閑話 赫き黎明に想いを馳せよ、是より我等が何を為すべきか

 人気の絶えた、薄暗い空間。

 光源は等間隔に天井に配置された、あおめた蛍光灯の明かりのみ。異常に冷房の利いた空気は、冷蔵庫も同然に冷えている。その上、床も壁も全て青白いタイル張りの構造をしているものだから、余計に寒々しく目に映った。

 そこは、死体安置所モルグだった。

 人気がないのも当然である。何故ならここには、死体しかないのだから。


 草木も眠る丑三つ時。


 施設の利用可能時間は当に終了している。

 勤める職員も、検死を務める医者も、そして死体の確認に訪れた遺族すらも――今はこの施設にいない。正常に作動するセキュリティがその証人だった。


 しかし―――


 コツ、コツ――と。


 死体置き場の廊下を歩く、革靴の音が一つ。

 靴音の主は、黄色い怪人だった。

 真っ黄色のレインコートで全身をすっぽりと覆い隠している。唯一窺えるのは、フードの隙間から見える顔だけだ。しかし貌までは分からない。仮面を被っているからだ。

 表情のない、蒼白の仮面。

 しかしその造りは豪奢だ。王冠を戴く金色で彩られた偽りの面貌は、そのままオペラにでも登壇できそうなほど美しく絢爛けんらんである。


「Le long du rivage, les vagues nuageuses se brisent,

 Les soleils jumeaux coulent derrière le lac,

 Les ombres s’allongent

 À Carcosa」


 仮面の下から、くぐもった旋律ハミングばたきが聞こえた。

 冷たい空気の安置所モルグ。しかし怪人の周囲のみ、更に気温は低く凍てついている。通った後の大気中の水分が凝華され、雪となってひらひらと舞い落ちた。

 白く煙る冷気を侍らせて、怪人は廊下を闊歩かっぽする。悠然と振る舞うその姿は、王者さながらであった。

 やがて黄色い怪人は、とある部屋の前で足を止めた。

「―――Coucou!

 Excusez-moi de vous deranger!」

 人であるのは間違いない。しかし男か女か判別のつかない、中性的な声。

 甲高く響く声音で仰々しく宣言し、怪人は扉を開けた。

 怪人を出迎えたのは、死体と魔物だった。

 壁面に並ぶ棚の一つが開いており、その中に一体の死体が横たわっている。十代の少年の死体で、足首には『デクスター・ウォード』と書かれた紙製のタグが結ばれていた。

 かたわらには遺留品であるオレンジの被り物が置かれている。時計仕掛けの機械のような、チクタクと歯車の噛み合う音が中から聞こえた。

 死体の傷は、少しばかり異様だった。

 大型の肉食動物に噛み付かれ、頸動脈を裂かれたと思しい傷跡。これが死因なのは間違いない。ぱっくりと開いた傷口から、脂肪と肉の生々しい色が覗いている。その切断面は、あまりにも鮮やかだった。否、

 刀などの鋭利な刃物を使用しなければ、こんな風には斬れない。

 ―――否。傷口から検出された情報によれば、使用されたと思しき凶器の厚さは一ナノメートル以下――原子核の半径に値するフェムトメートル単位よりも更に短い、まるで二次元空間上の“”が三次元空間に現れてしまったかのような、『厚み』というものが全く無い代物――と推測される。最早、測定することさえ出来ないレベルだ。

 当然、地上に存在するあらゆる刃物や切断機と照合に掛けたとしても、一致するものなどありはしないだろう。事実上の不可能犯罪だった。

 その上、あろうことか首に刻まれた傷跡は、紛れもなく獣の歯形としか判別のしようがない形をしていた。

 異様である。

 異様ではあるが、それだけだ。。実際、誰もこの死体のことを気に留めていないのだ。その証拠に、のだから。


 唯一人――ウィルバー・ウェイトリィを除いて。


 その死体の顔を、一体の魔物が覗き込んでいる。

 奇妙な魔物だった。

 蜥蜴が二本足で直立したような、人型に近い姿。背丈は凡そ二メートル。背腰から伸びる長大な尻尾は金属質な甲殻に形作られており、蟲のように幾つもの節に分かれていた。

 その身体は、紫と橙色に彩られた、厚手のローブによって覆われている。その姿は道化ピエロか、あるいは御伽噺おとぎばなしに登場する魔法使いのようだ。基本的に知性を持たないとされる魔物には珍しい装いだった。

