第二十五幕『尊い犠牲』

 目の前を埋め尽くす一色に、全身が拒絶を示している。一面を染め上げる眩む様な紅の、むせ返るような血の匂いが鼻腔に充満する。


 ひどい耳鳴りと頭痛に混濁した脳内は靄がかかったように不鮮明で、それなのに目の前の凄惨な現実はノイズだらけの思考にしっかりと入り込む。


「ゔぁ、ぁあ……」


 震える喉は思い通りに機能せず、自分のものとは思えない掠れた呻きのみが今俺の発する事のできる音だった。


「……ぁッ……あぁあ……!!」


 掻き毟るように、そのまま握り潰そうとでもするかのように、頭を抱え俺は血の海に体を浸す。

 目から熱い液体が溢れ、鮮血に染まった視界が滲む。


 今俺の中にある感情は、


 希望が閉ざされた事による『絶望』でも、


 それでも尚抗い続ける為の『勇気』でも、


 なにも失いたくないと言う『願い』でも、


 何も出来なかった自分への『憤り』でも、


 大切な友を屠った化物への『憎悪』でも、



 ――ない。



 ただ、目の前の絶対的存在により全てを失う事への絶対的『恐怖』。


 それだけが、今の俺の唯一の感情だった。


「あ、あぁ……ああ……」


 見上げれば薄暗い視界の先で人狼がその鋭い爪を振り上げるのが見える。


「は、はは……はは――」


 それをぼんやりと眺めていると、口の端から意味不明の笑いが溢れた。


 すると、突然世界が回転した。


 目まぐるしく回る世界は、随分と時間をかけて全身と頰に集中する熱を残してやっと止まる。

 滲む視界。そこに映る右半分は綺麗に磨かれたタイルの床。


 そして――左半分は拳を突き出したままの無理な姿勢で人狼の爪を受け止める男の姿だった。


「マル、コス……?」


 頰に手を当てそこから伝わってくる熱に自分が殴り飛ばされたのだと気づく。

 誰にかは見ればわかる。目の前の絶望に負け、死を受け入れようとしていた俺と、振るわれる鋭利な爪との間に、鞘から刀身を抜き出すのも惜しんでその一撃を差し込んだこの男にだ。


