第二章 憧憬迷路

第三十四話 終わりの始まり

 ―――午前零時、丁度ヲ、御報セシマス。


 オハヨウゴザイマス、オハヨウゴザイマシタ。

 状況ヲ開始致シマス、状況ノ報告ヲ始メマス。


 前回ノ探索ヨリ二十四時間ガ経過。

 安全管理バックアップハ万全、行動記録バックログハ削除。


 正確ナ状況確認ノ為、周囲ノ地形ヲ再認識スキャン致シマス。


 大気成分/N2――正常:規定値

      O2――正常:規定値

      AR――正常:規定値

      CO2――正常:規定値

      YOG――正常:異常値(更新→許容範囲)

      AZA――正常:異常値 >!警告 !警告 !警告 !警告


 災害規範ハザードレベル:EX。重篤ナ環境汚染ヲ確認。

 知覚モードヲ切リ替エマス。機構システムヲ切リ替エマス。視覚カメラヲ可視光計測カラ外宇宙線COOS計測ヘ変更。完了。知覚モードハ正常。機構システムハ正常。

 状況ノ最適化ヲ完了。コレヨリ、探索ヲ開始致シマス―――


「―――残念ながらそうはいきませんわよ、コソ泥さん?」


 >!警告 !警告 !警告 !警告


 異常事態発生。異常事態発生。

 状況ケース801ノ発生ヲ報告。極メテ危険。現時点デ穏便ナマニュアル対応ハ不可能ト判断。対処法ヲ検索――該当スル方策、一件有リ。


 戦闘行動ヲ開始致シマス。


「あら、やる気ですの? 随分と勇ましいこと。ではその意気に免じて苦しまないように殺して差し上げますわ。さあ――今宵、貴方の為の恐怖劇サスペリアを始めましょう」


 報告:目標物ヲ発見。目標物ヲ発見。

 報告:混沌ノ顕現ヲ受信。戦闘開始。

 報告:当該個体ニ重篤ナ損傷ガ発生。


 ―――午前零時、臨終ヲ、御報セシマス。


 オヤスミナサイ、ソレデハマタ、ヨイユメヲ。

 状況ヲ終了致シマス、情報ノ抹消ヲ始メマス。


 サヨヲナラ。サヨヲナラ。

 我ガ魂ヨ――偉大ナル故郷、母ナル時間ヘト還リ給ヘ。


 * * *


 エドガー・ボウの愛車、オンボロの『スナフキン』は今日も機嫌が悪い。


 何度もクランクを回し、点火用のレバーを引く。だがエンジンは黙したまま始動せず。石のように頑なに、車庫の中でうずくまったままだった。

 うんともすんとも言わない頑固者を相手に、複雑な始動操作の手順を繰り返し、悪戦苦闘を重ねること数十分。エドガーの苛立ちが頂点に達する寸前に、ようやく『スナフキン』は重い腰を上げて動き出した。

 排気筒マフラーから黒い排煙をもうもうと吐き出しつつ、『スナフキン』は夜の街へと飛び出して行く。

 蒸気機関技術が極端に発達し、楽園と称される程にまで至ったヒュペルボレオスにおいては、主だった機械の動力源として蒸気機関スチームエンジンが採用されている。その例に漏れず、『スナフキン』もまた蒸気自動車の一種だ。

 しかし一般に流通している車種と比べて酷く古いタイプの代物で、ラジオやカーナビはおろか、駆動系の制御にすら電子機器は一切使われておらず、更にその乗り心地は最悪の一言に尽きる。

 交通量の少ない閑散とした道路の上を、夥しい量の黒煙を吐き出しながら『スナフキン』が疾駆する。

 夜のヒュペルボレオスは静かだ。

 絶対的に法規制された労働時間を全ての国民が遵守しているため、一部の民営店を除いた店舗以外は門戸を固く閉ざして沈黙している。特に立ち並ぶ建物の九割を住宅街と国家機関が占める首都部は輪を掛けて静謐せいひつだった。

