第十四話 他人の不幸

 既に街は祭りの気配で賑わっていた。

 視界の端を走り去る景観は、日常から切り離されたものだ。寒気で青白く煙っていた街の面影は、煌びやかに照らし出され綺麗に払拭されている。

 都市を構成する家屋の一つ一つにイルミネーションが施され、街灯の一本一本が華やかな飾りで繋がれている。街路樹には人形やランタンの類が枝飾りとして施され、路上を行き交う人々の影を幾重にも躍らせていた。

 舗装された道路の脇には露店が並んでいる。

 美味そうに演出されたファストフードの群れを注視して、シャーロットは悩ましげに溜息を吐いた。

「ぜんぶたべたい」

 有言を実行しかねない。そんな予感がアラン達の脳裏に閃いた。

 アラン、シャーロット、カルティエ、エドガーの四人は車で移動していた。乗っているのは横長の黒いリムジンで、赤い革張りの内装は異様に豪奢である。車内には冷蔵庫と円卓が用意され、飲み物が並べられていた。

 車内にはアラン等を除き、運転手を含め五人の黒服の男達が同乗している。トライアドの構成員だ。

 揃って腕を組んだ姿勢のまま不動を貫く男達と、それに違和感なく同化するアランに対し、カルティエとシャーロットは特に気にした様子もなく歓談しているが、唯一エドガーだけが居心地悪そうに縮こまっていた。

(ストレスで胃に穴が空いちまいそうだ。煙草吸いたい……でもこの状況で吸うのはなぁ)

 深く溜息を吐いてエドガーは肩を落とす。

 もし今ここで堂々と喫煙などした日には、お嬢カルティエ妹君シャーロットの健康を害したとして、六人の黒服にその場でなぶり殺しにされかねない。そんな予感がエドガーの胃をキリキリと捩じり上げた。

 やがてリムジンは薄暗い地下駐車場に入り、危なげなく停車した。

「お嬢、到着しました」

「ご苦労。では貴方達は手筈通り後続の班と合流し、共同で展示作業を行って下さい。それが終わり次第、各自の自由行動を認めます」

 同乗していた男達にエスコートされ、カルティエが下車する。

 彼女はテキパキと部下達に指示を出す。それを受けて黒服の男達は迅速に行動を開始した。

「おー、なんだか映画みたい!」

 カルティエの手腕を湛え、シャーロットが手を叩く。

 順次車から全員が降りる。エドガーはぐっと背筋を伸ばし、シャーロットは物珍しさから仕切りに周囲を見回した。

「展示作業というと、昨日の小型航空機か?」

「はい。まずは皆で展示会場を見て回ろうと思いまして。その後は露店で食事にしましょう。―――それじゃあ、行きましょうか」

 言を皮切りに、カルティエが先陣を切って歩き出す。その後にアラン達が続いた。

 車からそう離れていない場所に設えられたエレベーターに乗って、四人は地上へと向かう。四角く閉ざされた箱が扉を開くと、無数の雑踏が視界一杯に飛び込んで来た。

 どうやらエレベーターの出口は件の展示会場の目と鼻の先にあったらしい。

 広々とした広場には柵が設けられ、扇状の入り口が用意されていた。その向こうには巨大な噴水と、コンテストの出展用に並べられた航空機らしき物体が見える。

 入り口ゲートは二種類あり、片方には客達が長蛇の列を作っているが、もう片方には人っ子一人近付いていない。

 カルティエは無人な方のゲートに向かって歩き出した。そして受付にある人間大の大きさの筐体きょうたいに、自身の携帯端末をかざす。

『―――カルティエ君とそのご一行だね。宜しい、通りたまえ』

 筐体のスピーカーから流れた音声は、マニトゥのものだった。

 会場内に入った途端、人口密度は大きく減少した。その代わりに数多の機械達がアラン等を歓迎する。航空力学と碩学等の美的センスの粋を凝らし、一種の芸術品とも称されるほどに洗練された機体の群れが、等間隔に肩を並べた様は壮観だった。

「ほとんどが戦闘機か飛行船って感じの形だね。たまによく分からないのもあるけど……なんか、思ったよりも本格的な感じかも」

「航空力学的に飛べる形というものには限りがありますから、その辺りは是非もなしって所です。如何にヒュペルボレオス中の碩学達が全力を尽くしたとしても、本当の意味での『枠を超えた発明品』を拝める機会は意外と少なかったりするんですよ。もちろん完全なネタ作品を除外した場合の話ですけど」

