第三十六話 コーヒーブレイク
事務所の片隅に設置されたゴミ箱の中に
ソファに座ったアランは珍獣を見る面持ちで頬杖を突き、ゆったりと
着替え終え、脱衣所から出てきたアランを土下座で迎えたのが二十分前。
それからというもの、食事や後片付けの間ずっと、彼女は家主らしからぬ平身低頭な振る舞いを見せていた。明らかに不自然な態度である。ともすれば事情を知らないエドガーとシャーロットから
斯くして、先日の一件から続くカルティエの二度目の失態が明らかにされたのである。
「私の時よりも取り乱してるねー。そっかー、カルティエさんにはまだお兄ちゃんのハダカは刺激が強かったかー」
「醜いものを見せたと思っている」
「もう、お兄ちゃんったら。これはそういうショックじゃないよ~。ノックさえしておけば防げた失敗を二回もやっちゃったんだから、それが原因で自己嫌悪で忙しいってワケ」
「そういうものか?」
「そーいうものです」
「……さっき、俺の裸は刺激が強いとか言ってなかったか?」
「それはほら、なんていうか、言葉のアヤみたいなものだから。気にしないで~」
シャーロットの言に「ふぅん」と気のない返事をし、アランは背凭れに体重を預けて全身から力を抜いた。ソファのクッションに体が沈み込む。革張りの生地が軋み、嫌な音を立てた。
「―――ほい、食後のお茶の時間ですよっと」
朝食の後片付けを終えたエドガーが、盆を手にして現れる。
盆には四つのソーサーカップがあった。白い陶器の口から湯気が立ち昇っている。温かな湿り気と共に豊かな香りが周囲に漂った。
「ほいよ、シャーロットちゃんの分」
「ありがと、エドガーさん!」
喜色満面で差し出されたカップを受け取り、一口含む。その瞬間、シャーロットの表情が酷く悍まし気で名状し難いものに変貌した。
「―――――」
「シャーロット。頼むから二度とそんな顔をしないでくれ」
気圧され、思わずそんな台詞を口走る。けれども愛妹の顔は元に戻らない。
そこにエドガーが割って入った。
「はいはい、ちょっとお待ちくださいよっと」
言いながらエドガーはソーサーの縁に置いていたコーヒーシュガーとミルクを手早く投入し、ティースプーンで
シャーロットは凄まじい表情のまま、再びカップに口を付ける。
「あっ、美味しい!」
先程までとは一転して、愛らしい笑みを浮かべてシャーロットはコーヒーを呷る。それを見たエドガーは。こっそりと溜息を漏らした。
「本当は、ボウおじさんの特製ブレンドはそのままで飲んで貰いたいんだがね……。はい、これ、アランちゃんの分……っ」
よっぽどの思い入れがあるのだろう、目尻に薄っすらと涙を溜め、嗚咽を噛み殺しながらそんなことを言う。
アランは無言で差し出されたカップを受け取った。
普段、食後の茶を用意しているのはカルティエだ。その彼女が前後不覚に陥っているために、代役としてエドガーが淹れたらしい。彼が淹れたコーヒーを飲むのはこれが初めてだった。
カップを持ち上げ、香りを嗅ぐ。
その時、アランの表情が変わった。鉄のように硬かった表情筋が緩み、ほんの少しだけ「おや」と目を見張る。それから一転して、アランは注意深く目を細めた。白磁の中に
燃え盛る炎のような熱が、唇を割ってその奥へと流れ落ちた。
苦い。だが、
コーヒー特有の舌の根に張り付くような、芳醇で濃厚な苦味と酸味。それが喉を焼いた後で、花の蜜を思わせる円やかな甘い後味が舌を撫でた。
―――曰く。
良いコーヒーとは、悪魔のように黒く、地獄のように熱く、天使のように純粋で、そして恋のように甘い。
この一文は、旧暦時代を生きたとある政治家が残した言葉だ。
食通としても有名であったという彼の言葉は、こうして世が滅んだ後の現代にまで語り継がれており、理想の一杯を語る上で欠かせない至言として今もなお残っている。
ただし彼の言う良いコーヒーとはエスプレッソのことであり、恋のような甘さの正体はシュガースプーンに山ほど盛られた砂糖である。故に必然として、何も入れていないストレートのブラックコーヒーは甘くない。決して甘くはないのだ。事実、まだ舌が慣れていないシャーロットは多大な拒否反応を示している。