「うあー……ねみぃ」

 欠伸を噛み殺しつつ、緩やかなドライブに没頭するエドガー。

 寝静まった夜の街に、オンボロ車が吐き出す騒音を響かせること二時間。何処に向かうでもなく広範囲に渡って同じ道を徘徊するなどした所で、それとなく後方や上方を確認、尾行や監視の有無を見定める。そして問題なしと確信するや否や、乱暴にハンドルを切ってから、先程と同様の速度ペースで当初の目的地へと向かい始めた。


 ヒュペルボレオスの地下深くに建設された枢機基地ジオフロント――その最下層に位置するのは、国家運営を司る暗黒脳髄機構シャルノスである。


 楽園における最重要施設である其処に入場する手段は、極限まで制限されていた。

 そもそも枢機基地ジオフロントが完全な自給自足を可能とした施設であるため、内部の人間には外出の必要性が皆無であり、来場する人員は必要最低限に抑えられる。ともすれば進入路の建設など無用――などという極論がまかり通る筈もなく、けれでも地上と地下を繋ぐ経路は少数に限られており、その利便性は劣悪であった。


 しかし、何事にも例外は存在する。


 それは例えば、極一部の職員が私用のため秘密裏に用意させた非常用の昇降機エレベーターのことであり。

 それは例えば、地下鉄道の利権や開発権を独占する三合会トライアドが極秘に建造した隠し通路のことであり。

 それは例えば、無節操に開発されていく内に偶発的に発生した、一部の関係者や現場の人間のみが知る地図に未掲載の出入り口であったりする。


 更に最近では、堂々と地面に穴を空けて侵入するなどという、とんでもない前例まで出来てしまった。とはいえ、それも非常事態を解決するために執られた止むに止まれぬ措置であったが故に、仕出かした犯人には特に罰則はなく、穴は何事もなかったかのように速やかに塞がれ、既にその痕跡は綺麗さっぱり消し去られている。

 ―――閑話休題それはさておき

 上記の例外には共通する項目がある。それは、その存在が公的なものではない、ということだ。

 エドガーが向かっているのもまた、そういった抜け道の一つである。

 公共機関付属の地下駐車場へと続く天井の低いゲートを潜り、来場者用の誘導路を辿る。建物の下へ呑み込まれていく傾斜路には途中に幾つもの分岐があり、尚且つ明かりに乏しいことからまるで迷路のようだった。

 記憶を頼りに、エドガーは正確にハンドルを巡らせる。

 しばらくすると、前方を照らすヘッドライトが浮かび上がらせる丸い景色が、四角く切り取られる。手前に『一時停止STOP』と白線の引かれた其処は行き止まりに見えるが、実際は車両搬入用の専用口であった。

 壁際にある電気錠の近くに車を寄せて停車し、エドガーは身元不明遺体の懐から拝借したカードキーを何食わぬ顔で取り出して、電気錠の読み取り機リーダーに滑らせる。すると電気錠のインジケーターランプが紅から碧に切り替わった。

 目前を塞いでいた隔壁が開放され完全に展開を終えると、天井付近に設えられた信号機が碧く点灯する。それを確認し、エドガーはゆっくりとアクセルを踏んだ。

 四角く区切られた狭い空間に車体が収まると、背後で重い音を立てて隔壁が閉鎖される。そして程なくして、床が昇降路シャフトの下降を開始した。


 自動車用の昇降機エレベーター貨物列車カートレインを幾つも乗り継ぎ、下へ下へと向かう。


 長く、永く。刻まれる時間は、次々と闇の中に投棄されていく。

『スナフキン』のフロントガラスとドアガラスは煤と脂で酷く汚れていて、極めて視認性に難がある。けれども黄ばんだ窓越しに覗く景色は常に同じだ。周囲はただただ、黒と鉄と、蒸気の熱で満ちている。

 滑らかな金属で出来た壁と、そこに接続され至る所を這い回る配管、そしてそれ等を区分ける格子の覆い。どこまでも続く迷路を運輸装置トランスポートに乗って流されて行く。


『スナフキン』のハンドルに両腕を預けてもたれかかり、エドガーは溜息を吐く。腕を枕代わりにして額を押し当て、まぶたを閉じた。

 聞こえてくる音は少ない。

 何処かで排出される蒸気音。貨物電車が線路を駆る振動音。その二つを除けば、後に残るのは自身の体内で脈打つ鼓動のみである。


 ―――本当に?


