第二十六話 TEKELi-Li!

 灰色に濁った空を、無数の魔物が飛び交っている。

 人員や物資の輸送、あるいは国家防衛の為に航空していた大小様々な飛行船団はそのことごとくが墜落し、この空から忽然こつぜんと姿を消している。人類が掌中に収めていた制空権は、悍ましい怪物共によって完全に乗っ取られていた。

 ソレ等は虫のようにうじゃうじゃと際限なく湧き続け、今では幾千幾万という大群を成していた。彼等は一様に金属同士が擦れ合うような奇怪な鳴き声を肉の喉から掻き鳴らして、我が物顔で楽園の空を埋め尽くし乱舞している。その有り様は世界の終わりを思わせた。

 魔物達は狂喜していた。

 普段なら決してお目に掛かることの出来ない、大量の馳走がそこら中に散乱し溢れているからだ。

 上質な木材を始め、甘美な味の紅い血潮と骨肉が、蟻塚に似た巨大な卒塔婆の隙間に蜜の如く埋まっている。魔物達は喜び勇んで街に降り、自殺した人間の死骸を我先にとついばんでいた。

 ヒュペルボレオスは完全な地獄と化していた。最早ここが楽園であるなどとは、口が裂けても言えたものではない。


 そんな狂宴の舞台へと変じたヒュペルボレオス首都の一角を、六人の人間が必死の形相で逃げ惑っていた。


 成人した男が四人、彼等と同程度の齢と思しい女が一人、そして彼女の息子である幼子が一人。

 母子以外はなんの面識もない全くの赤の他人だ。唯一、全国放送されたレナータ・ボーイトの歌を聴いても尚自殺することなく生き残ったという共通点があるのみである。

 魔物と同様、人間は社会性のある生き物だ。

 それ故に、機会があれば群れる。彼等は身の回りで起こった異常事態に仰天し、逃げ惑い、何かの偶然で遭遇したことで出来上がった即席の共同体だった。

 そんな彼等の結束はひどく弱い。

 群体というモノが持つ性質の常だ。彼等は群れという総体を生存させるためなら、平気で弱いものを切り捨てる。負傷したもの、老いたもの、そして――役に立たないもの。

 今回、そういった負の役割を宛がわれたのは小さな幼子だった。

 当たり前のことではあるが――彼の歩幅は、周りの大人たちと比べてあまりにも狭過ぎた。だから目の前を行く背中からどんどん引き離されていく。唯一傍らに残る母と共に、公然と見捨てられつつあった。

 それどころか、幼子は路面に横たわった死体につまずいて転んでしまう。母親は慌てて足を止め子供を起こすが、しかし他の四人は振り返ることすらしなかった。


 群れから逸れた個体の末路は決まっている。

 獰猛な捕食者に食われ、醜い屍を晒すのだ。


 ―――GYAAAAAAH!


 一匹の魔物が雄々しく咆哮を上げ、群れから離れた母子を狙って強襲する。遥か空の高みから急降下し、二人の背中を噛み砕かんと大口を広げ―――――


「―――――とぉーぅ!」


 間の抜けた掛け声と同時に、像を上回る魔物の巨体が不自然に折れ曲がった。

 魔物の鉄の体がくの字に折れ曲がり、カンフー映画よろしく豪快に吹き飛んでいく。道路を挟んだ向かい側の高層ビルに激突しても尚止まることなく、そのまま挽肉と化して轟音と共に反対側へ突き抜けていった。

「やったね!」

 魔物と入れ替わるように、突如として母子の前に現れた少女が飛び跳ねる。

 齢は十代の半ば程度。美しく整った顔に張り付いた肌はろうのように白く、眼窩にはまる瞳の色は炎のように赤い。そして墨を零したような艶やかな髪は、ゴムの髪紐でツインテールに結ばれていた。

 美しい少女だが、その服装は飾り気に乏しい。

 彼女は灰色のゆったりとしたブラウスに、黒のコルセットと同色のホットパンツを穿いていた。細くしなやかな足は黒いニーソックスによって太腿の半ばまで覆われ、その上に暗い色合いのメリージェーンを履いている。更に灰色の貫頭衣ポンチョを被って上半身をすっぽりと覆い隠していた。

