第一幕『森での逃走劇』

 ――青年ギル・ルーズは、木こりだった。


 凄腕の狩人でもなければ、誉れある戦士でもない、何の変哲もないただの木こり。

 毎日ひたすらに斧を振るい、大きな功績もなく、失敗もなく、せっせと慎ましく生きてきた、木こりとしても平凡なそれだ。


 ――それが、なにを間違ったのか、彼は異形の存在に追われる事となっていた。


 別に、新境地に足を踏み入れただとか、仲間内のいざこざにより危険地帯に置き去りにされたとかではない。


 ただ唐突に、なんの前触れもなく遭遇した。


 長年使い続けた斧と最低限の持ち物だけを持ち、今日も今日とてたくさん稼ごうと張り切り勇んで小屋を出て、大木の陰からぬらりと出現した化物に目を奪われた。


 最悪と目が合った。最悪な目に遭った。


 それを理解した瞬間、全身が硬直し脳内で真っ赤なアラートが鳴り響く。

 同時に、それに呼応するように心臓が弾けんばかりに高鳴り、毛穴という毛穴から大量の汗が噴き出のを実感した。


 本能的にも感情的にも、気がつけばギル・ルーズは逃走を図っていた。


 重たい食料の入ったポーチを投げ捨て、いざという時のための斧だけ握りしめ、


 全身全霊、文字通り命がけの決死の逃避行を――、



******************



「はあ……っ、はあ……っ、はあ……っ!!」


 鬱蒼と広がる木々は縦横に枝葉を伸ばす。それによって光を遮られ、じっとりとした闇に包まれる薄暗い森を、俺は必死の形相で駆け抜けていた。

 なにせ、木々を薙ぎ倒し、地を割り砕き、破壊の限りを尽くしながら追ってくる”何か”に追いつかれてしまえば、必死は明白なのだから。


「かっ、はぁ! はぁ、はあ、はあっ!」


 乾ききった喉は荒い呼吸を繰り返すたび裂ける様に痛むが、収縮した肺はそれでも空気を求める。心臓は恐怖と疲れと焦りで痛むほどに躍動し、全身の血管を破りかねない勢いで血液を送り込んでいく。


「くそッ、くそッ、くそ――ッ!!」


 森は薄暗く、苔むし、じっとり湿っていて足場も悪い。つまずいたりこけたりすれば確実に追いつかれるという恐怖が足に纏わりつき動きを鈍らせる。


 それでも、逃げるしか選択肢の無い俺は、走り続けるしか無い。


 俺はだんだんと近づいてくる木々の悲鳴のような破壊音に、その短い人生の終わりを覚悟する。

 ただ、そんな後ろ向きな覚悟が案外すんなりと受け入れられてしまった事にだけは、言い知れぬ違和感を覚えて――。


「なんで……こんなことにッ!」


 そんな混乱した思考を、上から塗りつぶすように、脳裏に幼少期から今現在にかけての様々な記憶が擦り切れたフィルムのようなモノクロの映像として再生される。


 映し出された色褪せた様々な情景の、その陰鬱さに顔を顰める。全くもって、ろくでもない人生だ。本当に、ろくでもない。


「――なッ!?」


 そんな物言いたげな仏頂面は駆け抜けた戦慄に一瞬にして塗り替えられる。

 走馬灯の終了を経て現実へ回帰した瞬間、前を見れば大きな倒木が横たわり道を塞いでいたのだ。


「くそ……っ!」


 『焦るな』と自分で自分に言い聞かせ疲労困憊の体を酷使して飛び上がる。

 全力のジャンプで目の前の倒木に手をかけ、滑る様な体重移動でなんとか乗り越えると、今度は硬い地面が迫る。身を固め、着地を意識する。


 だが、ただ着地するだけでは速度が落ち、すぐ後ろに追いすがる“化物”には確実に捕まるだろう。ただし上手く勢いを殺さず着地できたとしても、代わりに足を痛めでもすれば死は免れない。

 完璧な安全も、生半可な妥協も許されない。


 だが、俺はこの森の不安定な足場や高低差のある場での行動は得意としていた。木こりとして働くようになる前から、俺はこの足場の不安定な森で駆け回り、登り、跳び、過ごしてきた。


