第四十九話 一本

 ランニング。


「噂に聞いた話では! 魚面の商売女インスマス・ルックの●●●●は冷凍●●●!」

「ぅ、噂に聞いた話では! ぃ、ぃぃん……」

「ふざけるな! 大声出せ! タマ落としたか!」

「サ、サーイエッサー! うぅ噂で聞いた話では! ぃ魚面の商売女インスマス・ルックの●●●●は冷凍●●●ーッ!」


 障害物走。


「もたつくんじゃない! ゴールで女が●をおっ広げて待ってると思え! やる気が出るだろう!」

「サ……ッ!? サー、イエッサー!」

「いいぞ、その調子で励め変態! どうでもいいが落ちるなよ変態!」

「サーイエッサーッ!」


 筋力トレーニング。


「遅い! 腕立て伏せ百回にどれだけ時間を掛けるつもりだ! みっともなく腰を浮かせるな、発情した猫か君は! もっと身体を深く沈み込ませろ! まだジジイの●●●●の方が気合い入ってるぞ!」

「サーイエッサーッ!」


 鍛錬開始から二日目。

 アランが用意したトレーニングメニューは初心者向きではない厳しいものだったが、ジュニアは一切音を上げることなく。一つ一つ積み上げるように懸命に消化して、着実に取り組んでいた。

 トレーニングに打ち込む姿。気合いに満ちた眼差しを見るに、彼の熱意が口先だけのものでなかったことは明らかだ。

 罵倒といって差し支えない指導にも文句の一つも漏らさず、それどころか貪欲に食らい付かんばかりに励んでいる。そんなジュニアの姿勢に、アランは好感を抱いていた。

 無論、口に出すことはない。そして手を緩めることもない。熱意には熱意で以って真摯に向き合うべし、と。一切の情けも容赦も廃して、アランは出来得る限りジュニアの精神と肉体を虐め抜き鍛え上げていた。

 とはいえ、やり過ぎて体を壊してしまっては意味がない。

「……休憩にしよう。十分後には組手だ」

「サーイエッサー!」

 間を空けず、よどみなく応答が返って来る。

 以前のジュニアは引っ込み思案でどもりがちだったが、近頃は――少なくとも、アランと話す時は――あまりつっかえなくなっている。大人し目な印象こそ変わらないものの、今のジュニアは快活で明るい。表情もすっきりとした晴れやかなものになっているように見える。

 もしかしたら、この状態こそがジュニアの素の性格なのかもしれない。


 スポーツドリンクを呷り、タオルで汗を拭う。


 二人はオルガン・アカデミーに設られた体育館にいた。

 軍事関連の教育が行われている棟に程近い位置に用意された施設で、トレーニングジムや休憩所などを併設した造りになっている。それ故か、スポーツではなく鍛錬を目的とした利用者が多い。

 出入りしている者のほとんどが厳つく、女性でもアランに勝るとも劣らない体格をしている。その中で、ジュニアの矮躯わいくは実に目立っていた。

 しかし、何故か今日は人気がない。事実上の貸切状態になっていた。

「ふぅー……」

 タオルで汗を拭うジュニア。薄手のトレーニングウェアに身を包んだ彼の姿を眺めながら、ひとりごちるようにアランが呟く。

「……大丈夫か?」

「えっ?」

 きょとんと首を傾げられる。

 子犬を連想させる大きな目に見返され、アランは自分でも知らず知らずの内に視線を逸らした。

 慕われている。

 反感を抱いてもおかしくないというのに、そんな様子は全くない。

 ことこの上なかった。

「いや……前にも言ったが、俺は人に教えるのは不向きでな。やり過ぎていないか、いまいち加減が判断出来ない。だから……その、なんだ。―――……辛くはないか?」

 最後の一言には、何か言葉以上の感情が言外に含まれていた。

 ジュニアにその意図を察することは出来なかった。彼は不思議そうに疑問符を顔に貼り付けていたが、直ぐにそれを取っ払って口を開く。

「……? いえ、ぜんぜん、辛くなんてないです。もちろん訓練はキツいですけど、体を動かすのって、なんだか思ってたより楽しいですし。アラン教官の指導も、言葉は乱暴ですけど、そんなには気にならないっていうか……。なんていうか、慣れちゃってるんですよね。碩学って、下手な体育会系の人より厳しくて、あれ以上に口汚くてめちゃくちゃなこと言ってくる人が結構いるので」