 徹底して肌の露出を抑えていながら、その実見る者に対して妙に艶かしい印象を与える不思議な様相の少女だった。


 シャーロット・ウィック。

 ただの飛び蹴りで魔物を粉砕して見せた、怪物じみた生き物だ。


「さあ、今の内に早く逃げて! シェルターはすぐそこだよ!」

「―――――!」

 わざわざ口を開く手間も惜しいと言わんばかりに、母は鬼気迫る表情で子供を抱え上げると、全力で走り出した。その背中に手を振り、シャーロットは笑顔で「元気でねー!」と暢気のんきに叫ぶ。

 その背後から――先程とは異なる個体の魔物が迫る。

 上空から急降下した後に地面効果グラウンドエフェクトを利用して地面の間際を滑空、鉤爪を振り上げてシャーロットに襲い掛かった。

 魔物の脚が発揮する握力は絶大だ。装甲車すら紙細工同然に圧し潰し、湾曲した太い鉤爪は切れ味こそ鈍いものの、重量に任せて人体を裁断することなど容易い。まさに絶体絶命の危機だが――しかし、シャーロットは平然と構えていた。

 一切の回避行動を取ることなく、彼女は人差し指を立てた右腕を頭上に掲げる。

 そんなもので魔物の攻撃を防げる筈がない――のだが。如何なる奇跡によるものか、魔物の攻撃は少女の指先によってあっさりと受け止められた。少女の美しい肢体には傷一つ付いておらず、圧し潰れることもなく健在である。

 魔物の攻撃が威力不足だった訳ではない。

 事実として、シャーロット以外のものは先の一撃がもたらすべき大破壊を正しく受けている。舗装された地面は罅割れ、隣接していたビルの窓は桟が圧し折れてガラスが砕けていた。

 無傷であるのは、シャーロットのみ。

「さぁて―――――とッ!」

 鋭く叫び、シャーロットは右腕を一閃して圧し掛かった魔物の脚を弾き払う。凄まじい剛力に押し返され、魔物は大きく態勢を崩した。

 魔物の体が、慣性によって無防備に空を滑る。

 その隙を突き、シャーロットは魔物の腹部に左の貫手を放った。すらりと真っ直ぐに伸びる少女の柔らかな指先が、固い鋼鉄の鱗と機械油に塗れた肉を。一瞬にして彼女の左腕の肩口までが、

 蒸気機関の発熱によって、魔物の体温は異常に高い。焼けつくような熱を肌に感じながら、シャーロットは魔物の内臓を鷲掴みにして、低く腰を落とし踏ん張る。

 魔物は飛翔の勢いのまま錐揉み回転して空を走り、高層ビルの壁面に激突した。

 ぴくりとも動かず即死している。その腹腔には大穴が開き、玉虫色に光る汚穢な機械油を溢れさせていた。それは地面を手酷く汚し、シャーロットの腕までをも汚らしく染め上げている。

 小さな手には、機械と肉塊が混じりあった醜悪な物体が握られていた。

 魔物の内臓だ。

 それも昆虫が持つような、同種の個体に餌場を報せて引き付け誘引する固有の化学物質フェロモンがぎっしりと詰まった代物である。シャーロットはそれを適当に放り投げてから、にやりとチェシャ猫のように笑った。


 ―――GYAAAAAH! GYAAAAAH! GYAAAAAH!


 化学物質フェロモンに釣られ、周囲一帯の魔物がシャーロットの下に集結しつつあった。

 無数の血走った眼球が、敵意と悪意を視線に乗せて少女の肢体を射抜く。彼等は魔物の中でも比較的温厚な性格を持つ種として知られているが、しかしその面差しからは、日頃の臆病さがすっかり抜け落ちていた。

 食欲と敵意をぎらぎらとたぎらせて、魔物達は分厚い臼歯を打ち鳴らす。今にも襲い掛かろうとしているのだ。


 数多の視線の坩堝の中で、シャーロットは大仰に右腕を振り上げる。


 調子を確かめるように右手の指を開閉させ、手首に嵌る白い腕輪に全神経を集中する。その瞬間、ぐるりと、シャーロットの腹中で臓腑が捩れた。

 それと同時に彼女の顔から血の気が引き、視界が色褪せて狭まる。


 ―――シャーロットの右腕に嵌められた白い腕輪は、機械だ。


 白いボックス型の装置と、それを中心として手首に薄い合成樹脂で包まれた輪が密着している。その腕輪が有する機能は二つ。

 一つはシャーロットの生体情報バイタルサインを読み取り、アランの携帯端末にインストールされた『Charlotte VSM』というアプリケーションへ情報を定期的に自動送信するというもの。そして、もう一つは―――


