第五十一話 K.O. - Knock Out/Keep Out

 労働なんてものは糞だ。

 真面目に仕事なんてやっていたら人生が腐る。精励せいれい恪勤かっきんを尊ぶなど、時代錯誤にも程がある。『働かざる者食うべからず』などという訓戒を口にする者は皆、ことごとむごたらしく死ねばいい――など、などと。

 あまりにも文明人らしからぬ思想だが、それこそがオブレイ・クルーシュチャの嘘偽りのない本音だった。

 彼は偉大なる一族クルーシュチャの長である。

 若くして枢機卿の称号と位を得た天才碩学。永久蒸気機関クルーシュチャエンジンの更なる小型化や構造の簡易化、発電量の大幅な増加、魔導書ライブラリに関する新技術の発明、また長らく停滞していた魔術や外宇宙線COOSの謎に既存の学説とは別の角度から切り込んだ革新的内容の論文など、などと。彼が新たに生み出した数々の技術と理論は既存のソレと一線を画する卓越した素晴らしいものであり、その頭脳は人類の宝だと声高に賞賛されている。


 曰く、遺伝子学の神より森羅万象の知識を賜った存在であるとか。

 曰く、雷霆を操ったという神様と碩学の生まれ変わりであるとか。

 曰く、その正体は時空間を超越した世界に住む宇宙人であるとか。


 誰もがそんな風に彼を謳い、功績を讃える。

 間違ってはいない。オブレイ・クルーシュチャが優秀な碩学であることは、否定の余地のない事実だ。

 しかしその一方で、人々が描く彼のイメージと、実際の人柄は全く異なっている。オブレイは勤勉な働き者などではなく、むしろその逆の――労働を憎悪するサボタージュの常習犯であった。

 出来ることなら一生働かずに暮らしたい。

 叶えること自体は可能である。ヒュペルボレオスは腐っても楽園なのだ。何者であろうと、全ての国民に衣食住が無償提供されている。食料が配給されるだけでなく、金を恵まれ、人として最低限の生活を保証され保護されるのだ。

 ヒュペルボレオスの最下層には、そういった者達が住んでいる。

 楽園が生んだ現代の精神病。無気力で無能な、秩序からあぶれた欠陥品の歯車。何をするでもなく日々を死んだように生きる、三合会トライアドの枠組みにすら入ることが出来なかった、廃人も同然の共――それが彼等だ。

 現代のヒュペルボレオスの価値観において、一切の生産性を持たず自堕落に生きる彼等は蔑視され白眼視される存在である。最下層を指差して、「あんな風になってはいけないよ」と子供に言い聞かせるのが当たり前のことなのだ。

 だが――そんな彼等が、オブレイは羨ましかった。

 彼等は自らの意志で人生を決定した。目と耳を塞ぎ、口をつぐんで慎ましく生きる道を選び取った。

 余分なモノが一切無い、素晴らしい生き方だ。オブレイは心の底からそう思う。そして選択肢がある人生というのは、それだけで幸福だとも。

 偉大なる一族クルーシュチャの血統に産まれたオブレイは、およそ選択肢などというモノと無縁の人生を送って来た。

 碩学になること。

 枢機卿の地位に就くこと。

 全てが産まれた時から――あるいは、それよりももっと前から決まっていたことだった。

 敷かれたレールの上を走る以外に無い人生など、あまりにも無意味で馬鹿馬鹿しい。その閉塞感たるや、檻どころの話ではない。常に狭くて暗い箱の中に押し込められているのと同じだ。酸素は緩やかに尽きて、窒息死は免れない。

 故にオブレイは自由気儘な生活を夢見、そして労働を骨の髄から憎悪し忌み嫌っているのだ。


 ―――など、などと。


 どれほど言葉を重ねても、結局はただの物臭な男のしょうもない愚痴でしかないのだが。

(しかし、嫌なものは嫌なのだから仕方がない。何せ、嫌なのだからな)

 不遜にも、オブレイは思う。

 だが、どんなに駄々を捏ねたところで無意味なのが現実だった。

 彼にとって、労働とは職責だけを意味しない。カルティエと違い、常に『魔眼』を発現しているのだ。故に彼の生は、



 ―――喜ビヨ 美シキ神々ノ火ヨ

 ―――死後ノ 楽園ニ住マウ娘ヨ



 自ずから光を放ち、輝く黄金の瞳。そこに映るのは闇だ。

 狭い棺桶の中に密閉されているかのような。空間の奥行きすらろくに把握できない、一部の隙も無い暗黒。その真ん中で、オブレイは座している。椅子に座り、テーブルに肘を突いて指を組んでいる。

 黒一色に覆われた、完全なる闇の世界。この場所に光はない。だが自分の姿は鮮明だった。生体機能と物理現象に反し、手も足も、衣服も不都合なくくっきりと見えている。

 そして周りのモノもまた、同様に。

 空間の中心に在るのは巨大な大理石から削り出したかのような、継ぎ目のない黒い円卓。そこにオブレイは座している。そして彼以外に十一人の人物ユーザーがいた。

 彼等は、オブレイとは異なり人の姿をしていない。

 ソレは、人間大の大きさをした十一の彫像モノリスだった。像は厚みの薄い直方体で、のっぺりとした黒い表面にはカチナ・オルガンの紋章があり、その下には『02』から『12』までの数字がそれぞれに刻まれている。そして携帯端末の通話状態と同じく『SOUND ONLY』の赤い文字が並んでいた。