だが、これは―――
砂糖を投入していないにも拘わらず、仄かな甘味を知覚する。味覚の誤作動ではない。少なくとも、アランの味蕾細胞は正常に機能している。その証拠に苦味と酸味もしっかりと堪能した。美味かった。だがこれは、それ以上の衝撃だった。
砂糖も甘味料も使用していない、甘露の如き至高の一杯。
そんなものが本当に実在したということ。そしてそれが目の前にあるということ。その二重の衝撃が、アランの精神と世界観を根幹から打ちのめした。
「…………」
カップの中身が有限であることを心底から惜しみつつ、であるからこそ、熱い内に味わいながら気持ち良く飲んでいく。そして十分に堪能したところで、カップをソーサーに置いた。
肩から力を抜き、ソファの
「どうだ、おじさんの特製ブレンドは。美味かったろ? なにせ探偵が淹れるコーヒーは美味いって相場が決まってるからな、はっはっは!」
茶目っ気たっぷりに片目を閉じて、エドガーが言う。
アランは悔しそうとも嫌そうとも取れる複雑な表情で何か言おうとしたものの、それが形になることはなく。結局はバツが悪いのか無言でそっぽを向いた。
「……ご馳走様でした」
短く告げて空のカップをテーブルに置き、アランは懐から携帯端末を取り出す。
液晶画面に光が灯り、現在時刻が表示された。
「そろそろ時間だな」
携帯端末をポケットに戻し、アランが席を立つ。するとそれに反応したシャーロットが口を開いた。
「あっ、本当だ! ほら、カルティエさんも! ネガネガしてないで出掛ける準備しなきゃダメだよー!」
「いいんです……もうだめです……おしまいです……私はこのままここで、コンポストとしてひっそりと生きていきます……それでも邪魔になったらゴミの日に捨てて下さい……ご迷惑をおかけしますがすみません……生まれてきてごめんなさい……」
「そんなこと言わないでよ、もぅ。昨日まであんなに楽しみにしてたじゃない! ほら、立って立って! 青春もお兄ちゃんも、待ってはくれないよ~!」
「あぁぅ……」
シャーロットに発破を掛けられ、カルティエは
* * *
友達を作ることはとても難しい。
遊ぶこと。笑うこと。
怒ること。許すこと。
それはきっと、誰もが普通にできること。
他の人間と談笑を交え、ぶつかりながらも思い遣り、親睦を深める。言葉にすればとても簡単なことだ。けれど、その簡単なことが出来ない。どうしようもなく難しい。誰かと一緒になんでもない時間を共有するという――ただそれだけのことでさえ、カルティエにとっては至難だった。
己の主観でしか物事を判断できない。その癖ネガティブな感情ばかりが先行してしまうものだから、何事にも予防線を張って自分の殻に閉じ籠る。
変えよう、と思わなかった訳ではない。
変わりたいと、いつだってそう願っていた。
けれど―――
『―――どうやら、君には人の心が分からないようだ』
それが答えなのだろう。少女は理解する。幼心に刻み込む。
カルティエには生まれ付き素晴らしい才能があった。
彼女がまだ五歳の頃だ。ヒュペルボレオスにおける義務教育の課程として、同年代の子供達と同じく、国営の養護施設で暮らしていた時のこと。
カルティエ・クルーシュチャ・ガウトーロンは、いわゆる問題児のレッテルを張られていた。
しかし別段、素行が悪かったという訳ではない。
全く諍いがなかったといえば嘘になるが、それも精々が子供の喧嘩程度の可愛らしいものでしかなかった。カルティエは他の子供達と同じように全力で喜怒哀楽を発散し、けれども年相応に羞恥心を覚えてほんの少しマセた情緒を見せる、極普通の子供の一人でしかなかったのだ。……少なくとも、精神面においては。
ある時、その事件は起こった。
否、発覚した、といった方が正しい。
最初にソレに気が付いたのは、一人の教師だった。
施設内で管理されている玩具の整理及び点検を行っていた彼は、玩具箱の中に何やら見覚えのない代物が増えていることに気付く。そしてそれを手に取った瞬間、呆然と立ち尽くす羽目となったのだ。
―――それは、銃だった。
