第八幕『狂人の唄』

  何でだ。何でこうなった。何がダメだった。俺は本当に役立たずだ。何故気付けなかった。何故気付いてあげられなかった。今思えばおかしな点は沢山あったと言うのに――。


 溢れる後悔に溺れながら、俺は様々な出来事を思い出す。


 最初にリナさんの意見に過剰に同意したバレレンに向けられた怪訝な表情についてだ。

 あれはただ、馴れ馴れしく振る舞う赤の他人を警戒する表情だったのだ。それもそうだろう。見知らぬ相手に過剰に親しく接されても、不審に思うだけだ。


 それに、俺の部屋をリナさんの部屋と間違えた時もそうだ。なぜ恋人の部屋を知らないのか。聞けばすぐにわかるはずだろうに。

 それは恐らく、部屋を総当りしていたのだろう。敢えてききかえしにくい話題を大声で叫び、リナさんが出てくるのを待った。そうすれば、リナさんは出てこざるをえないし、他の人達は不可解に感じるだろうが、せいぜい人違いと教えるくらいだ。――だから俺がドアを開いた時にあれほど驚いていたのだのだろう。

 背中に隠したのは、お詫びの花などではなかったのだろう。


 しかも、あいつは何故か俺と話した後、自室に戻り眠ったのだ。あれほど気にかけていている彼女を放っておいて――、

 だが、それもそうだ。最初から喧嘩なんてしていなかったのだから。


 それに一度でも彼らが話しているところを見たのか?

 食事の時、彼があれ程までに騒ぎながら食べていたのに、リナさんは話しかけようともしなかったのだ。だが、それも見知らぬ人物と考えれば合点が行く。


 何故気付かない。ここまでおかしな点があって。


 何故不審がらない。ここまで条件が揃っていて。


 気づくためのヒントはあったというのに、


 俺はまた、何もできなかった――。


*******************


「ぐ……っ」


 焼けた鉄を押し付けられたような感覚に脂汗が浮かび、腹部から伝う血は白いシャツを赤く染める。

 だが、痛みよりもそれを成した人物への衝撃が、俺を床へ縛り付けていた。


「ギ、ギルさん!」


  裏返った声で名を呼び、駆け寄るリナさん。その行動に俺の心臓が大きく跳ねるが、幸いバレレンは意にも解せず笑い続けている。

 その痛々しいまでの高笑いは、俺にはまるで何か辛いことから逃げようと必死になって上げる悲鳴のように聞こえた。


 どうして彼はああも狂ってしまったのだろう? もしかすると、彼を壊したのは俺への嫉妬なのだろうか。


 いや、考え過ぎだ。出会ってたかが数日の俺が持つ影響力なんてたかが知れている。


  それに、彼の言動やリナさんの反応から察するに、どちらかが嘘をついているということになるだろう。


 一目惚れでもたった数日の関係でこの暴挙というのは、あまりにも不自然だ。


  だが、そうなればリナさんが嘘をついているということに――、


「ど、どうしました?」


「――っ!」


  疑心暗鬼に歪んだ顔でこちらを見る俺に気がつくと、リナさんは心の底から俺の身を案じた声を出す。その反応に、俺の浅ましい考えは四散した。代わりに、凄まじい自己嫌悪が押し寄せる。


  誰が怪しいか。誰が嘘をついているのか。そんなも、俺なんかにのわかるわけがない。

 隣で俺を案じ、声をかけ続ける少女も、俺のすぐ真横に立ち尽くすこの少年も、俺にとっては大切な――、


 いやまて、真横――?


「――は、離れろッ!!」


 あまりの衝撃に、俺はバレレンがすぐ隣まで近づいていた事に気付きもしなかった。

 気がついたのは、彼がその足を振り上げ、リナさんを突き飛ばした俺の脇腹を蹴りつけるほんの数秒前だった。


「ぐぅ……!!」


 咄嗟にリナさんをかばうことはできたが、傷口にかなり重い一撃を喰らう。もしナイフを引き抜いていなかったら、今ので致命傷だ。


「あれ? いつの間に抜いてました?」


 バレレンもそれを狙ったらしく、まるで悪戯を失敗した子供のような軽い調子で訊いてくる。


「お前……本気で――がっ!?」


 重たい首を持ち上げ問いただす俺を、バレレンは再び蹴りつけた。


「質問に質問で返さないでくださいよ。」


「は、あ……? お前、何を――ぐふっ!」


「だ、か、ら……! 何度言えばわかるんですか!?」


 まるで物覚えの悪い子供を叱るかのように、バレレンは怒声を重ねる。


「最後のチャンスですよ?ちゃんと、僕の質問に答えてください」


 言いながら、バレレンがゆっくりとした動作で足を上げる。振り上げた足が、蹲る俺の頭上へ迫るのが分かる。


「なんでだよ……?」


 震えた声を聞いた彼は、心底不愉快そうに眼を細めると、俺の頭蓋を踏み砕かんと分厚い靴底を振り下ろす。

 

