第四幕『望まぬ再会』

 まだ、丸一日もたっていない森で初めて会った時の事を、嫌な思い出として刻み込まれたそれを思い出す。


 しかもあの時とは違い今は前回のダメージが抜け切らず疲労も蓄積している。ガタガタの体とフラッシュバックするトラウマで挫けそうな心を、震える足を叩いて奮いたたせ、眼前の脅威を睨みつける。


 だが、今回と前回で違う事は、もう1つある。

 俺がやつの弱点が銀だと知っている事だ。そして――その象徴たる銀で作られた短剣。先の攻防で俺を助けてくれた新たな相棒に手を伸ばす。


 しかし、伸ばされた手はあるはずの硬い感覚を捉えず、ただ無意味に空を掻いた。


「――なッ!?」


 まさか、落としたのか……!?

 いや、そうか。よく考えれば気付けそうなものだ。何せあの時俺はあの短剣を手に持っていたのだから。確かに落とさない様、力強く握りしめていた。しかし、それは気絶し、滝に落ちる前の話だ。


「そうか……っ! くそ、最悪だッ!どうする、どうするッ……!」


 だが、今は襲われている最中だ。打開策を考えている暇は無い。

 唸りを上げて接近する剛腕を視界の端に捉えたのは、それが身を引き裂き、致命的な一撃となる数秒前だ。それを意識した瞬間、粟立つ体は反射的に後ろへ跳び退いていた。無意識の回避。それに命を救われた。


「く……っ!!」


 だが、それだけでは終わらない。後を追う様に続く二撃目を、今度は意識的に避けなくてはならないのだ。動きを見てからではきっと間に合わない。だから俺は奴が振りかぶったと同時に後ろへ飛んでいた。

 それでも尚、俺の腹を裂かんと迫る爪を、更に体を腰からくの字に折り曲げることで間一髪逃れる。


「――あっぶねぇ!」


 無理な体勢が祟って後傾にバランスが崩れ、それを取り直すべくたたらを踏んで更に後退する。そのまま化物との距離を取り、壁に勢いよく背を付いて無理のあった体制を立て直す。


「はぁ……っ、はあ……っ、……っぁ!?」


 そうしてなんとか息をつくと、腹部に鋭い痛みが走った。見れば、ジリジリと熱を発する腹部は、避けたと思った爪に服と肌を薄く裂かれていた。手を当てると滲むような血が一文字となって張り付いている。


「くそ……っ」


 リーチでも、腕力でも、速さでも勝てない。ならば――

 そう俺は足りない頭を回転させる。そうだ、もし奴に勝てる点があるとすれば、思考を巡らせた末に得られる妙策か、実力差を埋める強力な武器だ。そして、武器のない俺は焼き切れるほどに脳を酷使させて打開策を思案する。


 ……何か、有効な手段。


「そうだ。銀の武器はなくても銀製品なら――、」


 これ程豪勢な屋敷の内装だ。もしかするとあの大きなタンスの中に一つくらいはあるかもしれない。肝心な部分の怪しい妙策とは程遠い愚策だが、無いよりはマシだ。

 ただ、そのタンスは、化け物と先程叩き折られた物とは別のベッドを挟んだ向こう側にある。障害物を挟んだ上にかなりの距離だ。

 それを抜けるには第一にして最大の難関であるあの化物をどうにか掻い潜らなくてはいけない。


 だが、丁度今は薄暗い上に羽毛が舞って視界が悪い。なら今の内に後ろに回り込むしかないだろう。

 覚悟を決め、溜め込んだ息を吐きながら、俺は下げた片腕の指が床に付く程にゆっくりと姿勢を下げる。

 互いに探り合いのような間が発生し、その緊張感が最高まで高まった瞬間、俺は化物の後ろのベッドに床を盛大に踏み鳴らして全力疾走する。


 突然の動作に虚を突かれはしたものの、すぐさま反応し、走りこんでくる俺を薙ぎ払うように爪を振るう化物の判断力に驚愕しながらも想定内と割り切る。

 空気を切り裂くような轟音を間近聞きながら、その鋭爪を髪を一房犠牲にして掻い潜り、低い姿勢を利用して絨毯の端を掴んで後ろのベッドへ飛び込む。


 柔らかなマットの上に飛び乗ると同時に絨毯の端を強く握り、体に巻き付けるようベッドの上で横回転する。

 それにより絨毯が引かれ、足場が一気に持って行かれた化物は、思惑通りバランスを崩し倒れこんだ。


「今――っ!!」


 それを見届けた瞬間、俺は体に巻き付けた絨毯を蹴り払う。自由になった体でベッドから飛び降り、すぐさま駆け寄ってタンスを探る。

 これほど苦労して辿り着いたタンス。しかし、銀製品はなかなか見当たらなかった。

 早くしなくては化け物が起き上がる。そんな不可視のカウントダウンに急かされながら、タンスの取っ手をつかんでは乱雑に開け放ち、目当ての物が見つからない事に歯噛みする。それを俺は、何度も繰り返す。


