第五十二話 異界創世 1

 静謐せいひつ。音もなく、ただただ伽藍めいて寂莫せきばくとして。


 しかし、それだけでなく―――


 、『

 壁、床、天井――案内板や展示物の類も例外無く。そこにあった筈の色彩が消え失せている。在るのは黒と白だけ。物質から空間に至るまで、一切合切が完全なモノクロームに塗り潰されていた。

 黒い闇。白い闇。艶を欠いた銀灰色の暗闇。

 彩度が無い。まるで古い写真の中に入り込んでしまったかのようだ。そしてその中にいるアランもまた、あらゆる色を失っていた。

 両手に嵌めた革手袋や、襟を締めるネクタイの変化は顕著だ。色素というものがごっそりと抜け落ちて、灰色に褪せている。元から色彩に乏しいシャツや上着等にすら、非常にのっぺりとした、奇妙な違和感を感じる始末だった。

 肌触り等から、物質としての構造に変化がないことは分かる。だが布らしい柔らかさは感じられない。視覚的にはむしろ紙や樹脂といった、硬質で脆く平坦な印象のものとして目に映っていた。

 ―――変化は、衣服だけではない。

 肌や眼の色まで黒白に置き換わっている。彼の特徴であった篝火を思わせる赤い瞳は、完全にその輝きを喪失していた。

(なん、だ……?)

 状況が理解出来ない。

 突発性の色覚障害に陥った可能性が頭に浮かぶが、即座に否定する。事態はもっと深刻だとアランは直感した。

 酷く寒々しい、現実感に欠けた情景を見回す。頭の回転が鈍い。身体の感覚が覚束ない。異常なまでの閉塞感で息が苦しくなる。まるで本に綴じらた文字インクにでもなった気分だった。

 呆然と立ち尽くす。

 強烈な違和感が脳に刺さる。色が無いだけではない。ある筈のものが無くなっている。だがそれがなんなのか――いまいち、判然としない。

 頭の隅に引っ掛る情報や知識がない訳ではない。それ所か極最近、今の状況に似たような話を聞いた覚えがある。だが今のアランには、それを上手くすくい上げることが出来なかった。

 ただアランは、無意識に視線を下に向ける。

 それは特に理由のない、直感的な行動だった。だが奇しくも、其処に答えはあった。……相変わらず、思い出すべき知識は記憶の泥濘ぬかるみの底に沈んだままだったが。

 違和感の正体。それは―――

(影が、ない―――)

 足元にある筈のものが消えていた。

 一度気付けば後は簡単だった。アランだけでなく、空間内の全ての物体から忽然こつぜんと影が姿を消している。

 色とはつまり、光だ。

 物質は、それぞれが決まった特定の光の波長を吸収する性質を持つ。取り込まれずに吐き出された反射光を網膜が拾い、それがその物体の色だと認識しているに過ぎない。

 光が在るからこそ色が有り、影が有る。

 至極当たり前の物理現象。誰もが知る惑星ホシ常識ルール

 だがアランを取り巻く環境は、その常識ルールに真っ向から叛逆していた。

 そもそも――もしも世界から本当に光が消えたなら、生物の眼球は機能しない。完全な闇の世界に叩き落とされる。外界を視認するなど不可能だ。しかしアランには、通常の視界とは異なるとはいえ、しっかりと周りが視えていた。

 陰影を欠いた景色は、立体視が困難で距離感が把握し辛い。この世の全てが平坦な騙し絵と化している。まるで通常の三次元空間から、数学にて仮想・定義される形而上の二次元空間へとうっかりしまったかのようにアランは錯覚した。

 錯覚――そう、錯覚だ。

 そんなことが現実に有り得る訳がない。だがその『現実に有り得ない現象』を起こす超常の異能の存在を、彼は知っている。何故ならば、彼自身がその使い手であるからだ。

 魔術。

 此処は現実であって、現実ではない。魔術によって生み出された、通常の物理法則とは異なる法則ルールによって運営されている世界。事象の地平線を超えた先に在る特異点――即ち、文字通りの異世界である。

