第十三話 楽しい朝

 日記がある。

 シャーロットの手の中に、一冊の日記帳があった。煤けて汚れたそれを両手で握り締めて、少女は床にぺたりと座り込んだままじっと見下ろしている。

 部屋の明かりは点いていない。

 じっとりとした濃密な闇の中で、シャーロットは日記帳をめくった。

 明るいパステルカラーの輪郭に目を凝らす。視覚は徐々に暗闇に慣れ、やがておぼろげながらも内容を把握することが出来た。

 日記の内容はあまりに倒錯していた。

 絵ばかりで文章は皆無に等しい。白いページのことごとくが暗い色彩で塗り潰されており、その中で一人の子供が泣いていた。

 子供の体には目がなく、口がなく、時には首や手足すら欠けている。まるで自傷のように、場合によっては乱暴に黒く塗り潰されてさえいた。

 これを描いた人物にとって、この日記だけが唯一の感情のけ口だったのだろう。ページを捲る度、絵に込められた狂気は増々酷くなっていった。

 ある日を境に、子供の周りに黒い何かが横たわるようになる。どうやらそれはバラバラに解体されているようで、技法が稚拙であるからこそ悍ましく見えた。

 黒い塊は日を追う毎にどんどん増えていく。それを見た瞬間から、シャーロットはソレが何であるのか直感的に悟っていた。


 ソレは、死体だ。


 死体に囲まれ潰される子供の日々を、シャーロットはページ越しに見送っていく。血の色で汚れたそれは、子供が抱えた精神の歪みを表しているのだろう。

 子供が死体に埋もれる状況。

 紛争にでも巻き込まれたのだろうか? ―――否。シャーロットはそうは考えない。恐らくは他者によって子供自身が生命なにかを殺害することを強要され続けたのだろうと、そう結論付ける。

 何故なら、絵の隅に読み辛い稚拙な一文が追加されるようになったから。


 ―――――今日はお片付けをしました。


 切り裂いた死体をばら撒くことを、普通は片付けとは言わない。これは日記を書いた子供に対して、第三者がその行為をして片付けと称したから起こったことだ。


 あまりに鬱々とした、片付けと称される異様な記録。

 しかしそれはある時唐突に、穏やかさで満ち溢れた。


 子供が、犬の面を付けた子供と二人一緒に遊んでいる。

 ―――今日はアランという名前のお友達ができました。


 何の脈略もなく狂気的な日々は終わりを告げ、幸福な友情が展開する。凄惨な情景は鳴りを潜め、年相応な微笑ましい日常が訪れていた。

 シャーロットは無言で次のページへ読み進めていく。

 しかしある時、ページを捲る手の動きが不意に止まった。

 ページ同士がクレヨンで癒着している。シャーロットが爪を入れて剥がすと、パラパラと赤い粉が落ちた。鮮やかな紅色は、酸化した血液に似ている。

 開かれたページは再び惨劇で溢れていた。

 赤色の中に子供が埋もれている。その手にはナイフが握られていた。

 子供の周りには、何故かバラバラに解体された犬の死体が横たわっている。転がるソレの顏は、ぽっかりと空いた穴を思わせるほどに黒く塗り潰されていた。


 ―――――今日はアランを片付けました。


 日記はそこで終わっていた。

 シャーロットは無言で日記帳を閉じ、関節の錆びた人形のようにぎこちなく首を回して、肩越しに背後を振り返る。

 そこにはベッドがあった。暗闇の中で、誰かが布団に包まっている。

 それは果たして、人か、犬か。

 アランはこの世に二人いた。片方は片方を殺して、今ここにいる。シャーロットの兄として、そこにいる。


 シャーロットはベッドにうずくまるソレを見やって、にっこりと笑った。

 それは見る者が恐怖で肌を粟立たせるような――あるいは聖母のように慈愛に満ちた、美しくも凄惨な微笑みだった。


 * * *


 眠りから覚めたばかりの重い体を引き摺って、カルティエは自室を後にした。


 廊下を渡り、事務所へと抜けて、洗面所を兼ねた脱衣所に向かう。

 まだほんの少し太陽が顔を出したばかりの時間帯であるため屋外は夜の寒さで冷え込んでいるが、永久蒸気機関クルーシュチャ・エンジンから無償で供給される電力の恩恵によって、事務所内の気温は常に温かかった。

 薄着の寝間着で行動しようとも何ら支障はないし、ソファに仰向けで寝転がって死んだように眠っている中年男も、風邪を引きそうには見えない。

(……ねむいデス)

