乳がんサバイバー

タミィ・M

第1部 検査と告知

プロローグ~第1話 遅れたマンモグラフィー

プロローグ


2021年 すっかりおばさんになった私は自然の多いアメリカのオハイオ州で元気に暮らしている。夫も年を取った。息子も大人になった。3人そして猫2匹と毎日を平凡で穏やかに暮らしている。


17年前には想像もできなかった。当時10年後の生存率は20%と言われたからだ。


―生きていたい。普通に平凡な暮らしをしたい。夫と一緒に年を取って、大人になる息子を見たい。それが心からの願望だった。繰り返す手術、苦しい抗がん剤。絶望の中で、ただただそれだけを望んでいた。


当時はまだ乳がんの生存率も悪く情報も少なかった。同じがんステージで検索してたどり着いたブログは亡くなった人が多く打ちのめされた。


こんなに元気になった人もいるよと同じように苦しんでいる人たちに知ってほしい。そう思って当時の日記をもとにエッセイを書くことにした。



―――――


第一話 検査と告知




2003年


左胸の中に大きな塊があることに、ずっと気がついていた。


奥の方からズンズンと突き上げるような鈍痛もあった。「なんだかおかしいな、痛いな」と。触ってみると固くすごく違和感があった。


当時癌は痛くないと一般に言われていたので、例えば乳腺症のようなものだと思っていた。乳腺炎にかかったことがあり、その時の感触と痛みにそっくりだった。全体がごつごつとしていて掌で包むと岩のような感触。 なので「またか」と軽く考えていた。 


* * *



2003年私とアメリカ人の夫と息子は関東にある米軍のY基地の中で暮らしていた。夫は当時30代後半の白人男性で軍の救命士をしていた。息子は日本人と私とのミックスで見かけは父親に似て白い肌で黒いカーリーヘヤーをしていた。当時まだ7歳で基地内の小学校に通っていた。いわゆるアメリカンスクールだ。日系どころか黒い髪の子供さえいないアイダホから引っ越してきた。日本人とのハーフが多い基地内のアメリカンスクールなので毎日楽しく学校へ通っていた。私はその学校の通訳や書類整理などのボランティアを毎日のようにしていた。


夫は救命士として緊急出動の飛行機に乗っていたので、ほぼ家にいなかったし、この頃は出張のために数ヶ月家を開けていた。


家の事をして学校へ行きという同じ毎日の中、痛みはいつまでたっても収まらず、だんだん心配になってきた私は重い腰を上げてY基地の中の病院へ検査のために行ってみた。運転ができなかった私は基地内を改装するバスに乗り、反対側にある大きな病院へ行ってみた。


この病院のトップクラスの女医は難しい顔をしながら胸の触診をしていた。


「う~ん、乳がんにしては大きすぎるわ、キャンサーではないと思う。大きな脂肪の塊ね、うん、大きすぎるもの」と良った。乳がんは小豆大で見つかることが多い。


「違うとは思うけど念の為にマンモグラフィーは受けてね」と言われたのだが「良かった、癌じゃないんだ」とすっかり安心してしまい、マンモグラフィー検査を受けに行ったのは日にちが合わなかったり、機械が壊れていたりしていたため、数ヶ月も後になってしまった。


マンモグラフィーの予約をボランティアをするためにキャンセルしたこともあった。学校の遠足の通訳をして欲しいという理由で。今考えるとバカなことをしたものだが、この時は医者の「キャンサーではないと思う」という言葉を信じきっていたためだ。


約4ヶ月後、夫が帰ってきたので一緒に病院へ行きマンモグラフィーをすることになった。検査室でアクリル板で胸を潰されてレントン写真を撮る。

フィルムを見た技師の顔色が変わったのを見逃さなかった。


(え?……なにかあったんだ……)胸がどきりとした。


「念の為にもう数枚とりますね、念のためだから」と繰り返す。


「なにか、悪いものなんでしょうか?」


「それは今からドクターが見て判断しますから、私は何も言えないんです」技師は私の顔を見ないようにしているようだった。


嫌な予感は当たった。フィルムを見たドクターは


「乳癌の疑いがあります」と、はっきりと言った。「もっと詳しい検査をしなければわかりませんが、高い確率だと思います」


 夫の顔色がみるみる真っ青になる。私は正直、信じられない気持ちのほうが強かった。健康で元気だ。体力もある。


「え?え?どういうこと?」状況が判断できなかった。


「すぐに針の生体検査をしにハワイに飛んでもらいます、明日の金曜日にでも」と言った。生体検査のためにハワイにある陸軍T病院へすぐに行けという。Y基地には当時オンコロジーと呼ばれる腫瘍専門医がいなかったためだ。明日行けとはあまりにも急だ。


「そんなに急に行かなくてはいけないんでしょうか?」と聞くと一刻でも早いほうが良いという。そして私の顔を見て、I'm sorryお気の毒ですと言った。 


息子はまだ小学校2年生で、小学一年生の途中でアイダホ州から転校してきて、やっと日本に慣れたところだった。白人しかいなかったアイダホと比べ日本人とのハーフが多いこの学校は息子にとっても嬉しかったと思う。やっと友だちもできてきたところだった。そして日曜日には誕生日パーティーを予定していた。金曜日に行けという医者にせめて日曜日のパーティーをさせて欲しいと月曜日のフライトに乗ることになった。


辛い数日だったがなるべく顔に出さないようにしていた。というよりも実感がわかなかったのだ。


乳がん……? 私が?


すごく元気で毎日のように学校のボランティアをして走り回っていた日々。何かの間違いではないのだろうか?

夫のほうが落ち込んでいた。目を真っ赤にしてたが、私は最初本当に信じられなかったし、なんだか現実の話ではないような気がしていた。


誕生日パーティーの前日、風船を膨らませ、飾り付けをした。当時子どもたちに流行っていて、毎日見ていた海のスポンジのキャラクターの漫画スポンジボブのピニャータ(中にキャンディーが入っているもの、叩いて壊す遊び)を作った。ダンボールに黄色の紙を貼っていく。本の表紙を見ながら顔を書いていく。飾り付けをし、プレゼントを包みながら


「来年はどうなるのだろうか?もう誕生日パーティーをやってあげられないのだろうか?」


そう思うと、急に悲しみに胸が締め付けられ、ピニャータの上に涙がポタポタと落ちた。


いつも陽気なスポンジボブも泣いているように見えた。


パーティーにはたくさんのお友達が来てくれて楽しい一日を過ごせた。この日はおもいっきり明るく振る舞った。いつもと同じに、おもしろく楽しいママのままで。


翌日急に学校を休まされハワイに行くと言われた息子は少し泣いた。


「どうして?どうしてハワイに行くの?」


「大切なことを調べに行くの、ここではできないことなの。でもすぐに帰れるかもしれない、まだ何もわからないの」と説明する。


「乳がんではなかったと帰ってくる人もたくさんいますよ」というドクターの一言だけが希望だった。


3日。月曜日の夜のユナイテッドの便に乗るためにお昼のバスに乗り込む。Y基地から成田まで出ている直通バスだ。夜ほとんど眠れなかったので2時間ほどのドライブの間ウトウトする。 


成田空港での待ち時間は長かったがあえて本や雑誌も数冊しか買わなかった。 洋服も1週間分パックしただけだった。


「きっと何かの間違いだから、日本にすぐ帰るなら荷物になるから。すぐにトンボ返りするに決まってる」そう信じたかったからだった。



 けれど、その日以来日本に住むことはもうなかった。


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