第三十幕『狼少女』

 ――思えば、おかしなところはいくらでもあった。それこそ数えたらキリがないくらいに。


 まず、一つ目の疑問。あの滝で初めて会った時、彼女はなぜあんな場所居たのかだ。あの滝の下流にある街で花屋として働いている筈の彼女が、あんな人里離れた場所に何の用があったのか。


 答えは簡単だ。


 彼女が俺を滝へと叩き落とした張本人――人狼だからだ。今、俺たちが居るこの森は、近隣の村や街では『迷いの森』と呼ばれている。

 毎年、遭難者や自殺志願者が絶えないのだ。そんな場所だ。“食料”の調達は容易だろう。

 それにあの時、彼女は俺を滝から救い出したにも関わらず服がまったく濡れていなかった。

 それは人狼化により着ていた衣服ごと体が覆われ、助け出した後に元に戻ったからだろう。


 次の疑問はその日の夜、2度目の遭遇の時だ。まず、なぜ執拗に俺を屋敷まで追うことができたのか。そして、どうやって侵入したのかだ。

 最初、人狼の正体が8人目だと思った俺は疑問に思わなかったが、それが違うと証明された今、それではおかしいのだ。


 だが、これも簡単だ。


 ずっと近くにいたのだから。ずっと隣にいたのだから。それにあれは俺から着いて行ったようなものだ。

 侵入した方法も簡単だ。最初の部屋割りの時、シャルルは隣の部屋だった。人狼は外部の存在だと推測し高を括っていた俺は鍵を掛けずに寝てしまったため、半開きのドアから侵入されたのだろう。


 何故、逃走後の人狼は見つからなかったのか。


 それはその姿が完全な人間だったからだ。元の姿がどちらかわからないにせよまさか完全な人の形をしているとは思ってなかった。

 一度人の姿に戻り新しい服を着て仕舞えば俺たちにはそれを人狼と疑うことはできなかっただろう。

 いや、アンチェンタは何か知っている様な事を言ってはいたが。


 まだまだ、不審な点は山程ある。


 2度目の人狼に襲われた時部屋に集まった人々はあの時館の中にいた全員だった。

 だが、本来ならばもう一人いるはずだ。あの時、俺の後ろにいたシャルルが。


 居ないのはおかしいはずだ。――いや、おかしくはないのか。

 彼女が人狼だったのなら、彼女は人狼としてそこにいたのだから。


 それにバレレンの薬の時もそうだ。解毒薬を使ったと言っていたがシャルルも毒に侵されていたはずだ。それなのに解毒薬をどうやって作ったかだ。


 だが、それも彼女が人ではないという一言で解決する。


 あんな風邪薬程度、人狼という人よりも上位の存在である怪物には効かなかったのだろう。もし、効いていたとしても斧や弱点である銀のナイフでできた浅くない傷が二、三日で跡形もなく回復してしまう治癒力だ。さして効果はない。


 ――尽きぬ疑問は数えればキリがないほどに溢れてくる。


「――全部、嘘だったのか……?」


 全ては俺を騙すための演技なのだろうか?


 あの物憂げな澄まし顔も、


 あの消え入りそうな儚さも、


 あの子供っぽい怒った顔も、


 あの呆れたような微笑みも、


 あの困ったような微苦笑も、


 あの照れたような笑顔も、


 あの輝く綺麗な金髪も、


 あの青く澄んだ双眼も、


 あの白く透き通るような肌も、


 あの薄い桃色の唇も、


 あの弱々しくも力強い姿も、


 あの優しい心も、


 この胸を貫く淡い気持ちも――、


「――はい。貴方もどうせ気づいているんでしょう? 私は人狼……人を喰らう化物です」



 ――全て偽物?



