第六話 なくなったもの

 大小様々な数種の弦楽器が、美しい旋律を奏でている。

 円やかな音色は耳に優しく、しかし激しい曲調は実に情熱的だ。相乗する高音と低音は聞く者の気分を高揚させ、時折掻き鳴らされる甲高い撥弦奏ピッツィカートが上手い具合に精神を逆撫でる。奏者全員の息が合った、完璧な演奏だった。

 けれどその調べですら、今この場においては舞台を盛り上げるための引き立て役でしかない。何故なら観客達の視線は、全て一人の少女に注がれているからだ。

 十代前半の可憐な少女が、音律に合わせて踊っている。

 少女が着ているのは星暦紀元前時代の民族衣装――ディアンドルにアレンジを加え、ゴシック調のドレスに仕上げたものだ。大胆にも肩と胸元を剥き出しにしたブラウスと、紅い紐で縛り上げられた黒いボディスが、薄らと赤く上気した少女の肢体を艶めかしく演出している。しかし上体の派手な露出とは裏腹に、彼女の足は丈の長いスカートによって一部の隙もなく覆い隠されていた。

 だがその堅牢な城砦も、お転婆な主の前では自慢の防壁を明け透けにせざるを得ないらしい。少女が激しい楽曲に合わせて派手に舞う度、容易くすそひるがえり、その隙間から陶器の如く輝く白磁の肌が晒された。

 黒と紅の、薔薇の花弁のようにふんわりと広がる布とレースの分厚い層が、優美な円を描く。街灯に照らし出された影は幻想的で、幾度も膝を挙げ激しく腰を捻る様は、あまりにも魅惑的だった。

 やがて舞台は最高潮を向かえ、終盤へ差し掛かる。曲調はより激しくなり、少女の舞踏もより熱烈になる。固い爪先と踵が、軽快な音色を添えた。


「―――――」


 少女は動きを止め、高々と手を掲げた。その瞬間、奏者達もまた静止する。弦に残る振動の余韻だけが、重苦しく場を支配した。

 だがそれも一瞬。静寂は弾けるような歓声によって吹き飛ばされた。観客達の賞賛と拍手――万来の喝采が、少女と奏者達を讃える。彼女は荒い息を整える間すら惜しいというように、真っ赤な顔で両腕を振ってそれ等に応えた。


 ―――特に、隅の方で控え目に拍手するアラン・ウィックに熱烈なラブコールを送っている。


「お兄ちゃぁぁぁぁあああああああん!」

 半ば絶叫しつつ、狂喜する犬の尻尾の如く千切れんばかりに腕を振るシャーロット。そんな彼女とは対照に、アランは何もかもを諦めた表情で、周囲からの野次を粛々しゅくしゅくと受け入れていた。

 流石に調子に乗ったシャーロットが投げキッスをし始めると露骨に顔をしかめはしたが、しかし制止はせず見守るだけに留めている。

(―――あの状況から、どうしてこうなったんだ?)

 それはシャーロットの無邪気さと奔放さの根源を解き明かさない限り、永遠に解けない謎なのであった。


 シャーロットは、アランとエーリッヒの会話を全て聞いていたのだという。


 どうやら店の天井は想像以上に薄かったようで、彼等の会話は全て二階に筒抜けだったらしい。その結果行き付いてしまったのがこの乱痴気騒ぎだ。

の夢を叶えよう! ついでにカンコドリも鳴かせよう!」というのが、事の発端であるシャーロットの言い分である。

 十中八九、彼女が『エーリッヒの孫娘は何かに遭ってしまった』と考えているであろうことは明白だった。だがアランを含めて誰もその勘違いを訂正しようとはせず、それどころか、件の孫娘を含めた洋裁店員達もが楽器を引っ張り出してノリノリで準備を始めるという、筆舌に尽くし難い状況に陥ったのである。

 しかしある意味で最も性質の悪い冗談としか思えないのは、片手にヴィオラを下げたままアランの元に歩み寄る老年男性の存在だろう。

「よう」

 老人は手を掲げて、驚くほど軽薄に声を掛けた。

 身に纏う洒脱なタキシードと柔和な表情とが合わさって別人のように見えるが、彼の正体は洋裁店の店主エーリッヒ・ツァンその人である。彼の手が震えているのは、寒いからか、それとも病からか。傍からは判別がつかなかった。

 エーリッヒは窮屈そうなブラックタイを緩めて襟を開けると、やけににこやかな様子で親しげにアランの肩を叩く。その様相からは、先程の逼迫した狂気は微塵も感じられなかった。

