第三十九話 《記憶を曇らせる》

 結論から言って、アラン・ウィックは死んだ。


「………………………」

「―――お疲れ様です」

 講義室のテーブルに突っ伏したまま動かない同級生の肩に優しく手を置き、労う。しかし反応はない。まるで屍のようだった。

 工学部ではその名の通り、理工系分野の講義を行っている。

 特に一年次には数学・物理・化学などの基礎科目を徹底して復習し、それだけでなく新しい知識を詰め込むことすらする。そういった座学を繰り返すことで生徒により深い理解を促すのが基本なのだ。

 専門的な分野に分かれて学ぶのは二年次か、遅くとも三年次からである。

 当然、若輩ながら一人前の碩学であるカルティエが苦にするような要素は微塵もない。むしろ退屈に思っているのが本音だ。何年も前に学び、日々反芻していることをおさらいしたに過ぎない。


 しかし、脳味噌が筋肉で出来ている体育会系の少年にとって――この百八十分間は正に地獄だった。


 そもそも彼からすれば、学校とは即ち心的外傷トラウマの象徴である。

 教師と同級生達から受けた数々の虐待。その記憶。窮屈な教室に押し込められ、皆が一様に同じ服を着て疑いもなく右に倣う光景。そんなものは家畜小屋と何が違うというのか。アランは今でもそう思っている。

 それだけに、どことなく楽し気な傍らの少女が少しだけ恨めしくもあった。

 単純に、頭の出来の違いを僻んでいるのもあるが。

 しかしそんな胸中を吐露する訳にもいかず、アランは上体を起こして頬杖を突き、無難な言葉を並べるに留める。

「……正直、ついていくのがやっとだ。講義以外でも気が抜けないな、これは」

「大丈夫ですよ! 隣で見ている分には熱心に取り組んでいましたし、飲み込みも早いようですから。きっとすぐに楽しくなりますよ。―――あっ、分からないことがあればなんでも聞いてくださいね! 私は偉大なる一族クルーシュチャの碩学ですので、必ず力になりますから!」

 ふんす、と鼻息荒くカルティエが胸を張る。アランは苦笑した。

 講義の終了と同時に、半円形の講義室から生徒達が足早に去って行く。その中には見覚えのある姿があった。今朝顔を合わせた褐色の少年――アブドゥル・アルハザード・ジュニアだ。

 彼はアランとカルティエに軽く会釈してから、講義室を後にする。

「私達も移動しましょうか。お腹が空きましたし」

「ああ。そういえばさっき、携帯端末にシャーロットからメッセージが届いてた。食堂で待ってるとさ。行こう」

 カルティエの提案に頷いて、アランは漸く重い腰を上げ席を立った。


 工学部の講義室があるのは学園都市オルガン・アカデミー中央南部の第七号教棟だ。

 周囲には赤煉瓦を主体とした、古風な建築様式の建物が並んでいる。灰色のビルディングが立ち並ぶ現代的なオフィス街の様相を呈していた他の地区とは一風変わった趣だ。

 ヒュペルボレオスの運営と発展を司る碩学一族・クルーシュチャの存在があるからだろう。凝った雰囲気もさることながら、周囲には食堂や浴場、郵便局等その他各種公共施設インフラが揃っており、また交通アクセスも容易である等、待遇が中々手厚いのが特徴だった。

 アランとカルティエは舗装された歩道を歩き、大食堂を目指す。

 昼時ということもあって人通りが多い。そのほとんどがオルガン・アカデミーに所属する学生達であり、皆が同じ制服を着用している。その様相に、アランは眩暈にも似た既視感を覚えた。

 今でも思う――何百人もの子供達が揃いの服を着て、同じ建物の中にひしめいている様は異様だ。滑稽であるとすら言える。全ての人間が同一の服装で、同一の規則に従い、同一の生活習慣を過ごす。教師おとなに抑圧された子供達の様相は、家畜小屋か、あるいは玩具箱のようだ。

 程なくして大食堂が見えてくる。

 背の高い建物だった。実際の階数は三階程度なのだが、それを実感させないほど広大な印象が強い。建築様式はやはり古風なもので、等間隔に配置された無数の石造りの柱がなだらかな弧を描くドーム状の屋根を支えている。その間には大きな四角い窓ガラスが嵌め込まれていた。