玩具ではない。構造はボウガンに近く、土台は鉄製で弦は鋼糸。引き金の細工は精巧で、装填された弾倉には金属球が込められている。そして後の調査によれば、ソレには厚さ十ミリの木材ならば簡単に粉砕してしまう威力があった。
紛れもない凶器だった。
だが明らかに既製品ではない。きちんと銃に見えるよう全体的に格好を整えられてこそいるものの、所々が稚拙な印象が強い造形をしている。恐らくは端材を組み合わせて造ったのだろうと、素人目にも一目で分かる代物だった。
そして教師には、ソレの材料となったであろうモノに心当たりがあった。施設で不要となったので破棄された物品の面影が端々に見え隠れしたからだ。
工作が好きな子供は多い。
映画に登場したアイテムやガジェットを真似て、紙やブロックで模造品を作るなんてよくあることだ。場合によっては徒党を組んでごっこ遊びに興じたりもするだろう。その姿はとても微笑ましい。
自分だけの宝物を好む子供も多い。
気に入った物をポケットに忍ばせ、特別な隠し場所に秘匿する子供のなんと多いことか。御眼鏡に適うモノは人によって多様だが、時にはゴミ箱から目ぼしいものを漁って持ち帰ることもある。その姿は如何にも愛らしい。
だが――何事にも例外はあるもので。
極端な話、大人どころか機械の監視の目を盗んでまで危険物を製造するなんて真似が許される筈もなかった。
幸いにも怪我人が出る前に銃は押収され、その製造者は確保された。
製造者の名はカルティエ。
どこにでもいる映画好きの女の子である。
教育者にとって、彼女はまさしく怪物だった。
倫理と道徳を以って説き伏せればきちんと理解してくれる。だが、幼い子供に悪いことは駄目だと額面のみ教えただけで、直ぐに善事と悪事の判別ができるようになる筈もなく。結果――銀幕の光景に憧れて工作を続ける天才幼女は、悪意無き発想で、手を替え品を替えて、次々と危険物を制作し続けた。
ヒュペルボレオスに少年法は存在しない。
出来ることと言えば、口頭での注意のみ。
―――資格を持っていない子供が銃を造ってはいけない。
カルティエは、
この一件の後、カルティエは銃砲火器の取り扱いに関する各種国家資格を次々と取得し、人類史上最年少のガンスミスとなっている。血筋のこともあって、この件は各方面に激震を走らせ大きな話題にもなった。
紛れもない栄誉。
しかし、それが当人の人生に影を落とす切っ掛けとなったのだ。
齢五つにして独力で国家資格を取った天才に対し――人々は何を思うか。
これは自分達の手に負えるものではないと、教師達は早々に匙を投げた。
時が経つに連れて、大人達から腫れ物扱いされる少女に対し、周りの子供達は距離を取るようになった。
そして本人は、そんな周囲の変化に気付くことなく己の世界に籠り続けた。
結果――カルティエが自らの孤独に気が付いた時には、既に何もかもが手遅れになっていた。
居場所がない。どこにもない。
友達を作ろうとしても上手くいかず、誰からも相手にされない。発明にばかりかまけていた
やがて一人でいることが居た堪れなくなり、人目に付く場所を避けるようになる。先天的な素養から病的に隠れることが上手かったこともあって、カルティエの孤独は一層深まっていった。
無論、改善しようと努力はした。
人の心が分からない――ならば分かるようになればいい、と。心理学や精神医学を積極的に学び、数々の資格や免許を取得した。彼女の知識と実技能力は専門分野の医師のそれと同等以上であると言っても過言ではない。
けれども、何も変わらなかった。それどころか悪化した。
それ自体は珍しい話ではない。自己分析を行えば、嫌でも自分の悪い所が見えてくる。そうなってしまえば、後は更に状況が悪化していくだけだ。
欠点を意識する余り、取った行動の全てが空回りして、余計に悪い方へ転がり落ちる。より一層、他者の視線に怯え卑屈になる。そしてもっと自信を失くすという
そのまま十年の時が過ぎ――休み時間は机に突っ伏し、お昼時には人気のないトイレの個室で独り弁当を突くのがすっかり習慣化してしまったのである。
そんな少女は、密かに決意した。
このままではいけない。友達を作らなければ。