「ネタ作品というと、分かり易いのはアレだな。あのヘルメットからプロペラを生やしただけのヤツ。マネキンの頭にのせてあるが、まさかあの装着方で飛ぶのか……?」

「空を自由に飛びたいナー、っていう思いだけはひしひしと伝わってくるね!」

 訝しみながらアランが顎で差し、それを認めたシャーロットが指を差して爆笑した。

 黒い台座に立たされた人形マネキンの姿は、周囲から異様に浮いて見える。しかも頭にはヘルメット状の固定器具が巻き付き、ヘリコプターのプロペラがほぼそのまま取り付けられているのだから相当だ。悪目立ちしているにも程があった。

 カルティエは眉をしかめて腕組みし、やれやれと頭を振る。

「流石にあれはなんというか……ロマンを求める心意気は理解できますが、杜撰な仕事という他ありませんね」

「―――杜撰で悪かったわね」

「うひゃぁっ!?」

 突然降って湧いた横槍の直撃を受け、カルティエが飛び上がった。

 一同が闖入者に視線を向ける。そして程度の差こそあるものの、シャーロット以外の全員が顔をしかめた。

 白い女だ。

 白い肌を白衣で包み、三つ編みにした白髪を肩に垂らした姿。病的ともいえる白い装いは、陰鬱に落ちくぼんだ蒼い瞳を際立たせている。

 彼女の名はヴュアルネ・クルーシュチャ。ヒュペルボレオスにおいて知らぬ者のない、カルティエの実母だ。

 ぽかんと口を開け、面食らった様子でカルティエが問いかける。

「母様……何故、ここに?」

「一応、私も貴方と同じでコンテストに出展した側だから、見学にね。航空関連は私の専門ではないのだけど、まあ、思い付きで。手慰みに造ったものを、こうして出させて貰ったわ」

 肩を竦めてヴュアルネが言う。飄々ひょうひょうとした仕草だが、その表情には全く変化がなかった。表情筋が麻痺しているのか、あるいはマネキンが喋っているのではないかと勘繰りたくなるような、不気味な印象の女だった。

 ヴュアルネはカルティエに向けていた視線を横へと滑らせ、アランを見る。

「こんにちは」

「……どうも」

 虫にも似た無機質な視線から目を逸らし、アランはばつが悪そうに顔を背けた。一見すれば失礼とも取られかねない所作だがヴュアルネは気にした様子もなく、未だ状況を理解できないまま硬直しているカルティエに視線を戻す。

「……大きくなったわね?」

「疑問形で言われても困るのですが……ええと、ありがとうございます?」

 二人は眉根を寄せて、小首を傾げた。

 親子の会話、というにはあまりにぎこちない。それは最早距離の隔たれた親類というよりも、十数年振りに再開した顔も思い出せない友人といった風情だった。

「…………」

「………?」

 当然、それ以上会話が続く筈もなく。ヴュアルネは娘をじっと見詰めたまま口を閉ざして微動だにせず、それに居心地の悪さを覚えたカルティエは、縮こまって所在なさ気に両手の指先を擦り合わせた。

(苦手、なんですよね……)

 蛇に睨まれた蛙に近い心境で、カルティエは実母を見上げる。

 ヒュペルボレオスの教育形態から、親と子の関係は希薄になり易い傾向がある。それが親子互いに引き籠りがちな碩学であるのなら猶更だ。十六年間の人生においても、二人が顔を合わせた機会は数えるほどしかなく、言葉を交わしたことは一度たりともない。

 何より自身の出生の経緯から、カルティエは自分が望まれて生まれた子供ではないのではないか、と疑ってすらいる。そのことが原因で、相手が実の親であるにも拘わらず手探りでコミュニケーションを取ることすら難しかった。

 居た堪れない沈黙が続く。

 その横で、シャーロットがアランの前に移動した。彼女はアランの顎が自分の頭に乗るように位置を調整して、何故か仁王立ちで佇む。それに感化されたエドガーがアランの後ろに移動すると、彼はアランの頭に自身の顎を乗せた。

 謎のトーテムポールが完成する。その瞬間にアランは跳ね上がるように仰け反り、エドガーに頭突きを食らわせた。

 エドガーが顎を押さえてもんどり打つ。

 その様子を見てシャーロットは決壊寸前といった表情で笑いを堪えていたが、カルティエ等親子の沈黙は変わらず続いていた。

 ヴュアルネは視線を逸らさず、かといって口を開こうともしない。濃厚な隈に浮き彫りにされた蒼い眼からは、何の意図も窺えないままだ。

(どうしよう―――)