 奇妙な疑念が、エドガーの胸中に沸いた。

 以前からだ。枢機基地ジオフロント・暗黒脳髄機構シャルノスへ向かう度、エドガーはそのことについて考えを巡らせずにはいられなかった。

 鼓動が聞こえる。

 勿論、自分のものではない。それどころか、きっと生物のものですらない。もっと強大で怖ろしい狂騒なる何か――そんな不明物の鼓動が聞こえるのだ。

 瞼を開け、エドガーは改めてフロントガラスの向こう側へ目を向ける。

 目に見える風景は、黒と鉄ばかり。機械で出来た内臓の中を通り、下へ下へと運ばれていく。ここはまるで、鉄で出来た消化器官のようだった。闇の中に目を凝らせば、髑髏ドクロの一つでも容易く見付けられるだろう。

 ―――それならば、鼓動が聞こえるのも道理。

 何故ならそこは、真に巨大な鉄の怪物の体内であるからだ。楽園の頂に建つ尖塔と、そこから伸びる地下施設の正体とは、人造でありながら人智を外れた化け物の体躯に他ならない。

 鉄の怪物は、人間を取り込み、人間を食い潰すことで生きている。

 故に、ヒュペルボレオスは楽園ではない。もっと怖ろしい別の何かだ。

(……鼓動が大きくなってるな。前よりも)

 訳の分からない恐怖に駆られ、眠気に濁る意識がそんなことを思う。

 無論、それは妄想に過ぎない。作家特有の豊かな想像力が発揮する、職業病じみた錯覚だ。そう自覚しているにもかかわらず、けれども胸中に満ちる怖れが紛れもない事実ほんものなのだと確信している自分がいる。

(馬鹿みてぇ)

 益体のない思考を微睡まどろむ脳内でばっさりと切り捨て、エドガーは時が過ぎるのを待った。


 エドガーが半ば非合法に枢機基地ジオフロントへ入り込んだのには理由がある。


 人と会う約束をしているのだ。

 とはいえ、互いに合意の上で密会に及ぶ訳ではない。これは相手側から一方的に通達された呼び出しであり、しかも出向は事実上の強制であった。

 相手から指定された場所へ向かって『スナフキン』を走らせる。

 枢機基地ジオフロントは広大な施設だ。それ故に内部には交通用の道路が整備されており、職員は専ら所有の自動車か、施設内で運営されている交通機関を主な移動手段として活用している。

 右へ左へと路を進んで行くと、やがて奇妙な区画に入り込んだ。

 如何にも地下の秘密基地然として、滑らかな金属で構築されていた壁や床が、猥雑わいざつに変化する。

 床は金網に変わり、その下で無数の配管が這っているのが見えた。周囲には幾つもの階差解析機関ディファレンス・エンジンが連結して並び、歯車と往復機構ピストンの駆動音と、排出される蒸気の鋭い排気音を軽快に連続させていた。

 天井はあまりにも高く、頭上を覆う暗闇は見渡せない。

 その闇を切り裂くように、幾条もの雷光が天井の間際を這っている。階差解析機関ディファレンス・エンジンから等間隔に伸びる奇怪な形状の柱――共振変圧器テスラコイルが、高電圧の電流を発しているのだ。