「技術職の闇が垣間見えるな……」

 妙にあっけらかんとしているジュニアとは対照的に、アランはなんだか頭を抱えたい気分になってしまった。


 しばらくして休憩を終え、次のトレーニングに移る。


 ジムの一角に設られた、十二メートル四方の大型マットに二人は上がった。

 平らにならされた白い表面には、円や直線等の幾何学模様が描かれている。柔らかくも弾性に富んだ素材が使われており、踏み締めた足裏に返る感触は独特なものだった。

 二人は離れた位置に立ち、向かい合う。

 悠々と肩甲骨周りの筋肉を解しながら、アランはジュニアに「来い」と発破を掛けた。

「じゃ、じゃぁ……いきます……! ―――って、あれ!?」

 強張った表情を更に固めて意気込んでから、駆け出す――前に、気が付けばジュニアはマットの上でひっくり返っていた。

 痛みはない。ただ、回転と浮遊感の余韻だけが残っている。

 投げられた、ということだけは辛うじて理解できた。

 目を瞬かせていると、頭の近くの位置に立つアランの姿が視界に入った。彼は普段と変わらない無表情で、ジュニアを見下ろしている。

「初動が遅過ぎる。欠伸が出そうだ。……それにいつまで呆けているつもりだ。早く起きろ」

「―――!」

 蹴り飛ばされそうになったのを半ば転がる勢いで回避し、ジュニアは踏鞴たたらを踏みつつもどうにか体勢を立て直す。そして素早く反転して、アランへとしゃにむに突っ込んだ。

 ジュニアの手にはナイフが握られている。

 その刃は鋼ではなくゴム製。訓練用の小道具だ。しかしそれでも『武器を持っている』という自覚は、気弱な少年の心の奥底で、ほこりを被ったまま眠っていた闘争本能を着火させるのに幾らかは役立った。

 教わった通りにナイフを構え、突撃する。

 刃がアランに触れることはなく。再びジュニアの矮躯が宙を舞った。

 驚いている暇はない。何をされているのか、考えている時間も惜しい。ただ自分が投げ飛ばされた事実だけを受け止めて、出来る限り早く立ち上がる。そしてもう一度突っ込んで行く。

 突進して、転ばされ。

 起きてはまた突っ込む。

 そして放り投げられる。

 何度も繰り返す。

 身体を動かしていると、頭の中が真っ白になる。視野が狭まり、雑念が消える。骨身の奥底から熱が湧いてきて、手足を動かす原動力になる。まるで自分が一つのエンジンになったような気分だった。

 立ち上がること。立ち向かうこと。

 受け身を取り、すかさず反撃に転じる。戦闘において必須の、当たり前の下地造り。それ等を脳よりも先に体へと直に叩き込んで覚え込ませる。具体的な格闘の技術や知識を学ぶのはその後でいい――というのが、アランの判断だった。

 故に、ただ繰り返す。

 発条ゼンマイの切れた玩具のように、ジュニアの体力が尽きるまで。延々と。


 ―――そんな二人の様子を、ひっそりと覗いている者がひとり。


「…………」

 トレーニング施設の扉を数センチほど開け、小さく身を縮み込ませた状態で、隙間から内部を観察している。こそこそと隠れて獲物を物色する姿は、傍目には泥棒も斯くやという有り様だが、その視線はアランとジュニアにのみ注がれていた。

 どうやら金目の物ではなく、彼等に用があるらしい。しかし中に入ることも声を掛けることもせず、息を殺して覗き続けている。何時間もずっとだ。

 紛う事なき変質者であった。

 変質者の名前はカルティエ・クルーシュチャ・ガウトーロン。純真無垢なお嬢様であり、十六歳の若き天才碩学であり。そして、青春というものに人一倍の憧れとコンプレックスを持つ少女である。