カルティエは危機感と焦燥感に駆られていた。
だがすっかりネガティブなマイナス思考に染まってしまった頭では、何をしても無駄な足掻きにしかならず。義務教育を終え施設を卒業する段になっても、友人は一人もいなかったし、同い年の従兄弟と会話することすらままならなかった。
もう――友達いない歴と年齢が合致する日々を更新し続けるしかないのか。
絶望した少女は際限なく現実を悲観する。しかしそんな日々にも、不意に変化の兆しが訪れたのだ。
ヒュペルボレオスを運営する人工知能・マニトゥから直々に、ホームステイのホストになってみないかとの打診があったのである。
聞いてみれば相手は自分と同年代の少年少女であるという。その瞬間、カルティエはこれが最後のチャンスだと確信した。これを逃せば二度と友達を作ることは叶わないだろうと思った。
カルティエはマニトゥの提案を全面的に受け入れた。
それからは早かった。受入日の一週間前に凶悪なテロ事件が発生するというアクシデント――その時はまだテロ事件だと世間に認識されていなかったが――こそあったものの、来訪した二人の子供を考え得る限り最高のシチュエーションで持て成すことが叶ったのだ。
そして青空教会が引き起こした未曽有のテロ事件も解決した今。
いよいよ後は同じ学校に通い素晴らしきキャンパスライフを謳歌するのみ――というところ、だったのだが。
「ぁぁぁあ、終わった……」
今朝の失態を反芻し、呪詛じみた呻きを口から吐き出す。
同居人がいるにも拘わらずノックを怠り、挙句の果てにシャワー上がりの裸体を覗いてしまうという失態を犯した。しかも先日の一件から続いてこれで二度目である。よって弁解の余地は一切なく、ともすれば侮蔑は免れ得ないだろう。
だが――果たして、それは重要なことか。本当に今考えるべきことなのか。
カルティエは、姿見に映る己自身へ冷たく醒め切った目を向けた。
(……この期に及んで、私が考えているのはアラン君の気持ちではなく自分の都合なのか。自己保身の為の自己嫌悪だなんて、なんて馬鹿馬鹿しい。情けないにもほどがある。結局のところ、ただ逃げているだけじゃないか)
砕けてしまいそうになるほど強く奥歯を噛み締め、カルティエは項垂れた。
底無し沼じみた諦観に深く沈むカルティエ。しかしその脱力した内面に反して、少女の指先は
オイルで汚れた作業着を脱ぎ、予め用意していた新品の制服に袖を通す。今日はヒュペルボレオスに存在する唯一の教育機関――オルガン・アカデミー初の登校日である。待ちに待ったイベントではあったが、今はただただ気が重かった。
身形を整え、自室を後にする。
事務所に戻ると、シャーロットとエドガーが歓声を上げて出迎えた。
「お、似合ってるじゃないかカルティエちゃん」
「可愛いー! 好き!」
「わっ! わわわ、シャーロットちゃん!?」
カルティエの姿を認めるや否や、シャーロットは目を輝かせてカルティエに抱き着いた。胸に顔を埋め、頬擦りをし、匂いまで嗅いでいる。突然の暴挙にカルティエは顔を真っ赤にして、ぱくぱくと口を開閉させた。
十分に堪能したのか。シャーロットは驚いたまま身動きが取れずにいるカルティエから離れ、改めて全体像を吟味する。
トレードマークの銀髪は三つ編みに結い、輪っか状になるよう根元でまとめている。遮光レンズが用いられたゴーグルとハーネスベルトも同様に装備されていた。
着ているのは黒いブレザー型の制服だ。糊の利いた白いブラウスの襟元は赤のネクタイできっちりと結び、その上から同色のニットベスト、そしてフォーマルな印象の強い菱襟の上着を着こなしている。下半身には黒のプリーツスカートとストッキング、ローファーを穿いていていた。
普段履いているロングスカートよりも丈が短いからか、カルティエは無意識にスカートの端を摘まんだ。
「うぅ……シャーロットちゃん、その……そう、まじまじと見られると……」
「えー、恥ずかしがることないよー! だって可愛いもん! スタイル良くてとっても綺麗! ね、ねっ! お兄ちゃんもそう思うよね!?」
「―――ん。そうだな、似合ってるよ」
「うひゃぁッ!?」
