第十四幕『真紅の世界』

 1日目は笑ってみた。2日目は怒ってみた。


 少女に、反応はなかった。


 3日目は泣いてみた。4日目は戯けてみた。


 また、反応はなかった。


 5日目は元気に、6日目は静かに話してみた。


 少しだけ、反応してくれた。


 7日目は――、8日目は――、



 そうやって、僕は何度も何度もいろんな自分を演じた。

 本の知識や、森の周りに住む村人たちの姿を真似て、試行錯誤を繰り返した。


「クレア! 今日は木こりの仕事でお金をもらったぞ!」


 その内に、気がつけば固まった人格ができていた。


 話し方や口調のみならず、感情の機微に至るまで、精密に精巧に、新しいギル・ルーズは出来上がっていった。


 ただ、その内に前はできたことができなくなっていた。覚えた技術は、大半が使えなくなっていた。

 同時にその事実すらも、俺は忘れていった。


「はは……」


 水を汲みに向かった池に映り込む、随分下手になった自分の笑みを眺めて、俺は息をつく。


「…………」


 青空を背にぎこちなく微笑む自分は、どこか朧げで、不安定で、それが今の自分と重なって――、


「お前は、誰なんだ……?」


 気付けば、俺はそんな問いを発していた。


「俺は、一体なんなんだ……?」


 返事も、反応もするはずも無い、水に映り込んだだけの不安定な自像。


 それが突然、大きく歪んだ。


 唐突に、それでいてゆっくりと、渦を巻くように捻れていく。


 それに見入っていると、魅入っていると、まるで吸い込まれるような錯覚を覚えた。

 勝手に体が前傾に傾き、その池ではないどこかに飲み込まれるような感覚を覚えた。


「あれ……?」


 気付けば、


 ――俺は水面から世界を見上げていた。

 


******************



 ――久しぶりに夢を見た。


 当然だ。まともに眠っていなかったのだから。


 それを恐れて眠らないようにしていたのだから。


「…………」


 ここに繋がれてから、3日は経っただろうか。アルバートの配給が途絶えるまでに数えたのは2日だったから、恐らくそのくらいだろう。


 ただ、1人というのは懐かしかった。あの時に、何もないあの頃に戻ったようだった。


 ――いや、何もないのは今もだろうか。


 空っぽで歪な入れ物には底に大きな穴が空いていて、どれだけ何かを詰め込んでも、漏れ出てしまう『虚』の産物。『虚』な偽物。


 自分が作り物であることを悟られぬよう生きてきた。認めぬよう死んできた。


 なのに、思わぬところで突きつけられた。自分の描いた理想も、正しさも、願いも、すべて根底から間違っているのだと告げられた。違っている『別物』なのだと告げられた。


 たったそれだけ、たったそれだけで、意味も理由も願いも想いも見失ってしまう。


 それが、ギル・ルーズだ。


 それが、――――――だ。


「う、ぅぅ……うぁぁあああ!!!」


 枯れた喉から響く慟哭は、狭く湿った地下牢の石壁に反響する。


 ずっと燃えていたろうそくが燃え尽きて常闇に閉ざされたこと場所で感じられるのは、手足の感覚と微かな風の音だけだ。


 気が、狂ってしまいそうだった。


 いや、もうとっくの昔に狂っていたのだったか。


「ああっ、ぁああ!? ぅあ、あああっ、ああああああ!!!」


 頭の中はぐちゃぐちゃでちぐはぐで、そのまま口を開いて出てくるのはそんな意味をなさない叫びだけだ。


 それでも、何かを発せられるというだけで俺は救われた。

 どころか、そうしていなければ自分の存在が広がる闇に飲まれてしまうような気がしたのだ。


「うぁぁあっ、あああぁあああっ!!!」


 そんなはずはないのに、幻覚に怯える破綻者のように俺は悲鳴をあげる。

 ありもしない恐怖に怯えて、すぐそこに迫る脅威に気付けない。


 次第に、着実に、創り上げた理想人格が着実に壊れていく。


 それが、何よりも恐ろしかった。


「…………ぁ?」


 だから――、


 そんな半狂乱の号哭の中、微かに鳴った甲高い金属音に気がついたのは、まるっきりの偶然だった。


「……ぇ、」


 唖然とその成り行きを見守る俺の耳元で、もう一度それが鳴った。

 すると、血がにじむほどに食い込んでいた鎖が解け、音を立てて地面に落ちた。


「――アン、チェンタか……?」


 その場に姿こそないが、こんな真似をできるのは彼女だけだ。


「………………」


 そして、今俺がさっきよりも鮮明に思考を保っていられるのも、恐らくは彼女の力だろう。


 それが不思議とわかってしまうことこそが、その何よりの証拠だった。


「何か……あったのか……?」


 アルバートが行動を起こしたのか? だが、アンチェンタはどうして今更俺を助けた?