「むむむむむ……」

 唇を固く引き結んで唸る姿は、解法の分からない方程式に挑む数学者に似ている。

 実際に、彼女は難問に直面していた。

 昨日――アランの依頼で作成していた武器の完成の目処が立ち、自由に使える時間が出来た。なので、今日は彼と過ごすつもりでいた。しかしアランは午前中の講義が終わると、ジュニアと共に何処かへ向かっているではないか。

 カルティエは二人の監視を続け、彼等がトレーニングを行っているのを知った。

 ―――羨ましい。

 二人のトレーニングに混ざりたい。一緒に汗を流し、友情を育みたい。その為に態々、新品のトレーニングウェアまで買ってきた。無論、既に着用済みだ。しかし、どうにも一歩を踏み出せずにいるのが現状だった。

 かれこれ四時間近くも、カルティエは蝉のようにべったりと扉に張り付いたまま動けずにいる。


 そんな彼女の背後に忍び寄る、更なる不審者の影―――


 気配を殺し、細心の注意を払ってにじり寄る。まるで獲物を狙う蟷螂のようだ。わきわきと両手を掲げて、間合いに入った瞬間に襲いかかる。熟練の狩人のみが為せる技だ。

 カルティエに気付いた様子はない。

 ならば――と。黒い影は遠慮なく、文字通りに魔の手を伸ばし。哀れな少女を捕まえた。


「―――そぉれ!」

「ぅひゃぁっ!?」


 突如として何者かに後ろから抱き締められ、カルティエが悲鳴を上げる。

 驚いて飛び上がった勢いのまま顔を向けると、見知った少女の愛らしい面貌が視界に映り込んだ。

「シャ、シャーロットちゃん!?」

「えへへ、正解~!」

 実に楽し気に、シャーロットが破顔した。彼女は身を乗り出して肩を越えて顔を寄せ、猫のように頬擦りする。うら若き少女同士の、瑞々しく柔らかな肌が触れた。

「こんなところで何してるの? 早く入っちゃいなよ~」

「いやええっと、あのですね! なんというか、こっ、心の準備がまだでして……! …………それに今ここで私が割り込んでも、二人の邪魔になるだけではないかなぁ……と考えてしまって……」

 視線をあちこちに忙しなく彷徨わせ、しどろもどろに、それでいて早口で口走る。

「うーん……重症だね!」

 カルティエの引っ込み思案っぷりを、可憐な少女か一言で斬って捨てた。

 被害者であるカルティエは、本当に刀剣で斬られたかのような、血を吐きそうな顔をする。とんでもないダメージを受けて、倒れる寸前だった。

「でもそんなこと言ってる場合じゃないかもだよ? ほら、見てよカルティエさん」

 言って、シャーロットは薄っすらと開いたスライドドアの隙間――其処から窺える室内を指差す。

「―――お兄ちゃんがジュニアさんの首を絞めてるよ!」

「ほわっ!? どうしてそんなことに!?」

 悲鳴に近い素っ頓狂な声を上げ、カルティエは再び扉に張り付く。薄っすらと開いたスライドドアの隙間から見える二人の状況は、正にシャーロットの言葉の通りだった。

 ジュニアの背後に回ったアランが、彼の首に片腕を巻き付け、更にもう一方の腕で頭を強固に固定している。あれでは、武術の素人であるジュニアでは逃れようがない。事実として彼は力無く手足を投げ出しており、顔色も真っ赤を通り越して紫に近い色に変色していた。

「ちょ、ちょっと待った―――! アラン君、それ以上はお止め下さい! 明らかにやり過ぎです―――――!」

 あまりに脈絡のない狼藉ろうぜきを目撃してしまった驚きと、早く止めなければならないという焦燥感。他にも心の奥底から次々と込み上げてきた様々な感情が、見えざる手となってカルティエの背中を押し、彼女を体育館に踏み込ませた。