 つまりは、空間そのものが魔術によって変生している。

 世界から影が消えたのではない。


 ―――――異界。


 まるで巨大な生物の胃の中に放り込まれてしまったかのような錯覚。

 そしてその所感は事実だ。その空間は既に何者かの掌中に在り、正しくその『何者か』の内臓そのものと合一化しているのだから。


 酷く現実感に欠けた光景。それが、更に悪化する。

 壁といわず床といわず天井といわず、その他あらゆる物品。空間内部に存在する全ての120度以下の鋭角の先端から、黒い泡のようなものがぽこぽこと湧き出したのだ。

 黒い泡は絶えず分裂と増殖を繰り返しながら、下方から上方へと昇っている。泡の一つ一つには矢印が何本かずつ生えていた。

 泡は球形、矢印は円錐と円筒を組み合わせた立体だ。だというのに奥行きというものが一切感じられない。地面に落ちる影、紙に描かれた黒塗りの図形シジルも同然だ。だがソレは紛れもなく三次元空間上に存在している物体なのだと、確と脳が認識している。

 混沌球体ケイオスフィア

 其は旧暦時代後期に提唱された、近代的魔術構想の象徴シンボル。この宇宙において人間ヒトとはあまりにも矮小で卑小なちっぽけな存在に過ぎず、故に世界には人間ヒトが妄想するような客観的真理などありはしない。だが、あらゆることは真実であり可能である――という世界観の変革パラダイムシフトを謳う神秘学オカルトの宗派だ。

 その名は魔術と記録されている。


 ―――アランの全身の肌が粟立っていた。


 強烈な既視感に眩暈がする。

 先日の、暗黒の形態を取ったベテルギウスと同様。宿敵・時計男と同じ気配が、影絵で出来たモノクロームの空間に充満している。

「―――――」

 ■さなければ。

 意思ではない、もっと根源的な衝動。産まれ持った指向性。遺伝子に刻まれた本能が、この異界の主を完膚なきまでに破壊すべきだと訴えている。全身の細胞――脳髄から産毛の末端に至るまでが、一刻も早く「■せ」と叫んでいた。

 一方で、恐怖している。

 恐れていた。怖れていた。畏れていた。

 慣れ親しんだ恐怖、畏怖の感覚。知らず知らずの内に身が竦む。何故なら、アラン・ウィックはこの異界を知っていたから。そう――。まるで実家で親の顔を見たような心地。懐かしさすら覚える、身の毛もよだつ危機感。何処にも逃げ場はないと身体に覚え込まされた愛情と信頼関係。


 黒い髪。白い肌。銀の瞳。


 脳の裏側に、克明に浮かび上がる女の貌。親であり、先生であり、児童性愛者であり、裏切り者であった彼女。だが――。そう、

 彼女は死んだ。アランが殺した。

 だからもうこの世にいない。その筈だ。しかし―――



 此処に生と死の天秤を眼前へと翳し 諸人の罪を測るる

 なれば冥界へ船出する警笛を鐘に神曲の幕よいざ上がれ



 ―――歌を、聞いた。

 それは髑髏しゃれこうべが発した笑い声に違いない。自身を殺めた者を恨み、呪い、仇を討たんとする怨念。死んでも死に切れず、この世に迷い出でた亡者の囁きだ。

(レナータ……―――?)

 違う。そんな訳がない。

 もしも化けて出たのだとすれば、それは魔女の方だ。決して、歌姫ではない。

 アランは玄関を見やる。

 透明なガラス扉は、完全な暗黒によって塗り潰されていた。空間が遮断されている。退路は無い。従って、進む以外に選択肢は無かった。



 お前の心臓は掌へ 魂は樹の枝葉に乗せ 躰は翼の上に

 両目の内 右目は焼いて潰し 盲いた左目で混沌を視よ

 虚無の書記は死者の書を携え混乱と湾曲した時間を記す

 四肢を断ち罪の重さを比べる者は降りて恐怖を解き放つ

 鏡に映るは悪疫の後宮 身形を整え三千世界を魔で没す



 声は建物の奥から聞こえてくる。

 踵を返し、アランは声の元へと向かって歩き出した。

 始めて入った建物だったが、案内板のおかげで目的地に当りを付けることが出来た。こんなに芝居掛かった演出をするのならば、舞台は一つしか考えられない。

 エントランスから伸びる通路を行き、奥へと進む。

 四角く区切られた廊下。端々から黒い混沌球体が不気味に泡立ち、天井へと消えていく。まるで水牢アクアリウムだ。閉塞感と息苦しさも相まって、光の届かない深海に囚われた要救助者ダイバーにでもなったかのような、暗澹とした気分に苛まれる。

