第二十話 Suicide Cycle 2

 うたうしゃれこうべ。

 人の死を喜ぶ髑髏ドクロの嘲笑――そんな御伽噺おとぎばなしを思い起こさせるような、あまりにも醜悪な電子音。それは悪意の篭った怨念を具象化した、この世で最も恐ろしくて悍ましい、死者の怨嗟そのものの声だった。


 其は奇怪な道化師たる者。

 其は楽園を追放されし者。


 ヒュペルボレオスの転覆を目論む、思想家テロリストにして宗教家レフティスト。青空教会の創設者にして導き手たる存在。

 それは楽園を運用し人類の保全を役割とする、機械精霊エルダー・ゴッドたる守護者・マニトゥの対極。楽園の転覆を図り、混沌をもたらし、人類を虐殺することを目的とする生粋の機械悪霊アウター・ゴッド―――魔術師・ミスカマカスだ。


 その何よりも恐ろしい怪物の化身かいらいが、目の前にいる。


「…………」

 カルティエとエドガーは突然起こった一連の事態に全く理解が及んでおらず、舞台の隅に座り込んで放心したまま動けずにいる。その傍には、警戒態勢のシャーロットが控えていた。

 唯一、アランだけが魔術師の繰る人形と対峙している。

「……何が目的だ」

 アランが小さく呟きを零す。

 そして次の瞬間には、憤りに任せて静かに激情を爆発させた。

「お前の目的はなんだ、魔術師ミスカマカス。どうしてその姿で俺に近付いた。どうしてこの惨状を作り上げた。……答えられるものなら、答えてみろ」

 睥睨へいげいするように、赤い眼差しが死屍の群れを撫でる。

 誰も彼もが死んでいた。身を投げて、頭を砕いて、五臓六腑を吐き出して、何人もの人間が息絶えていた。

 それは紛れもなく自殺だったが、その死因は仕組まれたものだ。


 ―――

 もし私の目の前にとても悍ましい化け物がいて、そいつにひどく惨たらしい殺され方をするとして。もしその状況下で、私の手に拳銃ピストルがあったなら。私は戦うのではなく、自殺する方を選ぶわ。


 ―――きっと、に死んだのはそういう人達なのよ。


 そう語ったのは、一体

 思い返して、己の中で不確かで不定形だった謎――その輪郭が浮き彫りになるのをアランは実感する。

 彼がヒュペルボレオスを来訪してから、至る所に無数に散りばめられていた違和感や疑念。そういった夜空に浮かぶ星々のような、不可解な断片でしかなかったそれ等が線で結ばれ、彼の脳裏に明確な真実を浮かび上がらせつつあるのだ。

 全ての事態――その始まりは、


 一週間前、レナータ・ボーイトは歌手として大成した。

 一週間前、何百人もの人間が集団自殺を行い、それ以降も自殺騒動は続いた。


 そして現在――レナータの歌を聞いた人間の悉くが自殺した。


 悍ましい光景、名状し難い怪物。音を媒介に青空という醜悪な幻を突きつけられ、それを現実のものと錯覚し、ソレから逃れるために誰も彼もが己の命を絶ったのだ。


 青空を取り戻した時、全人類が幸せになれるから――この世界は、そういう風に出来ているんだよ。


 今はもう遠い昔、恩師が語った言葉を思い出す。

 それは今から一年も前の出来事。その記憶を反芻しながら、アランは激情のままにソレを反証する。

「こんなものが幸福か。あんなものが青空か。の為に、俺達は―――!」

『―――ええ、そうですとも。。人間の脳とは騙されやすく、時に記憶や認識すら容易く改竄かいざんしてしまう。貴方がを、先生エレナ歌姫レナータようにね。吾輩はその虚飾を取り払っただけに過ぎません』