 コイルの放電現象によって生じる衝撃が大気が震え、音が鳴る。それは単音ではなく旋律だった。

 あまりにも不細工な交響曲。

 音程の外れた、歪な歓喜の歌を唱和している。


 ―――暫く前進したところで。

 不意に、前方を照らすヘッドライトの端が人影を捉えた。


 ブレーキを踏み、緩やかに停車する。

 エドガーは半ば無意識に懐から煙草とライターを取り出すと、一本だけ抜き取って口に咥え、端に火を着ける。フィルターを経由して紫煙を深く吸い込み、吐き出した。

 煙が肺に染み込み、甘く痺れさせる。その感触をまったりと楽しんでから、彼はようようと目の前の光景について思考を巡らせることにした。

 何の脈絡もなく、路の真ん中に椅子が置かれている。

 ともすれば何か奇怪なモノなのかと勘繰りたくもなるが、しかしソレそのものは大した品ではないようだ。少なくとも、エドガーにはただの安っぽいオフィスチェアにしか見えない。この状況でまず気に掛けるべきなのは、椅子そのものではなく、ソレを設置した変人の意図だった。

 ではその変人は一体どこにいるのか――その答えもまた、目の前にあった。

「…………」

 あまりにも芝居がかっている。

 エドガーは嘆息を漏らすと、マニュアル通りに各種レバーを操作して完全に車が停止したのを確認してから、キーを抜き取った。そして『スナフキン』のドアを開け、車外に足を降ろす。外気が体内に雪崩れ込み、煙草のものとは異なる刺激臭が鼻を突いた。

 乱暴に『スナフキン』のドアを閉め、椅子の許へ歩み寄る。そして声を掛けた。

「そんな所で何やってんだ、お前。ニコラ・テスラの真似事か?」

「はは。そこまで高尚なことはしていないさ。まあもっとも、今の世で宇宙人との交信などできる筈もないが」

 くつくつと、鬱屈とした響きの笑いが返る。そして椅子の背もたれの上から覗いている白い頭が左右に揺れた。

 不意に、背を向けていたオフィスチェアがぐるりと反転する。

 路上に居座る変人の全貌が露わになる。不遜に足を組み、頬杖を突いた様は、紛れもなく王者さながらの威風を備えていた。その姿はあまりにも堂に入っていて、どうしようもなく芝居がかっている。


 そこにいたのは、白い男だ。


 すらりと伸びた長身をそのまま夜会にでも参加できそうな瀟洒な礼服で包み、更にその上に白衣を羽織っている。

 彫りの深い精悍な顔立ちは派手で若々しく見えるが、よくよく見てみれば深く刻みついた加齢の痕跡が見て取れる。齢は五十に差し掛かった頃だろう。左目に着けた片眼鏡が、老いた印象をより強固にしていた。

 髪は艶を欠いた白色。老齢による脱色ではなく、生来からの遺伝的な色素欠乏症によるものである。髪と同様に眼の色素も薄く、その瞳は黄金に輝いていた。


 彼の名はオブレイ・クルーシュチャ。


 ヴュアルネ・クルーシュチャの実兄であり、カルティエ・K・ガウトーロンの伯父に当たる人物だ。そして此処――枢機基地ジオフロント・暗黒脳髄機構シャルノスの最高責任者であり、枢機卿の称号と、騎士の身分を持つ稀代の碩学でもある。

 彼の社会的地位は人間としては最高位であり、行政における発言権はマニトゥと同等かそれ以上。今では数少ない、ヒュペルボレオスという国家を担うの一人であった。

 ちなみに、エドガーとの関係性は嘗ての級友にあたる。共にエレナ・S・アルジェントの下で勉学に勤しんだ仲だ。

「はは。こんばんは。―――ふむ、随分と良い車に乗っているじゃないか?」

 発せられたのは、快活且つ剽軽ひょうきんな声。

 その双肩に負った役職に相応しからぬ軽々な言葉遣いと佇まいは、旧知の間柄であるエドガーが相手であるが故か。対して、エドガーも同様に気安く肩を竦めて見せる。

「……良い車、ね。ありがとよ。お前に言われちゃ皮肉にしか聞こえないけどな」

「はは。別に世辞や方便を口にしたつもりはないぞ。レトロなのは良いことだ。不便は退屈を助長させない。暇を持て余すよりは、自然と有意義な時間が過ごせるというものだ。それに、最新機械というやつは浪漫がないからな。私はああいった余分なものは好まない。道具というものは、武骨で不細工な方が丁度いいものだ」