 普通に考えて、あの男がそう簡単に捉えた俺を逃すとは思えない。

 記憶を持ったあいつが、人智を超越した力を持つあいつが、アンチェンタへの警戒や防衛策を怠るなどあるはずがない。


 となれば――、


「何か、それが破られるような不測の事態……?」


 アルバートでも、あの屋敷にいる住人たちでも対応しかねるような最悪の事態。

 それが、今起こっているというのだろうか。


「あか、り……」


 だが、今俺目にあるのは、うっすらとこちらへ伸びる一筋の光だけだった。


 暗い暗い闇の中、誰の心配もせず考えていたのは、自分が消える不安だった。

 ただでさえ不安定な今、創り上げた人格と元からある人格とが曖昧になり、ギル・ルーズとしての自我は曖昧だった。


 偽物と本物の境界線はねじ曲がり、消え去って、今はアンチェンタの助けもあってかろうじてつないでいるような状態だ。


 現に、今俺の頭にあるのはずっと掲げてきた『理想』でも『正しい事』をしようという意思でもない。


 考えれば考えるほど、確かめれば確かめるほどに、曖昧で朧げになっていく自我への、恐怖と不安だった。


 今の俺を見れば、俺を『正常なまま狂っている』と称したあの怪物は、『それらしくなった』と笑うだろうか。


 今の俺を見れば、俺を造り『失敗作』と言って捨てた彼らは、なにを思い何を言うだろうか。


 答えは、わからない。


 ならば、もう逃げ出してしまえばいい。

 戦う意味も、生きる意味も枯れ果てた。


 ならば、ここを出るか自殺するかして、ここから逃げ出してしまえばいい。

 そうすれば、いつかリナさんの呪いが時を戻し、この辛さや苦しみを綺麗さっぱり忘れられる。


 ――なのに、


 俺は、気付けばアンチェンタの導きに従って歩き出していた。


 今更すがるものはもう何もないのに、虚ろに無意味に、歩き続けていた。


 久しぶり戻った館は、随分と静かになっていた。


*******************


 