「命の恩人、仲間、友情、信頼、愛情……? いいえ、そんなものはまやかしです。それは、貴方が勝手に作り上げた、シャルル・アルベルトの虚像です。――捕食者と獲物。それが、私たちの、本来であり唯一の関係です」


 冷淡に、嘲るように、そう言い放つ少女の目は、感情の消え失せた冷徹で冷え切った碧色だった。

 凍てつく氷塊のような眼光に見据えられの俺は二の句も続かずただ黙って俯く。


「……認めて下さい。諦めて下さい。貴方は私に、騙されたんですよ」


 ただ、その胸にあったのは落胆や悲哀などではない。――ただ純粋な『怒り』だけだ。

 握りしめる拳が皮膚を貫き血が伝い、地に垂れる。噛み締めた唇が薄く切れ血が顎を伝う。だがそんなものは気になりはしない。この思考や理性をすべて飲み込んでしまう様な灼熱の怒りに比べれば、感じすらしない。


 しかし、それでも――その伝う血に反応し、痛ましげに顔を歪めた少女の微細な反応だけは、憤死しそうな怒りに飲まれていても見逃さない。見逃しはしない。



 だから――、



「――それは、違う」


「……え?」


 ――気になることがある。


 最初に襲われたあの時、彼女はなぜ俺を助けたのか、だ。

 正体がばれてしまう危険性や自分まで滝に落ちてしまうリスクを度外視しても、一度殺そうとした相手を命懸けで助けるなど1つの人格として破綻している。


 それに彼女は何故あんなにも医学について詳しいのか。

 それは、俺の例を踏まえて考えれば恐らく人狼として傷つけてしまった人々を救うためだろう。だが、やはりそれは矛盾している。


 そして2度目の襲撃の後、まどろみ中で聞こえた声は今ならわかる。あれは夢では無い。シャルルの声だ。


『貴方だったんですね……ごめんなさい』


 そう、悲痛に呟く彼女の声だ。

 その声に篭っていた悲しみも苦しみも慈しみも、俺は知っている。



 それが全て『嘘だった』だと?


 ふざけるな。


 それが全て『偽物だった』だと?


 ふざけるな。


「そんな訳が、あるか……!」


 あの少女の存在が『偽物』だと?


「ふざけるなッ!!」


 胸の奥で煮え滾る様な怒りに任せ喉から血が出そうな程に声を張り上げる。目の前の少女ではない――どこにあるでもなく、どこにでもある、無慈悲で残酷な現実そのものを睨みつける。


「じゃあ、なんで……お前はそんな顔してんだよッ!!」


「……っ!!」


 声を荒上げた俺に、目の前の少女のメッキで塗り固められた冷徹な鉄仮面は呆気なく剥がれ落ちる。

 やはり、この少女は肝心なところで嘘が下手だ。それも、俺はよく知っている。


「そ、そんなことは……わ、わたしが人狼であることは変わらない! だから、早く逃げてくださいよ!!」


「……そうさせたいならそれ言っちゃダメだろ」


「うぅっ……!」


 人一倍お人好しで、それを認めたがらなくて、その癖嘘が下手で、誰よりも人恋しいしくて、それなのに最後には孤独を選び、しかし何処かで誰かに見つけて貰える日を待っていた孤独な『狼少女』。


「何が、『嘘をついた事が無い』だ。十分嘘つきだよお前は……」


 ――これは仮説だ。


 だが、最早俺の中でその答えは確信に変わっていた。

 それは、人狼という化物とシャルルという少女が一つの意思で構成されていない可能性。

 今は亡きガルディとあの欠陥品と名乗った男がヒントになってくれた、一つの体に二つの心が存在する可能性。


「お前と人狼の時のお前の意思は、別なんじゃ無いか?」


「…………」


 俺の問いかけに目を逸らし、シャルルは沈黙で応じる。だが、それはだだ答えよりも俺の胸に突き刺さった。


 ――この仮説はきっとあっている。


「でも、なんで……お前は……?」


 だが、いつも肝心な所で言葉が足りない俺は湧いて出た疑問をうまく言い表せず、どこまでも臆病な俺は決定的な何かが変わってしまいそうな明確な答えの帰ってくる問いなど口にできない。


 目の前の現実から逃れる様に目を泳がせ、踏ん切りのつかない臆病な喉を薄く血が滲むほど爪を立てる。挙動不審な人見知りの子供の様に、はっきりとしない曖昧な言葉を無益に紡ぐ。


