第十五話 ボーイ・ミーツ・ガール
不意に何処かから、犬の鳴き声が聞こえたような気がした。
「―――――?」
眠たそうに曖昧に濁った眼で、少年は周囲を見渡す。
人、人、人――何処に目を向けても、見えるのは黒山の人混みばかりだった。数え切れないほどの人間達が、少年の横を擦り抜けていく。
何処かの街道――その真ん中に、彼は立っていた。
街並みから察するに、其処がヒュペルボレオスの首都であるのは間違いない。彩られた道路は煌びやかで、行き交う人々の表情には笑みが浮かんでいる。しかし連れ合いの少女達の姿は何処にも見受けられなかった。
(ここはどこだ? 俺は、なにをしていたんだっけ―――?)
考えてみる。
しかし、答えは見つからなかった。同行者等と航空機の展示会場に入ったことまでは思い出せるが、何故かそれ以降の記憶がごっそりと欠けている。まるで虫にでも食われたかのような不自然な空白が、少年の記憶を汚染していた。
その空白を埋めようと試み、少年は頭を捻る。
―――――アラン
不意に、名を呼ばれた気がした。
少年は俯き気味だった面を僅かに上げ、視界を広げる。すると小さな子供の姿が入り込んだ。
祭りの只中であるからか、その面貌は黒い犬の面によって覆われている。しかし子供の服はみすぼらしく擦り切れ、薄汚れていた。富裕層の人間ばかりが集まるヒュペルボレオスの首都において、その装いはあまりにも周囲から浮いている。
街道を行く人々は少年を避けて歩くが、その代わりに子供には目を向けようともしない。小さな姿が幾度も消えては現れた。
雑踏の中に紛れ込んだ子供は、まるで虚像のように少年の前に佇んでいる。
―――――
子供の声と犬の鳴き声が重なって聞こえた。
少年は子供の問い掛けに対して、無言で頷きを返す。すると子供は喜色を放ち、楽し気に両手を打ち鳴らした。面に隠れていて窺うことはできないが、もしかしたら笑っているのかもしれない。
子供は少年の下に駆け寄ると、彼の片手に両手を重ねて何かを握らせた。
訝し気に眉を寄せつつも、少年は握られた手を持ち上げる。すると、その手には何故かソフトクリームが生えていた。
淡い褐色が、円錐形のコーンの上で
―――――
長年の友達を労うような調子で、子供が言う。
少年が無言で頷きを返して了承を示すと、子供は犬面越しにくつくつと笑いを漏らした。彼は楽器を打ち鳴らすように、自身の右手の指を鳴らす。
―――ぱき、ぽき、ぱき
人差し指、中指、薬指と、指を順番に親指で押して音を鳴らしていく。規則的な快音は耳に心地良く響いた。
最後に、親指は小指の基節骨を押さえる。
―――ぱきん
それを合図に、子供は少年の背後へと回り込んだ。
子供の姿が視界から消える。その瞬間、少年は子供の気配が何処かへ掻き消えたように感じた。そしてその感覚を裏付けるかのように、少年が漠然と辺りを見渡した時には、遂に子供の姿を確認することはできなかった。
少年は呆然と、手の中に残ったソフトクリームを眺める。
淡い褐色を口元まで運び、少年はその表面に舌先を這わせた。熱で蕩け、安っぽい甘みが喉を滑り落ちる。
しかしこれといって、冷たさを感じることはなかった。
* * *
レナータは人混みを掻き分け、全力で疾走していた。
既に息は上がっている。彼女は肩を歪に上下させ、無様に酸欠で喘いでいた。脇腹と
着込んだ厚手の黒いコートと、その下に着たワンピースタイプの質素なドレスがばたばたと足に纏わりつく。その感触を心底鬱陶しく思いながら、レナータは鬼気迫る表情で肩越しに背後を振り返った。
「待てやオラァ!」
「我々ハ今正ニ空前絶後ノ足踏ミヲ開始スルノダァ!」
黒服にサングラス姿の厳つい男二人組が、聴くに堪えない雑言を吐きながらレナータを追いかけていた。