 スピーカーから応答がひるがえる。

『貴方達の見たもの――目の前にあるものこそが、この世界の真実なのですよ?』

「ふざけるな―――ッ!」

 アランの赤い瞳が悲痛に、赫然かくぜんと燃え上がり、その声は冷えた大気を焼く。

 最早問答は無用――狂気を振りかざし、妄想に溺れ、人に害を為すだけの魔物と答弁を交わす必要など始めからない。意義がない。ただただ、時間の無駄でしかなかった。

 そしてその認識を肯定するように、アランの長穿に仕舞われた携帯端末が律動する。

『―――無駄だよ、アラン君。君がその愚物に幾ら問いを投げた所で、意味のある答えなんか返ってくる筈がないさ。

 アランが携帯端末を取り出す。液晶画面には、黒を背景にして赤い精霊の偶像が映し出されていた。

『……マニトゥ』

 不意に、人形を通してぽつりと魔術師が呟きを零す。そして次の瞬間、それは爆発した。

 病的な偏執と狂気を伴って、大声で魔術師は繰り返す。

『マニトゥ、マニトゥ、マニトゥ、マニトゥ! 秩序の化身、愛しの我が宿敵!』

『そうだ、そうだとも道化男爵バロン・サムディ。忌々しい混沌の化身、憎らしい害虫のような愚物よ。―――それで、今日は何の用かな魔術師殿? それとも、実は?』

 皮肉と嫌味を多分に込めて、マニトゥが嘲る。それを是として、魔術師は心底楽しそうに笑った。

……―――少々、事情が変わってしまいましてね』

 けたけたと顎を打ち鳴らす髑髏めいた笑い――その言外から、アランは視線にも似た気配の変動を感じた。

 

 人形を通して、遠く隔てた場所にいる魔術師に自分が観察されているのだと、確と感じ取った。

 どろりと黒く濁った羨望や嫉妬にも似た感情をアランに向けながら、魔術師は仰々しく一方的に宣言する。

『うん――。皆様方、吾輩とゲームをしましょう! 種目は拠点防衛タワーディフェンス勝負数ターン賭け金チップは残存する全人類の総数を代替に! 貴方の玩具が私の拠点を壊すのが先か、私の玩具が貴方の玩具を壊し尽くすのが先か! 勝負といきましょう!』

『ふぅん……拒否権はあるのかい?』

『拒否したいのであれば、どうぞご自由に。!』

 高らかに、誇らし気に、魔術師は断言する。

 それに対して、マニトゥはなるほど、と頷いた。

『ボクが卓に着けばそれでいいし、そうでなくてもゲームそのものはという訳か。……馬鹿馬鹿しい。選択肢なんて、始めからないに等しいんじゃないか。宜しい、そちらが問答無用というならこちらも手間を省くとしよう。

 ―――アラン君』

 忌々しくも蚊帳の外に追いやられていた所で、不意に声を掛けられる。それに喜ぶでもなく、気後れするでもなく、アランは淡々と応えた。

「……なんだ?」

『聞いての通り緊急事態だ。ボクの配下はさっきの自殺騒動で役に立たず、状況の把握も満足に出来ない状態に陥っている。よってかねての君の望み通り、諸々の手続きをすっ飛ばして、アラン・ウィック――君を我が代行者カチナドールに任命するとしよう。そして最初の指令オーダーを授けよう』



 命令だ―――――見つけた敵は全て殺し、あの愚物を存分に叩き潰したまえ。



 その身は元より楽園に捧げられたものであるが故に。

 その四肢を、力無き者の力として、振るわんが為に。


 直接の号令を受け、肉を前にした餓狼の如くアランは心底から打ち震える。彼は憤怒を携えて唇を歪め、獣の如き形相で頷いた。

了解Ia――承った。一身上の都合により、喜んで拝命する」

 念願の成就に喜びを。彼岸の敵に対して強烈な憎悪を。

 それ等を噛み締め、訣別の念を込めて人形を見据えながら、アランは粛々と頷く。人形は頷きを返し、楽し気に両手を打ち合わせた。

『役者は揃った――ならば始めましょうか!』


 これは互いに死をもたらし押し付け合う理不尽なゲームだ!