「なあ。お前の妹、ウチの看板娘にしてもいいか?」

「……本人が了承するのなら別に構いません。踊り子だろうがファッションモデルだろうが、好きに使ってやってください」

 両手を挙げて降参を示し、半ば自棄になってうそぶく。そんな不貞腐れた表情のアランとは対照的に、エーリッヒはからからと笑いながら連続してアランの背中を叩いた。

「そうかいそうかい、そりゃ朗報だ。俺にとっちゃ、家族が増えるようなもんだからな!」

「……家族?」

「おうよ。ウチの店は俺とあいつら息子一家で切り盛りしてるからな。そこで働くとなりゃ、家族も同然ってもんだ」

「……………………………ふぅん」

 気のない返事を返しつつ、アランは人だかりの方へ目を向ける。そこには少なくない数の見物人にはやされもみくちゃにされる、奏者を務めた洋裁店員達とシャーロットの姿があった。

 楽し気に人々と談笑する姿を眺める。どうやら彼等は先程の乱痴気騒ぎを祭り前の余興か何かだと思っているらしく、住民達は店員だけでなく顔を知らない筈のシャーロットに対しても親し気に接していた。そこに悪意はない。純然たる好奇心を原動力にして、彼等は一様に舞台の余韻を楽しんでいる。

「……家族、ねぇ」

 呟く声は胡乱に濁り、赤い双眸が訝し気に細められる。それは目前に広がる情景に何か度し難い疑問があるのだと――そう、雄弁に物語っている顔だった。

 どうかしたのかと、エーリッヒは思う。けれど彼が疑問を口にするよりも早く、アランは表情を切り替えた。

 素知らぬ顔でエーリッヒに向き直り、アランは言う。

「さて、と。早速で悪いのですがそろそろ良い時間ですし、服を買ってお暇させて頂きたいのですが……構いませんか?」

「お? あー、ああ。分かった。―――おうてめぇら! 今日はもう引き上げるぞ、楽器は各自責任持って片しとけ! 傷一つ付けんじゃねぇぞッ!」

 一団の方へ向かいながらエーリッヒが大声で呼びかける。すると店員達はエーリッヒに負けないくらいの大声で応答し、楽器や楽譜をケースに仕舞い始めた。

 エーリッヒは彼等の様子を網膜に焼き付けるようにじっと凝視してから、一足先に店の中へと戻った。


「これで終わりかー」

「もう少しダンス見たかったぜ」

「何言ってんだ祭り前の余興にゃ十分だろ」

「見応えあった」

「ほんとね」

「シャーロットちゃんまたねー」


「うん、またねー! みんな、見てくれてありがとう! ばいばーい!」

 最後に労いの言葉を投げ、見物人達が踵を返して去って行く。シャーロットはその背中に全力で愛嬌を振り撒き、一人一人へ真摯に礼を返した。そして一通り挨拶を終えると、いつも以上ににこやかな様相でアランの許へと歩み寄る。

「お兄ちゃん、どうだった? 私のダンス!」

「ああ、とても良かったよ。よく頑張ったな」

 穏やかに微笑んで、アランはシャーロットの頭を撫でた。彼女はえへへ、と笑ってアランの手に擦り寄る。その姿は人懐っこい子猫のようだった。

 そのまま暫く愛撫した後、アランは手に掛けていたポンチョを広げる。そしてそれを翻すとシャーロットの背後に回して背中を覆い、剥き出しになった白い肩をそっと包み込んだ。

「その格好のままじゃ風邪ひくぞ。俺は後片付けを手伝ってくるから、お前は先に店に戻って買いたい服を選んできな」

「っ! 了解Iaー!」

 ぱっと向日葵のような輝かしい笑みを咲かせて、シャーロットは踵を返し全力で洋裁店の入口へと走る。アランはその背中を少しばかり見守ってから、各々の楽器をケースに仕舞う集団に近寄った。

 男女四人――その中でも青白い髪をした、十代半ば頃の小柄な少女の手前で立ち止まる。一メートルを超す巨大な弦楽器――チェロと格闘している彼女を見下ろして、アランは当たり障りのないように柔らかく声を掛けた。

「重そうですね、手伝いましょうか?」

「うぇ!? ウーララ! あっ、あー……じゃあちょっと、少しの間そのケース立てて、支えてもらえるかな? 古いヤツだからか、なんだか蓋がへなへなになっちゃっててねー。その癖ストッパーみたいなのがあって完全には開かないし。横にすると勝手に閉じちゃうから、困ってたんだ。こういうのってバネとかで開いたままになるものかと思ったんだけど、違ったみたい」

