第49話 エピローグ あとがき


エッセイは2003年の乳がん発覚から2005年の7回目の手術で終わっている。その後の事を少し書き足そうと思う。


子宮卵巣を切除した後は抗ホルモン剤を変えることになった。以前はタミキシフェンを飲んでいた。手術後は子宮がないので経血もなくなり閉経と同じ状態になった。そこで閉経を迎えている人用のアリミデックスという抗ホルモン剤を飲み始めた。これは5年服用と言われていたけれど経過が良いので結局10年間に延期した。


残念なことに義母は乳がん手術の後、数年おきに2度再発して天国へと旅立ってしまった。ハワイにも何度も遊びに来てくれて、その後のロスアンジェルスやオハイオにも来てくれた。オハイオに呼びたかったけれど保険の関係でそれもできなかった。


一緒に治療をしたキャリーは今も元気だ。しばらくフェースブックで話をしていたが、少しづつ疎遠になった。同じ病気という1点だけのつながりだったけれど、キャリーの存在は当時とても助けられた。


17年後の私は健康で元気いっぱいだ。体力は昔よりも落ちるけれど、何でもできる。左胸の傷跡はなんとまだ痛む日がある。


何度も考えたけれど、再建手術はしなかった。左胸の火傷の後はすっかり治り、皮膚も柔らかい。それでもどうしても手術をする気になれない。命にかかわらないのであれば、やはり手術したくない気持ちの方が強い。


ただし、胸の真ん中はクレーターのように凹んだままで胸の開いた服は着られない。左胸もないままなので普通のブラジャーもつけられない。保険で買えるマスタクトミー(乳房切除)用のブラジャーと中に入れるシリコンの胸を買っている。



最後に素晴らしい私の家族に心から感謝をささげたい。



 夫は軍を26年間勤め上げ引退した。そして、あのハワイで買った家を引っ越した後は賃貸にし、10年後に約2倍になったころに売却し、それを資金でオハイオに数軒家を買い不動産を始めた。しばらく大家をして、その後賃貸を増やしたり、売ったりしながら今でも不動産業をしている。あの1軒の家が運命を変えた気がする。


私が頭を剃ったときに一緒に剃ってくれたことは一生忘れられない。あんなに弱っていた私を見捨てずに看病してくれたことを、これからもちゃんと覚えていなければと強く思う。



 泣いていた小さな息子は25歳になった。オハイオで大学の4年間だけ一人暮らしをして、またここに戻ってきた。あの頃、大人になった息子を見ることが夢だった。大きな夫の背を越して髭の生えている息子を見るたびに心から嬉しさがこみあげてくる。戻ってきた理由の1つが不動産のファミリービジネスを手伝うためだ。あの頃のことがあるからか、家族3人とても仲が良い。息子も夫も家族であり、親友でもある。

夫とお酒を飲みながら延々話をしている日もあるし、私と何時間も大笑いして話をする日もある。今では夫とは英語、私とは日本語で話ができる。


たくさん泣かせたので、毎日笑わせている。笑いの絶えない家庭になった。


家族の支えがなければ私はここまで元気になれなかったかもしれない。そして子供の存在はこれほどまでに生きる力になるのだと知った。そして病気の母親を見ていながら強く優しく育ってくれた。ありがとうと言う言葉しか出てこない。


乳がんで失ったものもたくさんある。何度も何度も泣いた。それでも乳がんが教えてくれたこともたくさんあった。


どれほど家族が大切かということ。そして希望を持つことの大事さ。


絶望して号泣した17年前の私に言ってあげたいと思った。


「17年後も元気だよ。毎日笑ってるよ」と。


今病と闘っている人達に、こんな人もいるんだと伝わりますように。


そして癌の特効薬ができる日まで、希望をもって治療できるようにと願っている。


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乳がんサバイバー タミィ・M @lovecats

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