 腕輪の装置に設えられたインジケーターランプが、碧く点灯する。

 そしてその下部にあるシャッターが開いた。狭く暗い小さな穴の奥から、粘性の高い液体が地べたを這いずるような、不可解な奇音が発せられる。―――瞬間、

 玉虫色の光沢を放つ黒い粘液が、腕輪の穴から噴出する。

 その勢いと量は凄まじく、ポンプを積載した消防車が吐き出す水圧に匹敵するほどである。黒い液体はあっという間に体積を増大させ、蛇のように中空で鎌首をもたげた。

 その液体の正体が何か確かめよう、などという思惑は魔物達には微塵もない。

 ただ目の前の餌を骨まで食い尽くすことしか頭になかった。そしてそれを実行すべく、その場に居合わせた全ての魔物がシャーロットに向かって殺到した。

 少女の矮躯があっという間に黒い群衆に掻き消され、埋め尽くされる。

 あたかも鳥葬めいた、目を覆いたくなるような惨い光景だが、この有り様では死体が残るかどうかすら危うい。一瞬後には血の一滴までしゃぶり尽くした魔物達が、次の獲物を求めて飛び去ってしまうことだろう。


 しかし――シャーロットは、


「―――――It's time to play!」


 甲高い宣言と同時に、パチン、と指が打ち鳴らされる。

 それを合図に、シャーロットに群がっていた魔物の悉くが、瞬きをする間もなくおびただしい数の黒針に貫かれ、一斉に息絶えた。

 針は魔物の群れの真中から放射状にびっしりと隙間なく生え、あたかも海栗の殻のようにそそり立っている。太さは直径一センチ程度しかないものの、その長さは数百メートルに及び、魔物どころか辺り一帯の建物すら紙細工同然に貫通していた。

 再び、シャーロットが指を打ち鳴らす。

 その瞬間、パシャリと音を立てて針が弾けた。硬質の個体から粘性の高い液体へ変容し、落ちてくる魔物の死骸を薙ぎ払いながら一点に集中しつつ凝り固まる。

 その黒い塊はシャーロットの後方にべちゃりと着地すると、足代わりの触手を生やして少女の周りを取り巻くように、上へ上へと伸び上がりながらぐるりととぐろを巻いてまろがり、先端に大きな球形の頭を形作った。

 それは絶えず流動していた。

 液体でありながら、個体めいた形態を取っている。触手を支点に、あたかも浮遊しているように体をくねらせている。まるで騙し絵に描かれるような、決して水流が途絶えることのない水路――それを無理やり現実に再現したとでも言うべき、流体力学の常識を超越した不定形の奇形児。それこそが、そのの正体だった。

 そう、それは確かに生き物だった。原生動物アメーバに近しい、液状の生命体だ。

 球体の表面がぶるぶると震える。そして薄皮が剥げるように、表面の一部が削げてめくれ上がる。その様は眠たげな瞼が押し上げられる様に似ていた。

 当然――瞼の下には、目玉があった。

 球形の姿を取った黒い粘液の内側から、人の頭ほどの大きさの、ぎょろりとした寒天状の白い物体が突出している。その真中には緑色の虹彩が宿り、ぬらぬらとした不気味な輝きを放っていた。


 ―――TEKELi-Li!


 まるで蝉のように、体表を震わせ擦り合わせて、その奇怪な生き物は鳴いた。

 ソレの名前はクラーク・アシュトン・スミス三世という。言うまでもなく、シャーロットによる命名であった。


「いっくよぉ―――アシュトンッ! 追従COME! 攻撃GO!」


 命令入力コマンド・オンの文言と同時に、シャーロットが走り出す。

 その後をアシュトンが追従した。ゴム鞠のように左右に跳ね飛びながら前進し、少女の後方を陣取って共に全力で街路を駆け抜ける。その行く手に魔物が三体、立て続けに飛来した。

 正面――三方から鉤爪が迫る。その後ろにも、幾つか黒い影が踊るのが見えた。

 接敵する寸前、シャーロットは何もない空間に向かって横薙ぎの手刀を振るう。それに連動して、後方のアシュトンが液状の体をくねらせる。

 黒球の一部がくびれて帯状に伸び広がり、先端を禍々しく尖る鎌に変えて、シャーロットの体を回り込みながら前方へと伸びる。それは鞭のようにしなり、襲い来る魔物の体躯へと一切の遠慮なく叩き付けられた。

 瞬間的に数ミクロン程の厚さにまで圧縮された液体生物の触手が、過重な剃刀と化して、鉄の装甲ウロコで覆われた三体の魔物をバターも同然に容易く両断する。

 空中分解した亡骸を潜り抜けた先で、シャーロットは後続の魔物と会敵する。


 ―――GYAAAAAH!