 浮き輪もなく、酸素もなく、平衡感覚すら失って――冷たい暗黒の牢獄の底へと、ただただ沈む。

 もしも先に待ち受けるものがあるとすれば、それは『死』以外に有り得ない。


 果たして―――


 死は、女の姿をしていた。


 黒い女だった。

 長い髪は夜闇の帳のよう。頭の左側面の高い位置で結んでいる。ボリュームのあるゆったりとした艶やかな髪は地面に触れるかどうかというところまで伸びていて、先の方だけドリル状に緩くロールしていた。

 頭には黒い王冠ティアラを乗せている。

 冠に列を成して設られた黒薔薇の装飾の根本から垂れるベールが、顔の一部を覆っていた。

 身に纏っているのは喪服を思わせる、漆黒のマーメイドドレス。下肢の輪郭を浮き彫りにし、吸い込まれるように艶やかに映えるデザインと色彩に比べ、布地は分厚く絢爛に重ねられている。しかし豪奢なスカートに対して上半身は肩や胸元を大胆にも露出した、明け透けにして簡素な拵えに留まっていた。

 黒一色でありながら、しかしどれ一つとして同じ色彩と質感を持たない、多種多様な生地の海に溺れている。

 彼女がその喉から溢れさせる旋律に合わせて身振り手振りをする度に、薄いレースで彩られた豪華絢爛な袖が、大きくスリットの入ったスカートの裾がはためく。大胆に閃き、小刻みに揺れる。その様子は鳥が優雅に翼をばたかせる姿を連想させた。

 スカートの隙間から覗く、細くしなやかな足は、爪先から腿までがレース生地の飾りが施された黒いストッキングに包まれている。ガーターベルトに吊り下げられたそれは、艶めかしい足の肉感と相まって、あまりにも扇状的に美しい。

 大きく履き口の開いた厚底靴。そのハイヒールが硬い地面を叩く度に、小気味の良い音が鳴り響く。

 腰には革製のホルスターのようなものを装備している。そこにはまるで剣をくように黒い日傘が差してあり、更に本の形をした何かが厳重に縛られていた。

 貌は窺えない。根元に円筒形の吸収缶キャニスターが二つ付いたくちばしと、目に当たる部位に黒いレンズが嵌め込まれたガスマスクによって隠されている。

 死者の魂を連れ去るという、不吉の象徴――黒夜鷹ウィップアーウィル

 彼女は正しくその化身だった。あるいはその羽衣を纏った、御伽噺ウィアードテイルズに登場する魔女そのものだ。

 あたかも世界の中心で愛を叫ぶかのように、彼女は歌っている。

 会場となっているのは第八練習場の目玉である、吹き抜け構造の巨大なホール。一階から三階まで豪快にぶち抜いた空間は、なだらかな半円を描く蓋によって閉ざされている。外周には壁があるものの二階から上部分は開いており、多数の観客席が幾つもの列を成してずらりと並んでいる様子が見て取れた。