 欠伸を噛み殺しながら、カルティエは白い寝間着の襟元を緩める。

 目が覚めたなら何よりもまずシャワーを浴びて寝汗を流し、気分をリフレッシュする。それがカルティエが毎日欠かさずこなしている朝の日課だった。

(この後は朝食の用意をして、それからはどうしましょうか……)

 ぼんやりと呆けた頭でやるべきことを指折り数えつつ、カルティエは脱衣所の前で立ち止まる。そして部屋を隔てるスライドドアに手を掛け開いた所で、呆然と硬直した。

 脱衣所には既に先客がいた。

 こちらに背を向けた、一糸纏わぬ少女の姿がカルティエの視界に飛び込む。蝋のように白かった肌は湯気と共に上気して赤く火照り、若々しく水気を弾いていた。

 起伏の少ない幼げな上半身と撫で肩とは対照に、くびれた腰と張り出た尻が特に目を引く。腿は丸く引き締まっており、野生の猫科動物めいたしなやかな脚線美を描いていた。

 艶やかに湿った美しい黒髪は、白いバスタオルにくるまれ五指に揉まれ、水気を剥ぎ取られている。それは同性であるカルティエですら思わず見惚れてしまうような、彫刻めいた艶美な肢体だった。

 闖入者ちんにゅうしゃの気配を感じ、先客――シャーロットが振り返る。

 バスタオルで髪を纏め持ち上げ、髪紐を咥えたままシャーロットは瞬きのみを繰り返す。それと同様に、カルティエもまた棒立ちのまま動けずにいた。

 予想外の事態に面食らい硬直した姿勢のまま、カルティエとシャーロットが暫しの間視線を交わす。まるで時間が止まったかのような、蛇に睨まれた蛙もかくやという様相。それは重力にも似た作用で以って空間を圧迫していた。

「……………」

「…………?」

 決して短くはない空白。それを差し挟んでから、シャーロットは不意ににっこりと微笑みを浮かべた。

「―――――ッ!」

 それを視認した瞬間、カルティエの中で止まっていた時間が急激に動き始める。

 一瞬にして顏色を茹蛸めいた有様へと沸騰させ、カルティエはあわあわと唇を戦慄おののかせた。そして全力でシャーロットの肢体から目を背けると、スライドドアの取っ手に指先を引っ掛ける。

「―――ごめんなさいッ!」

 全身全霊で謝罪し、カルティエは即座にドアを閉めた。

 レールを滑走するドアが二人の間を一気にさえぎり、マナー違反に当たらない程度に音を立てて差し固められる。そしてカルティエは勢いのままその場で反転すると、ドアに背を預けてもたれかかった。

 心臓が早鐘を打っている。

 カルティエは胸元に手を当て、猛る鼓動が少しでも落ち着くよう努めた。しかし幾ら肩を落として深呼吸を重ねても、動揺はちっとも静まりそうにない。

(……やってしまった。ああ――私のバカバカバカ! こんなカートゥーンめいたうっかりをやらかしてしまうなんて! 眠気で気が抜けていたにしても、限度があるでしょうに!)

 頭を抱え、涙を滂沱ぼうだとして流しながらカルティエは心中にてひとりごつ。

 予想できなかった事態ではない。

 誰かと共同生活を送る以上、何事にも配慮が必要になる。それが昨日初めて会ったばかりの人間であるならば猶更だ。

 そう考えれば、これはむしろ予想して然るべき事態の筈である。細心の注意を払うまでもなく、ドアの取っ手に指を掛けるほんの少し前に、ノックの一つでもしておけばこんな失態は晒さずに済んだ筈だった。

 穴があったら入りたい、とひとり自己嫌悪で悶々とするカルティエ。そんな彼女の背後に、ひっそりと忍び寄る影が一つ。

「―――わっ!?」

 不意に背を預けもたれていたドアが開かれる。支えを失ったカルティエは不安定に仰け反り、小さく悲鳴を漏らした。

 そしてその背中を後から抱き着くような形で支え、シャーロットは笑う。

「しゃ、しゃーろっとちゃん!?」

「えへへ、お返しだよ。驚いた?」

 カルティエの肩に顎を乗せ、シャーロットは無邪気に笑った。

「おっ、驚きました! 驚きましたから、その、一旦離れてください……」

「なんで?」

「なんでって……それはその、寝汗とかかいてますし……」

「気にしないよー。それに、私もさっきのことは気にしてないから。女の子同士なんだし。なんなら今度一緒にお風呂入ってみる? 私は一向に構わないよッ!」

「一緒にお風呂!? それはその、心の準備が……」

「じゃあ、準備が出来たら言ってね。同じ屋根の下に住む家族なんだから、遠慮なんてしなくていいから! ……あっ、でもそういうのが本気で嫌ならちゃんと言ってね? しっかり直すから。親しき仲にも礼儀あり、だもんね!」