「姪とそっくりなこと言ってやがる。そんなに言うんならこの車、買い取ってくれよ」

「はは。慎んで遠慮しておこう。私は煙草はやらないんだ。煙塗れの空気など吸うに堪えない。―――さて、そろそろ仕事の話をしようか。……むむ? はて?」

 そこまで言って、オブレイは不自然に言い淀んだ。彼は顎に指を当て、視線を彷徨わせる。

「はは。申し訳ないが、お前は誰だったかな? コナン? イズレイル? ジュール? ランポ? レイノルズ……は流石に違うか」

「おいおい、呼び付けた相手の名前を忘れるなよ……。しかも当てずっぽうで適当に言ってないか? ……まあいいや。俺の今の名前はエドガーだ。エドガー・ボウ」

「はは。ああ、そうだったそうだった。今はその筆名で名乗っているんだったな、失敬。そういえばせがれ大先生ビッグ・ボウとか騒いでいたのを思い出した。はは。この歳になると物忘れが酷くなっていけないな」

 咳払いを一つ零してから、オブレイは告げる。

「はは。さて――エドガー。お前にはもう一度、特殊工作員カチナドールになって貰う」

「―――断る」

「はは。貰う、と言っただろう? 残念ながらこれは強制だ。お前に拒否権はない。この後にでもマニトゥから正式な辞令が下るだろう。震えて待て」

 くつくつと笑うオブレイとは対照的に、エドガーは心底嫌そうに眉間の皴を深くする。

 細やかな抗議とばかりに、エドガーは肺一杯に吸い込んだ紫煙を吐き出した。

 オブレイは眉一つ動かすことなく、話を続ける。

「先日の自殺騒動の影響で、公務機関カチナ・オルガンは人手不足でな。いや、それ自体はいつものことなのだが、今回の事態は深刻だ。エレナを始めとして、多数の有用な人材を喪ってしまった。故に使える者はなんであろうと使わねばならない。元カチナドールであるお前はその筆頭という訳だ」

「買い被りが過ぎるぜ、それ。今の俺はただの不健康なおっさんだぞ」

「はは。かつて『怪盗』の異名を取った凄腕のエージェントには、妥当な評価だと思うがな」

「やめろよ恥ずかしい」

「はは。それは謙遜か?」

「羞恥に決まってんだろ。いい歳こいて異名だの二つ名だの、そんなのを名乗ったり呼ばれたりしてんのは痛々しい間抜けだけだぜ。そういうのが許されるのは童貞のガキだけだ」

「はは。その間抜けには私も該当するのかな? まあ、安心し給え。お前の配属先そのものはそう危険なところではない」

 座席の肘掛けに頬杖を突き、オブレイは飄々ひょうひょうとした笑みを浮かべる。

「お前にはオルガン・アカデミー『風紀委員会作業班』の臨時顧問に就いて貰う。ラバン・シュリュズベリィ教授の後釜だ」

 聞き慣れた名前を耳にし、エドガーが僅かに眼をすがめる。

 彼は腫れ物に触れるように、注意深く口を開いた。

「……あの爺さん、死んだのか?」

「ああ。先日の騒動の折、自らの眼孔に指を突っ込み、脳を掻き出して自死を遂げた」

 淡々とした語り口のオブレイだが、その表情はほんの少しだけ悲壮な色を帯びている。

 ラバン・シュリュズベリィはエレナと同様、彼等が学生時代に師事した教師の名だ。

 優れたエージェントであり、若かりし頃には常にカチナドール・ココペリとして、魔物や青空教会を相手に第一線で活躍し続けた傑物である。老齢から戦線を退き教職に就いてからも敏腕をふるい、彼の下で数多くの生徒がカチナドールとして巣立っていったという実績を持つ。