不意に、背後から回り込むようにしてひょいと身を乗り出し、アランはカルティエの制服姿を見下ろして答える。一方、彼が接近していた気配に全く気付かなかったカルティエは飛び上がった。
「ア、アラン君―――」
「お兄ちゃんも制服だ。でもなんていうか……普段とあんまり変わらないね」
「放っておいてくれ」
心なしか、唇を尖らせた風にそっぽを向くアラン。その服装はカルティエと同じオルガン・アカデミーの制服に変わっているのだが、確かに彼の普段着である背広姿とそう大差ないように見える。
「え、えぇと……その、アラン君さん……」
「敬称は一つでいい。それより、変に畏まるのはやめてくれないか」
「はい! ごめんなさいッ! すみませんでした! これからは二度と貴方の視界に入らぬよう誠心誠意努力していく次第であります! だんごむしのようにッ!」
「……本当にしっかりしてくれ。情緒不安定に見えるぞ。落ち着くまで学校は休むか? それなら俺も付き合うが」
「いやッ、だってそんな……アラン君は学校に行くべきですよ……」
「嫌だよ。学校って場所には嫌な思い出しかないんだ。だっていうのに、調子の悪い友達を置いてまでわざわざ行こうなんて思うか。君が行かないなら行かないよ」
嫌な思い出、とやらを思い出してしまったのだろう。半ば吐き捨てるようにアランは言った。彼は自分の言葉に従ってオフィスのソファに腰を落ち着けると、まだ誰も口を付けていないコーヒーカップを手に取る。
その後ろで、カルティエが硬直していた。
呼吸すら止めて、石像の如く固まっている。まるで一人だけ時間が止まっているかのようだ。先程のアランの言葉にはそうたらしめるだけの威力があった。
友達。
確かに彼はそう言った。さもそれが当然であるかのように。何ら気負うことなく、飾ることもなく。とても自然にその言葉を口にした。
嬉しいと、少女は思う。
けれどそれ以上に――己の矮小さと卑屈さを痛烈に恥じた。
エドガーとシャーロットが注意深くカルティエの様子を窺っている。
アランは一顧だにせず無言でカップを傾ける。
暫くしてカルティエは一度、深呼吸をして――自らの頬を、全力で殴った。
肉を打つ鈍い音が派手に響き、エドガーとシャーロットが飛び上がる。そんな二人のやや過剰な反応は差し置いて、カルティエは振り返った。
頬が赤く腫れている。
しかしそれ以上に、蒼い瞳に宿る凛とした光が目を引いた。
「アラン君ッ!」
「なんだ」
「私はッ! アラン君と! 学校に! 行きたい! です……ッ!!」
「もう大丈夫なんだな?」
「はいッ! お見苦しい所をお見せしました! もう二度と――貴方の前でだけは、あんな醜態を晒したりはしません! 絶対に!」
力強く宣誓する。それを受けて、アランは「よろしい」と頷いた。
コーヒーカップをソーサーに戻し、立ち上がる。
「なら出発しよう。行くぞ」
「
「二人共、いってらっしゃーい!」
ぶんぶんと勢い良く手を振るシャーロットに「行ってきます」と応え、アランとカルティエは意気揚々とオフィスを後にした。
二人の素中を見送ってから、エドガーが口を開く。
「アランちゃんも流石だねぇ。すっかりカルティエちゃんの扱いに慣れちゃって。人心掌握はお手の物って感じだ」
感心した風な口振りで言う。それを受けて、シャーロットは難しい顔をした。
「うーん、今のはそういうんじゃないと思うな。お兄ちゃんが学校きらいなのは本当だし。―――っと。そ、れ、よ、り! 私達も早く出発しようよ!」
部屋の隅に設えられたハンガーポールから愛用のポンチョを引き剥がして肩に掛けつつ、シャーロットがエドガーに呼びかける。エドガーは手にしていたコーヒーカップの中身を一気に呷ると、重い腰を上げた。
「はいよ。不本意だが、こっちもぼちぼち仕事を始めるとするか。ごっこ遊びの準備は出来てるんだろうな、可愛い軍曹ちゃん?」
「
背筋を正して見事な敬礼をして見せるシャーロット。その口元には、なんだか邪に見える小悪魔めいた悪戯っぽい笑みが浮かんでいた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます