第二十六幕『八人目』

「――リナさんッ!!」


 鮮血の滴る右目を抑え、少女がよろめく。


「ううっ……!」


 俺を逃がすために人狼の前に立ち、その身を致命的に引き裂かれたかに思えたリナさんは、しかしその一撃を掠る程度に凌いで見せた。


 だが、掠った箇所が致命的だ。視力という重要な感覚を司る気管の、その一つを彼女は失った。


「く……! こんな、ものぉ……!」


 ガチガチと噛み合わない歯の根を食いしばり、リナさんは残った左目で人狼を睨む。

 その細い首元に、振るわれた鋭爪がせまる。それを、今度は左腕を犠牲にして防ぎきる。


「ああ……ッ!!」


 苦鳴を上げるリナさんの左腕からおびただしい量の鮮血が伝い、その傷の深さをまざまざと見せつける。


「ぐぅぅう……!!」


 次は、その右肩を振るわれた爪が浅く切り裂いた。その次は頰、次は腿、次は腕。そうして切り裂かれる度に、少女は激痛に声を上げた。


 それでも、少女は引き下がらない。諦めない。逃げ出さない。

 何が彼女をそうまでさせるのか、俺にはわからない。


 俺にはわかるわけがなかった。


「こっちだぁぁぁあッ!!」


 ――だが、今しなければならないことくらいはわかる。


 俺は、動かない体を無理矢理に引きずっての体当たりを敢行した。

 だが、こちらに気を引くことが第一目的の、わざわざ声を上げての特攻だ。懸命の体当たりは悠々と躱され、すれ違いざまに蹴りを喰らう。


「ぐふっ……!!」


 メキメキと肋骨が鳴り、冗談みたいな速度で吹き飛ばされる。


「っづぁぁああ!!」


 激痛を叫ぶことで誤魔化し、滑る体を残った右足で踏ん張ってなんとか止めると、再び片足飛びの要領で人狼へ突っ込む。


 策は浮かばない。勝機はない。だが、目の前の少女を見殺しになんてできない。


 なら、やることは一つ。


 策も勝機もなしの、決死の特攻だ。


 導き出した答えの残念具合に、おもわず口元が綻んだ。


 そんな乾いた笑みを浮かべる頭部と体を分断するべく、丸太のような剛腕が迫る。


「あぶないっ!!」


 それを認識した途端、体はリナさんに押し倒されていた。目の前を、唸りを上げて黒い影が通過する。


 ――だが、タダで転ぶわけにはいかない。


 その腕を振り切ったままの無防備な人狼の顔に、俺は咄嗟に口の中に充満した血を吹きかけた。思い切り口を切っていたこともあり、かなりの量だ。それにより、一時的に人狼の視界は塞がれる。


 その間に、満身創痍の俺を引きずって傷だらけのリナさんが身を隠す。


「な、なんで来たんだ!」


「そ、それは……」


 身を隠し、安全を確認した途端、潜めた声で叫んだ俺に、りさなんは肩を跳ねさせた。

 別に怒ったつもりはないのだが、中途半端に声をひそめたせいでそう聞こえてしまったのだろうか。


「物音が聞こえて、シャルルさんからも話を聞いていて……」


 案の定そう聞こえたらしく、リナさんはさっきの威勢はどこへやら、ごにょごにょと歯切れの悪い口調に戻ってしまった。

 それに思わず安堵を覚えるが、俺はその内容の方が気になった。


「え……? そのシャルルは、止めなかったのかよ?」


「あ、えっと――シャルルさんは今ベッドで眠っているんです」


「は、はあ!?」


「お、怒らないであげてください……! 眠っていると言っても、私と部屋に入った途端倒れてしまって、そのままと言った感じなんです」


「あ、ああ……そういうことか……」


 確かに、あまりにも衝撃的すぎる事態を一人目撃してしまったのだ。そのとき受けた衝撃とストレスは、気を失うには十分なものだろう。

 かく言う俺も、この全身の痛みがなければすぐに倒れてしまいそうだ。


「って、その怪我……! 大丈夫なんですか!?」


 するとリナさんも俺の様子に気がついたのか、驚いて声を上げた。


「いや、大丈夫じゃないと思うんだが……あんまり痛みは感じないんだ。多分、アドレナリンとか脳内麻薬が出てるんじゃないか?」


 詳しくは知らないからなんとも言えないが、そうとしか言えない。あの蛇に襲われた時の怪我は、あれほどまでにつ辛かったというのに、それよりも重症な今回はそれほど苦痛は感じないのだ。