 闇に溶ける黒い像は、しかし光源の無い状況でもその輪郭を正確に読み取ることが出来た。

 そして円卓を取り囲む形で、黒い螺旋階段が配置されている。階段の幅は異常に広く、地の果ての更にその先まで続いているかのようだった。

 まるでコンピューターゲームで描画されるオブジェクトのようだ。そしてその印象は間違っていない。

 今現在、彼が視ているのは物理的な現実の光景ではない。彼の脳内に構築された仮想現実だ。

 脳量子性外宇宙線COOSネットワーク――通称、『円卓』。

 偉大なる一族クルーシュチャの長であるオブレイの魔眼は、カルティエのソレとは根本からが異なる。強力な共感覚性を発揮する脳細胞シナプス回路や、未来予知にも等しいレベルの非常に高い演算能力を持つ点は共通だが、彼の場合は、その上更に外宇宙線COOSを用いて構築された量子ネットワークを介し、他者の脳との通信を行える。それがオブレイの魔術だった。

 そしてカルティエは魔眼の使用に時間制限があるのに対し、オブレイにはそれがない。彼の瞳は常に黄金。常日頃から魔術の使用を可能としているのだ。

 優れた性質には違いないが、一方で欠点もある。

 オブレイは脳がある程度発達してから――物心が付いた頃に魔眼が発現している。そしてそれ以来、魔術の発動が途絶えたことはない。―――正確には。自身の意思でスイッチON/OFFを切り替えることが出来ないのだ。

 彼の脳は、片時も量子ネットワークの通信から外れることが叶わない。常に何百何千何万――どころでなく。那由多の彼方にまで及ぶ膨大な量の情報を、ずっと何十年も脳に流し込まれ続けているのだ。そしてその全てを理解・把握し、的確に処理することを迫られてきた。

 旧暦時代の和郷ミシマ文化の伝承にある、十人の主張を同時に聞いてその全てに正しく答え導いたという聖人――その奇跡を圧倒的に上回る所業である。

 ―――『考える』という生理現象そのものが労働になってしまうというのは、つまりはそういうこと。あまりにも負担が大き過ぎる。だからオブレイは労働を忌み嫌うのだ。

 魔術とは、人間如きの知性では到底足を踏み入れることの出来ない、神様カミの領域にある超常の力である。故に、基本的に人間ヒトが意のままに使えるものではない。カルティエのように使用に時間制限がある場合や、オブレイのように制御出来ない場合、ウィルバーのように発動に何らかの条件を必要とする場合――など、などと。ほんの一例であるが、様々な制約が付き纏う。

 アラン・ウィックのように、何の制限もなく扱えるケースの方が稀なのだ。

 彼は正しく、神に愛された存在なのである。

 だからこそ、その存在を危険視する者も多いのだが。


《―――あの怪物を、いつまで野放しにしておくつもりなのだ!》


 円卓に座るモノリスの内、『05』の番号を持つ像が喧しく吼える。


《アレはあまりにも危険過ぎる! 先の騒動では、サードヘルメスごとマニトゥを吹き飛ばす寸前だった! 挙句に今度は都市の建造物を幾つも破壊している! 即刻、凍結封印するべきだ!》

《卿に同意ですな。不測の事態が発生してしまってからでは遅い》

《左様。彼は我等の計画に必要不可欠な因子だ。だがその存在は、計画そのものを頓挫させかねない劇薬でもある。今日まで続く二千年の努力を無駄にする訳にはいかんのだよ》


 追従する『09』と『12』の像。

 オブレイを含む十二人の中でも、この三人は一際過激なことを口にすることが多い。外宇宙線COOS通信はマニトゥの監視も無いため、完全に言いたい放題だった。

 討論と言えば聞こえはいいが、実際は便所の落書きと大差がない。実に聞くに堪えない。しかし、耳を塞いだ所で意味などないのが悲しいところだった。


《しかしねぇ……彼にも人権はあるのだから》

《此処は法治国家だ。危険だからというだけで閉じ込めるなど、言語道断だよ。そもそも封印すればそれで安全、という訳でもあるまい。もしも青空教会ないし、他の敵性組織に奪われてみたまえ。その時こそこの国は終わりだよ》

《持ちつ持たれつで利用し合う――それが彼と付き合う上での最重要項目だからねぇ。それこそ、下手に触ると火傷しちゃうよぉ》


 反論するのは『02』、『03』、そして丁度オブレイの対面の席に座る『07』の像だ。先の三者が計画の遂行を第一とする強硬派であるのに対して、彼等は言わば穏健派である。

 他の六つの像は黙して静観している。

 オブレイもまた、口を閉ざして聞き入っている。何の実りもなく益体のない話だが、しかし気を紛らわせる分には役に立った。

 闇の中に、声が響く。

 。幾重にもなって唱和している。



 ―――私達ハ炎ニ酔イ痴レ 足ヲ踏ミ入レル

 ―――貴方ノ坐シマス聖域ヘ 至高ノ天ヘト



 致命的に音程の外れた、下手糞な歓喜の歌。

 大音量でひびれた音が、鼓膜を介さずに直接脳を揺らす。その感覚はあまりにも不快だ。まるで脳味噌の裂け目に音叉を突っ込まれて、激しく前後されているかのように錯覚してしまう程だった。

 音源は周り――『円卓』を囲む暗黒の螺旋階段に配置された、無数のモノリス像だった。

 外観は『02』から『12』の像と大差はない。薄い直方体だが、刻印された文字には酷いノイズが掛かっていて何者か判別出来ない。それが螺旋階段の表と裏とに、等間隔で並んでいる。

 上も下も無く、永遠に続く暗黒螺旋階段。ソレは正しく神話に登場する深淵であり。何百、何千と、膨大な数の群れを成した漆黒の卒塔婆達は、冥府の塔を降り昇る亡者の影に違いなかった。

 彼等はひたすらに、出鱈目に、歓喜の歌を歌い続けている。

 正気ではない。

 彼等は、正気ではないのだ。

 オブレイや十二体の像達とは異なり、外宇宙線COOSを介した量子ネットワークの接続に耐えきれず正気を失った者達。言葉を交わすための知性など必要なく、ただ計算機として脳の領域を使われているだけの生体機器の屍の山。それが彼等の正体だった。