 ある種の懐かしさすら感じ取れる景観。

 ただし、そんなものは見せかけだけだ。


 この大食堂や学園都市オルガン・アカデミーの教棟に限った話ではない。ヒュペルボレオスを構成する建物は、その全てが旧暦以降に誕生した碩学達の編み出した技術によって築かれた代物なのだ。古風に見えるのはあくまでも外観のみ。見せかけだけの単なるハリボテ、人間にとって都合のいい快適な雰囲気を演出するための舞台装置でしかない。

 大食堂の入り口付近には幾つかの人だかりができていた。

 どうやら級友等と待ち合わせをしていると思しい。そういったグループの中の一つに、見知った顔があることに気付いた。

「―――あ! お兄ちゃーん! カルティエさーん! こっちこっちー!」

 跳び上がる勢いで元気よく腕を振り、己の存在を主張するシャーロット。その装いは軍服から普段着に変わっているが、左腕には赤い腕章が残っていた。

 当然、彼女の傍らにはエドガーの姿があった。

 四人は手早く合流すると、雑談を交えつつ大食堂に足を踏み入れる。

 端的に表現するなら、そこはフードコートだった。規模だけで言えば大型のサッカー場と同等だろうか。内部は開放感のある吹き抜け構造になっており、一階には多数の食卓と座椅子が等間隔に配置され、昼食を摂る学生や教員でごった返している。二階と三階は多様な飲食店のブースが所狭しと並んでいた。

 屋内は街灯風の照明で照らされており、眠たげな陽光の差す外よりも明るい。

 大食堂を利用する者達の食事風景は様々だ。持参した弁当を開き風呂敷を広げ談笑しているグループもあれば、二階・三階に設けられたテラス席風の食卓に着き、教材テキストを広げ勉学に励みつつ片手間にファーストフードをかじる者も少なくない。

「うわ~、たくさんあるね! よし! とりあえず片っ端から食べていこう!」

「食いしん坊がよ」

「あはは……アラン君はどうします?」

「ハンバーガー」

「朝にも食べてませんでしたか!?」

 好き好きに要望を口にしつつ、四人は壁際に並ぶ飲食店を見物していく。

 やがて昼食にある程度の目途が付いた所で、一旦食堂の中央付近まで移動して人数分の席を確保。エドガーを残し、それぞれが目当ての店に向かう。

 アランは宣言通り、脇目も振らずファーストフードを取り扱う店舗へ。彼は迷うことなくカウンターレジから伸びる列の最後尾に加わると、時間を潰すために携帯端末を取り出し、画面に教本テキストを呼び出して難しい顔で睨め付けた。

 そこへ―――

「―――オッヤァ~? 誰かと思えば、アラン・ウィック=サンじゃないッスか」

 低い声が耳朶に入ると同時に、ずしりとした重さが肩に乗る。

「…………」

 眉間の皺を深くして、人形が錆びた関節を回すように、ギギギと嫌そうに振り向く。すると人懐っこく気安い笑みを浮かべた灰色の少年と視線が合った。

 紫の瞳が酷く近い。

 咄嗟に裏拳を叩き込まなかったのはアランの温情だ。そこに漬け込む形で、彼は実に馴れ馴れしく肩を組んでいる。

「……ウィルバー・ウェイトリィ」

 嘆息と呆れ。そして苛立ちを配合ブレンドした声音でアランが答える。すると灰色の少年ことウィルバーは「正解~!」と親指を立てた。

 アランの苛立ちが増した。

 まともに相手をするのも面倒な手合いだと判断し、アランは早々に視線を切って携帯端末に目を落とす。そして指先で画面を操作し教本テキストの文字を読みつつ口を開いた。

「俺に何か用か? 順番なら譲ってもいいが」

「ヘイヘイヘイ、釣れない態度じゃねぇかブラザー! 折角同じ委員会の仲間なんだ、もっと親睦を深めていこうぜ。なあ、ジュニア坊? お前もそう思うだろ?」

「え……えと……」

「ほれ、ジュニア坊もそうだそうだと言っています」

「言ってないじゃないか」

 一瞥もくれることなく切って捨てる。

 ウィルバーの影に隠れるように佇む俯きがちの小柄な少年。彼は会話に加わるでもなく、長い前髪の隙間から僅かに覗く双眸はさも迷惑そうに伏せられている。ウィルバーに無理やり連れ回されているようだ。