 それは、逃げに逃げて手の中にあったものをいくつも取りこぼした『愚物』の、卑賎で矮小な自己防衛の換言だ。


  ならば、そんなものはもう俺には必要ないだろう。


 俺はバレレンの友達で、アンチェンタの悪友で、クローズさんの畏友で、ガルディの同志で、リナさんの友人で、マルコスの戦友。

 何も特別な事は無く、特別な事は何も無い――俺は、シャルルに命を救われた、ただの一介の木こりだ。


 だからこそ、俺は俯かない。止まれない。進み続けなければいけない。背後に築いてきた愛しく尊く凄惨な屍の道を、犠牲の山を、無駄にする事なんてできないから。


 そうして、ふと、雨が降り出していた事に気づく。

 降り注ぐ小さな雨粒は俺たちの髪を濡らし、服を濡らし、じっとりと湿っらせる。この重々しい空気に比例するように雨脚は強まり、服や髪が濡れそばって肌に張り付く。


 思えば最初に屋敷に入るきっかけとなったのも、こんな土砂降りの雨だった。


「――呪い、なんです……」


 そんな雨音に遮られ聞こえなくてもおかしくないぐらいの小さな呟き。だが、それは俺の耳にしっかりと届いた。


「呪い……?」


「……この森で、ある魔女にかけられた呪いです」


「魔女……?」


「はは、なんだかおとぎ話みたいですね」


 力なく笑う少女の目には、混沌とした絶望しか見えない。

 その姿は、問うた俺の言葉を素直に受け止めたというよりは、投げやりな諦めのようだった。


「――で、でも呪いなら! もしかしたら解く事もできるんじゃないか!?」


「はい……この呪いは、解くのは難しくはないんです。」


「なら――!!」


 『それをすればいいじゃないか』そう言おうとした。


 だが、普通に考えてそれは難しくはないが“出来ない”ことなのだろう。

 もしできたなら、誰1人の犠牲者も出なかったはずだ。彼女もこんなに苦しむことはなかったはずだ。そして、その“出来ない”理由は俺にとって最悪なものだった。


「方法は、私以外の人間が私の心臓を銀の弾丸で撃ち抜く事です」


 淡々と、まるで知っていて当然の常識を教える様な口調で、彼女は決定的に絶望的な内容を口にした。

 シャルルの言った方法は、確かに簡単にできることだ。難しい儀式も多くの人員も必要ない。ただ、銀の弾丸という少し特異な小道具さえ集めれば事足りる。


 1人の少女の命で事足りる。


 だが、それがなんだ?


 心臓を撃ち抜くだと?


「それじゃあ……お前が死んじゃうじゃねえかよッ……!」


「はい」


「そ、そんなの……できる訳ッ!!」


「――ギルさん」


 駄々をこねる子供のように、泣き声交じりに喚く俺の声を、シャルルの落ち着いた声が遮る。

 諭される様に名を呼ばれ、俺はゆっくりと顔を上げる。何処か、頭の中の冷静な部分で、彼女の言い出すことは分かっていた。


「貴方は私に恩を返すためになんだってすると言ってくれましたよね?」


「い、いや、俺はそんなつもりで言ったんじゃないんだよ……頼む、待ってくれよ! 俺は、もう誰もッ!! 誰も……!!」


「……ごめんなさい。でも、それでも、私はもう誰も殺したくないんです。これ以外方法は、ないんです」


 大地を叩きつける様な雨音と反響する耳鳴りの中、パチャパチャと湿った地面と水溜りの水が軽快な音を立てて、深く俯いている俺の視界に映るくらいに彼女は俺に近づく。


「これは、私がずっと持っていた……お守りみたいなものです」


 そう手渡されたそれは、鈍い銀色の光を放つ鉄の塊――拳銃だった。中には当然、銀の弾丸が入っているだろう。


 そしてこれで――、


「私を殺してください」


「……っ!!」


嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ


やめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろ


「ぐぁ……ぁぁっ……!!」


  頭の中で、聞き慣れた筈の自分の声がまるで別の何かの様に醜く歪んでいく。それが大音量の合唱の様に鳴り響く。反響し、重なり合っていく。

 そんな内から自らの頭蓋を割らんとする無音の絶叫に対抗する術は無く、頭の中を何かが暴れ回る様な激痛に膝が笑う。意味はないと分かっていても、逃れられない苦痛に掻き毟る様に頭部を掻き抱く。