 アランは素直にジュニアを解放する。

 自由の身となった瞬間、ジュニアは床をのたうち回りつつ激しく咳き込んだ。

「ジュニア君、大丈夫ですか!?」

 慌てて駆け寄るカルティエ。その後を、悠々とシャーロットが着いて行く。

「…………で、……さい」

 呻きながら、ジュニアが何かを訴えた。

「えっ? なんですか?」

 彼が何を言っているのか聞き取るべく、カルティエはジュニアの側で屈むと、顔を近づけて耳を傾ける。

 ジュニアは顔を上げると、血を吐くような形相で叫んだ。

「―――いまはご褒美の真っ最中です! 邪魔しないでくださいッ!!」

「は!? いや、えええええ!? ええええええええええええええ!?」

 彼が一体何を言っているのか理解出来ない。故にカルティエは脳内に湧いた大量の疑問符を声に変換し、そのまま出力した。

 様子のおかしいジュニアを目にしたシャーロットが、アランに尋ねる。

「ねぇお兄ちゃん、今のはなんのプレイ?」

「人聞きの悪い言い方は止めろ。ただの訓練だ。彼の希望でな、『締め技を掛けられた状態から抜けるにはどうすればいいか、実践しながら考えたかった』……とのことだ」

「そんな様子には見えなかったけど。現にお兄ちゃんがジュニアさんを見る目、かなりヒき気味じゃない?」

「…………まあ……」

 否定は出来なかった。

 絞首されるのを嗜好すること自体はそう珍しい性癖ではない。理由としては単純で、首を絞められた時、人間は窒息ちっそくの苦痛から逃れる為に大量の脳内麻薬を分泌ぶんぴつする。故に、人によってはことに快楽を見出してしまう訳だ。

 ジュニアの場合、先日のイベントでアランに捕えられた際に目覚めたのだと推測される。……もしかしたら、彼がアランに稽古を頼んだのもその辺りが関係しているのかもしれない。

 実にあたまが痛くなる話だった。

「……それより。お前達は何故ここに? トレーニングでもしに来たのか?」

 露骨に話を切り替える。

 シャーロットは意味有り気な半眼でアランを見るが、あえてそれ以上突っ込むことはせず。大人しく乗りかかることにする。

「まあ、そんな感じかな! ほら見て見て、お兄ちゃん! ジュニアさん! トレーニングウェア買って来たんだー! どう? 似合うでしょ~?」

「わ、わわっ! シャーロットちゃん!?」

 カルティエの腕を取って抱くように組み付き、楽し気にピースサインまでして見せびらかす。付き合わされたカルティエは、思考停止フリーズした状態からの復帰を余儀なくされた。

 二人が着ているのは市販品のトレーニングウェアだった。長袖の上着に膝丈のハーフパンツという共通の規格をしており、カルティエは青を、シャーロットは黒いものを着用している。しかし細部の着こなし方は全く異なっていた。

 カルティエはハーフパンツの下に黒い厚手のタイツを履き、その上で愛用のハーネスベルトを装着している。これは単なる装飾品ではなく、実際に軍などで空挺降下時に使用されている代物だ。

 何故カルティエがそんなものを普段から彼女が身に着けているのかと言えば、決して――当人曰く、「決して!」――お洒落などではなく、彼女が行う肉体の精密な動作――その補助として装備しているというのが実情である。しかしその一方で、肢体を締め上げる飾り気のないベルトが、彼女の艶めかしく肉感的な輪郭ラインを殊更に誇張し、浮き彫りにしてしまっているのもまた純然たる事実であった。

 特に今はロングスカートではなくハーフパンツ姿というのも相まって、そういった印象が余計に強く見える。

 対して、シャーロットは極めて開放的であった。

 彼女の体格よりもワンサイズ大きいぶかぶかの黒い上着。そこに備え付けられた着脱用のチャックを意図して半分ほど開き、下に身に着けているスポーツタイプの肌着と白い柔肌を惜しげもなく晒している。そしてスカートのようにゆったりと裾の広がったハーフパンツの下には、黒のスパッツと腿丈のトレンカを履いていた。