 憐れだと、オブレイは思う。

 それ以上に煩わしい、というのが本音だが。


 討論は続く。


 強硬派は更に語気を荒げ、穏健派は気怠げに屁理屈を捏ねる。観衆は意味もなく歌い続ける。

 いつまで経っても終わらない。

 意識チャンネルが繋がっている限り、この狂った茶番劇からは絶対に逃れられない。何人たりとも例外なく、捕らわれた虜囚のように。―――たとえ、死体スタンドアローンになったとしても、自由も安寧も決して手に入らないのだ。

 彼等にも、オブレイにも。

(はは。どうせ狂っているのなら、せめて美味い茶の一杯でも振舞ってくれないものかな)

 旧暦時代――とある碩学が即興で作ったという、狂った御伽噺おとぎばなしを思い出して。オブレイは苦笑する。不思議の国に落ちた少女は狂気の世界から逃れることが出来たが、自分にはとても期待できそうにないな――と。


 ―――――コン、コン


 不意に、ニ度、

 ノックされた音だと判断し、オブレイは自らの意識をする。

 仮想現実を普段は使われない左脳の片隅へとスライドさせて、通常の物理現実に焦点を当てる。すると飾り気のないスライドドアの白い表面が視界一杯に広がった。

 次の瞬間、遠慮無しにドアが開かれる。

 現れたのは見知った顔だった。入念な手入れが施されているのだろう――九頭龍の触腕を持つ蛸の入れ墨が特徴的な、キラリと輝く禿頭。天を衝くという形容に相応しい三メートルもの巨躯と、その身を包む金色の龍の革衣。

 紛れもない有名人だ。ヒュペルボレオスにおいて、その姿を知らぬ者はいない。

 彼こそはホァン・ガウトーロン。

『路地裏と浴場とトイレでだけは絶対に遭遇したくない男』との呼び声高い、言わずと知れた三合会トライアド龍頭ビッグ・ボスである。

 彼は長穿を穿いたまま、意味もなく便座に腰掛けているサボり魔を見下ろして、呆れ気味に口を開く。

「アラ、アンタこんな処で何してんの? もしかしてマス掻いてた?」

「はは。まあ、そんなところだ」

「うっわ、ヤッダ~も~ぅ! エンガチョ~~~!」

 適当に答えると、ホァンは結んだ人差し指の橋を切り離して、くるくると指先を回す。そしてチェシャ猫を思わせる、茶目っ気たっぷりの笑みを浮かべた。

 やれやれと肩を竦め、オブレイは如何にも大儀そうに立ち上がる。

「はは。―――さて。お前が来たということは、そろそろ時間かな」

「そうよ〜ぅ。もうすぐ閣議が始まっちゃうわよぅ。だから探しに来たってワケ。ほら、アタシったら完全にアウェーでしょ? だからも〜ぅホントに心細くって!」

「はは。まあ、そうだろうな。頑張り給え、外務卿」

「アラマッ! 他人事みたいに言ってくれるわねぇ。アタシアンタの仲じゃないのよぅ」

 他愛ない言葉を交わしながら、個室から出て、ホァンの横を擦り抜けて歩く。

 向かうのは幾つかある会議場の一つ。本日、新生ヒュペルボレオス内閣府の審議会及び懇談会が行われる場所だ。

 先の青空教会のテロ事件により、ヒュペルボレオスの住民に大多数の死傷者が発生した。その中には国の要職に就いていた者も含まれており、内閣府は事実上の壊滅状態に陥っていた。

 大幅に人員を追加し、組織を再編する。早急な立て直しを迫られていた。

 ホァン・ガウトーロンが外務卿の役職に据えられたのもその一環である。

 外務卿とはその名の通り、外務省の長――旧暦時代の一部国家で用いられていた内閣制度でいう所の、外務大臣に相当する。ただし現在、この惑星ホシにはヒュペルボレオス以外の国家は存在しない。故に外務卿の主な仕事は外交ではなく、壁外環境の調査及びその管理と開発であった。

 外務卿を含む十一人の国務卿の人選は枢機卿に一任されている。しかし当然ながら、その辺の人間から適当に見繕える訳ではない。対象者は数々の国家試験を通過クリアした、心身共に清廉潔白な政治家にのみ限られる。その点を鑑みれば、ホァンが外務卿に任命されている現状は、あらゆる意味で有り得ないと言わざるを得なかった。

「―――はは。つくづく、私も悪巧みが上手くなってしまったものだ」

 自嘲気味にひとりごちる。

 隣を歩く共犯者は、何のことだかさっぱり分からない、という顔をして惚けた。

 二人は廊下を歩く。歩く。歩く。

 今こうしている最中でも、オブレイの脳は外宇宙線COOS通信によって『円卓』の騒音と狂った景観を受信し続けている。可能な限り気にならないように脳の領域を整理してはいるが、負荷を軽減することは出来ないのが実情だった。

「―――それでぇ、話は変わるんだけどぉ」

 ホァンがにわかに水を向ける。どうやら本題に入るようだ。

「ダラダラ御託を並べるのはだから端的に訊くんだけどさぁ〜あ――例のあの子。アラン・ウィックちゃん。あの子って大丈夫なの? 放って置いたら危ないんじゃないかしら。色々と」

「はは」

 思わず乾いた笑いが突いて出る。その手の話は既に散々聞き飽きていて、かなり食傷気味なオブレイだった。

 恐らく、この後の閣議でも必ず槍玉に挙げられるだろう。

 鬱蒼と気分が沈む。うんざりするが、避けては通れない道だ。ならば今の内にに考えを纏めておこう、とオブレイは少しばかり心持ちを前向きにしてから思索の海に潜る。


 アラン・ウィックについて。


 内向的で理屈屋。神経質。几帳面。潔癖性。

 義理堅く、執念深い。非常に素直な性格で、好意には好意を、悪意には悪意を返す。感情に任せて突っ走る印象が強いが冷静な自己分析を行えており、人の言うことにはしっかりと耳を傾けて状況に合わせた判断を下せる。