 ――この程度の高低差ならば、落ち着いていれば大丈夫だ。


 着地の瞬間足を曲げ衝撃を緩和し、更に推進力を殺さず手を付いて前転する。そのまま体制を立て直し、最後に地を蹴り加速を加えて再び走り出す。


「くっ!? あ、あぶねえ!」


 着地の成功に安心したのも束の間、後ろで硬いものが砕け散る轟音が響き、吹き飛ばされた木片が薄く頰や足を裂く。

 大した痛みではないが、その吹き飛ばされた木片の速度に真後ろに追いすがる追跡者の破壊力をまざまざと思い知らされる。


 しかし、ただの障害だったあの苔むした大木は化物でも容易には突き破れず、数秒の時間稼ぎとなってくれたようだ。


 こうして障害を乗り越えるたび、化け物との距離は開いてきている。ならば、このまま走り抜ければいつかは――。


「な――!?」


 うっすらと見えた希望に頰が緩んだその時、天を覆う様にくまなく広がった枝葉の隙間から覗いた光景に俺は息を呑んだ。

 緑の少ない色褪せた大地にはこれほど生い茂った木々すらなく、なんの遮りもない朝日の差し込むその場所は、その先の光景さえなければ希望に満ち溢れて見えたことだろう。


 ――十数メートル先に広がる断崖絶壁さえなければ、だが。


 すぐさまその光景は覆い被さる様な木々の葉に遮られ見えなくなる。

 しかし、その光景が俺に与えた衝撃は大きい。あの広い断崖絶壁はこの森の終わりを意味している。

 つまり今更方向転換したところで真後ろ――今も俺の命を屠らんとする化物のいる方向以外には道は無いのだ。


 その衝撃に膝の力が抜けややよろめくが、なんとか体制を立て直す。


 そんなことはもはや無駄だというのに。


 その時、首に掛けていたペンダントが服の中から出て目の前に浮かび上がった。

 先程の走馬灯の様に、時間の流れが一気に遅くなり、濃密な瞬間の中、そのペンダントの持ち主――、



 ――妹の顔が浮かぶ。



 妹のクレアは重い病気だ。働くことどころか生活もままならない彼女は、俺の稼ぎがなければ死んでしまうだろう。

 それでも、あと少しで薬が買えるだけの金がたまりそうだったのだ。


「そうだ……俺は……」


 まだ、死ぬわけにはいかない。


 目の前には崖、後ろには化け物、全身は疲労でガタガタ。持っているものは木こり用の斧と腰につけた銀の短剣だけ。


 ――だが、やらねばならない。


「ああ! くそッ、やってやる! やってやるよ!!」


 恐怖をどこか投げやりな怒声で掻き消し、ふるえる拳を強く握り締める。決意は決まった。覚悟もできた。後は実行するだけだ。


 ――とは言ったものの、方向転換し真っ向から突っ込んだところであの化け物相手に勝てる自信が全くない。


「だったら、正面じゃなければいい……!」


 走っている途中、目をつけていた木から垂れ下がったツルを握りそのまま走る勢いを緩めず木にツルを巻き付けるように一回転。

 推進力を殺さず一気に化物の真横に出て、そのまま斧で叩く。

 不意打ちに加え、全力疾走の加速付き。斧もかなりの上物で切れ味も抜群だ。


「当たれぇッッ!!!」


 限界まで引き絞った斧を、腰と肩の回転を十二分に使って振り下ろす。


 風を切り裂く音を立て、斧は化け物の首元へ吸い込まれ、




 ――そして、呆気なく折れた。



 大切に使ってきた相棒の持ち手部分と刃が砕け散ったのを、その光景を驚愕に見開いた目で捉え、勝利を確信して浮かんでいた笑みが引きつる。


「嘘だろ――、」


 感情的には焦燥感と恐怖でどうにかなってしまいそうなのに、暗くてよく見えない化け物に興味が湧いた。せめて死ぬ前に一目見てからと目を凝らす。


 だが、化物はそんな死に土産すら許さない。


 何か、影が目で追えないほどの動きを見せたかと思うと、右半身に全てを根こそぎ持っていかれるような衝撃が走る。次の瞬間、視界が凄まじい速度で回転し、その回転が止まると同時に俺は苔むした土の上に背中から体を打ち付けていた。