 万策すら思いつかないままカルティエが途方に暮れる。不可視の圧力によって二人が雑踏に埋もれかけた頃、不意に謎の絶叫が空気を切り裂いた。


「あ―――――っ!」


 大声によって沈黙と雑踏が一気に取り払われる。

 カルティエは元より、周囲一帯の視線が全て声の主に集まった。


 声の主は若い女だった。齢は二十代の後半といった所で、緩くウェーブのかかった明るい色の髪に目を引かれる。顔立ちは幼く陽気な雰囲気で溢れており、高い位置で結ばれたポニーテールを揺らす姿はやんちゃな老犬を連想させた。

 女は榛色の眼を輝かせ、ヴュアルネを指さしている。空いている手には白い厚手の布で包まれた赤子が抱えられていた。

「ヴュアルネ先輩じゃないですかぁ、久しぶりですねぇ! おやっ、しかもエドガー大先輩までいらっしゃる!」

 間延びした口調で言って、女がぶんぶんと手を振る。

 それを受けて挙動不審気味に狼狽えながら立ち上がるエドガーを置いて、ヴュアルネは無表情のままで答えた。

「マグワイア、ね。久し振り」

「わぉ、覚えててくれたんですねぇ。よかった、よかった」

 にへらと笑って、マグワイアと呼ばれた女が近づいてくる。カルティエはその挙動を見守りながらヴュアルネとエドガーに問いかけた。

「知り合い、なのですか?」

「いや、えぇーと……」

「まったく……ええ、職場の後輩。学生時代からの腐れ縁ね。半年くらい前に産休を取ってそれっきりだったのだけれど、産まれたのね、赤ちゃん」

 ばつが悪そうに視線を泳がせるエドガーを見かねて、ヴュアルネが助け船を出す。エドガーからの返事はないままだったが、マグワイア本人に気にした様子はなく、笑顔で胸に抱えた赤子を晒して見せた。

「はい! 報告が遅くなって申し訳ないです。ほらほら、どうです、可っ愛いでしょう!」

 楽し気に笑いながら、マグワイアはカルティエとヴュアルネの間に入り込んだ。そして抱いた赤子の顔がよく見えるよう小さく揺する。血色のいい頬は丸々と膨らんでおり、すやすやと寝息を立てる姿は愛らしく見えた。

「わぁ……―――」

「―――かわいい! マグワイアさんにそっくりなんだねー」

 感嘆するカルティエ。そこにシャーロットが突っ込んできて歓声を上げた。

「ふふふ、ありがとうございます。二人はヴュアルネ先輩のお知り合いですか?」

「娘とそのお友達、かしら」

「そうだったんですかぁ。じゃあ、あなたがカルティエちゃんですねぇ? 初めまして。あなたのお顔はよく拝見させて頂いてますよぉ。知ってます? 先輩って、あなたが赤ちゃんの頃の写真を、ずぅーっと携帯の待ち受け画面に設定してるんですよ?」

「……へ?」

 予想外の事実を告げられ、カルティエは思わずヴュアルネを二度見した。

 当のヴュアルネは無表情を崩すことこそなかったが、しかし娘からの意外そうな視線からは露骨に目を逸らした。真意は読めないものの、どことなくばつが悪そうな雰囲気を醸し出していることから、信憑性は高いだろうとカルティエは感じ取る。

(一応、嫌われている訳ではない……のでしょうか)

 戸惑いを覚えつつも、カルティエは自身の胸の内がじんわりと温かくなったように感じた。

「赤ちゃんかわいいね。ほっぺもちもち、おまんじゅうだね」

「ふふふ、そうでしょうそうでしょう。私と同じもち肌なんですよぉ。……おや、かくいうお嬢さんもなんだかもちもちしてそうなフィール」

「うん。えへへ、お兄ちゃんと同じもち肌なんだー」

「それはそれは……触ってもよろしいです?」

「どうぞ!」

「もちもちもちもち」

「もちもちもちもち」

「……何をやっているのかしら」

 互いの頬を触りながら、シャーロットとマグワイアがエキサイトしている。どうやら随分と気が合うらしい。その様子を眺めながら、ヴュアルネは肩を竦めた。

「なんだかあなたからは他人とは思えない親和性を感じます。どうでしょう、よろしかったら赤ちゃん、抱いてみませんかぁ?」

「いいの? ふふ――かぁわいい」

 両腕に小さな体を大事に乗せて、シャーロットは微笑んだ。

 赤子の顔を覗き込む眼差しは慈愛に満ちている。唇は美しく弧を描き、鼻から抜ける声は楽し気なハミングを羽ばたかせた。

 赤子のまだ座っていない首を、シャーロットは的確に腕で支えている。まるで彼女そのものが揺り籠であるかのように、安定して赤子をあやしていた。その仕草はあまりにも堂に入っていて、手慣れているという所感をカルティエに抱かせる。