 一方で教育レベルは低く、知識に偏りがある。他者へ暴力を振るうことに抵抗はあるが、必要とあれば逡巡しゅんじゅんせず実行する。

 排他的な性質に反して孤独を嫌う。

 無頓着さとは裏腹な過度な執着心。

 過去に起因する、肥大化した破滅願望を抱えている。日頃から行っている過剰なトレーニングは無自覚な自傷行為であり、『今』ではなく『昔』の自己を否定する、やや変則的な変身願望の露われか。また妹を庇護しなければならないという強迫観念から、身近な大人であったエレナ・S・アルジェントの人格を無意識に模倣トレースしている。

 総じて、重度のPTSD及び、解離性人格障害の疑い。また心神喪失に伴う徘徊癖を確認済み。


 彼は激情と理性を兼ね備えた、兵士や諜報員としてこれ以上ないくらいに優れた資質を持っている。その点は間違いない。だがそれは――裏を返せば、日常生活においては紛うことなき異常者であるという事実に他ならない。

 だがこれらの見立ては、あくまでもオブレイの勝手な推測に過ぎない。少なくとも書類上においては、彼はヒュペルボレオス入国審査やカチナドール適正検査等のあらゆる精神鑑定を全て通過パスした、何ら問題のない歴とした健常者だからだ。

 大したものだと、オブレイは思う。

 当然、オブレイはアラン・ウィックの精神鑑定の結果を知っている。そこにマニトゥのが介在していないのも確認済みだった。彼は未熟な子供で完全な異常者だが、一方で国家直属の審査を見事に騙しおおせている。その精神強度は類稀なものだ。ある意味で称賛に値する程に。

 故に、オブレイは断言する。

「はは。―――何も、問題は、ない」

「ほんとぉ?」

 如何にも訝し気な表情をするホァン。彼には眉が無く、目元もサングラスで完全に覆い隠している。普通なら表情を読み取るのは難しいだろうが、ホァンは顔の筋肉を巧みに動かして百面相するため、意思の疎通は容易だった。

「問題ないって言う割に、アンタ、この前はエドガーちゃんに釘刺してたじゃない?」

「はは。アレは『円卓』の御老人達が煩くて、仕方がなく、な。私個人はアラン・ウィックが脅威になるなどとは微塵みじんも考えていないのだよ。緩んだたがを締め直す役割ならば、だけで十分だしな」

「ふぅ~ん……随分とあの子の肩を持つじゃない? 別に付き合いが長いとか、そういうんじゃない癖にさぁ。ちょっとキショいわよ? 一体全体、何でそんな自信満々に言えるのかしら~?」

 呆れ半分、茶化し半分といった語調でホァンが尋ねる。

 答えるオブレイは、かんらかんらと笑っていた。

「はは。なんだ、そんなことか。実に初歩的なことだ、よ。何故なら――彼は私と同じ、一人の『最愛の妹』を持つ兄なのだから。彼のことならば、私はなんだって解るとも」

「…………」

 オブレイが、あまりにも自信満々に言ったからだろう。酷く微妙な面持ちで閉口する他ないホァンだった。

 次はオブレイが訊く番だ。

 無機質な造りの長い廊下を歩きながら、口を開く。

「はは。それで? 何故、今になって態々わざわざそんなことを訊く?」

「ん〜……なんてうかぁ、ちょっと訳有りでね〜ん。アタシはぁ、あの子にはそこまで興味ないんだけどぉ、前に知り合って仲良くなった子がねぇ、あの兄妹の事をやけに気にするからぁ。何だかこっちまで気になっちゃってぇ!」

「はは。なるほど、あの御婦人か。それならば無理もない」

 合点がいった、とばかりにオブレイは頷く。

「―――アラン・ウィックは『混沌』の化身、その一柱。憤怒を司る、神様カミが零した感情ピースの欠片。我々の計画に必要不可欠な存在。そしてクルーシュチャ方程式を埋める大切な数値の一つだ。心配せずとも丁重に扱うと、伝えてやるといいだろう」

「お気遣いどぉ〜ぅも~」

「はは。……気遣いなどしていないさ。私とお前の仲なのだ、元よりそんなものは不要だろう。我等はなのだから。なあ、ホァン」

 口角を歪め、肩を竦めて笑い掛ける。

 仏像の如き薄っぺらい笑みに対し、ホァンは魔羅の悪食龍さながらに牙を剝き出しにして唇を歪めた。

「やぁだ、だぁめ。それならちゃんと本名で呼んで頂戴?」

 ホァン・ガウトーロン――正確には黄九頭龍ホァンガウトーロン。それは三合会トライアドの首領が代々受け継いできた名であって、彼という個人を指すものではない。そして彼の本名を知っているのは極々限られた者だけだった。


 それは、例えば―――


 現代の枢機卿であるとか。

 楽園の管理者であるとか。

 そしてヒュペルボレオス建国の立役者である三人の内の二人――チャールズ・バベッジ・クルーシュチャと、エレナ・サスピリオルム・アルジェントであるとか。

 遥か昔――旧暦時代よりも更に前の、遠い遠い昔。

 まだ古の神々や超常の怪物達がこの惑星ホシを統べていた頃。『王』として崇められ、讃えられていた者がいた。その名前は地上のあらゆる有機生命体の発声器官で発音できるものではなく、また最も進化し発達した人間の脳の言語野であろうとも、正確に認識することは不可能だった。

 だがしかし、無理やりにでもその名を人の声帯で呼ぶのであれば。

 