 ダァンと、やけに大きな音を立てて木の床に叩きつけられた己が足を睨み、バレレンは苦悶の表情を浮かべた。だが、それは躱された悔しさではない。――踏みつけた足に発生した痛みにだ。


「っあ゛あ゛……! 痛い……痛い、痛い、痛い痛い痛い痛い痛いッ!!」


 俺はあえて質問を重ねることで挑発をし、わざとバレレンに足を振り下ろさせた。

 怒りに我を忘れたバレレンの行動は単調で、余裕を持った回避とうずくまった俺の背中で死角になる床にナイフを突き立てることができた。


「はあっ! はあっ! はあっ!」


「ああッ!! い……っ、ぐぁぁあああ!!」


 荒い息を吐きながら、細長いフルーツナイフが貫通した足を押さえ、ゴロゴロと転がるバレレンを横目に俺は素早く距離をとる。

 ほとんど、体が勝手に動いていた。恐怖と急に真っ白になった思考ではなく、本能が俺を救ってくれたとしか思えない。


 だが、足を貫通しているのだ。これでもうバレレンは激痛で動くことも――、


「あぁあ! 痛い、痛いよ! くし刺じゃないか……全く分かる酷いことするよなぁっ!!」


 そんな、俺の浅はかな考えを打ち破って、バレレンは起き上がってすぐさま俺を追撃する。

 予期していなかったの間髪入れずの反撃に動揺し、必死に避けようとするが、後ろは棚で塞がっていて動けない。


「しまっ――!!」


 容赦なく振り切られた硬く鋭いブーツのつま先が、俺の腕を抉る。なんとか構えはしたが棚と挟まれる形で蹴りつけられた。

 その威力に重ねた手が頬に当たり、口の中が切れ、鉄の味で充満する口の中は僅かに残っていた甘い幻想さえも打ち崩す。


 しかし、感傷的になっている暇ない。すぐさま身を起こそうと動いた――途端、左腕に鋭い痛みが走る。


「――いッ!?」


 見ればバレレンの足に刺さっていたフルーツナイフが俺の腕に刺さっていた。どうやらブーツのつま先だと思っていたあの鋭利な感覚は、彼の足に刺さっていたナイフだったらしい。


 驚愕に打ち震えながらも、追撃を逃れるため今度は前に飛ぶ。後ろを見れば先ほどまで俺の頭があったであろう場所を蹴り抜くバレレンの姿が見えた。


 前転する様に着地し、更にそこから転がって距離を取ると、態勢を立て直しながら最初に刺された脇腹に手を伸ばす。

 脇腹は血が滲んでいるものの俺の着ていた厚めのジャケットとシャルルの巻いてくれた包帯に阻まれて傷は深くないようだ。

 どちらかと言えば腕に負った傷の方が深い。


「バレレン……お前、一体なんでこんな事をするんだよ!? こんなことしても意味なんてないはずだ……お前も分かるだろ! なのになんでだよ!!」


 正直理由なんて問いただしている余裕があるのが奇跡であるほどに焦っていた。いや、余裕なんてない。こんなもの、虚勢となんら変わらないただの体面の取り繕いの様なものだ。


 ただ、比較的温厚そうな印象を受けていた彼の姿が、目の前の凶悪そのものな狂態とは結びつかないことにも、疑問が抱ける程度には冷静さは残っていたという、ただそれだけの事だ。


「意味がない……? いいや、ちがう……意味なら、あります。――決まって流じゃないですか。全部、リナのためですよ……」


「リナさんの……ため?」


「そうだ。今度こそ、僕が彼女を守ってあげるんだ。もう誰にも奪わせたくない。あの時も……僕が守ってあげられたらどんなによかったか……なんで! なんで! なんでぇ!!」


「な、なんの話だよ……?」


「みんなあいつらが悪いんだ……あいつらのせいだ……!! 僕の話に聞く耳を持たず! 自分可愛さに独りよがりの自己防衛に走った!! あのッ! あのッ!!」


「だから……な、何を――」


「あいつらのせいであいつらのせいであいつらのせいであいつらのせいであいつらのせいで――!!」


  俺は遅まきに悟る。いや、遅すぎだ。これはやはり俺なんかが原因じゃない。こいつはもっと前から壊れている。こいつは本物だ。本当に狂ってしまっている。


 何があったかは知らない。しかし、“何か”が起こり彼の心は決定的に破壊されたのだ。それだけは、見ればわかる。


「だからみんな殺すんだ! ボクを殺したヤツらを! 皆殺しにしてやるんだ!! そうだよ……最初からそうすればよかったんじゃないか……僕はやっと変わることができたんだから」