 吾輩が弔鐘を打ち鳴らす。。これを延々と繰り返す。ルールはたったそれだけの、


『さあ――賽は投げられた! 立ち並ぶ障害を粉砕し、推し進み、我が許へ来るがいい! カチナドール!』

 魔術師が高らかに宣言する。そしてそれで用事は済んだと言わんばかりに、ブツリと、乱暴に回路を断つような異音が鼓膜を掻いた。

 人形は肩を落とし、全身を弛緩させる。

 機械の眼球に生気はない。しかし不意に、作り物の瞳に明確な感情が宿った。


「―――――えっ?」


 何が起こっているのか、全く理解が及んでいない。完全に戸惑った様子で、レナータ・ボーイトは呆然と辺りを見回した。


 * * *


 C:\Ticktockmans\Renata.exe を終了しますか? <Y/N>...[Y]



 ―――チクタク、チクタク


 どこかで時計の音が鳴り響いた気がした。


 ぐるぐるぐるぐる、螺子を巻く。

 かちかちがちかち、歯車が回る。


 きっとそれは、私の体内から響くものに違いない。人間とは、自ら螺子を巻き動く生きた人形なのだ。生まれ持った形に応じて役割ロールを割り振られ、誰もがその通りに生きている。

 人の一生は物語であり、人の夢想はその一幕である。よって、一幕一幕を演じることこそ人生だ。劇終の時を迎えない限り、無意味に延々と続くだろう。


 ジリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリッ


 聞き慣れた電子音アラームが鳴り響く。

 枕元に安置された目覚まし時計が、朝の到来を告げていた。鼓膜を乱打する騒音に眉根を寄せ、私は緩慢に腕を動かす。指先はシーツの上を這い、やがてプラスチックの安っぽい感触を探り当てた。

 スイッチを押す。音が止む。

 私は体を起こし、欠伸を漏らした。そして眠気の余韻に浸るのもそこそこに、取り決められた朝の支度を開始する。

 寝間着から制服へ着替え、寝癖の付いた髪を整える。

 学生ならではの、気怠い日々の習慣に嫌気が差す。けれどこれは、やらなければならないことなのだ。


 私は音楽家の娘だ。


 祖父は偉大なヴィオラ奏者であり、その子供達もまた音楽家として類稀な才能を有していた。彼等が手繰る妖弦の音色は、人々を惹き付けてやまない。そしてそれは、私もまた同様だった。

 父と母と、祖父と祖母と。身内を音楽家に囲まれた私は、至極当然のようにその道を志す。

 その動機は、単純な憧れだったかもしれない。


 幼いあの日の出来事を、私は今でも鮮明に憶えている。


 それは茶褐セピア色にせてしまった、けれどとても大切な古い写真のような――私という、個人を形作る原風景。

 祖父達が舞台ステージに並び立ち、一つの芸術を形作るその瞬間。それは単なる映像ビデオでしかなかったけれど……幼い私の魂を揺さぶるには、十分だった。物事や世の中の善し悪しすら碌に知らない子供でも理解できるほどに、それは、ただただ素晴らしかったのだ。

 私は泣いた。涙が溢れて止まらなかった。


 感動、感激。畏敬、憧憬、羨望。


 思い返せば、私の全てはあの瞬間に決定づけられたに違いない。

 先達への憧れを、人々の称賛を、芸術を生み出す喜びを――焦がれ、欲し、自分も斯くありたいと、その時私は確かに願ったのだから。

 私は祖父達と同じ、音楽家の道を歩むことにした。

 しかし全てが同じ、という訳にはいかなかった。何故なら私には、


『実に残念だが、諦めたまえ』


 機械マニトゥが断言する。

 このヒュペルボレオスという国は完全な管理社会だ。住民の遺伝子から情報を読み取り、内在する先天的な能力すら一切の誤差なく数値グラフ化できてしまう。それが表す事実とは、幾ら努力を積んだ所で無意味であるという現実に他ならない。

 それをどう受け取るかは人それぞれだろう。

 反骨心を原動力にあらゆる代償を支払って一芸を極める者もいれば、趣味の範囲で活動し自己満足に浸る者もいると思う。私はその生き方に憧れる。何故ならば、そうはなれなかったからだ。

 諦めたのだ。奏者としての道を。


 才能がない。


 言われるまでもなく。私自身が、誰よりもそのことを理解していた。

 しかしあれほど羨望した音楽から完全に身を引くことは、遂にできなかった。それだけは、決して。何故なら、それが私の全てだったからだ。


 幸い私には歌の才能があったから、必死でそれに縋りついた。

 奏者から歌手へと夢をすり替えて、私は日々を過ごしていた。


 施設で義務教育を学ぶ傍ら、歌唱に関する理論と実技を脳と体とに焼き付ける。単調な日々サイクルは毒にも薬にもならない。ただ怠惰に時間を食い潰し、無作為に延命しているだけだ。