 いやー、失敗失敗。

 そう付け足して、少女は羞恥心を誤魔化すように頭を掻いた。

 アランは言われた通り、地面に寝かされた黒いチェロケースを立てる。表面を覆う上等な革の感触に、指先が硬く沈み込んだ。

(思ったより軽い……二キロくらいか)

 重厚かつ頑強な見た目に反する不安定な手応え。それはまるで中身のないハリボテを掴んでいるかのようにアランを錯覚させる。

 チェロはその巨大さと重量から運搬が難しく、本体を収納するケースは軽ければ軽いほど上質な良いものであるとされている。

 その点で言えば、このチェロケースは十分に優秀な製品であると言えるだろう。更にしっとりとした天鵞絨ビロードで出来た内装や、点ではなく面で楽器全体を支える構造もよく考えられた素晴らしいものだった。

「よっ……と」

 何かの拍子で破損させてしまうことがないよう、少女は慎重にチェロを仕舞う。

 ケース内の溝に嵌め込むようにそっとチェロを安置すると、恐る恐る手を放す。アランは彼女が完全に手を引っ込めたのを確認してから、ゆっくりと蓋を閉めた。

「パッフェ! ふぅ、これで一安心」

「まだでしょう。出した物は仕舞わなければ」

「プフ、そうだった。……ねぇ、悪いんだけどコレ、君が持ってってくれない? 女の子の腕力じゃ、楽譜台を持ち上げるので精一杯だからさ。ね?」

「は? ……いえ、失礼。そちらがそれで良いのなら、別に構いませんが」

「ありがとー! じゃあ、このお礼はベーゼで」

「お断りします」

 一瞥すらせず切って捨て、アランはチェロケースを持ち上げる。そして脇目も振らずに歩き出した。

 少女は不満そうに唇を尖らせるが、直ぐに表情を戻して自分の分の楽譜台を抱えると、小走りでアランの下へ駆け寄りその隣に並ぶ。そして元気に口を動かした。

「それにしても驚いちゃった。思った以上に派手好きなんだね、シャーロットちゃんて」

「……すみません。あの子の我儘に突き合わせてしまった、それだけでも心苦しいのですが……結局、今に至るまで彼女の勘違いすら訂正できていない有様でして」

「ははは、いいよいいよ。お爺ったらずっとシャーロットちゃんにべったりだったんだもん、あれじゃー仕方ない。それにさっきの余興の準備だって、一番ノリノリだったのはお爺本人だしね。ボクだって楽しませて貰ったし、『Tout est bien qui finit bien』――結果オーライだよ」

 そう言って少女は朗らかに笑う。しかしその笑みには、何処か影が差していた。

 エーリッヒ・ツァンは認知症を患っているのだという。アランが感じていた違和感の正体も、結局はそれに起因するものだった。

 妄想、暴言、暴力、そして記憶障害。これらの症状が見られるようになったのは、比較的最近のことであるという。経過観察中とはいえ日常生活を送る分には支障ないが、しかし時折、酷い錯乱状態に陥る場合があった。それがあの狂態だ。


 ―――現実きおく理想もうそう乖離かいりは、あまりにも容易く人を狂わせる。


「思い描いた形とは違うかもしれないけど、これで少しは前に進めるかもしれないからね。お爺の頭の中は、半年くらい前でずっと止まったままだから、さ」

 そう言って、少女は寂しそうに、けれど嬉しそうに微笑んだ。

 彼女は楽器を諦め、歌うことを諦め、今に至るのだという。そしてきっとその時、エーリッヒの中の『彼女』は死んだのだろう。

 指の故障などという、極めて不本意な理由で音楽を諦めねばならなかったエーリッヒの失意は計り知れない。だからこそ、彼の才を色濃く受け継いだ息子一家に掛ける情熱は並外れたものがあった。


 ―――俺達の演奏会を録画した映像ビデオを、あの馬鹿孫に見せたことがあってな。あいつはまだ十になる前だったか。ともかくそれ以来だ、あいつが音楽をやりたいだなんて言い出したのは。


 あるいは、幼少期の彼女が放ったという件の台詞こそが、一度は諦めた夢を再燃させる切欠となったのだろうが。

 ともかくそれ以来エーリッヒは現役時代の伝手を活用し、彼女に音楽家としての英才教育を施し始めた。親子三代、家族一丸となった楽団――その他愛のない夢物語を、現実のものとするために。

 当然、そんな願いが叶う筈がない。エーリッヒの指は既に限界を迎えているのだ。たとえ痛みを堪えて弦を弾こうとも、そこに生じる違和感に感づく者は多い。此度の演奏でもそれは同様だっただろう。けれど当の本人だけが、そのことに気付かないままだった。―――あるいは、この頃から既に呆け始めていたのだろうが。