 少女の小さな頭蓋を噛み砕くべく、魔物は限界まで首を伸ばし歯を剥いてシャーロットに迫る。

 あと数十センチで牙が届く。

 けれどその寸前に、薄く膜状に広がったアシュトンが盾となって魔物とシャーロットの接触を阻んだ。強烈な衝撃が叩き付けられ表面が波打つが、けれど防壁が崩れることはない。魔物の巨躯を強硬に跳ね除け、見事シャーロットを護り切る。


 液体生物アシュトンの行動原理は実に単純である。


 シャーロットを中心とした一定範囲の領域を自動で防護する。

 シャーロットが身振り手振りや口頭で示す命令を読み取り、状況に合わせて自在に変幻、目標に対し有効打となり得る的確な攻撃を選択し実行する。


 それ以外の余分な機能は存在しない。

 それ以上の余計な知能は持ち得ない。


 主の手足として、アシュトンはただ従順に敵性勢力を破壊するのみだ。

御手HAND!」

 シャーロットが固く拳を握り締める。

 するとアシュトンは本体である黒球から新たな触手を生やした。噴流する黒い粘液の一滴一滴が秩序立って重なり合い、瞬く間に一つの形を完成させる。

 それは人の腕だ。

 しかしその大きさは軽自動車と同等。筋骨隆々とした巨人の怪腕が、少女の隣に並ぶ。

「シ―――ッ!」

 鋭く短く息を吐き、シャーロットがアッパーカットの要領で左拳を虚空に突き上げる。するとそれに連動して巨人の腕が放たれた。黒い拳は正確に魔物の顎を捉え、打ち砕き、もげた首を空の彼方まで弾き飛ばす。

 圧倒的な戦力差。しかしそれを意に返した様子もなく、魔物達はあたかも何かに急き立てられているかのようにシャーロットへ突貫する。


 此度は五体同時攻撃。


 当然、たったそれだけの手勢で暴れ姫を鎮圧できる筈もない。

回転CIRCLE――NEXT捕獲TAKE―――」

 シャーロットは再び指を打ち鳴らした。するとアシュトンは彼女の周囲を台風の如く高速で旋回、薄く伸びた帯状の輪へと変容する。そして四方から迫り来る五体の魔物に対して一本ずつ――計五本の触手を迎え撃つように突き出した。

 円錐形の野太い槍に貫かれ、五体の魔物が一堂に断末魔の咆哮を上げる。

 それをさえぎるように、シャーロットは握っていた五指を開いた。その瞬間、魔物の体内でアシュトンが。槍が無数の棘を逆立てて一気に体内を侵食し、内側から傷を抉ることで魔物に致命傷を負わせたのだ。


「―――全廃棄RELEASE! そーれ、トリプルアクセル!」


 軽口と同時に、シャーロットは軽やかに地面を蹴って飛び上がった。

 空中で体を捻り、華麗なスピンを決める。その動きにぴったりと息を合わせてアシュトンは魔物を串刺しにしたままシャーロットの周囲を高速回転――凄まじい遠心力を蓄えたところで、槍と棘の形態を解き元の液状へ回帰した。

 戒めから解放された魔物の死骸が、物理法則に従って射出される。その内の二つは空を飛ぶ他の魔物に、残りの三つは近隣の建物に激突しこれを粉砕した。


 遠くでコンクリートの瓦礫が崩れ、もうもうと粉塵が舞う。

 同族の死骸に突き飛ばされ、錐揉みに縺れ合って墜死する。


 その有り様を視界の端で見やって、シャーロットは笑った。

 ぞっとするほどに美しい笑みを口元に湛えて、少女は赤い舌をちろりと唇に這わせて濡らす。煽情的なその様を、幾百幾千の獣欲に満ちた視線が貫いた。

 先の殺戮を目の前にしておきながら、魔物共に怯んだ様子は一切ない。


 ―――GYAAAAAH! GYAAAAAH! GYAAAAAH!