 周囲は寒気で青白く煙り、黒山の人だかりが横行している。

 その中に埋もれつつも穏やかな日差しを浴びるシャーロットと赤子の姿は、一種の絵画じみていた。

「―――――」

 ぼうと見惚れる。そんなカルティエを不意に見上げて、シャーロットはにっこりと微笑んでみせた。

 気恥ずかしく思い、カルティエは顔を朱に染めてあたふたとし始める。その様子をシャーロットがからかい、マグワイアが便乗した。三人は楽し気に談笑する。姦しいの文字通りではなく、ただ平穏な時が流れた。

 その光景を、エドガーが遠くから見守っている。

「老けたわね、貴方」

 横から罵詈雑言を投げられ、エドガーは眉をひそめた。

 気が付けば、彼の隣をヴュアルネが陣取っている。白い女は面皮を鉄ほどに硬く凍て付かせたままで、エドガーと同じように少女達のやり取りを眺めていた。

 エドガーは鼻で笑い、あざけるように言う。

「ああ。お陰様で、一端の親気分ってところだな」

「それは重畳。……別に皮肉でも嫌味でもないわ。貴方が大人しくあの娘の後見人になってくれたことには、感謝してる」

 顔をしかめてなんとも言えない表情で睨め付けてくるエドガーに、ヴュアルネは困惑気味に眉根を寄せて応答した。そしてそれを直視したエドガーは、驚愕に目を見開く。

 ヴュアルネの人形の如き無表情に、僅かながら変化が生まれている。そこには確かに、かつて失ったものの名残りがあった。

(もう別人にでもなっちまったのかと思ってたんだが……)

 遠い日々に思いを馳せ、エドガーは目を細める。

 彼が身を持ち崩してカルティエに拾われるよりも前、作家として作品を世に出すよりももっと以前に――まだ学生をやっていた時分に、エドガーとヴュアルネには先輩とその後輩という形で多少の親交があった。

 それだけに、互いが歩んで来た人生に対して思う所がある。

 学生の身分でありながら子供を孕ませられ、出産した傍から半ば暴力団マフィア専属の顧問碩学として労働を強いられた。その人生はあまりに逼迫ひっぱくしたものだった。

 ろくに休むことすら許されず、馬車馬のように搾取される日々。

 その果てに次世代の労働力ロボットとして期待されたヒューマノイド技術――特にマニトゥを除いて旧世紀以来全く進歩の見られなかった、生体医工学に依るAIニューラルネットワークを六歳児のソレと同程度にまで進化・完成させたという革新的な偉業。それを成し遂げこそしたものの、結局その技術もトライアドによって性処理人形セクサロイドに利用され貶められる始末だ。

 そして彼女の不幸はそれだけではなかった。

 一部の者しか知らない極秘事項だが。そもそもヴュアルネが産んだ子供は一人だけではないのだ。カルティエは第二子。体の成長が早く異常に早熟だった彼女は、六歳の時に誰とも知れぬ男の子供を死産している。

 その背景を踏まえれば、最初に彼女を胎動卿という異名で呼んだ者の思惑が如何に下卑ているか想像に難くない。

 手元に残ったものは、歪んだ名声と使い道のない莫大な資産のみ。

 外見年齢はまさしく老人のソレ。落ちくぼみ濃い隈の刻まれた目元からは感情が消え、凍えた面持ちには狂気が見え隠れする。ヴュアルネ・クルーシュチャとは、そんな女だ。


 そんな女が、股から這い出た肉隗のような娘に情を見せるだろうか。

 そんな女が、借金塗れで落ちぶれ、酒と煙草に溺れていた知人を気に掛ける余裕があるだろうか。


 ヴュアルネが他者と接触した場合、相手に与える印象は無機の一言に尽きる。

 人間とは思えない人形のような性質。機械的な対応。それを心が死んでしまっていると受け取る者もいれば、廃れた人生観と優れた頭脳等から、己以外の人間全てが愚鈍に見えるようになったからのだと囁く者もいた。

 そしてエドガーの考えは後者だった。つい先程までは、そう思い込んでいた。

「なあ……どうしてお前は、俺に娘を預けたんだ?」

 気が付けば、エドガーの口から疑問が溢れていた。

 以前から不思議に思っていたことではある。思想や虐待等の問題を解決すべく子供と親が引き離されて育てられるヒュペルボレオスで、三十後半の男性と十かそこらの小娘が共同生活を送るなど、あまりに論外過ぎるのだ。