 俺は人狼と出会った時とはまた違った異質な殺意というものを向けられている。それを嫌というほど実感する。体の芯から冷えきっていくような感覚に襲われる。


「だからさ……」


 バレレンは一気に俺との距離を詰める。混乱と無理解ほとんどの意識を割いていた俺は反応が遅れてしまう。


「邪魔――するなよ」


 間近で発せられた短い拒絶の言葉を耳にした俺は、とっさに顔の前を手で覆う。さっきのように何か刃物で攻撃されると思ったのだ。

 だが、バレレンが持っていたのは別の物だった。


 構えた腕の下から迫る細かい粉塵が視界を覆い尽くす。


 次の瞬間、閉じるのが間に合わなかった瞳を異物の混入による激痛が襲った。


「づぁ……!?」


 両目を抑え反射的に後方へ下がる。いや、あまりに咄嗟のことで周りの状況も把握できておらず今自分が本当に後ろへ下がっているかも疑わしいほどだ。

 目を擦りながら手近にあった机に寄りかかり状況の悪さを歯噛みする。


「あはは!! 見えない? 怖い? は、はっ! ははははは!!」


「お、おいおい、バレレン。お前……これは流石にイタズラがすぎるぜ? それに何だ。何がそんなに可笑しいんだよ。無理して笑ってんのが目に見えて分かって痛々しいぜ?」


 内心では震え上がるほどに怖いが、それを認めたくない俺は冗談めかしてそんな事を言う。

 本当にこれが冗談ならどれほどいいか。だが、それは実際俺が感じた素直な感想で――、


「――黙れ」


 しかし、バレレンからの返事は相変わらず短い拒絶のそれだけだ。思い切り俺の腹を殴りつけるバレレン。いや、これは膝だろうか。


「――ぐぅッ!!」


「ギルさん!!」


 身構えていなかったみぞおちにめり込んだ膝は鋭く俺の腹をえぐる。内臓を直接蹴られたような衝撃に塞がった視界が赤と黒を写して交互に点滅し、せり上がった胃酸を吐き出す。

 それを見たリナさんが、痛ましげに悲鳴を上げた。


「なんで――逃ようとしないんですかッ!!」


 蒸せ返る俺の頭上から硬い何かが振り下ろされた。


「そんなにリナが大事ですかッ!!」


 衝撃に下がる顔を次は顎の下から何かが叩き上げる。


 『殺す気か』と内心毒づく。


 いや、何を言っているんだ。こいつは自ら、ハッキリと明言したじゃないか。


 『殺す』と、


 その意味も考えずにただの脅しとして言ってしまえば、何と安い言葉だろうか。

 その意味を考た上でただの言葉として言ってしまえば、何と怖い脅しだろうか。


「なんであなたは――ッ!!」


 今まで本気の殺意を向けられたことはなかった。殺してやるなんて、言われたことはなかった。それも、この館で初めてできた友達だった人物にだ。


 それが恐ろしく辛い。それが震えるほど怖い。それが堪らなく痛い。それがどうかしてしまいそうなくらい苦しい。それがどうしようもなく悔しい。それが信じられないほど虚しい。それが死にそうなほど――悲しい。


 そんな負の感情が、入り乱れて、溢れて、思考と希望を塗りつぶしていく。現実と悪意が、幻想を塗り替えていく。



 それが、




 それが――、




「友達、だからだ……!!」




 ――それがなんだと言うんだ。


「なあ――!?」


 放たれた怒声に怯み、威力の落ちた蹴りを脇腹と腕で掴むと、小さく声を上げた少年をそのまま振り回して投げとばす。塞がれているため見えないが、遠くの方から何かが壊れる音と苦鳴が聞こえた。