 狂ったように魔物達が吠え猛る。空を駆けて迫り来る。

 シャーロットはその熱烈な殺意と欲望を、嫣然とした微笑みで迎え入れた。


 一方的な虐殺が、始まった。


 * * *


 ヒュペルボレオス首都に建設された簡素な電波塔――そこに設えられた小型の展望室の屋上に、一人の男の姿があった。

 齢は丁度中年に指を掛けた頃合いだろうか。

 日々の不摂生によるものか、その肢体は若者はおろか同年代の男性と比べてもだらしなく弛んでいるように見える。にも関わらず洒脱な正装と榛色のコートで大柄な長身を着飾っているものだから、どこか滑稽な印象が強い。そんな男だった。


 男の名はエドガー・ボウという。


 本名ではない。今はもう遠い昔――自らが著した小説を自費出版した折に用意した、ただの筆名である。けれどそれが彼の事実上の本名として扱われるようになってから久しく、既に六年もの月日が流れていた。

 転々と職を変え、顔を変え、年齢を幾度も偽り、名前すら変えて生きてきた彼であるが、現在では随分と長い間マフィアお抱えの探偵という身分に落ち着いている。堅気の仕事であるとは言い難い上に何かと多難ではあったが、今思えば、それなりに安定した生活は居心地がよかった――ような気がする。

(まさか小娘カルティエちゃんの下でデスクワークしてた日々を懐かしく思う日が来るとはなぁ……やっぱ、人生ってわかんねぇわ)

 などと。らしくない現実逃避めいた思考を弄んでしまう程度には、彼の置かれた状況は逼迫ひっぱくしていた。

 針金細工を拡大したかのような、鉄骨のみでトラス構造に編まれた黒い塔。全高五十メートル強の小規模な電波塔、その頂上。業務用の簡素な階段を駆け上がった先にある、地上から遠く隔絶した小さな空白スペース。その隙間に隠れるようにして、エドガーは身を屈めて座り込んでいた。

 空に突き出した尖塔の塔屋は、魔物が支配する領域の真っ只中である。もしも彼等に見付かったなら命の保証はない。

 紛れもない死地である。

 当然ながら、エドガーは自らの意思でそんな所にまで来た訳ではなかった。

 すべからく、全てはマニトゥの采配だ。


 ―――――今から半刻ほど前。


 マニトゥはアランとカルティエに国家の大敵、ミスカマカスの討伐を命令した。


 それを拝命した二人が出発した直後、マニトゥはひっそりとエドガーとシャーロットにもとある指令を送信していたのだ。

 その内容を端的に言うならば、都市に集る魔物共の撃退、である。

 現在、ヒュペルボレオスはミスカマカスによってシステムを掌握されており、外敵に対してひどく無防備だ。魔物の侵入を阻む術はない。だがそれにしても、今の状況は異常なのだと、マニトゥは判断した。

 ヒュペルボレオスが防衛機能を喪失してから魔物が襲撃を仕掛けてくるまで、一連の出来事の運びがあまりにも。状況からして、魔物達は今日この日、あの時間にヒュペルボレオスの防空迎撃設備が無力化されるのだと、最初から知っていたのだとしか考えられない。


 ―――あの種の魔物には、群体を統率する役割を持つ『王』とでも呼ぶべき個体が必ず存在している。


 恐らくはその王がミスカマカスと連携して個別に作戦行動を取っているのだろう、というのがマニトゥの見解だった。

 だからどうした――という話ではある。少なくとも、エドガーにとっては。

 そんな情報をただの小市民に与えた所で何の意味もない。まさかその王とやらを討伐し、事態を解決しろとでも言うのだろうか。不可能だ。国家の危機を救う英雄になれ、などと。荷が勝ち過ぎているにも程がある。

 けれど、彼の隣に立つ少女はそうは思わなかった。


 ―――マニトゥは私達にその魔物の王様を倒して欲しいの?

 ―――出来ればそうして貰いたいね。

 ―――成し遂げたらお金は貰えるかな?