「私を、助けてください」


 そんな終わりのない阿鼻叫喚を押しのけて、その一言は鼓膜を――閉ざした心を震わせた。


 力強さなんて影も形もないその声は、だからこそ俺を地獄からさらなる地獄へ引きずり出す力を持っていた。

 それを言った彼女の姿は弱々しくて、消え入りそうで――失いたくないと思った。


「私の呪いは、もう後数分で完全に作動してしまいます。この呪いを解くためにここに来ましたが……無理でした……」


「シャルル……」


「そして、満月の今日人狼になってしまえば、今までとは比べ物にならない被害を生みます……! 数えきれない人数の人が、犠牲になります……! そうなれば、もう鞄の中のトリカブトも効きません……」


 トリカブト。聞いた事がある。狼男はトリカブトの摂取によって、変身を抑制する事ができるのだと。

 あのやけに軽い鞄や、人狼が弱っていた理由はそれか。なら、なおさら諦められないじゃ無いか。

 あれは人体には毒だ。死ぬことはなくとも、少なからず影響はでていた筈だ。それでも、少女は耐え続けたのだ。一人で、誰にも知られず、苦しみ続けたのだ。


 そうまでして、必死で誰も傷つけず生きようとしていた彼女を俺は――、


「そんなこと、できるわけ――!!」


「だからッ!! せめて私が私である内に……私を私として殺してください!!」


『――私を助けてください』


 何処かで聞いた気がするそんな台詞を受け止め、俺は俯き再び拳を握り締める。血が出るくらいに、血が出ても気にならないくらいに。強く、強く、握り締める。


 大切な何かを逃さない為に。


 大切な何かを逃さないでいたいから。


 目の前の現実は無慈悲で残酷で救いなんてなくて、殺したとしても殺さなかったとしても、俺を待っているのは逃れられない絶望で、


 でも――それでも彼女を救う道があるのならば。


 気付くと俺の体は優しく何かに包まれていた。顔のすぐ横から香る懐かしい、優しい香りが鼻腔をくすぐり、風に揺れる艶やかな金髪が頬を撫でる。

 冷え切った体に伝わる心地よい温もり。冷え切った心に伝わる心地よい温もり。

 自分の心臓の少し下から一定のリズムで刻まれる、か細くも力強い鼓動。


 ――勇気づけようと思っているなら、生憎それは逆効果だ。俺は、そんな出来た人間じゃない。


『全て失いたくなんてない』


 身を寄せる少女を逃さない様抱きしめる為、俺は手を伸ばす。

 愛しい温もりを自分のものにしてしまいたいという劣情が、決意の決まった筈の心に暗い影を落とす。


『――でも、だからこそ』


 彼女の華奢な背中に伸びたその手を、雨に濡れた服に触れる前に引き止める。未練がましく強張る手を、奥歯を噛み締めて引き離し、脱力して目を閉じる。


「わかった……俺が、君を助ける」


「本当に……ごめんなさい――」


 間近で彼女の悲痛な声を聞き、再び心を掻き乱される。自分の問題とは無関係な筈の他人に咎を負わせてしまうこの方法に、常に他の幸福を望む優しい少女は、きっと心を引き裂かれているのだろう。