 けれどそんな状況に対し、私がなにか特別に不満を抱いたことは一度もない。

 私は出だしの時点でつまずいているのだ。数値化された才能の有無だけを判断材料にして、最初の目標を諦め、妥協し、代替の夢を追いかけることにした。言わば敗者だ。壁のない廊下、ハードルのない通路は、

 そうして私は大人になった。



 Renata.exe を終了しています。



 ―――チクタク、チックタック


 どこかで時計の音が鳴り響いた気がした。


 ぐるぐるぐるぐる、螺子を巻く。

 かちかちがちかち、歯車が回る。


 ジリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリッ


 聞き慣れた電子音アラームが鳴り響く。

 枕元に安置された目覚まし時計が、朝の到来を告げていた。鼓膜を乱打する騒音に眉根を寄せ、私は緩慢に腕を動かす。指先はシーツの上を這い、やがてプラスチックの安っぽい感触を探り当てた。

 スイッチを押す。音が止む。

 私は体を起こし、欠伸を漏らした。そして眠気の余韻に浸るのもそこそこに、取り決められた朝の支度を開始する。

 施設を卒業した私は、親元へと返された。公務員カチナドールになる選択肢がないのだから学校には行かない、当然の帰結だ。

 しかし幾ら施設で職業訓練を終えていようと、直ぐに歌手になれる筈がない。ここから更に研鑽けんさんを積まなければならなかった。

 そうでなければ、私の夢は叶わない。


 ―――――――――――あれ?

 私の夢って、なんだったっけ?


「あいつが歌い手で俺達が奏者っていう、家族一丸となった楽団をいつの日か必ず再結成するって、そういう約束んだッ! それが!」


 ああ……そういえば、それが私の夢だったかもしれない。

 私は引退した祖父の家業を手伝う傍ら、歌手として世に登場すべく準備を始めた。しかしこれがどうにもうまくいかないのだ。

 歌を歌う。曲を創る。

 そしてインターネット上に歌った曲をアップロードする――それだけで歌手を名乗れるのか、といえば答えはノーだ。少なくとも私という個人が敷いた線引きにおいては、アマチュアはその範疇はんちゅうに含まれない。

 匿名の場に寄せられる評価は、須らく無名のものだ。

 誰のものとも知れない、根拠にも信用にも欠けるただの落書きにすぎない。賛美も、悪評も、悉く無価値だ。どれだけ褒めちぎられようが、どれだけ悪し様に罵られようが、そんなものでは腹は膨れない。


 機械化と情報化が突出したヒュペルボレオスにおいて、肉体労働とそれに従事する労働者は、必ずしも価値あるものではない。


 この国では偉大なるクルーシュチャ一族のような、零から一を、無から有を懐胎し産み落とす者――文明の発展、その担い手たる創造性豊かな人間こそが真に尊ばれるのだ。

 即ち碩学とは、子供が憧れる職業の筆頭である。そしてそれに次いで人気を集め人々から関心を惹くのは、娯楽を生み出す才覚だ。

 小説、料理、賭博、絵画――様々なジャンルがあるものの、それが何であれ、そこから新たな境地を開拓し、担い手となった者には惜しみのない称賛が与えられた。それは名誉となって、生きる上での多大な糧となる。

 人はその在り方を指して、プロフェッショナルと、そう呼ぶのだ。


 私は、その生き様に憧れている。止められないほどに焦がれている。


 家族が志した道だ。家族が歩むことを望んでいる道だ。

 人知れぬ電子世界の片隅で裸の王様になったところで、なんの意味もない。私は私として、私自身の名声を勝ち取らなければならなかった。

 ではそのために為すべき必要なこととはなにか―――――宣伝だ。


 芸術品とは、購入されない限り無価値である。

 芸術品とは、評価されない限り無価値である。

 芸術品とは、認知されない限り無価値である。


 広く知れ渡り、多くの賛美と少しの悪評を集め、作品の視聴に当たった者達が正当な対価として相応の金額を支払う。―――愛好者ファンを作る。それが出来てこその芸術家だ。それが出来て初めて、私は己を歌手と称することができる。