 ――確かに今のバレレンは壊れている。狂ってしまっている。俺なんかじゃどうにもできないくらいに。どうにもできないくらいに。


 でも、それは俺の諦める理由にならない。


「……そうだ」


 壊れたなら治せばいい。失ったなら補えばいい。自分にできることを精一杯やる。それしか出来ないなら――それぐらいはやってやる。


 視界をふさがれた目も異物が涙で洗い流されてきた事で薄っすらとなら見えるようになってきた。

 俺はすりガラスから入る大広間の薄明るい光を頼りに、フラフラと立ち上がったバレレンを捉える。


 それにあの化け物の力に比べれば小柄なバレレンの拳など大した事はない。断然軽い。目で追える。


 そして何より――。


「こっちの攻撃が、効くッ!!」


「――ッ!!!」


 大地を強く踏みしめ身を捻り、その回転と全身の体重を右足乗せ、全力で蹴り抜く。振り抜かれた右足は難なくぼやけた小柄な人影へ吸い込まれ、確か手ごたえと共に軽い体が吹き飛ぶ。


 右奥で盛大な破壊音を立て、再び倒れ伏すバレレンに背を向け、その間に俺は蛇口を捻って目を洗う。


「よしっ! 見える!!」


 やっと異物を洗い流した瞳を何度も瞬かせ、その実感を噛み締め――そしてすぐに見なければよかったと後悔した。


 そこには、あの楽しげな笑顔を浮かべる少年はもうそこにはいなかった。いるのは凶悪な凶相で俺を睨みつけるただの狂人。


 直感的に確信する。これは俺一人だけでは無理だ。それに、こういった場合助けを呼ぶのは至極当たり前のことで正しい手段のはずだ。


 それにまずはリナさんの安全を優先しなくてはいけない。彼女が殺されたりしてはバレレンを助けたとしても意味がない。

 俺もう誰も殺されたくなんてない。それに、こいつを人殺しにさせてたまるか。


 息もつけない攻防に生まれたわずかな時間。それを使って、俺は横目にリナさんの方を確認する。


 ――よかった。なんとか大丈夫そうだ。


 見れば彼女はもう、あまり取り乱した様子はない。

 しかし、さっきまではあんなに取り乱していたのに、一体何故――、


 そこまで考えたところで再び思考が中断され、額に衝撃と鈍い痛みが走り脳が揺れる。

 どうやら、太い棒のようなもので殴られたようだ。


「がぁっ……!?」


 これはこんな場面で別の事へ気を取られた俺が悪い。だめだ、混乱や焦りで意識が散漫している。


「いってぇ……」


 血が垂れる頭を押さえてよろめく。額が割れるのはこれで4度目だ。

 しかし、俺は思考を止めない。助けを呼びながらリナさんの安全を確保する方法。それを、思索する。


「そうか……!」


 つまりはリナさんに助けを呼びに行って貰えばいいのだ。そのためにはドアと俺たちの間に立っているバレレンをどうにかしなければならない。

 そういうことならばやることは決まった。

 誰も殺させない。俺は何も失いたくない。ならやることは1つだろう。


 ――バレレン、後で謝るから許せよ!


「まっ、守るだぁ? ハッ、お前は何も守れやしねえよ!! おらどうした、かかってこいよ!! この勘違い野郎がッ!! お前なんかより、俺の方がリナさん……リナにふさわしいんだよ! てめえは指でもくわえて見てろ! このっ、馬鹿野郎がッ!!」


  ちらちらと送る視線から、バレレンの意識がまだリナさんにも集中しているのはわかっていた。だから、効果があると実証済みの挑発で俺はこちらへ注意をそらす。


 そのために、俺はバレレンが反応するであろう言葉を選んで口汚く叫ぶ。

 その内のどれかがは分からないし、全てかもしれないが――少年の逆鱗にそれは確かに触れたようだった。


 『ブチリ』と、何かが切れる音が聞こえた気がした。


「は、はは……ははは……はははははははははははは、はははははははは、はははははははははははははははははははは、ははははははははははははは、はははははははははははははははははははははははははははははは、ははははははは――」


 最初の狂笑なんて比べものにならない。聞くだけで全身が粟立つ、まるで悲鳴のような笑い声。

 それは、あのはにかむような楽しげな笑顔と声とは、どうやっても結び付きやしない。


「や、やり……過ぎたか?」


 バレレンの目は血走り、引きつったように上がる口もとは歪に歪み痙攣している。だらりと脱力した上半身を、下半身だけで支える異様な姿で、バレレンはくつくつと笑い続ける。


「バ、バレレ――」


 俺の言葉は遮られる。振り抜かれたバレレンの拳によって。

 頬を思い切り殴りつけられて俺はテーブルの上を転がるように吹っ飛ぶ。意識が飛ばなかったのは奇跡だ。


 人間は脳にリミッターが掛かっていて興奮状態になるとリミッターが緩くなるというが、その類だろうか。

 それ程までに、その拳の威力は桁違いだった。多分頬骨にはヒビが入っただろう。


 そんなことを考えながら、吹っ飛んで壁に激突し、跳ね返った勢いのまま倒れた俺をバレレンが更に追う。その気配を感じ取り、俺は転がって仰向けになると、止めとばかりに馬乗りになろうとするバレレンの胸を蹴り上げた。