「……ていうか、その……俺……こういう食事はちょっと……」

「ンン? 駄目だぜジュニア坊、好き嫌いなんてしちゃーさあ。なんでもしっかり食わなきゃデカくなれねぇからな! それに俺達ゃ花の十代なんだぜ? 健康意識なんて糞食らえ、ジャンクフード上等ってなもんだろうがよ。なあ?」

「えぇ……うん……」

 伏し目がちに曖昧に頷くジュニア。ウィルバーは彼の小さな肩を安心させるように叩き、アランはそれ等一切を無視した。

 他人の人間関係に首を突っ込んだ所で碌なことにならない――経験則である。


 その間にも次々と客が捌けて行き、順番が回ってくる。


 アランが注文する。それに乗っかる形で店員に希望の商品を告げるウィルバーとジュニア。ただし流石に分水嶺は弁えているようで、各自の支払いは各々の注文分に留められた。

 間を置かずに注文の品が三人に供される。

 重厚な食用油と肉の匂い。微妙な具材の違いこそあれど内容は大体同じで、ハンバーガー、フライドポテト、そしてドリンクの定番セットだった。

 即時提供可能食品ファーストフードはその名の通り、調理から提供までに掛かる一連の工程タスクを迅速に遂行できるのが最大の利点である。また手軽な値段設定もあって利用者の客層も幅広く、旧暦時代から更に発展した外食産業を有するヒュペルボレオスにおいても、その存在は決して軽視できないものであるというのが一般的な認識だ。特にハンバーガーは『ジャンクフードの王様』として広く親しまれていた。

 トレーを手に、三人は大食堂を歩く。

 さも当たり前の如く着いてくるウィルバーとジュニアの存在をアランは無視した。話しかけられる度に無難な相槌を打ち、淀みない足取りで先程の席へ向かう。今はエドガーが番をしている筈だ。

 果たして記憶通り、エドガーはきちんと人数分の席を陣取ってしていた。

 アランが戻って来たのに気付いた彼は、教員用に支給されたタブレット型端末の画面に注いでいた視線を上げる。

「おっ、もう戻って来たのか。……って、ほんとにハンバーガー買ってきてやがる。しかも二つ。若いっていいなぁ。しっかし、そんなに食ってて飽きないか?」

「別に。それよりもどうぞ、頼まれていたハンバーガーです」

「頼んでないが!?」

 エドガーの隣の席に腰を下ろし、包装されたハンバーガーの一つをエドガーの前に置く。その後に続き、ウィルバーとジュニアが向かい側の席に着席した。

「あ、あの……ウィルバー……なにを……」

「なにってお裾分け。ほら、俺って肉食えないからさ~。気持ち悪いじゃん全体的に。それにレタスとか青臭いし、玉葱は味どころか食感もウザいし、ピクルスとかもう存在が意味わかんない。チーズなんか最悪だわ、乳とカビの臭いがする。っつー訳で、これはお前にあげるね」

 言いつつ、フォークを巧みに駆使してハンバーガーを解体し、ジュニアのトレーに積み上げている。その光景にアランもエドガーもあからさまに引いているが、当人に気にした様子はない。

「えぇ……なら、最初からポテトだけ頼めばいいのに……」

「お? なんか言いたいことがあるなら聞くぜジュニア坊」

 屈託のない晴れやかな笑顔で恫喝され、気弱な少年は歯切れ悪くもごもごと口籠った。

「ぃぇ、なんでも……―――あ」

 いい加減に見かねたのか、アランは無言で身を乗り出してジュニアのトレーを掠め取る。そして手つかずだった自分のものと交換した。そして黙々とジャンクフードを口に放り込んでいく。