 しかし最も目を引くのは、頭部だろう。

 オレンジの果実に映写機を埋め込んだような、奇怪な形をしている。魔物が右手で頭の側面から飛び出た円形のハンドルを回すと、顔面から突き出たレンズが大きさを変えた。

 レンズが映しているのは、死体の顔。額に埋め込まれた、白濁色の四角い結晶だった。

『―――何の用だ』

 魔物が、言葉を発した。

 それに驚いた様子もなく。怪人は肩を竦める。

「Oh la la, c’est beaucoup à dire.

 Sans ce suivi, cela aurait été une habitude gênante.

 Oh, je suis désolé de t’avoir fait travailler, Wilbur.

 Je suppose que tu ne seras pas puni si tu me rends un peu plus aimable, non?」

 仰々しく――それこそオペラのように、身振り手振りを交えて、怪人が言の葉を紡ぐ。

 怪人が発する言語は、ヒュペルボレオスで使われる公用語ではなかった。恐らくは旧暦時代の、遥か昔に忘れ去られた言語だろう。

 しかし別段、苦心することなく。魔物は当たり前のように言葉を交わす。

『フン、知った事か。そう、知った事ではない。貴様等の苦労など。記録に値しない。考慮にすら値しない。些事に私を煩わせるな』

 あまりにも身勝手な言い草だが、当の怪人に気分を害した様子はない。ただ呆れた風に肩を竦めただけだった。

「Eh bien, je peux vous en prêter un avec ça?」

『―――ハッ』

 鼻で笑う。

 どうやら酷く気分を害したようだ。

 魔物は、決して語気を荒立てることはせず――しかし口早くまくし立てる。

? だと? 嗤わせる。嗤えるぞ。不愉快だ。不快、不愉快、極まりない。貴様等如き、下等な知性体が、さも我々「偉大なる」と対等であるかのような口を利くとは。

 ―――勘違いをするなよ、人間。弁える事だな、駄鳥。己の立場と役割を。

 楽園は元より。貴様等、教会とて。私達、結社の敵だ。我々は協力関係にあるのではない。ただ、利害が一致しているだけに過ぎぬ。故に、貴様等は、黙って我々に使

 侮蔑、嘲弄、憎悪――妄執。

 言葉は徐々に狂気的な熱を孕み、支離滅裂な様相を呈した。その正気とは思えない、あまりにも傲慢で自分勝手な魔物の物言いを受けて――怪人は、先程よりも大仰に肩を竦めた。

 それでも咎めるようなことはせず。怪人は、話題を変えてやる。

「……Alors, qu’en est-il du plan?」

『順調だ。全く以って、順調だ。貴様等が心配する必要など無い。探していたモノは全て見付かった。「死霊秘法ネクロノミコン」は魔女の手の中だったが、予測の範疇はんちゅうだ。奪う算段は付いている。「無限の熱量」も同様。そして同胞たるカーウィンの宿主の問題も解決済みだ。情報は既に共有されている。何も問題は無い。何も不足は無い』

「Pfff, d'accord―――――」

 苦笑から一転。

 あまりにも芝居がかった動作で腕を振り上げて、レインコートの裾を翻す。そして華麗に一礼してから、恋人を迎え入れるように――あるいは、スポットライトを浴びる役者のように。大きく両手を広げた。

「Laisse l'aube rouge supposer

 Ce que nous ferons,

 Quand cette lumière bleue des étoiles meurt

 Et tout est fini」


 ―――――さぁ、始めようか!


 まるで宣戦を布告するように。

 高らかと――怪人が、物語の開幕を告げた。

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