 まさか、『慣れた』なんてことはないだろう。


「だけど、それをいうならリナさんだってそのはずだろう。右目……それ大丈夫なのか……?」


 敢えて言わないようにはしていたが、まるで意に介していないかのようなその態度に思わず口に出してしまった。


「これは……そうです。貴方と同じ理由だと思います。麻痺、してるんですよ」


「そう、か……」


 そういう意味ではない。その視力の大部分を失った喪失感はどうなんだと聞いているんだ。なんて、口が裂けても言えるはずなく、俺は俯いて黙り込む。


 それに、今はそんな場合じゃない。


「リナさん、人狼は――、」


 そう考え、俺はリナさんに訊く。

 すると、リナさんは蒼白な面持ちで振り返り、答えた。


「い、いない……」


「な――!?」


 瞬間、驚愕とも恐怖とも付かない膨れ上がる感情が全身の感覚を狂わせ、全身の毛が逆立ち吹き出す冷や汗が冷やかな不快感となって背中を伝う。


「いなくなってます! さっきまで……目を離さないようにして……いた……のに……」


 こちらを振り返り、冷や汗をこぼしながら口早に言うリナさんの言葉尻が、ポツリポツリと途切れていく。

 その見開いた瞳は俺の顔から、その遥か頭上に向いていく。


 瞬間、俺はリナさんを巻き込むように前に飛んでいた。ひびの入った左足まで酷使しての、決死のジャンプだ。


「ぐぁああッ!!」


 振るわれた鋭爪に、背中を深々と切り裂かれた。発生した灼熱の痛みが、麻痺した脳神経を焦がす。


「ギルさんっ! ギルさんっ!」


 涙声で俺の名を呼ぶ少女が俺の下でもがく。俺が邪魔で逃げられないのだ。


「ぐっ、ぁ……!」


 だから、俺は残った力を振り絞って横に転がる。仰向けになったことで背中が激しく痛むが、これで自由になった少女は逃げることができるだろう。


 ――そのはずなのに、あろうことか少女は俺を庇うように覆いかぶさってきた。いや、実際に庇うためだろう。


 その光景が、あの白髪の老紳士や長髪の占い師とだぶる。


 そして例のごとく、手の届きえない視界の先で、絶望がその爪を振り上げた。


「やめ、ろ……!」


 声を発したと同時に、肉を断つ生々しい音が静寂の中響いた。




 ――白濁とし、朦朧とした視界。



「――来るのが遅えよ、マルコス……」


 その先には、血に濡れた銀色の直剣を持つ、一人の男が立っていた。


「フン、黙れ。生きているだけありがたく思うんだな」


「ああ、実際ありがたい……」


「――満身創痍といったところか……おい、平民。まだ動けるなら今すぐその愚物を連れて隠れろ」


「で、でも……!」


「いいからさっさと行け。それに、もう時期に終わる。先の一撃は、奴を殺したことに対する個人的な恨みだ」


「ってことはお前の言ってた探って……」


「ああ――もう済んでいる」


 そう言って血を払い、マルコスが剣を鞘に収めた瞬間、人狼の断末魔のような叫びが広間を揺らした。


「なんだ、あれ……?」


 そんな中、リナさんの肩を借りて立ち上がった俺の視線は、のたうち回る人狼の背中。その丁度真ん中に位置する箇所に発生した金色の光に奪われていた。

 その呟きに、マルコスが静かに答える。


「人狼は家の鍵を当てると変身が解けるというからな……試させてもらった」


「変身……?」


「ああ。それがダメなら銀の弾丸。それでもダメなら聖水。それでもダメならトリカブトでも食わせてやるつもりだったのだが……」


 流し目で暴れまわる人狼に目をやると、彼は恐ろしく冷たい笑顔を浮かべた。


「一つ目でうまくいったようだな」


「マルコスさん……ありがとうございました」


「ふん、感謝をしているならばさっさと消えろ。邪魔だ」


「邪魔って……まだ、なんかあるのかよ?」


「ああ、今から俺はここで正体を現したやつにとどめを刺し――確実に殺す」


「な……っ!」


「貴様は知らんだろうがこの館に招かれた者はな、8人いるんだよ」


 ――8人。


 館に招かれたのは、バレレン。アンチェンタ。クローズさん。ガルディ。リナさん。マルコス。シャルルの7人のはずだ。


「それじゃあ、一人足りない……」


「だが、それは貴様を除いて、だ」


「だから、誰も俺の存在を疑問に思わなかった……」


「ああ、そうだ。お前じゃない、本来いる筈だった8人目……それがこいつだ。そして恐らく――」


「こいつが、黒幕……!」


 そう思えば、全てが繋がる。


 人狼に襲われなければ、俺はシャルルに助けられる事はなかった。そして、シャルルに助けられなければ、俺は館に招かれることもなかったのだ。

 だから、森での襲撃はあえて手を抜いた。一瞬、迷いに見えたあれは思惑と策謀によるものだったのだ。


 そして、2度目に襲われた時。あれは恐らく本気で殺しに来たのだろう。首尾よく8人目を演じさせることができた俺に、ボロを出されて台無しにさせないように。だから、あれほどまでに容赦がなかったのだ。

 だが、それはガルディによって阻まれ、俺は事なきを得た。


 それから姿を現さなかったのは、その他の脅威に俺がさらされ続けていたからだろう。バレレン、大蛇、欠陥品。それぞれ、死んでもおかしくない状況だった。

 その内の二つ。バレレンとガルディは黒幕がけしかけたものだった筈だ。


 そして、今回の欠陥品でとうとうしびれを切らし、現れたというわけか。


「ふざけるなよ……!!」


 なら、理由はなんだ? 食料? 娯楽? 崇高な理念?