「馬鹿か貴様はッ! 気を抜くな! 今は嘆く時じゃないだろう!」


「な、んで……」


「黙って立ち上がれ! お前の覚悟はそんなものだったのか!? こいつは癪だが俺一人じゃ倒せない! 早く手を貸せ!」


 彼はらしくもない血相を変えた鬼気迫る表情を隠そうともせず感情のまま吠える。


 戦えと、抗えと、撃ち砕けと。


「俺は死ぬわけにはいかない! だから、貴様も声高々にのたまっていた薄っぺらな矜持を、せいぜい保ってみせろ! 『守る』のだろう!! 『救う』のだろう!!」


 銀髪の騎士は尚も叫ぶ。体は俺と同じ、もしくはそれ以上にダメージを負っている筈なのに。


「そうして何もかも諦めて這いつくばっていて! 何が生まれる!!」


 苦痛を、絶望を、弱音を、全てまとめて押しのけて、マルコスは勝利を語る。


「さあ、俺を『助けろ』! その足りない手足で、救ってみせろッ!!」


 大仰に――希望を語る。


「立ち上がれ、ギル・ルーズッッ!!」


 初めて俺の名を呼んだ血塗れの騎士は、滑るような足さばきで押し込まれる爪をいなす。同時に、鞘から己が髪と同様の、輝く銀色の刀身を解き放つ。


「うぉぉおおおおッッ!!」


 今までの優雅さを捨て去ったような無骨で荒々しい咆哮と共に銀色の光が帯を引いて人狼の全身に赤い一文字をを刻んでいく。


「グルルルル……!!」


 突然の反撃に人狼は針金のような剛毛に覆われた腕を盾にして防御の姿勢を作る。

 だが、それすら構わず白銀の軌跡を作りながら騎士は舞う。


 それを見て、あれ程までに鼓舞されて、黙って座っているなど――許されるわけがない。


「それなのに……ッ!!」


 そんな決心とは裏腹に足の震えは収まらない。鼓動は爆発するように鳴り響き震える指には力が入らない。

 まだ足りないのだろうか。ここから踏み出すには、まだ足りないのだろうか。

 力も、心も、何もかもが足りない。届かない。


 無知で無力な俺では、輝かしい英雄になどなれない――、


『信じてますからね』


 そんな、やかましいほどの自己嫌悪の声と、それに起因するけたけましい耳鳴り。

 そのすべて押しのけるように鈴の鳴るような声が響く。それは数分前の出来事だ。


「――そうだ」


 まだ足は震えているし、暴れるような鼓動も変わらずに耳の奥で鳴り響いている。

 なにが英雄だ。自惚れるのも大概にしろ。お前には、大それたことなんて何一つできない。


 ――だが、それでもいいではないか。


 はなから無理なのだ。ならば、そんなものは諦めてしまおう。


 その代わりに、結んだ約束くらいは違えず守り切ろう。


 上辺だけでもいい。偽物でもいい。借り物でもいい。


 だから、今だけは――、


「根性ッ! 入ってるかぁぁあああ!!」


  今は亡き巨漢の戦士を真似、声の限り張り上げた鼓舞は、あまり慣れない言葉遣いをした所為でどこかぎこちない。

 しかし、それこそがなんとも自分らしくて、口元が歪む。


「ルガァァァアアアァアッッ!!!」


 そうしてやっと盛り上がった士気をへし折るべく、人狼は爪を振るう。

 なんの予備動作もない一撃に反応が遅れるが、構えていた剣が偶然身を守ってくれた。

 だが、幾たびも世話になった悪運に再び救われたと安堵する暇は当然なく、俺は硬いタイルの床をバウンドしながら転がる。


「――ッ!!」


「口だけでなく体も動かせ愚物がッ!!」


 剣を突き立てて速度を殺し、そのまま杖にしてよろよろと起き上がった俺に、マルコスの容赦ない叱咤が飛ぶ。それに顔をしかめつつ、荒い呼吸を繰り返す怪物を見る。


 そうだ。折られた士気はなんとか立て直した。

 ならば、次は打開策を練らなくてはいけない。考えろ。考えろ。なにか、いい案はないのか――、


「いや、待て。荒い呼吸? ――そうか……そうだ、そうだった」


 これは、前回2度目に襲われた時にも感じた違和感。最初の一回目、次の二回目、そして今回の三回目と、徐々に変化した人狼の様子。


 まさか、こいつ――、


「弱ってるのか……!?」


「なっ、それはどういう意味だッ!」


 絞り出すように呟いた俺の言葉に反応し、人狼の爪を切り払ったマルコスが振り向かないまま叫ぶ。


「言ったまま――そのままの意味だ! こいつは、会う度に弱ってる。なんでかは知らないけど、それは確実だ……!」


「そうか――、」


 正直、信用されるか疑わしかった。

 あそこまで取り乱してしまった俺の言葉を、あの気難しいマルコスが信じてくれるとは思えなかったからだ。


「フンッ、それは都合がいい」


 だが、マルコスは含みのある笑みを浮かべながらそう言った。


「都合? それは一体どういう――うあッ! ……ことだよッ!?」


 ただ、呑気に話し合いをしている暇などない。振るわれる爪を避けながら、防ぎながらの会話だ。


「俺に、こいつを倒す為の策がある」


「な――はあ!? ほ、本当かよ!?」


「くッ! ……今嘘をついて何になる! 本当だ!!」


 受けた爪を斬り払い、マルコス叫ぶ。


「その為にまずは準備をする! こいつの相手をしろ!」


「なあ――!?」


 突然こちらに向かって走り出し、俺の隣を抜けるとマルコスは背中で叫ぶ。


「無理だとは言わせんぞ! 死んでも生き残れ!!」


「ほんっとに……無茶言いやがるッ!!」


 天才は、相変わらず凡人にその力の限界か、それ以上を容赦なく求める。それも、さも当たり前のように。


「でも、文句なんて言ってる暇ないよな……」


「これを使え!!」


 一人呟く俺を頭上から呼んで、マルコスが俺に腰にさしていた白剣を投げつける。


「うわ!?」


「その剣の鞘は銀製だ! その意味が、貴様ならわかるだろう!!」


「――!」


「死ぬなよ……」


 小さく呟いたマルコスのその声は、静まり返った広間だからこそ聞こえた本音なのだろうか。

 はたまた、ただ自らの目的を達成するための条件に対しての一言だろうか。

 だがまあ、どちらにせよ感謝しなければならない。


「ああ! ありがとなマルコス!」


「黙って前を向け、愚物!!」


 最後の最後で毒を吐いて視界から消えていったマルコスに歯ぎしりしつつ、その言葉に従って人狼に向き直る。

 鋭爪をむき出しにし、低い唸りを上げる化物に、俺は左手の銀刀を突きつける。


 ただ、両手に剣を持っていると言っても、外れた肩と穴の空いた掌では、存分に握力など発揮できない。

 そう、これはただの時間稼ぎだ。


「勝つ必要はない。ただ、生き残ればいい」


  だがまあ、それでも――、


「困難には違いないんだけどな――!」


******************



 薄暗い廊下を駆け抜けながら、マルコスは困惑していた。

 下の階であの頼りない少年が引きとどめている化物。それに対抗するためとはいえ、自らの命を危険視晒し、挙句には主から与えられた剣まで手放して、1人無防備に駆けている自分に。