 健康的な装いであるが故に、ふとした折に見せる無防備な姿が余計に見る者を劣情を煽る。本人の気性と合わせて、正に小悪魔と称するに相応しい格好だ。

 この二人を前にして、魅了されない男など存在しないだろう。

 ……アラン・ウィックという例外を除けば、の話だが。

「―――ハッ」

「鼻で笑った!? 今鼻で笑ったよね!?」

「それよりトレーニングについてだが。施設を使う分には好きにすればいいが、こっちにちょっかいを出すのは止めてくれ。こう見えて遊んでる訳じゃないんだ」

 猫でも追い払うように、シッシッと手を振る。するとシャーロットは河豚のように大きく頬を膨らませ、実に分かり易く不満の意を表明した。

「むぅ、私達だって遊びに来た訳じゃないもん! ねっ、そうだよねカルティエさん! のお兄ちゃんになにかビシッと言ってやってください!」

「……人参じゃない。朴念仁ぼくねんじんだ」

 不思議そうに首を傾げるシャーロット。訂正されたことをきちんと理解し出来ているとは思えない反応だ。

 その一方で、カルティエは目に見えて狼狽うろたえていた。

「いや、あのですね……そのぅ……」

 視線を彷徨さまよわせ、もじもじと両手の人差し指の先を擦り合わせる。

 カルティエは引っ込み思案な性質だ。

 アランとジュニアが一緒にトレーニングをしているのを知って、自分も仲間になりないと思った。しかし輪に入る勇気が無く、何時間も指を咥えて見ていることしか出来なかった。

 仮に、相手がアランだけだったならば、もっと容易に声を掛けられただろう。

 或いは。もしも彼と共にいたのがシャーロットやエドガーだったら。更にダーレスや、果てはウィルバーだった場合ですら、また話は違った。少なくとも、ここまで気後れすることなどなかっただろう。

 ジュニアだけが特別なのだ。

 彼は三合会トライアドの犯罪に巻き込まれ、母親を喪っている。、カルティエ・K・ガウトーロンは三合会トライアドの御令嬢だ。気まずいのは当たり前である。

 無論、その事件とカルティエ個人との間には一切関係がない。だが、だからといってなんとも思わないような感性はしていない。それがカルティエという少女だ。

 ――そんな風に思ってしまう。

 自意識過剰な被害妄想と切り捨てることは容易い。実際、彼女は事件とは全くの無関係だ。カルティエには何の落ち度もなく、とがを受けるいわれはない。しかし、彼女は明らかにジュニアから避けられていた。

 カルティエとジュニア。

 性格的な面で見た場合、二人の相性は悪くない。どちらも方向性の違いや程度の差こそあれ、社交性や積極性に難があるのは事実だ。だが彼女達は共に血統書付きの天才碩学。価値観が近く、顔を合わせる機会も多かった。そんな二人が挨拶以外にろくに言葉を交わしたことがないというのは、いささか不自然ではある。

 理由ならば、最早語るまでもないだろう。

 ジュニアとて、カルティエには何の落ち度も非難される筋合いもない。そんなことは重々承知している。嫌という程に。それでも、どうしても割り切れないのが実情だった。

 ―――今までは。

 スッとカルティエの前に来て、ジュニアは手を差し出した。そして優し気な微笑みを浮かべる。

「よろしく、お願いします」

「……! こちらこそ! よろしくお願いします! ジュニア君!」

 感極まり、カルティエは差し出された手を取った。両手で包み、強く握る。そして深々と頭を下げた。

 そんな二人の様子を、シャーロットは満足気に眺めている。対して、アランは普段通りの陰鬱いんうつな表情で小さく溜息を漏らすばかりだった。

「……まあいい。それなら少しばかり、予定を変更しよう。ジュニア、シャーロット、カルティエ。君達全員で俺に掛かって来い」

 頭を掻き、所在なさそうに歩きながら、アランが言った。

 三人が驚いた風に顔を見合わせる。

 最初に口を開いたのはシャーロットだった。

「ふぅん、いいの? いくらお兄ちゃんでも、三対一はキツいんじゃない?」

「馬鹿を言うな。お前達程度が相手なら、三人どころか五千兆人いても負けはしない。―――ほら、さっさと掛かって来い」

 挑発に挑発で返し、アランは招くように指を振る。

 カルティエ達三人は無言で頷くと、視線で示し合わせてアランから距離を取りつつ、彼の周りを囲った。

 アラン・ウィックが優れた拳士であることは、この場の全員が知っている。一人では絶対に勝ち目がない、という認識も共通していた。故に――狩りに臨む蛇のように、慎重に。彼のどんな動きも見逃すことがないよう注視しながら、カルティエ、シャーロット、ジュニア等はじっくりと機を伺う。