 だけど、違うんだシャルル。


「謝らなくていい。謝らなくていいんだよ……シャルル。本当に謝るのは俺の方だ。それに……感謝するのも俺の方だ」


「――――」


 驚きに見開かれた碧色の瞳をしたり顔で見返して薄く微笑む。それを写した澄んだ瞳が、一瞬大きく揺れた様な気がした。

 しかし、それを確かめる間もなく少女の顔は赤い頭巾に隠れてしまう。


「そろそろ……時間です……」


 震える声が鼓膜を打ち、離れていく温もりに咄嗟に手を伸ばし掴んでしまいそうになる。

 しかし、その手をさらに強く握りしめ、踏みとどまる。


 彼女の温もりが離れたことで再度俺の体温は雨に奪われ心は孤独に冷え切っていく。

 そんな冷たい雨に晒された体よりも強い冷気を放つ、右手に持った凶器を彼女に向け、そして撃つ。


 それだけと言ってしまえばそれだけで、それでもそれは俺には出来ない事だ。――だけど、俺の為だけじゃ無いのなら、俺だけじゃ無いのなら。


「ギルさん……お願いします」


「ああ……」


 カチャリと状況にそぐわない軽い音を立て銃口が彼女の心臓に狙いを定める。もちろん初めてなので両手持ちだ。それに、正直片手では震えて落としてしまいそうだった。


「ギルさん、これだけ……これだけ最後に言わせてください……」


「なん、だ……?」


 その“最後”という言葉にいちいち反応し心臓が針で突き刺されるように痛む。

 だが、それを顔に出さずいつもの笑顔を踏襲し、聞き返す。


「本当に私は、あなたに助けられたんです。誰にも、私にも、必要とされなかった、愛されなかった私を……疎まれて、蔑まれて、恐れられて――」


「シャルル……」


「ただ、誰にも会いたくなくて……誰も傷付けたくなくて……あの暗い森に逃げ込んで……でも、それでも私の呪いは――私はあなたを傷つけてしまった」


 辛い過去や悲しい思い出に引き裂かれる彼女の心は限界をとうに通り越していた。

 それだけ辛い思いをして、それでも折れずに進み続けて、たどり着いた答えがこれだと言うのか。


 それではあまりにも――、


「――それでも、貴方は私を命の恩人と言ってくれた。」


 そう囁くように、悲しげに、独白する少女の雨に濡れた髪は、


 それでもまるで太陽の光の様に鮮やかに輝いていて、


 瞳は雨の降る空よりも濡れていて、


「救いが無いなんてとんでもないです……あの時、貴方を滝から救い出したあの時、私は自殺をしようと滝に飛び込んだんです」


「……なっ!?」


「だから、本当に命を救われたのは私だったんですよ。その後に言われた命の恩人という言葉にも――私は、救われていたんです」


 そう言って微笑む少女の笑顔は、何度も見たはずの悪戯っぽい笑みは――、


「貴方は私の恩人で、地獄から引き上げてくれた、私の希望救いなんです」


 儚く鮮やかに、眩しく澄んだ輝きを放っていた。


「だから、もう私は大丈夫です」


「――それは……! ずるい、だろ……ッ!」


 少女の、絞り出す様な一言で、消え入る様な一言で、そのたった一言で、感情の防波堤は音を立てて決壊する。

 溢れ出した奔流に、必死に保とうとしていた体面も、無理矢理繕った笑顔も、全て綺麗に飲み尽くされ――涙が、雨で濡れた頬を更に濡らしてゆく。


「ふふ……すいません」


「笑ってんじゃねえよ……このやろう」


「うるさいですね……貴方こそ、そんな風に子供みたいに泣かないで下さいよ」


 これはいつもの軽口だ。


 そして、最後の軽口だ。


 言い終わるとシャルルは半歩後ろに下がって手を広げる。


「さ、さあ……もう時間が、ありませんッ……!」


 突然、明らかに苦しみだしたシャルルを見て、忌まわしき呪いの進行をまざまざと感じる。いや、突然ではないのだろう。きっとまた無理をしていたのだ。


 そんな彼女を――愛しい彼女を、今から殺すのだと思うと途方もない絶望感に飲まれそうになる。


 足元から全てがなくなり、泡の様な恐怖が全身を逆なでする。


「俺からも……ひとつ言いたいことがある」


  そんな感情を押し殺して俺は喉を震わせる。


 これを、伝えても悲しくなるだけだ。

 だが、それでも――伝えておかなければならない。

 この気持ちは、伝えなくてはいけない。


「……俺は、こんな結末でも後悔はしていない。――幸せだったから。楽しかったから。……好きだったから。だから、君が死んだ後も、ずっずっと愛してる。……俺は君を絶対に忘れない」


 自分勝手で一方的な、残酷で酷薄な――愛の告白。


「――愛してる。君が居なくなった後も、ずっと、ずっと……俺は、シャルル・アルベルトを愛してる」


 自分で恥ずかしくなりそうな、歯の浮く様なその臭い台詞に、彼女は今までで一番驚いた顔をした。


「――は、はは……貴方も、大概酷い人ですよ……」


 呟いたシャルルは、びしょ濡れの顔で笑みを作った。


 それでも、彼女は死ぬのだ。

 この世界から消えて無くなる。もう二度と話せないし、聞けない。見れないし、感じられない。作れないし、残せない。


 ――それでも、彼女は“遺そう”とする。本当は一番怖いはずなのに。死にたくなんてないはずなのに。俺なんかより、生きたいはずなのに。生きるべきなのに。気丈に顔を上げて、彼女は笑う。