「なっ、なんなのよ、一体!? っていうか何を言っているの!?」
レナータは身に降りかかった理不尽を嘆き、悲鳴を上げる。
事の起こりは数十分前にまで
祭事で自身が担当する催しのリハーサルを終えた彼女は、束の間の休憩時間を満喫すべく街へと繰り出した。しかしその直後、到底知性的とは思えない言動の男二人に捕縛される羽目となったのである。
絶望的な状況だったが、とはいえ街中での出来事だ。なんとか隙を見て反撃、無事脱出を果たしたレナータであったが、どうにも追跡の手を撒けずにいるのが現状だった。
「遅メノ昼食! 三本足ノ冷蔵庫! 信号ガ吹キ零シタ音色ヲ、
意味の分からないことを喚きながら、男が懐に手を入れる。すると相方がその頭を強かに叩いた。
衝撃でサングラスがズレ、曖昧に隠された顔付きの片鱗が晒される。その造形は異常に平坦で且つ歪であり、特にクレーターの如く落ち窪んだ眼窩の真中から発するぎらぎらとした醜悪な輝きが特徴的だった。
「止めんかバカタレがッ! こないな所でハジキ出すヤツがあるかバカコラ! それに商品が傷物になったらどないする気じゃボケ、先にお前をいてもうたるぞ!」
「AIEEEEE! 土下座ノ発祥ハ天国ノ門出! 晴レルヤ、兄貴!」
スラングと怪言語で
(見た感じトライアドの下っ端っぽいけど、一体私になんの用なの!? 恨みを買った覚えはないわよ! それとも理由なんてないワケ!? ああもう、どうして私がこんな目に遭うの―――!)
捕縛された場合に起こるであろう最悪の事態を想像し、決して捕まってなるものか、と決意を新たにレナータはより強く地面を蹴った。
トライアドの最下層構成員は、何らかの先天的な欠損を持つ人間が多いという。それが遺伝的な要因であれ、あるいは偶発的な要素であれ、ヒュペルボレオスが掲げる人類復興という題目の下、肉隗の如く産み落とされるのだ。
しかし生来から心身共に病んだ彼等が、才能すら数値化され
だからこそ彼等は与えられた命令に忠実である。どのような状況であれ、どのような目的であれ、愚直に使命を果たす走狗なのだ。
よって路地裏は元より、人の多い大通りでも追跡者達は遠慮せずに暴言を並べながら追って来る。相当頭に血が上っているのか、周囲にはマニトゥの監視の目がある筈だが、彼等は気にした素振りすら見せなかった。
「―――っと、ゴメン!」
前を歩いていたソフトクリームを持った少年と衝突してしまい、レナータは咄嗟に謝罪を投げてから再度走り出す。
駆け出してから一瞬、レナータの脳裏にとある影が
(あれ? 今の子、どこかで見たことあるような……)
「―――――」
不可思議な錯覚が頭蓋を射貫く。
時が止まったかのような、周りの全てが急激に何処かへ遠のいたような、そんな感覚がレナータの胸中を締める。そしてその情景を今まさに件の少年と共有しているのではないかと、そんな直感が過った。
放っておけばいつまでも続きそうな、間。
けれど当然の如くそれは破綻する。レナータを追っていた男達は少年に激突し、ある種の華麗な流れで難癖をつけ少年を罵倒した。そしてそんな彼等の様子を尻目に、レナータは何事もなかったかのように強かに加速、猛スピードで男達を引き放しにかかる。
「夢ヲ見ナガラ歩クノハ、命ノ要ラヌ不届キ者ノ心得ヨ!」
「待て待て待て、そいつはいい! ほっとけ! いいから逃げたあいつ追うんだよ早くしろよ! あいつ捕まえたら俺ら昇進確定なんじゃけぇ気合い入れろ!」
「
言うが早いか、少年を放置して男達は血気盛んに走り出した。
「…………」
後には少年だけが取り残される。
少年は何気なくといった様子で視線を落とした。目に入るのは無残に地面に落ちたソフトクリームの残骸で、その痕跡はべったりと上着に張り付いている。男達と激突した際に落下したのだ。