 そして彼は最後までそのことに気付かないまま、その夢は別の形で破綻した。

「半年前に止まったまま……ということは、その頃に?」

「うん、まあね。

 祖父から向けられる期待と重圧。ある日、それがとても面倒になった。だから投げ出した。全てを諦め、己の夢すらもなかったことにした。


 ―――――ありふれた話ではある。


 ヒュペルボレオスは完全な管理社会だ。住民の遺伝子から情報を読み取り、内在する先天的な能力すら一切の誤差なく数値グラフ化できてしまう。その結果如何によっては、夢見た職業にという事例も多くあった。

 特に近年の若者はその傾向がより顕著で、エーリッヒの孫である彼女もまた同様なのだろう。彼女は挫折し、そして連鎖するように老人の心も圧し折れた。、エーリッヒの中の『認識上の存在としての彼女』が跡形もなく消えてなくなったのだ。

 エーリッヒにとって家族楽団は、叶えるべき夢であり生き甲斐だった。それを事の発端である彼女が諦めてしまったのだから、その時に彼が感じた怒りと失望は想像に難くない。だからこそソレが引き金となり、当時からあった認知症の症状が撃鉄ハンマーとなって、彼の記憶げんじつを砕いたのだ。

 故に彼女が夢を諦めた時点で、エーリッヒにとっての孫娘は彼女ではなくなった。記憶の中の思い出こそが本物の孫であり、現実でのはただの呉服屋の店員へとなり下がったのである。

「忘れられちゃったのは寂しいけれど、まあ、人生諦めが肝心だしね」

 そう言ってと笑った彼女の顔を、アランは決して見ようとはしなかった。


 * * *


「―――と、いう訳だ」

 洋裁店を後にしてから捕まえたタクシーの中で、アランはシャーロットに事の顛末を語って聞かせた。

 最初は初めての乗車に心ここにあらずといった様子で聞いていたシャーロットだが、話の核心に触れた辺りから力なく項垂れて大人しくなっている。

「どうしよう……この服、返した方がいいかな」

 シャーロットはおろおろと狼狽えながら、ポンチョの下のドレスを撫でた。

 余程気に入ったのだろう。舞踏を終え、無事に会計を済ませた後も普段着には着替えようとせず、シャーロットはドレスを着たまま店を出ている。

 そんな彼女を洋裁店員達は笑顔で見送っていたが、事情を知った今となっては、シャーロットにはその笑顔が計り知れないもののように思えたのだろう。―――善行であれ悪行であれ、それを成した自覚がある者の視界きおくによくない妄想フィルターが掛かって見えてしまうのは当然のことだ。特に幼い彼女の振れ幅は大きく、この手の反応が顕著に表出するのもさしておかしな話ではない。

 人はそれを被害妄想と言うだろう。

 けれどその手の真実を当人に告げたところで、事態が好転した試しはない。分けても、アラン・ウィックの人生においては。

(で、あれば、今俺が言うべきことは―――)

 シャーロットの様子を尻目に、アランは暫し虚空に視線を泳がせて思考を巡らせながら、口を開く。

「んー、別に気にしなくてもいいだろう。あの場で誰も文句を付けなかったってことは、そういうことだ」

 曖昧な語気。しかしその言葉は、明確な形を持っていた。

 金銭による取引が施行された以上、如何なる事情があろうとも、購入者シャーロットは彼等の想いを額面通りに受け取って構わない――その筈だと、アランは思う。

「俺達は非売品のドレスを、金の威力で無理やり奪い取ったって訳じゃないんだ。妙な経緯がありはしたが、向こうが提示した商品を、向こうが提示した金額で購入した。その事実に不正はないんだ。だからお前が気後れする必要はないよ」

 そう告げて、アランは少女の頭を撫でる。掌が黒髪を滑り落ちる度、シャーロットの視線は下へ向かった。

 アランの言い分を理屈としては理解しているのだろう。しかし理詰めの言葉だけで不安感が拭えるとは限らないのだ。それに他人の言葉ではどうしても納得できないこともある。ならば、当人に納得が行くまで頑張って貰う他ないだろう。

「…………」

「……まあ何にせよ、今急いで結論を出す必要はないんだ。これからは同じ街に住むのだし、会おうと思えば幾らでも会えるからな。なんならあの店でアルバイトでもしてみるか?」

「あるばいと?」

「そ、一応の雇用従業員アルバイト店主エーリッヒもお前のことを看板娘にしたいとか言ってたから、な。それに雇って貰えれば給料だって出るし、話をしてみるだけの価値はあるんじゃないか?」