 けれど今日まで、それを何者かに直接咎められたことはない。ならばそれは、何者かによってその事態へ至るよう、認可ということだ。

 それが可能な人物――否、それを行う理由がある人間は、一人しかいない。

「……まともに産まれた娘じゃないから、まともな環境で生かされるのは難しいと思ったのよ。だからまともな人に託したかった。私では支えられないから、代わりに支えてあげられる人が必要だったのよ。―――愛して、いるから」

 ヴュアルネは独白する。

 口元を歪に引きらせながら。

「貴方を選んだ理由は―――――貴方、の本、が好きだったから。それだけよ」

 唇が悪戯っぽく弧を描く。それがエドガーの脳内で、かつての手塩にかけて育てた後輩が見せた微笑みの記憶と重なった。

「…………」

 エドガーは重苦しく押し黙る。

 胸の内で渦を巻く感情は、後悔ではない。もっと黒く陰惨で、混沌とした情動だった。

 ヴュアルネはそんなエドガーの姿を無感情に一瞥してから踵を返す。

「じゃあ、私はもういくわ。後であの娘にこれからも元気でやっていくよう伝えて頂戴」

「……それくらい、自分で伝えればいいだろ」

「さっきのを見ていなかったのかしら。どうも本人を目の前にすると駄目ね、何一つ言葉が出てこないんだもの。まあ、今更親の真似事なんて出来っこないってことなんでしょうね。だから、後は任せたわ」

 言うだけ言って、ヴュアルネは去って行く。

 変わり果てた後輩の姿。母になった友人の姿。母になれなかった女の姿。その後ろ姿に掛ける言葉は見つからない。だが一つだけ、気になることはあった。

「ヴュアルネ―――!」

 強く名を呼ぶ。

 ヴュアルネは足を止めると肩越しに振り返り、再び感情の消えた無機質な視線をエドガーに向けた。

「なあ、お前は―――――」

 自分が何を口走ろうとしているのか分からない。分からないままエドガーは己の倫理観を振り切り、直感に従って言葉を絞り出した。

「―――――?」

 恐らくそれは、ヒュペルボレオスに住む誰もが抱いている疑念である。

 エドガーが昨今頻発している自殺騒動について調査を行った際、彼は無数の悲劇を見聞した。死にたくもなる。死ぬ以外に逃げ道はなかった。私ならとても生きていられない――そんな台詞ばかりが、べったりと耳にこびりついている。

 その中でもヴュアルネの経歴は群を抜いて悲惨だ。にも拘わらず、彼女は自死することなく生き続けている。

 それは、何故なのか?

(……馬鹿な疑問だ。冷静に考えれば、そんなの『死にたくないから』に決まってる。だが―――)

 だがそれでも、エドガーにはヴュアルネが生きているのは異常なことのように思えた。

 ここに来てからの、彼女の言葉と行動を思い出す。



 じゃあ、私はもういくわ。

 後であの娘にこれからも元気でやっていくよう伝えて頂戴。


 ―――――だから、後は任せたわ。



 まるで、


 エドガーの背筋を悪寒が這う。

 無数の蜘蛛が肌を行き交い、内臓に毒を染み込ませているかのような感触。それによって顔色は青白く濁り、冷や汗が体温を下げた。

 ヴュアルネは艶やかに――十代の少女のような、華やかな笑みを浮かべて、エドガーに告げる。



 間違いなく嘘だった。


 ヴュアルネは一度も振り返ることなく去って行く。その小さな背中が人混みに紛れて見えなくなるまで、エドガーは彼女を目で追い続けた。

(追いかけもしない、か。確かに老けたな)

 若い時分の己ならどうしただろうかと、エドガーは自嘲した。

 色々と思うものはあったが、結局の所他人の死はやはり他人の死だ。表面がざわつくことはあっても、根幹が揺らぐことは決してない。死にたいのなら死なせてやるべきだ。他人の頭が砕けた所でどうせ自分の頭は傷まないのだから、放っておくにこしたことはない。

 それは非道な考えだろう。そう分かっていても、それが間違っているとは到底思えなかった。

(分かっちゃいたが……俺に親をやる資格はない、な)

 溜息を一つ零し、エドガーはシャーロット達に視線を向ける。すると、強い違和感に頭を悩ませる結果となった。

 カルティエはいる。

 シャーロットはいる。

 赤子を抱えたマグワイアもいる。

 しかし――アラン・ウィックの姿だけが、どこにも見当たらなかった。

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