「――がぁっ!!」


 肺から空気が全て絞られるような衝撃に、俺は掠れた苦鳴を上げる。

 仰向けに転がり、全身をのたくり回る痛みに耐えていると、ひときわ右肩が痛むことに気が付いた。

 見れば殴られたときとっさに構えた右手が明らかに異様な形で力なく垂れ下がっている。


「いっ……てぇぇ……!」


 最早右腕は使い物にならない上に、割れた額から伝う血が右目の視界を著しく奪っている。足は震えて力が入らず、立つのがやっとで走るなんてとてもじゃないが無理だ。


 しかし、寄ってくる化物に不思議と恐怖は感じなかった。なんとなく、懐かしい匂いがした気がしたのだ。


「――っぁ!?」


 だが、その匂いについて考え出した途端、それを阻む様に胸の奥を締め付けるような痛みと、神経を焼くような鋭い頭痛が思考を妨げる。その激痛に、俺は思わず小さく呻く。


 だが、痛みは俺の邪魔をするだけではなかったようだ。おそらくは偶然。それでも、こわばった手が触れた冷ややかで硬質な感触は、確かに俺を救うことになった。


「これ、は……?」


 腰につけていた留め具を外し、眼前まで持っていくと、こんな状況にも関わらず、その頼りなさと頼もしさに思わず口元が綻んだ。


  ――まだ、武器はあった。


 繊細な装飾に彩られた、刃から柄まで純銀製の短剣。刃渡り10センチほどの観賞用だ。

 昔、同じような十字架とともに誰かにもらったのだ。いつだったか。なぜだったか。そんなことすら忘れている恩知らずな自分に、勇気をくれたこの小さな武器を、まだ力の入る左手でしっかりと握りしめる。


 あの斧で倒せなかった相手にこんな飾りのような貧相な武器で太刀打ち出来るのだろうか。

 だが、その短剣に刻まれた細やかな細工を見ているとかなりの業物にも見えてくる――気がする。


 対する化け物は、俺が完全に諦めたと思って油断しているのか、あるいは獲物を嬲る行為を楽しんでいるのか、ゆっくりと近づいてくる。

 チャンスは一瞬だろう。化け物がとどめを刺そうとした瞬間、一番近づく時を狙う。


 ゆっくりと。


 ゆっくりと。


 ゆっくりと近づく手に。


 迷いが見えた――気がした。



「今ッ――!!」


 叫ぶと同時に全力のバネで加速をつけ、振られた腕の下をかいくぐって懐に潜り込む。そしてそのまま、短剣を突き立てる。

 すると、先程いとも簡単に斧を砕いてみせた硬質な肌を、銀の刃はまるで熟れた果実のように貫いた。


 手に伝う熱い血と、その生々しい感覚に決心を決めた筈の心があっけなく揺らぐ。だが、それをもう一度強く柄を握る事で奮い立たせ、目の前で苦しげに呻く影に浮かぶ黄色の瞳を睨みつける。


「――ッアア!!!」


 満身創痍の体に喝を入れ、俺は刺した短剣を腹から引き抜きその勢いのまま片足を軸にして回転し次は足を切りつける。


 その時、ふとした違和感に意識が乱された。それは、切った箇所からの出血量の多さと、その箇所に上がった青い炎に起因していた。


「まさか……銀が弱点なの――」


 浮かんだ謎の答えに思わず呟く。そんな緩んだ気の隙を突かれ、次の瞬間体は宙をまっていた。

 崖から落ちたのだ。いや、正確には崖に殴り飛ばされたのだ。


 殴られた衝撃で脳が揺れ、朦朧とした意識の中、落下の軌道に入った体を濃密な大気が叩く。打ち付ける突風に揉まれ上下も左右も判別できなくなっていく。

 ただ、右肩に発生する、溶けた鉄を流し込まれたような熱が途切れかけた意識を辛うじて繋ぎ止めていた。


 吹き付ける風によって開くとすぐに乾いてしまう目を、それでも苦心して開くと、下には照りつける太陽の光を乱反射する水面が見える。恐ろしいことにこれだけ落ちても、まだ遠い。


 ――ここ、滝だったのか。落ちたら、さすがに水でも痛いかな。


 今にも飛びそうな意識の中、そんなあまりにも呑気な感想を思い浮かべて、俺は速度を上げ落下していく。


 だんだん近づく水面は、燦々と輝く太陽の光を反射してキラキラと輝いる。どこか懐かしさを覚えるその光景を最後に、



 ――突然、世界が闇に包まれる。



 俺は意識を失った。

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