 そんな彼女を今すぐ抱きしめてしまいたい。


 だが、それは許されない。


 そろそろ時間だ。


 もう何も言うまい。


 後悔が、募るだけだ。



 引き金に手をかけ狙いを彼女の心臓に絞り、目を瞑る。

 息を止め、手の震えを押さえ込んだら、目を開いてしっかりと前を見据える。


「お願いします」


「ああ、任せとけ」


 そんな短い言葉を最後に彼女は青い瞳を瞼で覆い微笑む。


「――シャルル」


「はい」


「愛してる」


 ――それと、さよならだ。


 こんな土砂降りの雨の中では聞こえるはずのない声。そんな囁きのような一言を機に、煩い雨音の中に一際主張する破裂音が鳴り響く。


 撃ち出された弾丸は彼女の肌を貫き、肉を抉り、骨を砕き、心臓を穿ち、完全に、致命的に破壊して、貫くことなく心臓の中央辺りで止まる。


 その苦痛の中でも気丈に笑みを浮かべたまま、鮮血を撒き散らして崩れる彼女を受け止めようと俺は駆ける。



 手を伸ばす。


 しかし、届かない。



 伸ばした手は空を掻き、目の前で力無く横倒しになった彼女から赤い波紋が広がっていく。

 雨に濡れた大地を赤が塗りつぶしてゆく。


「おわっ……たぞ……シャルル……」


 痛いくらいに打ち付ける雨の中、俺は独り呟く。

 名を呼んだ、眼下で息絶える少女ではないその上の虚空を見据え、引きつった様な笑みを浮かべて、俺は呼びかけ続ける。


「全部、終わったんだ……もう、誰も死ななくていい……」


『私は、シャルル・アルベルトです。えっと……この下流の街で《花屋》をやっています』


 ――頭の中に、懐かしい声が響く。


 それは、懐かしくて、愛しくて、もう二度と聞くことのできない、最愛の少女の声。


「俺……好きだったんだ……多分、初めから……」


『随分と、独り言の多い人ですね……』


 自分のものとは思えない掠れた声を漏らしながら、俺は倒れる真っ赤な少女によろよろと歩寄る。


「仕方ないだろ……? そうしないと俺、頭回んないんだよ……」


『なに諦めたような顔をしてるんですか?貴方は――私に恩返しをしてくれるんでしょう?』


  俺の問いかけに、少女は答えない。ただ代わりに、思い出の中の少女が、会話ではない言葉を紡ぐだけ――否、“再生する”のみだ。


「俺ぇ……っ、ちゃんと恩返し、できたかなぁ……?」


『信じてますからね』


 あんな状況で、命あるだけ儲けものだ。その上命の恩人の願いも叶え、今後生まれるはずだった幾つもの犠牲を救う事ができた。

 たった1人の少女の犠牲で、数え切れない命を救う事ができた。

 たった6人の犠牲で、それを為す俺が生き残る事ができた。


 大団円のハッピーエンド。最後の最後に、尊い犠牲によって多くの命が救われた。

 それでよかった。全部が全部、最後には意味のある犠牲となった。


 ――で、それがなんだと言うんだ。


「…………ぁ……あぁっ……」


 俺は泥水を跳ね飛ばして膝をつく。震える体は思うように動かず、這うようにゆっくりと彼女に近づいていく。


 そうして長々と時間をかけて地に横たわる彼女を抱き起こし、薄い微笑を浮かべ眠るように目を瞑る彼女を見る。一番救いたかった、彼女を見る。


 ――死んでいる、彼女を見る。


「っああ!! うわあぁああああああぁぁぁぁぁあぁあああぁああぁぁぁぁぁあぁあああぁあああぁぁぁあぁぁぁぁぁあぁぁぁあああああああッッ!!!!」


 兆しの見えない希望に、終わりの見えない絶望。

 喉が潰れる様な絶叫に、魂の擦切れる様な号哭。


 手の中の少女が冷たくなっていくにつれ、希望が零れ落ちていくにつれ、求めていた自己の理想のメッキが剥がれる。蝕むような絶望に、心が着実に破壊されていくのが分かる。

 悲しみに歪み、苦痛にひび割れ、絶望によって決定的に砕けた心の隙間に――その隙間を埋めるように何かが入り込む。


「あ、あぁあ、はは!! ははは、ひはっ、あはははは!!! ははっははははははははははははははははははははは!! あはははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは――!!!」