手の中に残った手付かずのコーンから、奇妙な哀愁が漂っているように見える。少年はそれを三口ほどで一気に平らげると、再び顔を上げて前を見た。
稚拙な逃走劇を繰り広げる一行の姿を、赤い瞳に確と映す。
レナータが交差点の角を曲がり、男達がそれに追随する様子がはっきりと見て取れた。
「―――うそぉ」
目の前に
追っ手を撒くために路地裏へと逃げ込み、その結果行き止まりに突き当たる――などと。そんな喜劇にしてもあまりにベタ過ぎる展開に直面して、彼女は改めて己の不幸を痛感した。
そしてそれとは逆に、男達は降って湧いた幸運に胸を躍らせている。
「ぜぇ、ぜッ―――っぁ。もう、逃げられんぞ、ぇはっ」
「待タザル……者ハ、待チ居タリ、沙羅双樹ノ……鐘ノ声。諸行無常ノ、がめおべら。……空ガ……オ前ヲ、待ッテイル……」
荒々しく肩を上下させ、膝に手を突き無様に喘ぎながら男が言う。
一瞬、今ならどうにかして独力で逃げ出せるのではないか、という考えが過るが、頭を振ってすぐにそれを打ち払う。
相手は男で、自分は女だ。どのように鍛えた所で地力には差があるし、何より相手側の方が人数で優っている。銃器類を所持している可能性も零ではないだろう。何はともあれ、下手なことはしない方が身のためだと観念せざるを得ない状況だ。
ビルとビルの間に挟まれたそこは薄暗く、人目がない。
呼吸を整えるのもそこそこに、男達はレナータへにじり寄る。まさに袋の鼠、万事休す――そんな状況だったが、しかし絶体絶命の危機は思わぬ展開を迎えた。
「―――むがっ!?」
「AIEEEE!? 月ニ吠エルハ暗闇ニ潜ム膨レタ野獣ノ如キ機械仕掛ケノ恐怖! 狂乱! 狂奔! イザ行カン! 怖イ!」
突然背後から何者かによって黒い布袋のようなもので視界を隠され、男達は一瞬にしてパニック状態に陥る。
網に掛かった獣よろしく、二人は無意味にもがきながら絡み合った。更には近くで謎の爆発音すら聞こえたものだから、恐慌状態はより悪化の一途を辿る。二人は手足を出鱈目に動かして地面に倒れ込み、もぞもぞと不気味に
暗幕に包まれた闇。しかしある時、それが不意に剥ぎ取られる。
刺すような光が男達の網膜を貫く。
「こんな所で何をしているのかね? 君達は」
警官がいた。
それも五人ほど。
「いや、まあ、はっはは……なんというか……商売に関することで、色々?」
「ハッ……!? 兄貴、兄貴! 神ヲ隠スハ人ノ中、とーてむぽーるハ狸ノ袋ノ影ノ下! 消エタアノ子ハ交差点! 怖イ!」
「お前は少し黙って、どうぞ。―――って本当におらんなっとるゥン!?」
路地裏の一角を指さして、二人は抱き合って戦慄いた。そんな彼等の様子に困惑した態度で警官達は顔を見合わせるが、それはともかく、と職務に移る。
「……君達が婦女を追い回している、と通報があった。マニトゥが記録した監視カメラの映像もある。それに先程の銃声にも似た爆発音についても何があったのか聞きたい。同行してもらえるね?」
「イヤ、人違イデスヨ、ソレ別人ジャネ?」
「それだ!」
「それだ、ではない。―――ではトライアド構成員二名を任意同行で確保、撤収」
「
「イャアッー! 今回だけは勘弁してくれマジで! 俺の、俺の昇進がッ! 過去のヘマを帳消しに出来るチャンスがッ!」
駄々っ子のように暴れる大人二人を、警官達は丁寧に運んで行った。
「……不快なコメディだ」
言葉通りの表情を形作って目を眇め、少年は吐き捨てた。
路地裏を構成する高層ビル、その側面から生える非常階段の踊り場に少年とレナータはいた。少年は手摺に肘を掛け、もたれかかった態勢で下界を見下ろし、その一方で、レナータは呆然とした様相で踊り場の床にへたり込んでいる。
(今の……なに……?)