「はは。心得ました。―――克天董クァ・ティェンドン猊下」


 足を止め、恭しく頭を下げる。

 黄金の龍は、満足気に嗤った。


 ……二人の関係性を、正確に言葉で表すのは難しい。

 世間一般においては悪漢とその被害者。『最愛の妹』を手籠めにした者と、された者だ。だからカルティエ・クルーシュチャ・ガウトーロンが産まれた。にも拘わらず、二人の関係は、傍目には良好であるように見える。だが何か含む所があるのも間違いないし、一方で剣呑とも悪巫山戯ともつかない微妙な距離感を醸すことさえある。

 奇妙な関係性。

 それは例えるなら、まるで――人間と怪物が、対等に肩を並べて歩いているかのようだった。


 * * *


「さあ――始まります、本日のメインイベント! どちらかが泣いて許しを請うまで続く、ルール無用のデスマッチ! 対戦カードはいじめられっ子チャレンジャーいじめっ子チャンピオン! オトコ達のイジとかコケンとかを賭けた戦いの火蓋が! 今! この場所で! 切って落とされるー! イエーイ! ドンドンパフパフー!」


 いつもの体育館。

 悪ノリ全開で張り上げたシャーロットの声が、大きく響き渡る。

 然もマイクを握っている風なパフォーマンスだが、その手にあるのはただの木槌だ。当然、拡声の効果はない。それでも勝手に司会者の役を買って出た少女は、高らかに口上を謳い上げた。

「青コーナー! いじめられっ子チャレンジャー、アブドゥル・アルハザード・ジュニア! ―――ではジュニア選手、試合にかける意気込みをどうぞ!」

「えっ? ……ええと、がんばります……っ!」

 木槌マイクを向けられたジュニアは最初こそシャーロットの奇行に面食らっていたが、直ぐに気持ちを持ち直した。彼はふんすと鼻息荒く、胸の前でぐっと両の拳を握って見せる。

 意気込みはばっちりだ。


 ―――ジュニアがアランとトレーニングを始めてから、一週間が経過していた。


 この茶番は、その集大成を試される場である。

 此処に集っているのは、やはりいつものメンバー。アラン、ジュニア、カルティエ、シャーロットの四人。そしてもう一人、追加で招かれた者がいる。シャーロットの司会進行は正真正銘――完全な茶番アドリブだが、対戦カードだけは予め決められたものだった。

「それではお待ちかね! チャンピオンの入場です!」

 木槌と対になるゴングを持った左手。それを大仰に広げて、対戦相手を指し示す。

 入場もなにも、彼は最初からそこに立っていた。しかし類が友を呼んだと言うべきか。彼はわざとらしく両腕を掲げて、王者の如き佇まいを演出しつつ、のしのしとジュニアの目の前へと歩み出る。

 灰色の少年。

 二メートルもある長身痩躯。真っ白い色の抜けた髪を、黒いバンダナで逆立てた姿。

 整った顔立ちを悪意で歪ませた、不遜ふそんな笑み。

 紫色の瞳をいやらしく細め、嘲笑と侮蔑の感情を隠しもせずにジュニアを見下ろす男。

「赤コーナー! いじめっ子チャンピオン! ウィルバー・ウェイトリィ!」

「―――――ウィィィイイイイイイッ!」

 人差し指と小指を立てた右手で天を突き、ウィルバーは雄叫びを上げた。

 土俵を模したマットの上で相対する二人。共にダーレスの取り巻き。しかしいじめっ子といじめられっ子という、確たる格差カーストが存在する間柄。まさに因縁の対決であるといえるだろう。

「ではチャンピオン! 試合にかける意気込みをどうぞ!」

「ファックしてやるぜベイビー!」

 舌を出し、下品なハンドサインを見せ付けるウィルバー。しかしその手の罵倒はアランに散々されていたこともあって、ジュニアは怯まなかった。後退ることなく、しかし少しだけ震えながら、それでも毅然きぜんとウィルバーを睨みつけている。

「さてさて、司会・進行と実況を務めさせていただくのは私、シャーロット・ウィックです。よろしくお願いします! そして解説はこの方! 天才碩学のカルティエ・クルーシュチャ・ガウトーロンさんでーす!」

「ええっ!? 私ですか!? すみません、私は格闘技にはあまり詳しくなくて……。―――アラン君。代わってくれませんか」

「いや、そもそも茶番に付き合わなくていいよ」

 敢え無く斬って捨てると、シャーロットとウィルバーから盛大なブーイングが飛ばされた。しかしアランは全く気にした様子を見せず、その一切を無表情で黙殺する。

 アランとカルティエは壁際に立ち、観客として事の行く末を観察していた。

 事の行く末――即ち、勝負の結果。

 そんなものは明らかだ。考えるまでもない。

 彼等の身長差は六十センチ程もある。それに詳細は不明だが、ウィルバーは格闘技の経験があるようだった。ジュニアも訓練を積みはしたが、その期間は僅か一週間程度。付け焼き刃でしかなく、それにしてもあまりに頼りない。まず間違いなく、万に一つも勝ちの目はないだろう。

「あの……アラン君、大丈夫なんですか?」

 コソコソと、声を潜めてカルティエが耳打ちする。

 明言されなくとも、何が言いたいのかは手に取るように分かった。

「ああ。大丈夫だ。……たぶん」

「た、たぶん……?」

「秘策があるからな。まあ、なんとかなるだろう。……きっと」

「きっと……?」

 あまりにも胡乱うろんな返答を受けて、不安の色をより濃くするカルティエ。そんな彼女を宥める意味も含めて、「まあ聞け」と言葉を続ける。

「俺もちょっと早いとは思ってる。だけど当人の希望なんだから仕方ないだろう。……さて、これはジュニアにもやった問い掛けなんだが。こと白兵戦闘における最適解――有り体に言って、一番強いのはなんだと思う?」

「えっ? うーん……」

 視線を彷徨さまよわせ、悩まし気に首を捻る。

 会話の流れからして、アランはその『一番強い最適解』とやらをジュニアに授けたのだと思われる。だが格闘技の知識も経験もないカルティエには、それが何なのか皆目見当も付かなかった。