 ウィルバーが乗せた残飯も含め、トレーはあっという間に空になった。

「あ……ありがとう、ございます……っ」

 気遣いが嬉しいやら自分が不甲斐ないやら。褐色の頬を薄っすらと朱に染めて、ジュニアが精一杯に目礼する。

 アランはあえて答えることをしなかった。

 ただ見下し切った眼でウィルバーを一瞥するに留める。そんな彼の行動が琴線に触れたのか、悪魔めいた灰色の少年は軽く口笛を吹いた。

「……はあ。随分と仲が良さそうだなお前等。講師として安心したよ俺は。くれぐれも任務の際には私事を持ち込むんじゃないぞ」

「―――ミスター・ボウ、後でケツバットです。いいですね」

「なんで?」

「それより任務とは?」

「無視? 頼むからちゃんと会話して?」

 向かいの席でもそもそと食事を始めた二人を置いて、アランとエドガーは言葉を交わす。

「はあ……まあ、なにせ人手が足りないからな。俺みたいな出涸らしだけじゃなく、お前達学生の手まで借りなきゃならないのが現状だ。任務ってのはそういう話。まったく、嫌になっちゃうよな」

「というと、今朝の事件に関係する話ですか?」

「今朝? 何の話だ?」

 かくりと首を傾げて聞き返される。

 アランは戸惑い気味に眉を寄せた。

「……今朝見付かった死体に関する話ではないのですか?」

「死体? そんな報告は受けてないが……まあ俺は末端もいいとこだからなぁ。知らされてない情報があっても不思議じゃないが。それはそれとして調べることくらいはできるからな。―――で? 何処で何があったって?」

「―――――それ、は」

 返答に窮する。

 何故か硬直フリーズして動かなくなったアランに対し、エドガーは首を傾げる。本来のアランであれば何かしら対応をしたのだろうが、しかし今の彼にはそれが不可能だった。


 違和感。


(なん、だ?)

 信じられない――と。目を見開き、頭を抱える。

 

 確かに何か――事件性のある出来事に遭遇したことは覚えている。だがその詳細がはっきりとしない。まるで記憶にぽっかりと穴が開いたかのようだった。

 闇に覆われているでもなく、忘却の彼方に追いやられているでもなく。脳細胞に記されていた筈の特定の記録だけが、すっぽりと抜け落ちている。そもそもジケンなんて本当にあったのか。今こうしている瞬間でさえ、脳の記録は急速に色を失っていく。


 まるで、透明な腕に記憶を掬い取られているみたいだった。

 混乱の中、アランは直感的な衝動に駆られて視線を上げた。


 頭蓋に満ちる違和感には覚えがあった。アランは極最近、ある出来事からそれを知覚した筈だった。その答えは


 悪魔めいた灰色の少年――ウィルバー・ウェイトリィ。


 彼は指先に付いたフライドポテトの塩を舌で舐め取ってから、人差し指を立てて唇に当てる。そして幼子に内緒だよと言い聞かせるように、そっと息を吹いた。


 その瞬間―――――アラン・ウィックは、


「―――たっだいまー!」

「お待たせしてすみません。……あれ、アラン君はもう食べ終わったんですか? ああ、すみませんすみません! 出来るだけ急いだつもりだったのですが待たせてしまって……! あれ? どうかしたんですか?」


 横から声を掛けてくる二人の少女。

 シャーロット・ウィックとカルティエ・K・ガウトーロンが、それぞれ思い思いの昼食を乗せたトレーを手に帰還する。彼女達はアランの隣に空いている二つの席にそれぞれ腰を下ろした。

 がち、がち、がち、がち。

 歯車細工の人形のようなぎこちない動きで首を巡らせ、アランは隣のカルティエを凝視する。そして口を開いた。

「カルティエ。……今朝、なにかあっただろうか?」

「えっ? なにかって……うーん……―――ハッ!? いえいえいえいえいえ! 私はなにも見てません! 本当です! ごめんなさいッ!」

 何を思い出したのか無垢な少女は端整な貌を真っ赤にして、千切れそうな勢いで何度も首を横に振る。その様子を見て、アランは「そうか」と一言だけ零した。


「……で、なんだったんだ?」


 エドガーが尋ねる。

 アランは頭痛を堪えるように蟀谷こめかみを押さえながら、「なんでもありません。気のせいのようでした」と応答した。

「うん? なんかよく分かんないけど、実はお留守番してたエドガーさんにお土産があります! ねっ、カルティエさん!」

「はい。それではエドガー、こちらをどうぞ。貴方には日頃からお世話になっていますから、これは感謝のしるしということで」

「あー、はいはい。ありがとさん。……で、なにくれんだ?」

「「ハンバーガーです」」

「もう二度と席のキープ役はやらないからなッ!」

 乱暴に叫び、自棄を起こしたエドガーは、ジャンクフードの小山へ果敢に挑みかかった。

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