 いいや、この際どれだっていい。どちらにせよ、こいつは――!!


「ぐぁっ――!?」


 意気込み、全身の痛みすら置き去りにして一人立ち上がった俺の前で、マルコスが吹き飛ばされた。


 追い詰められた獣の、火事場の馬鹿力というやつだろうか。踏み込んだ床が砕ける程の力だった。


「マルコスさん――!!」


 細心の注意を払っていたマルコスの反応速度。その遥か上から、人狼は単なる地力でそれを叩き潰した。全くもって規格外。こんな奴を、俺たちは相手にしていたのか。


「くそっ!!」


 よろよろと手を伸ばす俺の目の前を、一回り小さくなった影が通過する。


「――待てッ!!」


 手を伸ばす。


 だが、掴めない。


「待て……っ!!」


 影はみるみる遠ざかる。まるで曲芸師のような身のこなしで壁を登り、手すりに手をかけ上の階に上る。


「ぐぁ……待ち、やがれ……ッ!!」


 叫ぶ俺のはるか先で、窓の割れる音が響いた。


「くそッ! くそッ! くそッ!!」


 怒りに任せて額を床に叩きつける。何度も何度も何度も。額が割れ血が噴き出すが、そんなことも気にならないくらいに。


「くそがぁぁぁぁああッ!!!」


 自らの血で染まる床で、俺は絶叫し続けていた。

 ――いつまでそうしていたのかは、よく覚えていない。


 ただ、ずいぶん後になって合流したシャルルに何かを言われた事と、リナさんがシャルルと何か深刻に話し合いをしていたことだけが、その時の俺が唯一認識できた事だった。


*******************


 気が付けば、治療の施された体でベッドに寝かされ、朝日を浴びていた。

 どうやら、限界に達した体は意識を手放したようだ。


 ぼんやりと外を眺める俺の後ろから、小さな声が聞こえた。


「本当に無茶――しましたね」


「ああ……」


 いつも通り、シャルルは枕元で椅子に座っていた。――しかし、目を開いた俺に、少女はいつもより優しく声をかける。


 だが、俺はこちらを見つめる慈愛の眼差しから目をそらし、シーツをきつく握りしめて口を開く。


「悪い、シャルル……俺は――なにもできなかった……」


「リナさんを助けたじゃないですか」


「でも、右目はもう2度と見えないんだろう?」


「……はい」


「左腕は……?」


「恐らく、障害が残るかと……」


「――っ」


 何だこの様は。格好をつけて啖呵をきって、マルコスやシャルル、リナさんの助けを借りて、成せた事は中途半端に出張って周りを傷つけただけ。

 唯一任された足止めすらも、満足に行えなかった。


「――それに、ガルディを殺された」


「……仕方ありません」


「……マルコスは、無事か?」


「あれから目を覚ましていませんが、なんとか」


「人狼は、逃げたか……?」


「はい――3階の窓が割れていて、多分そこから」


「やっぱり、だめじゃねえかよ……」


 こんなもの、八つ当たりみたいなものだ。こんな自分勝手な懺悔を聞く言われはシャルルには無い。彼女は十分に頑張った。なにも、悪い事はない。

 悪いのは俺だ。全て、何もかも俺が悪い。


 何せ、あの時半ば無理やりにシャルルについて行ったせいで、この惨劇は起こったのだ。

 もし、俺というイレギュラーが入り込まなければ、足りない8人目の存在にマルコスならば気が付けたはずだ。それを邪魔し、本当に招かれた7人の歯車を狂わせたのは、他でも無い俺の身勝手だ。


 本当に悪いのは黒幕ではなく、もしかすると――、


「まだ、寝ていてください。貴方が一番重症なんですから」


「ああ、そうする……」


 後悔の悔恨に心を引き裂かれながら、俺は薄い布を被り重たい瞼を閉じる。

 疲れ切り眠くて仕方が無いのに、意識は安息を拒み続ける。

 ガチガチとなる歯の根を押さえつけ、震える体を抱いて小さくなる。まるで恐怖に怯える子供のような、そのみっともない有り様をシャルルに見せたくなくて、俺はさらに体を縮める。


 するとその布の上から、何か軽いものがかけられた。それは、布団でも、毛布でもでもない。


 ――何か、優しい香りのするもの。


「でも……それでも私は、貴方に助けて貰ったんですよ」


 囁いた声に目を開けば、金髪の少女はドアを開けて出て行く後ろ姿だった。

 その後ろ姿に、俺は違和感を覚えた。


 だが、それはなんだろう?何か、印象深いものだった筈だ。最初に目にして、パッと目につくような。


 ――ああそうか。いつもその輝く金髪を隠していた、あの赤い頭巾が無くなっている。


「あれ……? なんで……だっけ……」


 だがその答えが出るよりも早く、俺の意識は深い深い――、


「だから、私は……貴方を――」


 ――眠りに落ちていった。

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