「…………筋肉、ですかねぇ……? 力こそパワー、みたいな……?」

「正解――と言いたい所だが、残念ながら外れだ」

 言いながら視界の端で様子を窺うと、ジュニアとウィルバーが所定の位置に着いていた。

 二人から離れ、アランとカルティエの許へやって来るシャーロット。彼女がゴングを打ち鳴らせば、試合開始である。

 アランは、淡々と語る。

「俺が言うのもなんだが……徒手空拳なんて論外だ。そんなのは、追い詰められた時の最終手段でしかない。少なくとも、一般論においてはな。―――ならば、一番優れているのは何か。剣か。槍か。棒か。杖か。候補は幾つもあるが、答えは一つだ。それは―――――」

 彼にしては珍しい、勿体振るような言い回し。あるいは歯切れが悪いとも取れる。しかし、結論を口にするのももう間もなくだ。

 そして実にベストなタイミングで、シャーロットが木槌を振り下ろす。


「レディ! GO―――ッ!」


「――――――銃、だ」


 鐘が鳴り響くのと同時に、火薬の炸裂音が大気を焼いた。

 この場において、状況を完璧に理解できている者は少数派だ。恐らくはジュニアとアランの二人のみ。だが何が起こったのかに関しては一目瞭然だった。


 ジュニアが、銃を撃ったのだ。


「…………ッッッ! てめ……ッ! 流石に、は反則だろ……ッ!」

 両手で股間を押さえ、ウィルバーは内股の体勢でその場にうずくまった。

「……おお? おお。……おお! おおぉーっと! ウィルバーさんのウィルバーさんがストライィ―――ク! バッターアウト! こーれーはー痛い! チャンピオン、立てません! 苦悶の形相でダウンだァ―――――ッ!」

 あまりにもあんまりな事態に絶句していたが、程なくしてシャーロットが我に返る。彼女は相変わらず木槌をマイクに見立てて、大仰なパフォーマンスを続けた。

 ジュニアが使用したのは12ゲージのソードオフ・ショットガンである。

 拳銃に近いシルエットをしており、同種の銃と比べて非常にコンパクトな造りをしている。上着の裏に隠しておける程に。また鉄と合成樹脂が多用された外観と相まって、玩具のような印象が強い。―――しかし侮ることなかれ。彼の散弾銃が腹に蓄えた12ゲージの実包が有する破壊力は絶大だ。そもそも、本来であれば鹿などの中型動物を狩猟する為に設計された殺傷兵器である。直径8.4mmの鉄球を、大口径故の絶大な爆発力で以って一度に九個もばら撒く銃撃を受けて無事でいられる生物など存在しない。

 そんなものが人間に当たれば、どうなるか―――

 今回、ジュニアが使用したショットシェルの中身は鉄球ではなくゴム玉だった。低致死性の制圧兵器であるが、当然ながら当たり所が悪ければ死に至る代物だ。

 ショットガンは絶大な威力を誇る一方で、射撃時の反動が大きく扱い難い。特にジュニアのような小柄な少年が使用するには全く向かない銃だ。しかしジュニアは射撃の瞬間からその後まで微動だにしていない。何故かといえば――それこそが特訓の成果である。

 銃を抜いて構えるまでに要した時間は一秒を下回る。

 上着の下に隠したホルスターから抜き放ち、発条バネ仕掛けのL字型銃床ストックを展開。銃床ストックを折り畳んだ右腕の肘に挟み込み、銃を胸の前で引き付けるようにして構え、銃身を左肘の内側に固定する。そうすることで銃撃の反動を極限まで抑え、更にポンプアクションによる迅速な次弾の装填を可能としたのだった。

「……アラン君?」

 ギギギ、と関節が錆びた人形のような動きで、カルティエは隣の少年を見やった。

 アランは目を逸らした。

 顔を背けたまま、彼は半ばまくし立てる勢いで、一度は蹴った解説の役を自ら買って出る。

「―――銃といえば遠距離武器の印象が強いが、実際の所は全くの誤解だ。例えば拳銃だが。あれは標的との距離が二メートル離れた位置にある場合、その命中率は実に三十八パーセント程度しかない。そして七メートル離れれば十八パーセント。十三メートル以上離れた相手なら、その命中率は僅か十パーセントを下回る。しっかりと訓練を積んだ警官や軍人がこの有り様だ。だから素人が撃つ銃なんて、それこそ接射でなければまず当たらない。しかしその一方で、近距離で銃を扱うのはあまりにもリスクが大きい。敵の手が届く範囲である以上、照準を定めるのは容易ではないし、それどころか銃を奪われてしまう可能性が高いからだ。だがそういった状況でこそ真価を発揮するテクニックがある。それがC.A.R.システムだ。C.A.R.システムとは銃による近接戦闘を前提として編み出された技法であり―――」

「すごい! お兄ちゃんが見たことないくらい流暢に喋ってる!」

「アラン君!? 長文で捲し立てても誤魔化せませんよ!? アラン君!?」

「―――従来の構えに比べて武器の保持力と機動性を最大限に高め、そして素早く照準を定めることを可能とした。これは拳銃だけでなく、ライフルやショットガンなどの大物にも応用できる。取り回しに要するのは人間一人分ほどの最低限のスペースだけで、あまつさえ片手での射撃すら可能だ。その有効性は極めて高く、旧暦時代から現代まで、長く軍隊で訓練が行われ続けている。しかし最初から評価されていた訳ではなく、提唱されて直ぐの頃は珍妙な構えを鼻で笑われることもあったそうだ。しかし、とある映画が公開されてから評価が一変した。主人公がC.A.R.システムを用いて敵を千切っては投げ千切っては投げる姿が瞬く間に評判になった。そしてその効力が認められ、先程述べた通り軍隊の正式な射撃方として採用されただけでなく、後年には多数の娯楽作品でもその雄姿を遺憾なく発揮している。だが更に技を極めた者のみが到達できる『高み』がある。人類史に残る多くの銃撃戦を分析した結果編み出された技術により、優れた射手は敵対者達が幾何学的な配置であるならばその動きを予見できる。技の習得で攻撃能力は百二十パーセント向上。たとえその半分程度の向上でも技の習得者は敵にとって脅威の存在として―――」