「それは、だ、大丈夫ですっ! ハイ。むしろどんと来い、といいますか」

「やったー!」

 歓声を上げ、シャーロットはカルティエと顔をくっ付ける。そしておもむろに頬ずりした。

「うぁー、カルティエさんのお肌すべすべー」

「あうぅ……」

 奔放に振る舞うシャーロット相手に成す術などなく、カルティエはされるがままに小さく呻いた。

 そして、そんな少女達の様子を盗み見る男がひとり。

(尊い……)

 エドガーは心中にて謎の感慨に耽りながら、寝たふりを続行した。


 それから時間は忙しなく過ぎ去り、朝餉あさげの時間と相成った。


「それじゃあシャーロットちゃん、アラン君を起こしてきてください」

了解Iaー!」

 出来上がった料理を食卓に並べつつ、カルティエが指示を出す。それに素直に従って、シャーロットは早足でダイニングから出て行った。

「…………」

「なんですかエドガー。妙ににやけていますが」

「いやぁ……仲良きことは美しきかな、ってな」

 生温い微笑みを絶やさないエドガーに眉をしかめつつ、カルティエは淀みない手付きで人数分のグラスに水を注ぎ配していく。

 朝食はポテトサラダとオムレツ、そしてオニオンスープだ。シャーロットの発案から、カルティエとシャーロットが二人で調理したものである。

「仲のいい姉妹に見える」

「……そういう貴方は『お父さん』ですか?」

「はは……まあ、それも悪くないかもしれんなぁ」

 頭の後ろで腕を組み、エドガーは気持ちよく笑った。

 その様子を見て、カルティエは一瞬目を見張る。昨日までのエドガーならばカルティエの一挙手一投足に対して一線を引いて恐々とするばかりで、冗談など口にする余裕はなかった筈だ。少なくとも、カルティエに父と揶揄やゆされて笑っていられるほどの胆力は望むべくもなかった。

 しかし、今日はそうではないようだ。

 アランとシャーロットを加えたことによって、彼にも何らかの変化があったように見受けられる。

「―――お兄ちゃんを連れてきたよ!」

 不意にシャーロットの報告が飛んでくる。二人が入り口に視線を向けると、シャーロットとアランの姿が目に入った。

「おはよう、カルティエ。それにミスター・ボウ」

「おはようございます、アラン君」

「おはようさん、アランちゃん。……あれ、何でお前息上がってんの?」

 アランの挨拶にカルティエがキビキビと礼儀正しく答え、エドガーはひらりと手を振って軽薄に応じる。しかしアランが歩み寄るにつれ、エドガーは不思議そうに片眉を上げた。

 彼の言った通り、アランの息使いは若干荒い。それだけでなく、額にもじんわりと汗が滲んでいた。

 疑問に答えたのはシャーロットだった。

「お兄ちゃん筋トレしてた! ベッドの支柱に片手で逆立ちして腕立て伏せしてたよ!」

「私の知ってる腕立て伏せと違うのですけど!?」

「日々の習慣の賜物だ。努力していればいずれ出来るようになる。あとミスター、次にその呼び方したら怒りますからね?」

 殺気すら交えて真顔で答えを返しながら、アランはシャーロットと共に食卓に着いた。

 彼は隣に座るエドガーへと視線を向け、値踏みするように頭から爪先までを見下ろす。三十六歳を迎えた中年男の肉体には贅肉が付き、肥満でこそないが服越しでも明らかに弛んでいるのが窺えた。

「―――フッ」

「おっと、今鼻で笑ったのはどういうつもりかねアラン=クン。言っとくけどアレだからな、そんな態度でいられるのは十代の内だけだからな。アラフォーになれば大体の男は皆こうなる運命だから覚悟しろよテメー!」