 それを実現させるためには、私の作品を好いてくれる理解者が必要だった。

 私の歌を知り、評価し、投資してくれる者。大多数の第三者に対して決して物怖じすることなく、私の歌を好いものだと声高に叫んでくれる理解者。その存在なくして、私の夢が実現することは決して有り得ない。

 祖父達は偉大な音楽家だが、しかしその敏腕は弦楽器奏者としての分野に限定して発揮されるものだ。後進の楽師ならば彼等が蓄えたノウハウを有効に扱えるのだろうが、しかし歌手志望の私にはあまり関係のないものでしかなかった。

 どうしたものか、と一家揃って悩んでいた所に、ある時祖父が一人の男を連れて来た。

 これといって特徴のない黒人男性。

 ナイ、と名乗った彼は、自分に任せろ、と慇懃いんぎんに笑った。



 Renata.exe を終了しています。



 ―――チックタック、チックタック


 どこかで時計の音が鳴り響いた気がした。


 ぐるぐるぐるぐる、螺子を巻く。

 かちかちがちかち、歯車が回る。


 ジリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリッ


 聞き慣れた電子音アラームが鳴り響く。

 枕元に安置された目覚まし時計が、朝の到来を告げていた。鼓膜を乱打する騒音に眉根を寄せ、私は緩慢に腕を動かす。指先はシーツの上を這い、やがてプラスチックの安っぽい感触を探り当てた。

 スイッチを押す。音が止む。

 私は体を起こし、欠伸を漏らした。そして眠気の余韻に浸るのもそこそこに、取り決められた朝の支度を開始する。

 施設を出てから数年の時が流れた現在――私は祖父の下を離れ、後見人であるナイに宛がわれた集合住宅マンションの一室に居ついていた。

 家族とは、もう数年ほど会っていない。合わせる顔がない。


「―――これは、必要なことなのです。ええ、本当ですとも」


 何度となく聞いたナイの台詞が脳裏を過る。それは幻聴のように、頭の中で何度も繰り返された。

 ナイは私の活動を補佐し支援している。

 彼はマネージャーだかプロデューサーだかいう肩書を名乗り、私の稽古を見るだとか、何処かの会社との契約の話を持ってくるだとか、普通の活動をしてくれていた。しかしそれも出会ってから最初の頃だけだ。

 現在、その内容は非合法かつ低俗なものに寄りつつある。

 ナイはそれをさも崇高ぶって語っていたが、私がやらされている行為は俗に言う枕営業とそう変わらないように思う。最近では満足に歌う時間すら取れていない。カレンダーの日付が新しくなる度に、私の体は汚穢を少しずつ蓄積していた。

 精神の軋みに合わせて、耳の奥から絶えず幻聴が鳴り響いている。

 硝子が割れ響くような、羽虫が甲高く鳴いているかのような、管楽器フルートの音色にも似た耳鳴り。その苛立たしく悍ましい音の錯覚が、いつも頭蓋に木霊していた。


 ありふれた話ではある。


 夢追い人が現実に敗れ、打ちひしがれ、堕ちる所まで堕ちた。たったそれだけの、教訓も意義もない、ゴミのような物語だ。

 この現状を望んでいる訳ではない。むしろ度し難い嫌悪を覚える。あまりの不快感に正気を失い、狂ってしまいそうだ。しかし疲弊した精神では、状況の打破を考える余裕すらなかった。私は惰性のままに、意味もなく時間を食い潰している。

 そんな自堕落な生活の中でも、ふと不意にどうしようもなく、全てを投げ出したい欲求に駆られることがある。そんな時には、決まって同じ言葉が頭を過るのだ。

 待て、しかして希望せよ。

 何処かで聞いた、何かの物語を構成する一節フレーズ。それを、私は死へと向かおうとする足を必死に/無様に/踏み留まらせるのだ。

 この痛みを、この辛さをなんといおう。

 肉体と精神を切り離し、夜毎夜毎に切り売りする度に、私は無意味に天井の染みを数えながら自問する。


 私の夢って、なんだったっけ?