「待ってくださいアラン君! 最後は完全にサイエンスでフィクションなガンアクション映画のお話になっちゃってます! アラン君ストップ! ストーップ!」

 肩を掴んで振り向かせ、がくがくと揺さ振る。

 流石に観念したのか、アランは渋々とカルティエに向き直った。しかしその表情は悪戯を咎められた子供のようで、決まり悪そうに唇を尖らせている。

「……仕方がないじゃないか。拳にしろ刃物にしろ、素人が格闘技を一朝一夕で身につける方法なんてないんだから。一握りの才能ある人間が、何十年と途轍もない時間を掛けて学ぶのが武術だ。だが銃ならそんな手間は要らない。極短期間の訓練で様になる。女子供でも簡単に兵士になれる。それが銃だ。だから教えた。何の問題がある?」

「いや、問題は明らかでしょう! 完全にジュニア君は急所を狙っていたじゃないですか! 幾らゴム弾でもは死にます! 男性はおろか女性でも死にます!」

 事実である。

 男性の股間が急所である点は語るまでもない。睾丸という内臓をぶら下げているのだ。衝撃を加えられ、破裂すれば死に至る。そして睾丸がない女性の場合でも股間は急所だ。股間から内腿には太い血管が通っているため、それが破れれば当然命に関わる。

 アランは再び目を逸らした。

「……に関しては、俺もどうかと思っている。『正中線上は人体の急所だから狙え』と教えたが、まさかよりによってあんな……少なくとも、『』の発想ではないな。多少、彼の認識を改めておく必要があるか。―――……あっ」

 もぞもぞ、と芋虫のようなモノが視界の端で動いていた。ソレを目撃したのはアラン、カルティエ、シャーロットの三人だけで、ジュニアは気付いていない。

 ジュニアは薄っすらと硝煙が立ち昇る銃口を、ぼんやりと眺め続けていた。しかし一転して、喜色満面の様相で飛び上がる。

「すごい……すごい、すごい! こんなにあっさりウィルバーを倒せるなんて! 簡単ッ! 簡単ッッッ! やりました! おれ、やりましたよアラン教官―――」

「―――隙ありィ! 油断してんじゃねぇぞゴルァア!」

「はえっ!? うわぁぁあああああああああああああ!」

 伏していたウィルバーが、蛙の如きダイナミックな跳躍で襲い掛かる。

 ジュニアの右手首を掴んで捻り上げ、上半身を抑え込む。痛みに溜まらず銃を取り落とすと、ウィルバーは足で蹴って遠くへと飛ばした。

 それから間髪入れず地面を蹴って両足をそれぞれジュニアの右肩と右脇に差し込んで絡め、全体重を掛けて押し倒す。そして足で上半身を拘束した上で掴んだ右手が上向きになるように捻り、胸の上で関節を極めて固定した。

 見事に腕挫逆十字固が決まった。

「いだだだだだだ! ア、アラン教官―――ッ!」

「残心を怠った君の落ち度だ。そのまま大人しく痛い目にあっていろ」

「そんなぁ! うぎゃあああああああああああ!」

 悲鳴を上げて助けを求めるジュニア。そんな彼の懇願を、アランはにべも無く切って捨てた。

「ふははは! なんでもありのルールが仇になったな! このまま腕の関節を増やしてやるぜー! 泣いて許しを請えコノヤロー!」

 みしみしと関節が軋み、肘と肩に想像を絶する痛みが走る。ジュニアは苦悶の形相で呻いているが、しかし決して降参しなかった。

「……ッ!」

 懸命に首を伸ばして、襟の内側に仕込まれた輪状の金具を咥える。そして、全力で引いた。

 金具のワイヤーが伸びる。

 カチリ、と何かが外れる音がする。その次の瞬間――ジュニアが爆発した。

「ほぎゃぁぁあああ!?」

 完全に予想外だったのだろう、ウィルバーが悲鳴を上げる。再び股間にダメージを受け、悶絶して地面をのたうち回っていた。

 当然、ジュニアも無傷ではない。

 上着はボロボロに破け、熱を持った灰色の煙が立ち昇っている。

 銃撃を回避され組み付かれた場合の備えとして、ジュニアは炸薬を仕込んだ耐火素材のベストを上着の下に装備していた。威力はちょっとした花火程度の代物だが、意表を突き隙を作るには十分である。

 無論、密着した状態で使用する都合上、ウィルバーほどではないにしても、使用者であるジュニアもダメージを受ける。爆発の熱と衝撃の痛みによってジュニアは目尻に涙を溜め、懸命に食い縛った歯の隙間からも呻き声が零れた。

 だがそれでも尚、ジュニアは止まらない。

 半ば転がる形ではあったものの、彼は迅速に移動して銃に飛び付く。そして再び肘に銃床ストックを挟み込んで構えると、銃口をウィルバーに向けた。

 一方でウィルバーも間抜けではない。既に体勢を立て直して、中腰の姿勢で油断無くジュニアを見据えている。視線と指先の動き、射撃時の反動に備える体幹などを注意深く、つぶさに観察していた。

「―――――」

「―――――」

 ジリジリと死角に回ろうと微動するウィルバー。そうはさせまいと、ジュニアは互いの立ち位置を気にしつつ照星越しに対手を睨み据える。

 試合は、完全な膠着状態の様相を呈していた。

「両者、真剣な表情で睨み合っております! 勝負は拮抗しているように見えますが……―――如何でしょうか、解説のカルティエさん!」

「え……そうですね……。一見すると銃を持っているジュニア君の方が有利に見えますが、彼は既に持ち得る手札のほとんどを切ってしまった状態ですからね。銃床を用いての格闘術もありますが、練度の差もあり、相手のウィルバー君には恐らく通用しないでしょう。もしももう一度ウィルバー君の接近を許してしまえば、その時に勝負は決まるでしょうね」