「くそっ、くそっ、くそっ!! 何で無いんだよ! こんだけ豪華な屋敷なんだ……1つくらいあってもいいだろうがッ!!」


 一番下のタンスを開ける。


 ――中に入っていたのは、予備のシーツだった。


「……しまっ――!!」


 唖然とシーツの入ったタンスを眺めていた俺は、今の状況を再び理解するのに時間がかかってしまった。

 当然そんな隙を、あの化け物が見逃すわけも無く、森で二度ほど味わった衝撃が体の平衡感覚を支配する。

 そして今度は、盛大な破壊音と共にクローゼットに背中から突っ込む。


「ぐあ……いってぇ……」


 呻きながら目を開けば右目の視界が真っ赤に染まっていた。どうやら頭の傷が開き再出血した様だ。

 だが、痛みに慣れたのか森の時よりは痛く無い。まだ、なんとか動ける。


「次が来る……っ! 早くここから――」


 ギシギシと音を立てる無残な有様となったクローゼット。そこからいち早く出ようと、手掛かりに掴んだひんやりと冷たい鉄の感覚に、俺はふと違和感を覚える。

 その何気なく掴んだ物を確認するべく写した視線の先の光景に、思わず言葉が飛ぶ。


「何で、こんな部屋に……」


 ――そこには衣装ダンスにはおおよそ不似合いな無骨な武器があった。


 どうやら猟銃のようだ。打った事など無いが、猟師が使うのを幼い頃何度か目にしている。


「いや、そうだ……これなら――、」


 見たところ本物だ。使われている形跡がある。弾もある。だったら――使える。


 至った考えに再びなけなしの闘志が沸き上がり、それを支えに頭を回転させる。

 古い記憶を探り、見様見真似で構える。硬い剛毛と皮に守られた頑丈な肉体にも、流石にこれならば通るはずだ。


 自らを鼓舞するための掛け声と共に思い切り引き金を引いた瞬間火薬が爆発し、その衝撃で弾丸が高速で発射される。

 鼓膜をつんざくような煩い射撃音を真横で聞く事になった上に発砲の衝撃で腕を痛めた様だ。


 だが、そんなものは気にならない。――目の前の光景に比べれば。


「は、外した……」


 自分のもので無い様な掠れた声を出し驚愕に目を見開く俺の思考は完全に真っ白になって停止する。


 起死回生の期待を込め放たれた弾丸は、炸裂した爆音に驚愕し警戒を露わにする化物のすぐ横に位置する、爪に抉られ散々な有様だったクローゼットにダメージを追加しただけだった。


「なん、だ? 躊躇ったのか? 俺は! だったら、なんで……!?」


 訳がわからなかった。自らを殺そうとする化け物に致命傷を与える事を躊躇ったのだ。


 今思えば森での時もそうだ。あの時の俺の位置からならば、遥かに近い上、致命傷になりうる首を避け足を切ったせいで俺は殴り飛ばされ滝に落ちる結果となった。


 ――なんでだ?


 純粋な疑問に支配される。

まるで何か、大切な事を忘れているような……

 痛む頭を抱え、思考を巡らせる俺は次の瞬間、向かいの壁まで吹き飛ばされていた。


「――がぁっ!!」


 壁に背中から叩きつけられ、その衝撃が肺の中の空気を押し出す。

 そうして一気に吐き出した酸素を求め必死で空気を吸い込むが、うまく呼吸ができない。


「はぁ……はぁ……ぐっ、ごほっ! ごほっ!」


 通算4度目の直撃だ。体はもう動かない。それは、行動不能に至るには十分すぎるダメージだった。


「はぁ……はぁ……」


 青白い月明かりが黒い影に遮られる。その影はとどめとばかりにゆったりと、ナイフの様な鋭い爪の伸びる手を振りかぶる。


 ぼんやりとした視界の先、随分と愚鈍な世界で、命を刈り取る凶悪な鋭爪が振り下ろされるのが見えた。


「シャル……ル……」


 何故か口をついて出た名は、まだ出会って1日とも立っていない命の恩人の名だった。


  ――なんで。


 その疑問の答えが出るよりも、振り下ろされる爪が俺の身を引き裂く方が早いだろう。だから、俺は考えない。

 考えたって、分かったって、どうせ終わる命のだから――、


「………あ、れ?」


 しかし、それが俺の体を切り裂いていく寸前、化け物の体位が揺らいだ。体位と共に揺らいだ鋭爪の軌道から外れた俺の体の代わりに、高級そうな椅子と壁の装飾が木片に変貌する。


 ――なんだ?