 Renata.exe を終了しています。



 ―――■■■■■■、■■■■■■


 どこかで時計の■が鳴り響いた気がした。


 ■■■■■■■■、螺子を巻く。

 ■■■■■■■■、歯車が回る。


 ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■ッ


 聞き慣れた■■■が鳴り響く。

 枕元に安置された■■■■■■が、朝の到来を告げていた。鼓膜を乱打する■■に、私は緩慢に腕を動かす。指先はシーツの上を這い、やがてプラスチックの安っぽい感触を探り当てた。

 スイッチを押す。■が止む。

 私は体を起こし、■■を漏らした。そして眠気の余韻にひた―――


 ―――


「―――――」

 喉に指先を当て、私は調子を確かめるように■を出した。声帯の震えは肉を伝わり、指先へと伝播する。


 確かに震えている。なのに、何も■■■ない。

 それを理解した瞬間、私は


 あはははははははははははははははははははは!

「―――――――――――――――――――――!」


 私は笑っている筈だ。しかし相変わらず、なにも■■■ない。

 けれど自分が狂ったように、馬鹿みたいに笑っていることそのものは問題なく知覚できた。己の状況を客観的に分析する傍ら、私は自身の正気を疑う。けれどそんなものを気にした所で最早意味などないと、急速に悟った。

 私は爆笑しながら、着の身着のままで部屋を飛び出した。そして一目散に階段へと向かい、呼吸のペースも考えずに全力で駆け上がる。

 崩壊の切っ掛けは、あまりにも突然で――あまりにも、


 突発性難聴。


 原因不明、よって治療することもまた不可能。数多くの音楽家達からその生を奪った、

 呼吸困難で喉を引きらせながら、私はがむしゃらに階段を昇る。

 爽快な心地だった。踊り出したくなるほど痛快な気分だった。

 まるで何か、重く厳しい束縛から唐突に解放されたように思える。私は暗澹あんたんとした日々の終わりを確信して、ただ喜びの赴くままに、疲労した体に鞭打って前進した。

 頂きに辿り着くまでの間、私は上機嫌に笑う。笑いながらでたらめに歌う。


 銀の世界が傾いた夜に 生まれ落ちた貴方の愛しいほほえ

 大切な一時よ 貴方はこの月の美しさを見届けた生きしょうに

 私の羽根であの船に追いつくの この空を抱く鳥のよう

 あの人は言ったの 無垢なお前の傷跡だけが私の生きたあか

 明日もまた世界が傾き 空はあの船出を見送っていくの


 まともに歌えているかは分からない。けれど、今はそれでいい気がした。

 屋上に辿り着き、私は半ば扉にぶつかるような形で塔屋から転がり出る。すると見慣れた灰色の空が視界一杯に広がった。


 空が高いと、漠然とそう思う。


 雲一つない、まっさらに澄み渡った大空。

 けれどその色は鬱屈とした灰色で、それでいて濃淡というものがまったくない。

 のっぺりとした様はまさしく壁のようで。じっと見つめていると、無人の廃墟にひとりで放り込まれたかのような、物悲しい寂寞感があった。


 ああ――何も、ない。


 呆然とそう思う。こんなにも静かなのに、ひどい喪失感が私の胸を締めていた。

 街を俯瞰するとても高いこの場所に、あらゆる煩音は届かない。―――ああ、確信を持って言える。これこそ私が狂おしいほどにずっと待ち焦がれていた、空の彼方へと続く景色の全容そのものだったのだ。


 もしも絵描きが視力を失ったなら――きっと私と同じ選択をするだろう。

 もしも科学者が知能を失ったなら――きっと私と同じ選択をするだろう。

 もしも料理人が味覚を失ったなら――きっと私と同じ選択をするだろう。

 もしも調香師が嗅覚を失ったなら――きっと私と同じ選択をするだろう。


 もしもある日突然体の自由を失ったなら、誰もが私と同じ選択をするだろう。

 だから―――――――――――――――――――――もう、いいと思うのだ。


 ……死は、とても恐ろしい。

 けれどそれ以上に、私はこの現実から逃げ出してしまいたかった。


 無音の渦に吸い込まれるように、私は一歩を踏み出す。すると全身が心地よい浮遊感に包まれた。


 どんどん空が遠くなる。

 みるみる世界が縮んでいく。


 きっと一秒にも満たない短い時間を永遠のように感じながら、私はふと、空を見上げる。その瞬間―――――


 ―――――を背景に、太陽と



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