閑話 おはようございます
端的に言えば――そこは、ありきたりな
眩い白、清潔な白、完璧な白。
床、壁、天井に至るまで、全てが白く染め上げられている。清潔感に満ちた内装には、汚れの一つもありはしない。それは健全でありながら病的という、実に矛盾した造りだった。
そこはまるで、古い映画に登場するような謎の研究所にとてもよく似ていて――そして、実際にそれそのものだった。
施設の廊下を行き来するのは白衣を着た人間達。彼等の表情は優し気な鉄面皮で硬直しているが、その分厚い皮の下には一様に残虐で醜悪な本性を秘めている。
その証拠に、彼等は何があろうと動じない。
施設の何処かから叫び声が聞こえても気にしないし、たとえ死人が出ても彼等が交わす事務的な言葉の交合に上ることもない。施設内で死傷者が発生しない日など存在しないからだ。誰も彼もが狂い果て、死に耽溺し、慣れ親しんでいた。そこは紛れもなく、
研究員であれ実験動物であれ、そこでは毎日のように何者かが死んでいた。人智を踏み越えた科学技術の粋を集めて造られたその場所に、常人の居場所はない。そこにいる者の全てが多角的な意味での人でなしだった。
人に見える何か。
人と思しい何か。
人ではない何か。
そんなもので溢れている。その施設においては、人とそうでないものとの線引きは曖昧だ。
壁で隔てられた狭い部屋には、様々な実験動物が押し込められていた。白い寝台は赤色で溢れ、積み上げられた檻の中からは
その中でも一等、
そこは暗かった。
照明はなく、けれど
区画内に通路を作る形で整然と並べられた機械装置には、大柄な成人男性がすっぽりと入る大きさの水槽が内蔵されている。培養液で満たされた円筒形の容器の下部には、茫洋とした明かりが設けられ、その内部に収められたモノを大袈裟に
水槽に収められているのは、生きた怪物だった。
彼等の身体造形は完全に人智の外にあった。まさしく
そこは保管庫だった。
研究資料としては有益だが、実験動物としては不適格な個体――そういったものを封印するための設備である。
封印されているだけあって、その全てが常軌を逸した悍ましい姿をしていた。殺傷能力に秀でた外観は、見る者に本能的な恐怖を喚起させる。けれど――何事にも、例外というものは存在した。
その例外は、保管庫の最奥にあった。
明らかに他と隔す意図で配置された三つの水槽。それに備わった機械は他のものと比べると極端に大型で、設備の
三つの水槽には、識別名を表す
CahosCODE:SUSPIRIA EA-01 “Mater Lachrymarum”
CahosCODE:SUSPIRIA EA-02 “Mater Suspiriorum”
CahosCODE:SUSPIRIA EA-03 “Mater Tenebrarum”
その三つの内、真ん中の水槽が空だった。
左端と右端の水槽には、中身がある。その内の一方は人間――中でも取り分け、少女と称される部類の容をしていた。
彼女達は一糸
艶やかな白い肌には一切の汚点がなく、培養液の中を漂う髪は夜を押し固めて梳ったように黒い。その顔立ちは美しく、眠るように目を閉ざした姿は魔的であるとすら言えた。
「―――――」
不意に、右端の水槽に収められた少女の手が動く。
ゆるりと流れた掌が、内側から水槽を押す。すると水槽内部に掛かる圧力の位相が変化し――それを読み取ったセンサーが反応。装置の下部に設えられていた小さな穴が開き、水槽を満たしていた培養液を外部へと急速に排出した。
水位が目に見えて一気に下がる。粘性のある液体が排出口から流れ出し、床を汚すことなく側溝へ零れ落ちた。
機械装置に備わったインジケーターランプが紅から碧へ切り替わる。
すると水槽内部に外気が入り込んだ。次いで水槽を固定していた器具が音を立てて外れ、収納される。すると水槽はその中身を置き去りにして、
少女の閉ざされていた双眸が開く。銀色の瞳孔が外界を映す。
彼女は体の各所に接続された管を掴むと、半ば肉と一体化それを容赦なく引き抜く。全て抜き終えたところで、彼女は肌に纏わりつく髪を掻き揚げた。
黒い髪。銀の瞳。白い肌。
彼女の姿は魔女そのもの。
毒を盛られ棺に閉じ込められていた悪い魔女が、悠久の眠りから目を覚ました瞬間だった。
『―――やあ。おはよう、
機械装置の傍にあった操作用の
『ご存知の通り、計画は既に最終段階だ。「混沌」の収集はほぼ完遂に至り、後残す
くつくつと、コンソールから笑いが漏れる。それに答えるように、少女は不敵な微笑みを浮かべる。
見る者をゾッとさせるような、壮絶に美しい笑顔。
それは――――――――――明らかな嘲笑だった。
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