 ―――相応の報酬を払うと約束するよ。ああ、でも、このことを君のお兄さんには内密にするのなら、という条件は付くけれどね。

 ―――じゃあ、やる。


 一も二もなく、少女はあっけらかんと快諾した。

 その後はマニトゥの巧みな話術と策略によってエドガーが協力せざるを得ない状況を構築され、結果として現在に至る。小市民は小市民であるが故に、絶対的な権力には逆らえないのであった。

 エドガーは嫌そうに顔をしかめつつ、黒い筒を覗き込む。

 筒の正体は腕に抱えた銃器――その上部に取り付けられた大型の照準器スコープだ。随分と傾向性に優れた代物で、長方形型のコンパクトな四角い外観は鞄に似ている。

 30mm対魔物用長距離狙撃銃――『ヘクセンハウス』。

 例の如くカルティエが手掛けた逸品である。魔物の撃退や討伐を主任務とするカチナドールの部隊に正式配備されている規格品モデルを、彼女が独自のルートで入手し、多大な改造を施した代物だ。

 折り畳み式で且つ分割して持ち運ぶことが出来るという、銃としては特異な機構を備えており、鉄と黒い合成樹脂で造られたフレームの側面には小さく銘が刻印されている。ヒュペルボレオス首都各所に設置された公衆用の魔導書ライブラリ――それを経由して、カルティエの工房から拝借したものだ。

 エドガーは『ヘクセンハウス』の照準器に仕込まれた機巧ギミックを操作してずらりと並んだ薄いルーペ状のパーツを適宜切り替え、倍率の高低をつぶさに調整し、鉄塔の中から都市の観察を続ける。


「―――おいおい、アレは一体何の冗談だ?」


 なにか――大して親しくもない知り合いから、出合い頭に全く笑えないナンセンスなジョークを吹っ掛けられたかのような。不快感と戸惑いに満ちた複雑な面持ちでエドガーはひとりごちた。

 照準器のレンズが映しているのは少女の姿である。

 彼女は不定形な謎の液体生物を手足の如く操り、魔物を片っ端から駆逐していた。襲い掛かる者の悉くを文字通りに千切っては投げ、千切っては投げを繰り返している。まさしく鬼神の如き戦いぶりだった。

(どういうカラクリかは知らんが、思った以上にやるもんだ。空飛ぶ連中にはちと相性が悪いのが難しいところだが……この分なら、ひょっとしたらひょっとするかもな)

 無精髭の生えた顎を撫でつつ思う。

 しかし同時に、彼女がこのまま戦い続けた所で魔物を殲滅するまでには至らないだろう、とエドガーは考える。

 単純な持久力の問題である。

 如何にシャーロットが超絶とした戦闘力を持っていたとしても、それを全力で行使できる時間は限られている。偏に人間であるが故の限界だ。そしてどうやら敵は賢しくもそのことを

 大軍で潰しに掛かったのは最初だけ。

 襲い掛かった魔物の悉くが一瞬にして全滅して以降、単純に物量で圧すのは効果的ではないと踏んだか、彼等は順次少数で襲撃する戦法に切り替えている。その成果は未だ表出していないものの、それも時間の問題だろう。

 手遅れになる前に、急がなければならない。


 解き明かすべき事柄は二つ。


 王は一体どこにいるのか。そして、どのような手段で魔物の指揮を執っているのか。もしもそのどちらか一方が判明したなら、後は芋蔓式で対処法を構築出来る。今の絶望的な状況をひっくり返すことも十二分に可能だろう。

(この種の魔物は致命的に頭が悪い。個々の知性は脆弱で、アタマの命令を絶対視する分、そいつがいなくなった途端に臆病風に吹かれて集団として瓦解する。―――……それなら、こいつらはどうやってその王様の命令を受信している?)

 現在の状況を脳内の情報と照らし合わせ、エドガーは考える。

 社会性のある動物が別の個体と意思疎通を図ろうとする場合、往々にしてその手段は限られる。

 通常の生物であれば、言語としての鳴き声や、化学物質フェロモンの分泌に頼る場合が多い。しかし相手は半身が機械と化した超常の怪物だ。旧暦時代の生物学じょうしきに当てはめて考えていては、決して答えは得られないだろう。

 しかし魔物とは全く未知の存在ではない。防衛機構の構築を現実に可能とする程度には、先人の碩学達が彼等の生態を解き明かしている。けれどそんな機密情報を一般人が知る術はない。


 では、どうするか――実のところ、


 エドガーは自らの足元に目を向ける。そこには、此処に来るまでの道すがら拝借した複数の電子機器が無造作に置かれていた。

 彼はシャーロットの様子を観察する片手間、慣れた様子で装置の配線を接続して組み上げ、簡単に動作確認を行う。そして頭に装着したヘッドホンから漏れるノイズ音に無心で耳を傾けつつ、己が為すべき作業を開始した。

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