 其処が、闘技場を模して造られた舞台なのは明白だった。

 舞台――そう、これは舞台だ。

 誰もいない広間の中央で、観客に向けて主演の女が歌っている。当然、その『観客』を指す相手は一人だ。何故ならここにいるにのはあの女と、アランだけなのだから。

 この場を構成する全てが劇的だった。

 あまりにも芝居掛かっている。胡散臭いにも程があった。



 生命よこの世界を謳え 幾星霜の赤い砂漠を越えて

 生命よこの境界を謳え 無限の犬と鳥と蛸を従えて


 我は時を織りし者

 我は知を這わせし者

 我は物を産み落とす者

 我は玉座にて微睡みし者

 我は白痴にして盲目なる者

 我は形なく無にして有なる者


 我は魔王

 我は万物の王


 青き空の下 境界線を越えて母胎の玉座へと旅立つ

 夜明けの輝きを胸に灯して 泡沫の夢は空に溶けて消えるだろう



 高らかに歌い上げると、右足を斜め後方に下げ、スカートの両端を摘まんで一礼する。観客を意識した振る舞いは、やはり芝居じみていた。

 アランは無言で、舞台へと足を踏み入れる。

 一歩一歩、緩やかに女へと近付く。そして彼我の距離が十メートル程にまで狭まったのを確認して、アランは足を止めた。

 目の前の黒い女を正面から睨み付けて、口火を切る。

「誰だ、お前は」

 低く、張り詰めた声が問い質す。

 女は答えない。

 彼女は手品のように、袖の下から四角い物体を掌に落とす。合成樹脂の黒いフレームで形造られたそれは、随分と旧式のレコーダーだった。

 女が再生ボタンを押すと、中のテープが動き出す。スピーカーから音声が流れた。

『―――「私の名前は何百とあるが。君を叩きのめすには、その中のたった一つを告げてやればそれで十分だ。

 だがそれとて、言わずとも分かっただろう? もう思い出しているのだろう? 随分と悲しみや苦しみを味わわされたが――私は今、こうして、復讐の歓びに若返った貌を見せ付ける為に現れたのだからな!」』

 それは、彼の大デュマが誇る大傑作――岩窟王モンテ・クリストの一節。ありとあらゆる権謀術数を尽くして陥れた憎き怨敵に、復讐者が己の正体を明かす場面から抜粋したものだった。


 その台詞。

 その容姿。


 そして声。


 貌を隠していようと解る。眼前の黒い女は、間違い無く先生エレナだ。

 アラン・ウィックが殺した女だ。

 彼女はアランの親であり、先生であり、児童性愛加害者であり、裏切り者であった女だ。だが、それは有り得ない。何故なら、彼女は既にアランに殺されているのだから。

 死者は決して蘇らない。

 もしも生きているのなら、それは単に最初から死んでいなかっただけだ。

「誰だ、お前は」

 再び問う。一方で答えを待つばかりではなく、アランは目を細めて、目の前にいる得体の知れない黒い女を注意深く観察した。

 よくよく見てみれば――色が消え失せた世界の中で、

 真っ黒いために分かり辛いが、彼女の髪や身に纏う服の革や金具は、極自然な光沢を孕んでいる。立体を成す肉体や折り重なる布地には当然の如く影があり、蝋のように白い肌の下には明らかに血が通っているのが見て取れた。


 アランを含め、全てが影絵へと堕ちているのに対して。

 この世界で唯一人――彼女だけが、正常な人間だった。


 状況は依然として不明。だが、推測できることもある。

 まず間違いなく、あの黒い女こそがこの世界の主であり――世界を異界に変えた元凶であるということ。

 そして最初の呼び出しは、マニトゥのものだった。つまりこの場で待ち構えていた黒い女はカチナ・オルガンに属する者であると考えるのが自然だろう。どちらが主体となって始めたことなのかはようとして知れないが――そんなことは後で明らかにすればいい。

 重要なのは、目の前の巫山戯た女が敵であるという唯一点。

 彼女の姿も声も所作も、全てが挑発。

 虐意、敵意、害意――自身に向けられる悪意には、殺意で以って応えるのみ。降りかかる火の粉は全力で払い除ける。

(テープは言うに及ばず、声もマスクに変声機を仕込んでいるのなら納得はいく。問題は何がしたいのか、だ。わざわざエレナやレナータの姿を騙る……俺と彼女達の関係を知っている人間? だとすれば目的は? 俺を無力化して誘拐でもするつもりか? なら、青空教会の人間である可能性も否定できないか。マニトゥを騙くらかして俺に接近する……―――まあ、一度限りなら不可能ではないだろうが)


 何にせよ―――


「―――舐められたものだな。まあ、いい。答える気がないのなら、まずはその仮面から剝いでやる」

 右足を半歩引き、ゆるりと左腕を上げて敵に向ける。

 アラン・ウィック流の戦形。

 先生ひとから教わった、教科書通りの構え。それを前にして、黒い女はマスクの下で艶やかに嘲笑した。

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混沌の庭 瑞雨ねるね @unknown996

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