 あの、まるで対等な存在のような不遜な態度にほだされたのだろうか。忌々しい業火。それを目に焼き付けた時、誓ったではないか。


「違う! そうじゃ無いだろう!」


 数分前にあれほどまでに熱くなって声を荒らげ、高説を垂れたというのに、己が集中できずしてなんとしよう。


「ここだ!」


 蹴破るようにドアを開け、駆け込んだのはマルコス本人にあてがわれた、屋敷の3階に位置する一室だ。

 その部屋の隅にあるタンスの、一番下の引き出しを開け放ち、小さな木箱から鍵を取り出す。


「後は……」


 着々と準備を続けながらも、マルコスは再び迷っていた。

 手のひらに十分収まるほどの小さな鍵を握りしめ、雑念を振り払おうとかぶりを振る。

 この狂った儀式めいた計画を実行に移した狂人の言葉。それが、頭から離れないのだ。


『私は死なない。私にとって死とは、ただの過程に過ぎないんだよ』


 ――大丈夫。ただの戯言だ。確かに、確実に死んだ筈。


 そう自分に言い聞かせ、マルコスは迷いを押し込める。

 そこから随分と重くなってしまった体を持ち上げて、彼は再び走り出した。


 急がなくては、早くしなくては野望が潰える。それでは、なんのためにこんな場まで出向いたのかわからなくなってしまう。


「メアリー様、コーリング様――」


 そんな不安と焦りの中、口をついて出た親愛なる主の名。その二人の名を口にすることで、マルコスはいつでも感情を捨てられる。情も、慈悲も、消し去ることができる。


 あの豪雨に濡れる崖から救い出された瞬間と、自分を心から好いてくれていた人々の笑顔が。

 そして、それらを思い出すと決まって脳裏に浮かぶこの瞳の奥底に焼き付いた忌々しい紅蓮の情景が。


 マルコスの心を奪う。


「俺が、必ず……」


 復讐の業火に身を焦がすマルコスの右手から――赤い血が伝った。


*****************



 ――まずい。まだ、十分な時間を稼いでいない。


「グルルル……」


 内心では暴れ回るほど焦りながらも、俺の体はだらりと脱力していた。

 別に諦めたわけではない。体に力が入らないのだ。


 今は物陰に身を潜め、休む事ができているが、数秒前まではまるで一生分の気力を瞬きの間に消費してしまうような攻防が続いていたのだ。


 ちなみに戦果のほどは、与えたダメージが頰の切り傷、腕に浅い刺し傷、腹に一つ切り傷のみ。

 こちらは身体中の打撲と裂傷、左腕の骨折、右肩の脱臼、左足のひび、右肩の切り傷、左の掌の貫通、右腹部にかなり深い切り傷だ。


 ――つまるところ、満身創痍だった。


 今更走ることは叶わず、両腕も使えない。満足に動くのは右足だけだ。


「どうする……どうする……どうする……!」


 満身創痍の体を、支柱に押し付けた背中と右足を起点に無理矢理起こし、霞む視界をいたるところに向けて考える。

 次まともに戦闘になってしまえば微塵も勝機はない。それどころか、ものの数秒で屠られるだろう。


 油断とはまた違うが、少し甘く見ていた。いくら奴が弱っていると言っても、それ以上に俺が弱っている。2度の遭遇から五体満足で逃げ延びたという事実が、どこか俺の警戒を緩めていた。


「くそ……っ! 後悔なんてしてる場合じゃない!」


 そうだ。まともにぶつかるのがダメならばいつも通り奇をてらえばいい。

 だが、そのためにも、起死回生の一手を絞り出さなくてはいけない。


 何か、何かないのか。早くしなければ、すべてが水の泡に――、


「こ、こっちです! さあ、来てください!」


 ――なってしまう。そう思った時、震えた少女の声が広間に響いた。

 小刻みに震える華奢な体を目いっぱいに広げて、黒髪の少女は叫ぶ。


「ギ、ギルさん! 今の内に逃げてください!」


「グルルル……」


 身を隠す俺の反対側で人狼の気を惹き、リナさんは叫ぶ。だが、それでは彼女が殺されてしまう。


「――だ、ダメだリナさん! にげろ!!」


 目端に浮かんだ涙や、震える体、蒼白な顔は、彼女の感じる恐怖をまざまざと物語っている。

 当たり前だ。誰だって、あんなものを前にすれば怖いに決まっている。それも、あの内気で気弱なリナさんだ。その恐怖は、計り知れないものだろう。


「早く逃げろッ! だめだ! リナさんッ!!」


 だからこそ必死になって、俺は叫ぶ。支えのない体は硬い床に倒れ込み、全身の傷が尋常じゃない激痛を訴えるが、そのすべて噛み殺して俺は吠える。


「私が……相手です……!」


 そんな少女は、遥か上から見据える凍てつくような眼光に晒されながらも震える声で啖呵を切った。


「もう、誰も死なせない! アンチェンタとの約束を、私は守る!」


「リナさん……ッ!!」


「それに……私は死んだりはしませんよ」


「に、逃げろぉぉおおお!!」


「だって、私は――!」


 ――再び、目の前が真紅に染まった。

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