 エドガーとオブレイも彼の薫陶くんとうを受けた身だ。

 親しい人間の死――慣れ親しんだ喪失感がエドガーの胸中に満ちる。その感慨にふけりながら、エドガーは深く紫煙を吸い込んだ。

「用件はそれで全部か?」

「おや。もっと喧しく文句を垂れると思ったが、随分と聞き訳が良くなったじゃないか」

 揶揄からかい交じりにけらけらと笑うオブレイ。そんな彼に対して、エドガーは大袈裟に肩を竦めて見せる。

「別に承諾はしてねぇよ。単に諦めがよくなっただけだ。……で? こんな所にまで俺を呼び出した用件はなんだ? 態々ガキの頃に作った暗号譜アルバムを持ち出して、『なるべく人目につかない手段で来い』なんて指示まで出したんだ。他人様に聞かれちゃ不味い話があるんだろ。それともあれか、猥談でもしようってのか?」

 改めて追及する。

 すると、オブレイは笑みを深くした。それは実に嫌な表情だった。

「はは。勿論、本題はここからだ。まあ、内容自体はありきたりな、ちょっとした内緒話でしかないのだがね。お前に此処まで足を運んで貰った理由は他でもない――我等が親愛なるコンピュータ様への反逆、その片棒を担いで欲しいのだよ」

 オブレイは茶目っ気たっぷりに片目を瞑り、冗談めかして唇に人差し指を当てる。けれどその瞳に宿る輝きはあくまでも真剣で、偏執的な色を孕んでいた。

 対するエドガーの反応は、無。

 答えることはせず、態度も変えず。自然体のまま、けれども注意深く周囲に視線を走らせる。そんな彼にオブレイは「心配は無用だ」と告げた。

「はは。この辺り一帯は私専用に与えられた区画でな。マニトゥの監視は一切ない」

「……どうして断言できる?」

 絶対、などというものはこの世に存在しない。何事にも例外はあるものだ。経験則でその事実を知るが故に、エドガーは慎重に問い質す。

 オブレイは泰然と構えたまま答える。

「はは。なに、単純な理屈さ。見ての通り、周囲は私が研究用に設えた共振変圧気テスラコイルで埋め尽くされている。それが発する強烈な電磁波EMPが、あらゆる電子機器を破壊してしまうのだ。故に最新式の研究用機材は一切持ち込めず、必然として撮影機や盗聴器の類も仕込めない訳さ」

 オブレイは誇張するように両腕をひらりと広げ、自分達を取り囲む物々しい機械群を指した。

 上空を行き交う電流の嵐が発する青白い稲光は、特殊な感覚器官を持たないエドガーにも視認が可能だ。そして更に先程からずっと鼻に突き刺さる臭い――これはオゾンの発生に伴う刺激臭である。共振変圧気テスラコイルが発する電流によって電気分解された空気中の酸素が、別の酸素分子と再結合しているのだ。

 今も尚発せられている電流が如何に高周波且つ高電圧なものであるか、エドガーには想像もつかない。

 機器の大きさと規模、電力量からして、確かにこの場においては大抵の対電磁波装備は役に立たないだろう。この状況下で動くのは、『スナフキン』のような、電子回路を搭載していない原始的な機械のみである。

 状況を正しく飲み込み、エドガーは吐息を零した。

「……呆れた。枢機基地ジオフロントの長が、そんな所で何やってんだよ」

「はは。無論、研究だとも。此処にあるのは全て原始的なコンピュータ――つまりは、最初期の階差解析機関ディファレンス・エンジンでな。歯車の組み合わせで計算の解を算出し、情報を記録するのだ。ここまで言えば後は解るか?」

「いや、まったく」

「はは。しようのない奴だ。

 まあ、簡単に言えばだ。この機械群は全体で一つの巨大な外部記憶装置なのだよ。

 仕組み自体はそう大したものでもない。お前も知っての通り、テキストの覚え書きから、約五千兆桁以上の円周率の計算まで。コンピュータグラフィックスを用いて高度に視覚化されたユーザインターフェイス――その全ての情報データは、0と1によって形成されるものだ。此処にある機材は、それ等を歯車で代用している――と言えば分かり易いか?」

「…………まあ、理屈は解らないでもないが……」

「はは。どうして態々そんなものを用意するのか解せない、か?

