第20話  3度めの抗癌剤と母の話

 インターネットで乳がんのことをいろいろ調べてしまうので、落ち込むことも多かった。当時はブログもそれほど盛んではなく、やっと調べてたどり着いてもブログ主さんが亡くなっている場合も多かった。

わかっていても、見るとやはり辛くなる。

自分よりもステージが高い人が長生きしているブログはないかを、ずっと探していたような気がする。


 病院でもらってきた抗がん剤の本も読みだした。 英語なので読む気がしなかったのだが、少しでも情報がほしいと思い読み始める。 喉の痛みがひどかったのが副作用だと知った。もっと用語を勉強しなければならない。


 日本に行っている夫は大急ぎで手続きをして2週間で帰れるという。 すごく嬉しかった。息子は仲良しの友達とまた別れてくることになる。 つらい思いをさせている。

2人が居ないととても寂しい。一緒にいるだけで安心する。

ついに家に帰れないまま引っ越しになる。 箱詰めや引越し作業を見ていなかったので、この後数年まだ同じ場所に住む場所があるような錯覚をよくした。


3月にハワイに来て3ヶ月たっていた。


 3度めの抗癌剤は同じ癌を患っているキャリーが病院まで送ってくれた。その前日の腫瘍専門医のBのアポイントメントも連れて行ってもらったのだが、また1時間待たされた。


「いつもこうなの?いいかげんね!」と怒っている。 血液検査も待たされた。 キャリーは抗癌剤はまだなので、いろいろな副作用の話をする。


 副作用の一つに味が変わるというのがある。 水を飲んでも辛かったり甘かったりする。 一度エビチリを食べたら飛び上がるほど辛かった。 敏感になっているのかといえばそうでもなく、全く味がしないこともあった。


 抗癌剤は4時間ほどかかるのでキャリーは一度帰って、終わる頃また来てくれた。それもありがたかったし、同じ話題を共有できる友人が居たことは精神的にすごく楽だった。


 日本に行っている夫が食品や雑誌ビデオなどを送ってくれて、すごく嬉しかった。

引越業者が来て箱詰め中だそうだが、その合間に必要な物を分けておいてくれた。ありがたい。 ここは自分の家ではなく、荷物も最小限しか持ってきていなかったので、自分のものが少しでも手元にあると気持ちがとても違うものだ。


 夫と息子は日本に行って、日本からは母が来てくれていた。2回めの抗癌剤が始まる頃だった。

 母は思ったことを何でも言ってしまう人で悪気はないのはわかっているが、抗がん剤で精神が安定していない時には受け止められない。 「そんなこと言わないで」「じゃあ、なにも言えないじゃない」と、大げんかになった。


抗癌剤中に大泣きして興奮したので心臓がぶるんと震えて止まるかと思い、怖かった。


その時出かけていた夫をすぐに呼んで、病院に電話をかけてもらう。

心臓の鼓動も落ち着きつつあり、呼吸も整ってきたので、病院へは行かなかったが。


帰ってきてから夫が母に最初からのこと、手術のこと、これからのことをいろいろと話してくれた。母は手術後の様子も見ていないので、意外と元気そうな娘を見て安心して前と同じように接していたのだった。元気そうに見えたのは抗がん剤の影響で顔が丸くなっていただけなのだが。


話しをする前は状況をなかなかわかってくれなかった。白血球がすごく減っているので、気をつけなければならないのだが、アメリカ式の使いにくいシャワーを浴びたくないと言うので、困ってしまった。

 

 夫がいない間2人で大丈夫なのかとても心配だった。

母は変わっていく娘を認めたくなかったのだと思う。

昔と同じような調子で接したかったのだろうと今なら理解できる。


 一度したケンカ以来、気を使ってくれていた。 楽しく話をしていると、気分も紛れてくる。

母が来てすぐの頃に「日本に帰りたい、どうせ死ぬなら日本で死にたい」と言ってしまい泣かせてしまった。 そしてメイクやヘヤーアレンジが好きだった私をいつも褒めてくれていたので、丸坊主の頭を見るのがとてもつらそうだ。

やっと顔を見て

「かわいいよ」と言ってくれたのだが、やはり泣きだしてしまった。 嘘をつくのが苦手なのだ。


「あんなにおしゃれだったのに、どうして……」と泣いた。


もう一人の母、夫のお母さんも毎日のように電話をくれていた。 母と夫ママ。親友もよく電話をかけてくれた。1人で戦っているわけではなく、多くの人に支えられているのだと感じた。

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