないとばかりに鳴り響く限界の警鐘に、俺は思わず苦悶の表情を浮かべる。

 これでは、馬車はカーブに耐えきれない。



 ――どうする?


 ――どうする?




 ――諦める……?







「――冗談ッ!」


 短く言い放つと、俺は一番近くにいた馬に飛び乗り馬車から切り離す。


「アンチェンタ! 手綱変わってくれ!」


「はぁ!? な、何言って……――まあ、いい! 後で全部説明してもらうからな!!」


「ああ!」


 そう訝しげに叫ぶ彼女に手を振り前を向く。視界の端でぎこちない動きの馬車がゆるゆると逸れていくのが見える。

 そして、もう一度振り向き律儀にこちらだけを追いかけてくる大蛇を確認すると、親指を下に向けて立て、そのまま突き出しバッドサイン。


「散々恨み買っといてよかったぜ!! そのまま最後までついて来いよ!!」


 直接乗る事を想定をしていない馬には鞍などついていない。すぐにでも滑り落ちてしまいそうな不安定さに全身が強張るが、歯を食いしばり恐怖に震える体を叱咤する。


 カーブを抜けると粉塵が残る目的地が見えた。視界の悪いその場所に突っ込むと、積んであった小麦の大袋すべてを使った粉塵に視界を奪われるが、目をつむり、事前の目測と勘だけを頼りに壁にぶつかる寸前で一気に急旋回。


 走りながら振り向けば突然消えた獲物を見失った驚きに加え、巻き上がる粉塵の影響で視界の悪い大蛇達は岩に頭から突っ込んでいく。


 亀裂の入った岩石の隙間から圧力に負けた気体が漏れ出し亀裂の破片を飛ばすのが見えた。

 その想像通りの光景を見て、怖いくらいの思惑通りに口元を歪める。そんな俺を、頭から血を流しこちらを睨む眼光に体がこちらを見据える。


「シャァアアアアァア!!!」


 目を光らせそう叫ぶ大蛇の姿はまさに童話の《魔獣》のようだった。



 ――それに対し、馬から降りていた俺は火のついた樽を投げつけることで応じる。



 これは古い知識だ。昔、誰かに教わったはずの知識の、その記憶の断片。

 だから、俺は教わった時に聞いたそのままの口調で知能が少なからずあるであろう大蛇に、自らに向けられた攻撃の原理を教えてやる。


 よく覚えとけよ。


 ――死ぬまでな。


「……ある一定の密度、量の粉塵が漂い酸素が十分にある環境下で起こる引火の伝播――粉塵爆発だ」


 しかし、そんな事、大蛇のつがいには理解できない。わかるわけがない。ただ、目の前の現象に呆然と飲み込まれるだけだ。


 突如、樽の小爆発に連鎖するように爆発が次々と巻き起こり、その爆発は一瞬にして広がり最後には巨大な火炎の爆風となる。


 ――しかし、それだけでは終わらない。


 出発前にシャルルが説明した通りこの山には各所に人工的なガス溜まりがある。この山に着いた時、一悶着あったこの場所はあの時のアンチェンタの言葉が正しければその一つの筈だ。


 ――それに捲き起こる火炎は引火する。


 大蛇の叫び声など比にならない。空間自体が震えるような振動と光そして爆音、高熱、爆風。


 そのすべてに吹き飛ばされ俺は地を転がる。かなりの距離転がった後、やっとの思いで停止する。


 ――そして目の前は深い闇に染まる。



******************


「……く……ぁ……」


 数秒間の意識の断絶を経て、再び俺の意識が覚醒する。

 強制的な意識の途絶から目がさめると、俺はすぐに身体中を検分した。


 ――どうやら五体満足で無事のようだ。


 しかし、爆発に伴い視力はかなり低下している。咄嗟に瞑った右目は多少はマシな様だが、耳はキーンと鳴るばかりで役に立たない。

 しかし、回復を待っている余裕はない。ゆっくりとしたおぼつかない動作で立ち上がる。見れば、先ほど乗ってきた馬や馬車はなんとか無事のようだ。


 ――ん? なんだろう? リナさんが何か叫んでいる。


 だが俺は今耳が聞こえないのだ。目を細め、ぼやける視界を少しでも鮮明にしようと目を凝らす。すると、後ろを指差しているのが分かった。それに従い首を動かす。

 そして、その先の光景に――驚愕に目を見開く。


 振り向けばゆっくりとした動作で起き上がる血塗れの大蛇の姿が見えた。


 ――脅威の生命力だ。


 全身の至る所に裂傷と火傷が見受けられ俺と同様視界と聴覚をほぼ失っているはずだ。

 それなのに、その生物の生命の灯火は途絶えない。


 だが、それも――、


「……想定内だ。だからここを選んだ」


 そう、卑怯で卑劣な“人間”は呟く。こいつらの生命力は嫌という程味わっている。子蛇を最期に背骨と気管を貫いた後あの状態でもまだ少しではあるが動いていた。


 そう、だからこの場所を選んだのだ。最初にアンチェンタに落石を予知された場所。地盤の不安定なこの場所であれほどの大爆破が起きれば――、


 轟音を立てて大小様々な岩が大蛇の体を押し潰すように降り注ぐ。既にボロボロだった体を打ち付けながら大量の岩石に埋もれ、隙間から血が溢れ広がってゆく。


「まだ生きてたりとかは……しないよな……?」


 いや、流石に息絶えただろう。これで生きていればそれは正に化け物だ。


 霞む視界を、戻りつつある聴覚を、痛む体を――それぞれ実感して生きている事を再確認する。

 皮膚は熱風に晒され軽いやけどを負っている様で、大気が体にしみる。その上吹き飛ばされた時にできた打撲傷や裂傷がいたるところで痛み、途中岩にでも叩きつけられていたら間違いなく死んでいただろう。


 それほどギリギリだった。


 だが、やっと――、


 大蛇退治に終止符が打たれたのだと――そう思った。

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