 ドアを開けると、どうやらそこは資材の貯蔵庫だった。


 めちゃくちゃに荒らされていたそこは、どうやら照明も割れているらしい。

 それ以外の明かりがほとんど無いその場所は、数歩先が見通せないほどの闇に沈んでいた。


 真っ黒で、真っ暗な、底知れない深い闇。まるで手で触れられそうなほど、しっかりとした闇。


 その真ん中に、小さな椅子に座って項垂れている大柄の男を見つけた。


 暗闇の中で浮かぶように存在するその男に、俺は何度か声をかけてみる。――が、どうしても反応はしなかった。


 なんでだろう。なぜだろう。


 わからない。わからなかった。



 ――そうしていると、後ろから呼ばれた。



 気になりはしたが、それに従って俺は後ろへ下がる。

 もう一歩、もう一歩と退がるうちに、その姿は闇に沈む。闇に溶け込む。


「………………」


 ドアを閉じる頃には、それは見えなくなっていた。





 次に足を踏み入れたのは、記憶に新しい資料室だった。


 撒き散らされた紙の束や裂かれた本が、地面を埋め尽くす液体を吸って赤黒く変色している。


 むせ返るような鉄臭を放つそれは満遍なく床を埋め尽くし、果てには壁や本棚にもその魔の手を伸ばしていた。


 そんな赤色の帯の先に、本棚に寄りかかって立ち尽くす男を見つけた。


 彼は頭を背後の壁に預けるように擡げて、そのまま体を任せていた。


 そんな彼に、またも俺は声をかけてみる。

 知っている顔だ。それはもう、嫌という程に。


 それなのに、彼はまったく反応というものを見せなかった。


 なんでだろう。なぜだろう。


 わからない。わからなかった。



 ――そうしていると、後ろから呼ばれた。



 別れ難くも思ったが、他にどうしようも無いので俺はそれに従うことにした。


 足元の本を踏まぬよう気を付けて渡り切り、やっとの思いでドアの前に立つ。


「………………」


 その頃には、男は本棚の陰に隠れてしまっていた。




 次に立ち寄ったのは、広間に降りる階段だった。


 真っ赤な絨毯がかかるそこは、足元が滑って気をつけなければ転げ落ちてしまいそうだった。


 それに、凄まじく熱い。


 文字通り、そこは燃え上がるように熱いのだ。


 要するに、そこは燃え上がっていて熱いのだ。


 そんな、全身の血が沸騰しそうな程の熱さのに浮かされてしまったのか、白髪の老人が階段の途中にうずくまっていた。


 また、その少し先には茶髪の少年が階段に全身を預けて寝転がっていた。


 それらにも、俺は例の如く声をかけてみた。


 ごうごうと鳴る炎がうるさくて、聞こえたかどうかは曖昧だ。


 だが、どこかで俺はもし聞こえていても、返事は返ってこないだろうと確信していた。


 なんでだろう。なぜだろう。


 わからない。わからなかった。



 ――そうしていると、また呼ばれた。




 最後に辿り着いたのは、良い物も悪い物も合わせて――本当に思い出深い広間だった。


 しかし、その有り様は随分と違う。


 欠け、剥げたタイルの床は散々なありさまで、壁や扉は無残に破壊されていた。


 木片や破片が散乱するその場所には薄く粉塵が立ち込め、うっすらと火薬の匂いがした。


 そんな広間の真ん中で、


 崩れた天井から差し込む月明かりのスポットライトの真ん中で、



 ――真っ赤な少女が静かに寝ていた。


 うつ伏せに、何かを掴もうと手を伸ばして、背中に大きな刃を生やして、静かに眠っていた。


「………………」


 眠る少女から漏れ出した赤の上を、バチャバチャと歩く。


 ゆっくりゆっくり近づいて、その顔を覗き込む。



 青白くなった頰にはベタリと乾いた血が張り付き、口の端からも同様の帯を引いていた。


 握った手は恐ろしく冷たくて、覗いた瞳があまりに冷たくて、俺は全身を襲っていた暑さを忘れた。


 声をかけてみる。声をかけてみる。

 それはもう何度も何度も何度も何度も。しつこいくらいに、疲れるくらいに、嫌になるくらいに。



 ――それでも、返事はなかった。



 なんでだろう。なぜだろう。


 