 理由はこれまた単純明快、此処の機密情報が外部に持ち出される危険を排除するためだ。何せ、この機械群に記録された情報データは私にしかようになっているからな」

 謎めいたオブレイの言い分に、エドガーは怪訝に目を細める。まるで自分が機械の一部であるかのような言い回しだ。

 碩学の頂点に君臨する男は、滔々とうとうと講義する。

「言っただろう、レトロなのは良いことだ、と。私は偉大なる一族クルーシュチャだ。持ち前の並外れた五感と共感覚性、それから脳の処理能力によって、機械が発する歯車の音――そこから読み取れる数字の組み合わせを、脳内で意味ある情報に変換することが可能なのだ。そしてその情報を基に、脳から必要な資料と数値を解凍して引き出し、計算プログラムを組み上げ、仮想の現実アプリケーションとして実行し、逐一の動作確認トライ・アンド・エラーを繰り返す。それが今の私の仕事だ」

 徹底して汎用性を排した機構。

 この世にただ一人だけの担い手の為に設計された、専用の使用性ユーザビリティ

「要約すれば。……そうだな、私の脳そのものが巨大なコンピュータの一部なのだと、そういえなくもない訳だ」

 おとがいを指先で撫でて、生身でありながら、機械に組み込まれた男が言う。

 彼の言葉はすべて正しい。

 そうであるが故にこの施設内にはディスプレイやスピーカーなどを始めとした、通常規格の機械が接続し得るあらゆるインターフェイスが存在しない。完全なる孤立機関スタンドアローン。そうであるが為に情報が外部に漏れる心配がないのだ。

「ちなみに、共振変圧気テスラコイルもほとんど防犯用に設えたといっても差し支えない。無論、その為だけにある訳ではないがな。だがまあ、そんな訳だから、この場所にマニトゥの監視はないのだ。あちらからすれば、したくとも出来ない、というのが正確な所だろうがな。―――さて、前置きが長くなってしまったな。そろそろうんざりしてきた頃だと思うが、もう少し付き合ってくれ給え」

 嫌そうに眉根を寄せる生徒を宥め、碩学は漸く本題を口にする。


「―――お前はこれまでのことで、何かと感じたことはないか?」


 その問いは、あまりに抽象的過ぎた。

 質問の意図が分からず、エドガーは当惑する。

「これまで、ってのは?」

「文字通りの意味だ。今この瞬間から、過去にまでさかのぼること二千年。その月日の間に起きた出来事の全てだ」

 理解が及ばぬままのエドガーを甚振り、追い打ちをかけるように、オブレイは言葉を重ねた。

「何故、青空の奪還を謳う青空教会が、態々ヒュペルボレオスで虐殺行為に及ぶのだと思う? 何故、それは定期的に行われる? 何故、カチナドール達はいつも、彼等の計画を事前に阻止することが叶わないのだ? 何故、完全な管理社会である筈のヒュペルボレオスで犯罪組織がのさばる? 何故、人手が足りないなどという愚かしい事態に陥る? 何故、青空教会の狗がセキュリティを越えて悠々と国に侵入できる? 何故、お前は誰にも見咎められずに此処まで来れた? 何故、監視網に穴が存在する? 何故、この国はこんなにも楽園の名に相応しからぬ場所なのだ?」


 何故、何故、何故、何故。

 繰り出される無数の疑問、繰り返される問題の提起。それ等は全く別々の事柄のようでいて、けれど一つの解答だけで納得のいく説明ができてしまう。


「結論から言おう。マニトゥには、まともに楽園を運営する気がないのだ」


 それはきっと、この国に住む者ならば誰しもが一度は考えることだ。けれど、そんなことを口にする者は誰一人として存在しない。もしもそのが真実であったなら、などと――考えるだけでも怖ろしいからだ。