「くそっ、いきなり元気になりやがって! ――でも、チャンスだ……リナさん! 今だ、早くいけッ!!」


「で、でも……」


「助けを呼んできてくれッ! 頼む! 早くッ!!」


「……分かりまし! 必ず、必ず助けを呼んできます! だから、それまでは絶対に死なないでッ――!!」


 掠れる様な声で言い残すと駆け足でリナさん部屋から出て行く。


「ああ、分かった……なるべく死なない様に頑張るよ」


 あとは時間稼ぎだ。やるしかない。俺は再度距離を取るべく厨房の奥へ駆ける。挑発に乗って追ってくるバレレンを迎え撃つために。

 事に、バレレンを挑発した理由は二つある。一つは、端々で小道具や罠の機転が利くバレレンの冷静さを消し去るため。もう一つは、リナさんに執拗に固執するバレレンの気を、完全にこちらへ向ける事だ。


 しかし、そんな俺の思惑を全て裏切って、バレレンはドアの方へ向き直った。


 ――まずい!


 咄嗟に鳴り響いた警告のアラートが、全身の筋肉を硬直させる。


 まだ、あれでも煽りが足りなかったのか……それ程までに彼女への思いが強いのだろうか。――ならば、なおさら認められないだろう。


 靴のゴムの摩擦を満遍なく使い、床を思い切り蹴る。真逆の方向への方向転換だ。スピードは期待できない。こんな速度では、この距離を瞬時に詰めるのは不可能だ。


 だが、しかし――そんな不安は杞憂に終わった。


 なにせ、バレレンの狙いはリナさんではなかったのだから。

 バレレンが手を伸ばしたのは先ほどのフルーツナイフとは比べ物にならない、馬鹿デカイ中華包丁だ。


「……なッ!?」


 あの挑発は、注意を惹くのには十分だったのだ。それは思惑通りの喜ばしい事だが、この状況は全くその限りではない。


 今更止まれない。全力で走っていたのだ。バレレンとの距離はもうあと5歩もない。

 だが、あんなものどうやっても素手で受け止められるわけがない。かと言って無理に避ければ転けてしまう。そうなれば確実に次の一撃で致命傷だ。


「だったらッ!!」


 そのまま突っ込む。その上で、追撃をさせなければいい。


 振るわれた刃を、俺は滑り込むようにして避ける。こちらから走りこんだこともあって、まだ振り切る途中の刃の位置は高く、それはやすやすと避けることができた。

 そして、俺はそれと同時に走り様に掻っ攫った袋を俺と入れ違いになるように投げていた。

  その紙製の袋を、思い切り包丁を振ったバレレンは一気に切り裂いてしまう。――瞬間、袋いっぱいに入っていた白い粉末状の内容物が炸裂し、粉塵が彼の目の前を覆う。


 これは恐らく、さっきバレレンが俺に投げつけた粉だ。


「ぐゔぅぁあああ……!!!」


 視界を塞がれ怒りに呻くバレレン。これならばこのまま勝てるかもしれない。俺は手近に立てかけてあったすりこぎを手に取り素早く彼の後ろへ回り込む。


「うおぉぉおおおッ!!」


 叫び、迷いを捨てて一気に振り下ろす――、





 ――ガクリ、と


 気付けば俺は膝をついていた。突然、足から力が抜けたのだ。


「……ぁ、れ?」


 そのまま床に手をつき、体をギリギリで支え倒れる事だけは回避する。だが、曖昧になる思考は、なぜかそれとは別の疑問を消化していた。


 何故こんな昼間から次々と皆部屋にこもっている? それはいつからだ?


 分かりきっている。――昼食を食べてからだ。


「あのスープ……!」


 俺はスープを一口しか食べていない。だから効き目が弱く、遅いのか。

 そして、体に入れる事で作用し、延いては行動不能まで至らしめるもの。人を無力化するために食品に混ぜるもの。

 不吉な単語が頭をよぎる。そして、それは多分当たっている。


「まさか『毒』か……?」


 その呟きを聞き届け、視界を塞がれたバレレンはまるで、今俺がどうなっているか分かっているかのように口元を歪めた。


「ハァ……やっとか……」


 ああ。これは――まずい。


「体、重たいでしょう?」


 一言一言を噛みしめる様に言って、バレレンが赤く充血した目を開く。


 こんなもの、どうすれば――



「今度は……どうしますか?」

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