 何処からか取り出した眼鏡を装着し、先程とは一変してノリノリで答えるカルティエ。

 その時、ピンポンパンポーン、と間の抜けたチャイムが鳴った。

『―――迷子のお知らせです。工学部一年生のアラン・ウィック君。保護者の方がお待ちです。至急、軍事教練棟の第八練習場に来て下さい。繰り返します。工学部一年生のアラン・ウィック君。至急、軍事教練棟の第八練習場に来て下さい』

 マニトゥ固有の合成音声が、カチナ・オルガン中に響き渡る。

 ふざけた放送を聞かされた当の本人は、眉間に皺を寄せて物凄く嫌そうな顔をした。

「―――はあ?」

「ぶっははっ! 迷子! 迷子だってよウケる! 迷子の迷子のちゃん〜アナタのお家はどこデスカ〜♪ ぶはははははははは――痛ァい!?」

 失笑し、腹を抱えて笑い始めたウィルバーを、ジュニアが無言で撃ち抜いた。

 サムズアップでジュニアを労ってから、アランは自身の携帯端末を取り出す。そして専用の直通回線を使ってマニトゥに架電するが、しかしコール音が虚しく響くばかりで全く繋がる気配がない。既に通話中という訳ではないし、もちろん回線に不備が生じた訳でもない。間違いなく無視を決め込まれていた。

 埒が明かないと判断し、アランは電話を切った。

 携帯端末をポケットに仕舞いつつ、傍らのカルティエとシャーロットに声を掛ける。

「……よく分からないが、急用が出来た。すまないがこの場は任せる」

「えっ? 止めなくていいんですか? 勝負は一旦お預けとかで……」

 ジュニアとウィルバーを一顧だにせず歩き出したアランに、思わずカルティエが尋ねる。

「別にそれでも構わないんだけどね。でも今中断すると、不完全燃焼になるだろう。勝つにしろ負けるにしろ、今のジュニアに必要なのは『勝負を挑んで、最後まで戦った』という事実だから。……まあ、付き合わされるウィルバーは気の毒だと思うがね」

 言うと、アランは踵を返して、今度こそ止まることなく体育館の外へ向かう。

「だが身体を壊してしまったら元も子もないからな。変に拗れそうなら止めてやってくれ。その辺りの判断は君達に任せるよ。―――それじゃあ」

 ひらりと手を振って、アランは体育館を後にした。

 第八練習場へ向かう。

 そう離れた場所にある施設ではない。徒歩で十分も掛からないだろう。

 整備された歩道を行く。途中で巡回する警備犬とすれ違った。彼等はアランに気付くと、道路の端に移動して伏せる。そしてアランが通り過ぎるまで動かない。その様は、まるで権力者と道端で遭遇した平民のようだった。

 犬達は誰にでもこんな振る舞いをする訳ではない。何故かアランにだけ平伏する。

 犬に視線の一つもくれず、アランは道路を行く。


 程なくして、目的地に到着した。


 一般の教棟と融合する形で佇む、緩やかな半円を描く屋根の大型のドーム。真上から見れば数字の『6』に近い形をしているように見えるだろう。真っ白い建物の外壁に沿って等間隔に花壇が用意され、そこに枝葉の形を丸く整えられた樹が幾つも植えられている。

 表にある観音開きの入り口は、解放されていた。

「…………」

 何か――言語化できない嫌な予感が、アランの背筋を駆け抜けた。

(此処に何かある……? そもそもマニトゥはどうして俺を呼び出した?)

 放送の中にあった、保護者というワードが特に気に掛かる。

 書類上、今のアランの保護者はエドガーだ。だが彼にとって、親と呼べる存在は後にも先にも一人しかいない。


 黒い髪。白い肌。銀の瞳。


 脳の裏側に、克明に浮かび上がる女の貌。親であり、先生であり、児童性愛者であり、裏切り者であった彼女。

 だが、彼女と逢うことはもう二度とない。

 エレナは死んだ。アランが殺した。

 だから彼女はもうこの世にいない。

「……くだらない」

 嫌そうに眉を寄せ、アランは吐き捨てた。

 死者のことをいつまでも引き摺るべきではない。不健全だ。頭を振って、益体のない思考を払い落とす。そうして気持ちを入れ替えてから、アランは扉を潜り、ドームの中に足を踏み入れた。

 エントランスはちょっとしたホールになっており、何種類かの軍事道具がガラスケースに入れて展示されている。床は一面タイル張りで、淡い橙色が網膜に映る。白い壁には経年劣化による汚れと罅割れが目立ち、天井には虫が這ったような見た目の黒いトラバーチン模様が入っていた。

 奥の壁には、施設内の構造を描いた巨大な案内板が掲げられている。

 今も使われている施設だ。しかし、人の気配がない。カリキュラムの都合か、今は全くの無人であるようだった。

(第八練習場に来いとのことだったが、誰もいないな。……なんだ? この胸騒ぎは?)

 思考を巡らせながら、エントランスを散策する。

 胸の辺りが気持ち悪かった。言いようのない不快感に襲われ、思わずアランは胸元をむしる。知らず知らずの内に、表情も険しくなっていた。

 ドームに入る直前に感じた嫌な予感が、倍々算で膨れ上がっている。


 それが最高潮に達した瞬間――アランは、



 星辰揃焉ほしをそろえる

 闇宙貶竄そらをおとしむ

 神痴顕讃かみをあらわす



 観音開きのドアが、ひとりでに動く。ぶつかるようにして勢いよく閉まり、鍵の掛かる音が無人のエントランスに響き渡った。

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