「……………… 」



 ――そんなことは、もうわかっていた




 『皆、死んでいた。』




 身勝手に自身の保身に尽している間にも、彼らは苦しみ、彼女は苦しみ、その苦しみの果てに果てたのだ。


「あ、あぁ……ああっ」


 何を今更。そう言われるかもしれない。そう言われても、仕方ない。


 だが、俺はそれがどうしようもなく辛かった。


「……ぅぅぅうっ!」


 俺の言葉を聞いて、信じて、語り返してくれたのは、彼らが初めてだった。

 俺に無償の信頼や助けまでも差し伸べてくれた。

 俺に願いと未来と命までも預けて任せてくれた。



 それが俺は堪らなく嬉しくて、



 ――堪らなく怖かった。



 また信頼を失って、縋り付く手を解かれて、一人置いていかれるのが怖かった。


 だから、俺は盲信的になることができた。どれ程辛くても、苦痛に飛び込むことができた。


 負った傷も任された責務も迫る脅威も、そう思えば救いにだって見えた。


 やはり、俺は結局のところで自分のためなのだ。


 いつか、アルバートが言っていた言葉は、存外図星を突いていた。


「うあッ、ぁあぁあッッ!! あッ、ぁぁあああぁぁああぁぁああッッ――!!」


 言い訳し、逃げ続けた真実に無理矢理に向き直され、心の器を支えるなにかが崩壊していくのがわかる。


「っああ!! うわあぁああああああぁぁぁぁぁあぁあああぁああぁぁぁあぁぁぁぁぁあぁぁぁあああああああッッ!!!」


 並々に注がれた濁水が、もうすぐ零れ出すのがわかる。


「どうかな、僕の飾り付けは。楽しんで貰えたかな?」


「…………ぁ?」


 そんな崩壊の寸前に、目の前で嗤うその男に俺の意識が集中した。


「心の均衡は崩れ去り、心の支えはあと僅か。自分の中の理想を根底から崩すような真実にも向き合わせた」


 男は――アルバート・センレンスは続ける。


「それでも、まだ完全には壊れないか。恐れ入ったよ、ギル・ルーズ君。君は今までで一番の強敵だ」


 愉快で仕方がないと、幸せで仕方がないと、男はくつくつと笑みを零す。


「だが――いや、だからこそ手に入れたい。君の体は稀有な特徴に溢れている。その生命力や学習力や感受性は人並みを外れていると言っていい」


 耳障りなが、俺の心を搔き乱す。見るも無残な有様のそれを、ぐちゃぐちゃにになるまで搔き回す。


「元の自分を押し殺し、創り上げた不完全な君でそれだ。なら、本当の君はどれほどのものなんだろうね……?」


 思うままに、意のままに、触れてほしくない大切な部分にまで土足で踏み込み、足跡がつくほどに踏みにじる。


「ああ、なら……本当の君なら彼らを救えたのかな?」


「本当の、俺……」


「ああ、自分を抑制し扱うのが得意な本物の・・・キミならば、あるいはという話だ」


 目障りな笑みと、耳障りな声と、癪に障る動作と、癇に障る話し方。


「でも、もういいじゃあないか。君が掻き抱いているそれは、ただの取るに足らない肉塊だ。絶対的な革新の為の、必要な犠牲だ」


「黙、れ……」


「でも、彼らも本望なんじゃないかな? どうやったって日向を歩けない日陰者ナイトウォーカーが、崇高な存在の礎になることができたんだからね」


「もう、やめろ……」


「だってそうだろう? 事実じゃあないか。行き場を無くした魔女も、記憶を無くした少女も、繋がりを無くした少年も、仕える家を無くした騎士も、牙を無くした暗殺者も、仲間を無くした傭兵も、全てを無くした彼女も――、」


「………………」


「今やっと――等しく報われたとは思わないかい?」


 伏せた瞳を持ち上げて、嘲るようにして言ったアルバート。


 ――その歪んだ口が次に声を発するより先に、それを上から押さえつけ、俺は全力で地面に叩きつけていた。


「こ、ふ……っ!」


 やけに派手な大音を立てて硬いタイルに頭部を打ち付けられた彼が、二の句を続けるより先に、その鼻っ面に拳を叩きつける。


 それから十数回ほど同じことを繰り返し、静かになった彼の首に足を振り下ろすと、軽い感覚とともに喉骨が潰れるのがわかった。


「……こ、ふっ」


 だが、どうやら彼も魔法というものが使えるらしく、それは瞬時に再生する。


「こまっ、るなぁ……まだ話してるとち――」


 ならば、呼吸器官を壊しても再生してしまうのなら、窒息させてしまえばいい。そう考えて、俺は無防備な首に指を這わす。


「ぁ、が……!」


 さすがに苦しそうな声を上げるアルバートの首を、俺はギリギリと締め上げる。


「い、い……感じ、だぁ……だいぶ、あの頃の……きみ、に……戻ったんじゃ、ない……か……?」


 だが、それでも言葉を重ね、余裕の笑みを崩さない飄々とした態度。


 そのどこまでも底知れない不気味さに、思わず口をついて出たのは、


「――殺す」


 ただ一言。それだけだった。


「殺して、やる」


 目の前の存在から発せられる『言葉を止めてしまいたい』という衝動は、真っ赤な憎悪によって『息の根を止める』という目的に変わった。


「殺す……殺してやる」


 ぎりり、ぎりりと音を立てて、忌々しいその首を締め上げる。


 こんな奴は死ねばいいと、そう思う。


 なんの生産性もない害悪だ。不利益をもたらす害虫だ。


 こんな奴は死ぬべきだと、そう思う。


「そうだ……死ねよ、てめえ……おい――なあ、もう死ねよ。死ね……死ね。死ね、死ね!」


 なんで、こんな奴が存在している。なんで、こんな奴がのうのうと生きている。

 他にもっと生きているべきだった人たちがいたはずだ。


 それで、なんでお前が生きている。


「――殺す……殺してやる。お前は生きてちゃダメだ。なあ、死ねよ? 早く、死ねって」


 口をついて出るのは、己が身をも焼き尽くさんとする燃え滾る憎悪の奔流だ。

 口汚く、初めて理性が完全に飛ぶほどの怒りを感じて、それでも俺は静かに呪詛の様な言葉を重ねる。


「悔い改める? 懺悔する? んなの許すわけねぇだろうが。いいから死ね、死ね、死ねッ!」


 後のことはどうだっていい。死んだって構わない。

 力に耐え切れず、折れた指の痛みすらも感じない。


 今あるのは、殺意だけ。


「ぐ、ぁ……」


「アルバート――ッ!!」


 震える声で名を叫び、溢れる憎悪を指に乗せる。


 そうして締め上げられ、苦痛に歪んだ彼の顔が、一瞬笑みを形作った。


 ――なぜ、笑う。


 そんな、いつもなら冷静に考えられる疑問も、今の俺には気付くことすらできない。


「お前は、俺が――」


 ただ、気の向くままに、思いのままに、痛みと苦しみを撒きちらす。


 脈拍は弱まり、目から光が消えていく。



 それでも、力は緩めない。



 ぎりり、ぎりりと。



 ぎりり、ぎりりと。





 着々と、物語は進んで終わっていく。


 最悪の結末バッドエンドへ、堕ちていく。

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