肩が自然に起り、いまいち握力が覚束ない。
まるで
悪漢に路地裏へ追い込まれていた筈が、気が付けば何故か逃げ遂せている――そんな異様な事態。その全容を理解出来ていたのは実行者であった少年だけだった。
―――手順としてはこうだ。
まず彼は逃げるレナータと、それを追いかける二人の男を追尾した。
やがてレナータが袋小路に飛び込んだのを確認すると、手早く汚れた上着を脱ぎ払い、気配を殺して悪漢達に接近。広げた上着を襟側から二人の頭部に被せて引き寄せ強引に一緒くたにまとめ、袖を結ぶ。その後何が起こったのか分からずにいるレナータの下まで即座に詰め寄ると、彼女の腰を抱えてそのまま
ちなみに、踊り場から地上までは十五メートルほどの隔たりがある。手摺と階段の隙間から覗く俯瞰に、レナータは顔色を青白く染めた。
腰が抜けた心地。そんな彼女の胸中を気にした様子もなく、少年は態勢を変えないままぼんやりと街を見下ろしていた。両端をビルに区切られた四角い視界は劇場めいており、現れては消えていく人の群れは銀幕に映された虚像めいている。
レナータはぺたりと座り込んだまま微動だにせず、少年の背中を見上げていた。
けれど不意に少年が肩越しに振り返り、赤い眼差しでレナータを見る。すると自然と、レナータの視線も少年のそれに重なり交錯した。
「…………」
「…………」
硬直するレナータ。対して、少年の面差しに目立った変化はない。値踏みするように観察して――興味を失くし、視線を切った。
少年はもたれていた手摺から体を放すと、淀みない足取りで歩き出す。彼はレナータの横を通り抜け、階段に足を掛けた。
―――カンッ
一段降りた所で、足が止まった。
少年はまた肩越しに振り返る。しかし今度はレナータと視線が交わることはなかった。彼は己の右手を見下ろしている。正確には――右手を包むシャツの袖を引く、レナータの指を凝視していた。
「……あっ」
無意識に少年の袖を掴んでいたことを知り、レナータはハッとして声を上げた。
少年はレナータの顔を見やり、小首を傾げる。
「何か?」
「あっ、いや、その……助けてくれて、どうもありがとう……?」
「どういたしまして。では―――」
少年は目礼を返し、再び歩き出そうとする。しかしレナータは袖を掴んだままだったので、やはり階段を降りることはままならなかった。
訝し気に目を細め、少年はもう一度レナータに向き直って尋ねる。
「……何か?」
「あー………」
歯切れ悪く呻きながら、レナータは盛んに目を泳がせる。何故こんなことをしているのか、自分でも分からないといった風情だ。
言葉は出ず、ただぱくぱくと口が動いている。ひどく煮え切らない態度だがさして気にした様子もなく、少年は不動と沈黙で以って待ち続けた。
その堅忍が結実したのか、やがてレナータは不確かだった
「―――お腹、空いてない?」
「…………………まあ、一応」
曖昧に首肯を返す。すると、レナータはおもむろに破顔した。
「そう、よかった! それじゃあ助けてくれたお礼に、ご飯を御馳走してあげる! ついて来て!」
「は? いや、私は―――」
少年はやんわりと断りを入れようとするが、その言葉尻は大きくぶれ、靴底が鉄製の階段を叩く甲高い音に掻き消された。
レナータに手を引かれるままに、少年は階段を降りていく。
されるがままに身を任せ、少年は無言でレナータの横顔をそっと見やる。
彼女の髪は黒く長い。瞳は美しい銀色で、人形のように端整な顔立ちは凛々しく輝いて見える。その面立ちは、少年にとってあまりにも
* * *
「私はレナータ。貴方は?」
「はい。私はアラン・ウィックといいます」
さらりと自己紹介をしつつ、二人は肩を並べて街道を歩いていた。
アランの手には、チョコレート味のソフトクリームが収まっている。つい先程、露店で売っていたものをレナータが弁償と称して買い与えたものだ。
彼は新品のそれを頬張ると、安っぽい甘味を舌で掬い取り、唇を舐める。
「アイスもそうだけど、上着も私が台無しにしたようなものだし、そっちも弁償させてね。というか君シャツ一枚しか着てないみたいだけど、寒くないの? 私のコート、着る?」
「……いえ、大丈夫です。お気遣いなく」
「ほんとに? 遠慮しなくてもいいのよ。……って、押し付け気味になっちゃそっちの方が迷惑か。ごめんね。それじゃあ、えーっと……ここから一番近いお店は――あっ、あれね!」
周囲へとざっと視線を走らせ、レナータは目敏く目的の店を感知し、指差す。奇しくもその店は、アランの知る店であった。
その店の看板には、こう書かれている。
エーリッヒ・ツァンの洋裁店。貴方だけに似合う服を仕立てます。
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