「あるばいと……きゅうりょう……おはなし……―――うん。私、やってみる!」

 アランの言葉を反芻して飲み下すと、シャーロットは面を上げて固く拳を握り、力強く宣言した。

 彼女なりに問題解決の糸口を見出したのだろう。その表情に、先程までの暗い翳りは残っていない。意気込む彼女にアランはその意気だ、と軽く笑って、シャーロットの頭を優しく撫でた。

 被害妄想。ありもしない罪に怯えることは――なるほど、確かに愚かしい。それは自分自身を縄で雁字搦めに縛り上げるのと同義だ。齢が十にも満たない精神的に未成熟な幼子でもなければ、そのような苦悩には囚われたりしないだろう。

 自分で考える力があるのであれば――ならば。そもそも、自分が悪いなどと自発的に考えたりはしまい。仮に全てがではないのだとしても、善意なのだから笑って許せと、そうさえずる輩は少なからず存在している。


 例えば、英才教育という名の鞭を打ち続けたあの老人のように。

 例えば、期待を抱かせ、挙句手酷く裏切ったあの少女のように。


 押し付けられた善意ゆめは、時に他者の人生こころを壊してしまう。

 だからこそ人は反省し、己の行動を悔いて、その経験から何かを学び取らなければならない。しかし、それが出来る人間は稀だ。皆一様に、己が押し付けた善行に従わなかった者の行動と意思を、鹿鹿と吐き捨てるばかりである。

 けれど――シャーロットには、それが出来る。

 幼いが故の純粋さ。純粋であるが故の無垢な思考。真の意味での反省と改善。それは時の経過と共に失われてしまう得難い代物だ。―――――そんなシャーロットの人生こころを護りたいと、アランは思う。彼女の保護者として、切実に。


 暫くして、タクシーは目的地へと到着した。


 運転手に運賃を払い降車すると、後ろへ回ってキャリーケースを下ろす。そして走り去るタクシーをシャーロットと共に見送った後、ちらりと視線を横へ流した瞬間――不意に横面を殴られたかのように、アランは大きく目を見開いた。

「―――ん?」

 目的地であった二階建ての大きな建物――その広い軒先の脇に、二体の人形が安置されていた。

 その内の一方は驚くには値しない。黒い服を着た不気味な造形の腹話中人形で、赤い三輪車に乗っている。とある映画に登場したもののレプリカだろう。

 問題は、隣にいるもう一つの方だ。

 小学生ほど背の高さと、丸々とした二頭身の輪郭シルエット。そしてブリキの表面を反射するツヤツヤとした油じみた光沢が、どこか懐古感を煽ってくる。

 置かれている場所と人形が纏う雰囲気から察するに、マスコットのようなものなのだろう。アランはここへ来るまでの道すがら、薬局の店先で似たようなモノを見かけたことをぼんやりと思い出していた。

(しかし、これは――が、偶然出来上がるものか?)

 心底と呪うように、アランは険しい表情でソレを見下ろす。

 人形に継ぎ目はなく、のっぺりとした緩やかな造形をしている。その凹凸の一つ一つが着色されることによって、各部位が持つ意味を明確に視覚へと訴えていた。

 端的に言って、それは紳士だった。

 燕尾服テールコートを纏い、シルクハットを被り、ステッキを突いた見事な礼装である。しかし二頭身にデフォルメされた都合か、その紳士は些か肥満体であるように思える。そして――ソレは、ヒトの頭を備えていなかった。

 ソレの頭は、時計だった。

 懐中時計を模した黒く丸い大きな時計であり、顔面には文字盤が嵌っている。しかもその部位のみ本物であるのか、時を刻む三つの針が音を立てて動いていた。


 ―――――チクタク、チクタク


 それはまさに、時計男チクタクマンとでも呼ぶべき怪人じみた造形だった。


「お兄ちゃん?」

「……ッ! なんでも、ない」

 隣から聞こえたシャーロットの声を切欠にして、アランは脳裏にこびり付いた悪夢の映像を剥ぎ取る。

 偶然。奇縁。そういった言葉で自らの感情に整理を付けて頭を振ると、普段通りの兄としての表情を顔面に張り付け、アランはなんでもない、とシャーロットにうそぶいた。

 そして頭上へと視線を上げ、そこが目的地であるか改めて確認する。

 意図して古めかしさを演出する、洒脱且つモダンな店構え。一見すれば喫茶店にも見えるその店の看板は、しかし雑貨屋の名を冠しており―――


 Variety shop with Detective office "JIGSAW".


 ―――探偵事務所でもあるという、謎の店であった。

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