 朦朧とした意識の中、湧き出た疑念に駆られ、重たく閉じかけていた瞼を持ち上げる。見れば、化け物の横腹に大きな斧が炸裂していた。

 そして、それは偶然にも俺が銀の短剣で刺した位置だ。


「グルルルルッ……!!」


 苦しそうに化け物は呻く。痛みはやはり感じるようだ。それに、あの斧は効いている。


「おい、あんた! 大丈夫か!?」


 どうやら助けが来てくれたようだ。

 最初に入ってきたのは、俺のとは違う戦闘用の斧を振るう流れの傭兵ガルディだ。


「にげ、ろ……!」


「ああ? なんだこい――ぐぅッ!?」


 忌々しげに彼を睨みつけていた化物は唖然とした様子で呟くガルディの斧を、振り上げた手の甲で払いのけた。ガルディは突然の反撃に動揺しながらも、カチ上げられた斧を離すまいと柄の部分を握りしめ、耐える。

 しかし、そのまま無理な姿勢で後退する傭兵の腹を、今度は放たれた大気を薙ぐ様な重い蹴りが襲った。ガルディはそれを手の甲についた分厚いコテで防いで見せたが、その威力にさらに後ろへ吹き飛び靴底を削りながら止まる。


 丁度その時、開け放たれたドアからぞろぞろとつい最近見知った顔ぶれたちがなだれ込んできた。


「一体何が……うわっ!?」


「何、だ……こいつは……!?」


 お互い手の出せないギリギリの距離を取り、そのまましばらくガルディと睨み合っていた化物は、遅れて次々と入ってくる人々に恐れを覚えたのか、それともただ単に面倒になったのかは定かでは無いが、最後にこちらを射抜く様な眼光で一瞥して窓から飛び去っていった。


 暗い部屋から飛び出した化け物の姿が、端の欠けた月の光により照らし出される。

 その姿は、人の形をしたオオカミ――童話の狼男のようなものだった。


「ここ、3階だぞ……」


 頬を伝う冷や汗を拭うという考えすら浮かばないほどに、異常は俺の平常を掻き回していった。

 だが、そうして唖然とし続けているわけにもいかず、せめて状況確認でもと周りを見渡す。どうやら、館に入った時揃って顔こちらにを向けていた顔ぶれたちは勢ぞろいしているようだった。


 まあ、あれだけの騒ぎだ。静まり返った真夜中らならば十分に屋敷中に響くだろう。

 ともなれば、全員集まったとしてもおかしくは無いはずだ。


 ――いや、まてよ?


「あ、れ……? ア、アルバートさんは……?」


 全身が痛むこの体はうまく言葉すら紡げない。だからと言って黙ってなどいられず、俺は途切れ途切れの質問を口にした。

 よく見れば全員ではない。屋敷の主人であるアルバートさんがこの場にいないのだ。彼は俺の部屋の真下で寝ているのにも関わらずだ。

 それを度外視しても、屋敷の主人が1人だけ来ないというのは少しばかり妙だ。


「――あ、ああ。そうか、君はまだ見ていないから、知らないんだね」


「何を、だよ……?」


 意味が変わらないと聞き返す俺に、髪の長い女性は長い睫毛を伏せた曇り顔で静かに答えた。


「彼はもう、死んでいたよ。君を襲った化物……多分、あいつにやられたんじゃ無いかな」


「は……?」


 唐突に告げられたその言葉に、理解が追いつかない。さっきまで見て、話して、笑い合いもした人物が死んだという事実は、俺に想像以上の衝撃を与えた。まるで現実味があるように思えないが、冗談だとも思えない。

 それに――現実味の無い事はさっき目の前で起きたでは無いか。


「だから、私たちがあなたの部屋に来るのも遅かったんです」


「そうだ! 多分、あの化け物にやられたんだよ! あいつなら納得がいく! 現にギルさんも襲われているんだし……!」


「で、でも!あまり判断を急ぎすぎるのは……」


「おい、貴様。本当にさっきの化け物を見たのか?  あれは完全に俺たちを獲物として見ていた。あれならば、やりかねんだろうが」


「ええ、そうかなあ? 私には案外ビビってた様に見えたけど……?」


「黙れ。誰も貴様の受けた印象など聞いていない」


「まあまあ、お二方。ここは、落ち着いて」


 皆は興奮気味に化物についての推測や恐怖について話し合う。討論は白熱し、互いの意見を押し付け、飲み込み、新たな意見を出す。それを繰り返す喧騒は収まる気配もない。

 しかし、俺にはそこに混ざることはできなかった。


 それは、朦朧とした意識が再び途絶えたからだ。

 そして、それとは別にどうしても拭いきれない違和感があったからだ――、

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