「私の心配より自分の血糖値の心配をした方がいいのではないですか? 三十路のおじ様」

「そうだよ。なんであれ闘病は辛いよ? 三十路のおじ様」

「……一応、栄養面でのバランスは気を付けてきたのですが。確かに何かと改善の余地はありそうですね、三十路のおじ様」

「一晩で随分と仲良くなったようだな君達ィ!? くそぅ、勘違いするなよ若輩共! こう見えて俺も昔はスリムでムキムキだったんだぞぅ! でもそういう体型って何故か女よりも男にモテるようになるからそん時に色々懲りてあえて鍛えなくなっただけだからな! アランちゃんも精々気をつけろよ!」

「ご心配なく。その手の輩の撃退には慣れていますので」

 集中砲火を受け、エドガーが涙目になりながら叫ぶ。それに対し、アランは淡々と返答した。

 食事前に歓談の華が咲く。

 カルティエとエドガーの二人切りの時分には、決して有り得なかったことだ。その灰色の思い出と、それ以前の一人ぼっちで食卓に向かっていた頃を回想して、カルティエはほっと胸を撫で下ろす。

(二人を迎えられて、本当によかった)

 目尻に浮かんだ涙を掬い取りながら、カルティエは改めてその感慨を深く胸に刻み込んだ。


 食事はとても和やかに進行した。


 様々な話題が飛び交う。その内の一つとして、カルティエが言葉を投げかけた。

「そうだ。今日はヒュペルボレオス全体でお祭りがあるので、皆で見て回ろうかと思っているのですが……お二人は今日は予定の方、空いてますか?」

「カルティエちゃーん、俺の予定は聞かないんですかー?」

「ダイエットなら明日からどうぞ」

「まだその話題続いてたのね……最近のカルティエちゃんキツいや……」

 投げやりに脱力するエドガーを尻目に、アランとシャーロットが口を開く。

「一応、特にはないかな。シャーロット、お前はどうだ?」

「私もないよ」

「そうですか、よかった……。では十時を目安に、各々外出の用意をしておいて下さいね」

 カルティエの指令に、三人が声を揃えて「了解Ia」と答えた。

 シャーロットは楽し気に笑みを漏らしている。

「お祭り……わくわくするなー。折角だし、それっぽい服を着ていきたいな。どんな服がいいかなー。エーリッヒさんのお店でいっぱい買ったから悩んじゃう」

「―――エーリッヒ?」

 何気ない独り言に、不意にエドガーが前のめり気味に食い付いた。

 その突然の反応に、当のシャーロットだけでなくアランやカルティエすらもがぎょっと目を見張る。

「どうしたんですか、エドガー? 何か気になることでも?」

「ん、ああ……まあ、ちょっとな。服屋でエーリッヒっていうと、この辺りだとエーリッヒ・ツァンの洋裁店しかない筈だが……そこで買い物をしたのか?」

「うん、多分それであってると思うけど……」

 どうしたの?

 言外にそう含めて、シャーロットが小首を傾げる。アランも同様に、目を細めてエドガーを見やった。

 エドガーは悩むように眉間に皺を寄せて黙り込む。不穏な間。それを破ったのは、やはりエドガーだった。

「店は開いてた?」

「うん、開いてたよ。ね、お兄ちゃん」

「ああ、通常業務を行っているように見えたが……何か?」

 不安げに目を泳がせて、シャーロットがアランに話を振る。アランは訝し気に目を眇めて答え、エドガーに問いを投げ返した。

 それを受けて、エドガーは再び顔色を難色で染め上げる。

「……いや、なんというか、な。エーリッヒの爺さんは元気だったか?」

「うん。開口一番に『なんだその格好は! 全ッ然似合っとらん!!』って怒鳴られちゃった」

「そうか……それならいいんだ。元気であるに越したことはないしな。うん」

 仕切りに頷きながら、エドガーがひとりごつ。その不自然な様子に、アラン達三人は顔を見合わせた。

 エドガーはひたすら頷いている。まるで、無理に自分を納得させようとするかのように。

 強烈な違和感が空気を濁す。

 その不穏な空気に一石を投じたのはカルティエだった。

「ま、まあとにかく、食後は十時まで自由時間ということで。それまでの間に、なにか気になることがあったら何でも聞いてください。用意できるものは用意しますし、教えられるものは幾らでも教えますから!」

「はーい!」

 場の空気を入れ替えるように、両手を打ち鳴らして言うカルティエ。それに対して、シャーロットも負けじと元気よく応答する。

 その傍らでアランは目を細め、エドガーの不審な様子を静かに吟味していた。

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