 新たな依り代を見つけたそれは、その喜びに喝采を――否、狂笑を上げる。それは声量を増すにつれ声という形を失っていく。

 口元を凶悪に歪め、壊れた、笑い声だったものを上げる俺は、ギル・ルーズという形を失っていく。

 希望という名の未来は、形を失っていく。


 全てを、失っていく――、



******************



 ――どれだけ歩いただろうか。



 もう2度と目を開けることはない少女を抱えてふらふらとおぼつかない足取りで森を歩く。

 その体は驚く程華奢で、小さかった。しかし、伝わる柔らかさはやはり彼女は女性なんだと思わせる。


 そんな彼女の体は、胸に空いた穴から溢れた血液の喪失により驚くほど軽く冷たい。

 だが、それは俺には魂の抜けた分の重みの差に思えた。だからこそ、悲しかったし、救われなかった。


 涙は枯れてしまったかもしれない。

 心は死んでしまったかもしれない。


 そんな死んでしまった心に入り込んだ“何か”は、今も俺を乗っ取ろうと意識を侵食している。

 自分の思考に別の思考が強制的に侵入する不快感に吐き気がする。しかし、こんな世界に何の未練があるのか、俺の無意識は執念深く抗うことをやめない。


 自らの怠慢の無能によって何もかも失って、何もかも取り零した俺は、全ての始まりとなった森を一人歩いていた。


「……シャルル」


 その名を呼べば、新たな涙が浮かび胸が締め付けられる。


 ――ああ、まだ心は生きているんだな。


 なんて、もはやどうでもいいことを確認する。どうにもならないことを認識する。


「ここは――、」


 何も考えずただ無闇に歩き続けて辿り着いた場所。

 そこは、シャルルと出会った時に落ちた滝だった。


「は……はは、はははは」


 そして、今度は助けてくれる彼女はいない。腕の中で冷たくなった少女は、もういない。


 ――落ちれば死ぬだろう。


 俺は崖のように切り立った場所に立ち下を見下ろす。轟音を立てて落ちる滝は、豪雨の影響で一層力を増している。白い泡を立てて渦を巻く巨大な滝壺はいつかの大蛇の様にとぐろを巻いてうねっていた。


 俺の心に入り込んだ“何か”が、引き止めようと騒いでいる。『生きろ』だの『諦めるな』だの『君は希望だ』だの、何やら喧しく騒いでいる。

 上辺こそ耳心地が良いが、本質は偽善的で保身的で私利私欲に塗れた、どこまでも自分本位の詭弁だ。

 それがまるで自分の吐き続けた空っぽの言葉みたいで、嫌悪感が湧き上がる。


「――うるせえよ」


 だから俺はそれに対して、潰れた喉で呻く様に短く吐き捨て、さらに一歩前に踏み出した。


 ――もう、そこに地面はない。


 一瞬の浮遊感から空気が激しく体を叩く感覚。

 騒音と喧騒を置き去りに落下していく体は風に揉まれ、濡れた服が水滴を散らしてはためく。


 体が反転し重い頭から落ちて行く。


 前を見れば急速に近づく水面が見える。


 前を見れば急速に近づく最期を感じる。



 既に精神と体力は限界を超えていた。そのせいか、落下中だと言うのに急速に意識が遠のく。


 走馬灯のように今までの全ての出来事が再生されていく。


 そして最後に愛しい少女の笑顔が浮かぶ。


 それに俺は手を伸ばす。


 縋り付くように手を伸ばす。


 胸の中の、冷たい少女を抱きしめる。


 突然、世界が闇に包まれる。




 ――俺は意識を失った。







 ――俺は全てを失った。



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