 ……その筈、だったのだが。

「「「―――!?」」」

 驚愕は、カルティエ達三人の挑戦者のものだった。

 アランが視界から消えた。

 優れた格闘家であれば、相手の意識の隙を突いて行動することは容易い。集中力の波や視線の動き、対手や己の行動を考えることで生じる思考のブレ、呼吸や血行に始まる生理的な反応など、などと。相手の全てを自身のことも同然に感じ取り、逆手を取って行動する。熟練の拳士ならではの業だった。

 更には素早くもそうとは認識させない歩法。巧みな足捌きから為る独自の移動法は、戦闘経験のあるシャーロットにすら感知できないものだった。

 結果―――

 消えたアランに忘我したのは、一秒にも満たない一瞬のこと。しかしそれでも、アランには十分な時間だった。

 既にシャーロットとジュニアの排除は済んでいた。

 カルティエが気が付いた時、シャーロットは高く空を飛んでいた。彼女が落下する先には、ジュニアがいる。そして――凄まじい勢いで迫り来るアランの姿に度肝を抜いた。

「ちょ―――っ!?」

 シャーロットがジュニアの上に落下し、二人が潰れた蛙のような悲鳴を上げる。それとほぼ同時に、アランはカルティエを拳の間合いに捉えていた。

 顎を狙う掌打を放つ。

 放たれた一撃を、咄嗟の判断で防ぐ。肘を軸として小さく円を描くように腕を回し、相手の攻撃を弾き逸らす。

「―――――」

「―――――」

 交わされた攻防。その接触が、絶対的な事実を告げていた。

 ―――これは、もう

 カルティエの優れた頭脳が弾き出した未来。勝負の決着。それは直ぐに訪れた。

 アランにとって、カルティエが掌打を弾くのは予測済み。故にその先まで含めて、予め動きを組み立てている。現に彼は弾かれた筈の腕の指を無理やり相手の手首に絡み付かせて、確と掴んでいた。

 彼は身を低くしてカルティエの足の間に自身の足を差し込んで体勢を崩させると同時に、彼女の懐に潜り込む。そして腕を掴んでいるのとは反対の手で捩じるような形で襟首えりくびを取ると、身体の重心をそれまでとは反対の方に向けて、カルティエを引き寄せながら投げた。

 見事な背負い投げにより、少女が床に叩き付けられる。投げられた本人が小気味良く思えるほどの快音が体育館中に響き渡った。

だ」

 襟元を正しながら、呆然と天井を眺めるカルティエに告げる。それを受けて、カルティエは寝転んだまま溜息を漏らすことしか出来なかった。

「……この間のことですか? もしかして、根に持ってます?」

「当たり前だ」

「…………。はあ……本当に負けず嫌いですね、アラン君は」

 唇を尖らせ、離れていく背中に零す。

 聞こえているだろうに、アランは何の反応も示さなかった。

 先日のイベントの折、カルティエは不意打ちによってアランを投げている。そのことを彼はずっと気にして恨みを募らせていたのだろう。力量差が歴然であるのは誰の目にも明らかであるにも関わらずやり返さずにいられない辺り、相当に執念深い性質であることが窺える。

「さて、仕切り直しだ。今日は俺から一本取れるまで帰れないと思え」

 強かに手を打ち鳴らせ、アランが宣言する。

 カルティエは嫌そうに眉を曇らせ、ジュニアはこの世の終わりのような表情で蒼褪める。唯一シャーロットだけが心の底から嬉しそうに歓声を上げた。


 ―――結局。


 解散したのは六時間後のことで。

 カルティエ達が帰って来るまでの間、エドガーは腹を空かせる羽目になった。

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