 楽園で安寧を貪っている筈なのに、その仕組みそのものに欠陥があるだなんて。そんな事実を認められる人間などいはしまい。

 エドガーとてその内の一人だ。

 ヒュペルボレオスが楽園でないことを重々承知し、脳内で文句を弄びながらも、逃れることはせず。その囲いの中で、のうのうと息をしているのだから。


 しかし、オブレイ・クルーシュチャは違う。


「この地上に楽園はない。何処にもない。マニトゥが健在である限り、人類は殺処分を待つ家畜でしかないのだ。故に、我々は――、私は、尊厳ある者として反旗を翻さなければならない」


 オブレイは飄々とした笑みを崩さない。一見した限りでは表情に変化は見られない。しかしエドガーには、彼の笑みがどうしようもなく変質していることに気付いていた。

 色素の薄い黄金の眼には、見慣れた光が宿っている。狂気の孕んだ双眸をぎらぎらと輝かせながら、オブレイは楽し気に告げた。

 きっと、彼にとってはここからが本題――つまりは、偽りのない本心の吐露の開始であったに違いない。

「妹が死んだよ」

 切り口は、実に愉快気な語調で紡がれた。

 エドガーには何が愉快なのかは微塵も理解できなかったけれど。

「原因は明白だ。彼女は青空教会と通じており、先日の事件の首謀者の一人として処断され処分された。それ自体に不審な点はない。二重スパイとして働いていた彼女自身の咎だ。だが実はな――それは、のだよ」

 偏執的な狂気の滲む声で、執拗にオブレイは口走る。

「人の住む楽園としてヒュペルボレオスを運営する傍ら、マニトゥは裏でとある計画を進行させている。極稀にこの世界に発生する怪物――『混沌』と称される化け物共を捜索し、蒐集しているのだ。エレナを筆頭に、我々はその計画を成就するための手駒して運用され酷使されている。妹が――ヴュアルネが死んだのは、その計画の一環だったという訳だ」

「…………」

 反駁はんばくすることなく、エドガーはただ黙して耳を傾ける。狂人には何を言っても無意味だと熟知しているが故だった。

 現状、彼の語る情報――その正誤を考えることにはあまり意味がない。

 オブレイ・クルーシュチャという人間にとっての真実こそが、この場における絶対の現実なのだ。異を唱えること、それ自体が許されない。知らず知らずの内に、そういう場面にエドガーは首を突っ込んでしまっていた。

 今更、何も聞かなかったことにして帰ることは出来ないだろう。

 だからこそ、一つ尋ねなければならなかった。

「……復讐がしたいのか、お前は?」

 素朴な疑問を受けて、オブレイは失笑した。

。今更、そんなことをして何になるというのだ?」

 そんな彼の内心を知ってか知らずか、あるいは元から気に掛ける必要性を全く感じていないのか。オブレイは何ら訝しむ様子もなく、論を結びに掛かる。

「私はトライアドと共同でとある計画を進めていてな。端的に言えば、マニトゥをこの楽園から――延いてはこの世界そのものから排除することを目的とした企みだ。お前には臨時講師として働く傍ら、水面下で我々に協力して貰う」

 それは明らかな叛意だった。

 断れば殺されるな、とエドガーは直感した。そして面倒なことになったな、と他人事のように思った。

「……俺に何をやらせる気だ」

 エドガーが投げやりに問いかける。すると、オブレイはとても嬉しそうに嗤った。初めて見る友人の壮絶な笑みを目にし、エドガーの背筋が粟立つ。

 枢機卿と称えられた楽園最高位の碩学である筈の男は、有無を言わさぬ語調で、親友であった筈の男を容赦なく破滅の道へと引きずり込んだ。


「何、簡単な仕事だ。―――――ただの人さらいだよ」

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