第四十七話 狂ったものと憧れるもの

 赤ん坊が泣いていた。


 ぎゃあぎゃあと喧しく訴える声。窓硝子をやすりで擦ったかのような甲高さと、古い蒸気機関が駆動する際に発する重低音を混ぜたような。野太くしわがれた、あまりにも耳障りな音だった。


 ―――――Y'bthnk-h'ehye――n'grkdl'lh!


 明らかに人のものではない、獣めいた咆哮。人間の発声器官では、このような悍ましい怪音は決して生み出せない。

 故に、その赤ん坊は人間ではなかった。

「……あー、うっぜぇなぁ」

 ぽつりとぼやく声が混ざる。それは赤ん坊が放つ大叫喚によって、呆気なく掻き消された。

 泣き声は一向に止まない。


 ―――忌々しい。


 洗面台の鏡を前にして溜め息を吐き、固く歯噛みする。

 それから一転、改めて平素を装おうとする。だが、どうにも上手くいかない。いつも飄々ひょうひょうとしたエキセントリックな態度を崩さない、彼らしからぬ有り様だ。その自覚があるが故に、鏡に写る己の不ッ細工な表情カオを目の当たりにして、ウィルバー・ウェイトリィは舌打ちする。


 ―――――Eh-ya-ya-yahaah!

 ―――――E'yayayayaaaa-ngh'aaaaa-ngh'aaaa-h'yuh-h'yuh!


 明かりの落ちた洗面所は薄暗い。

 ここはウィルバーが下宿している集合住宅の一室だった。しかしその造りは廃墟も同然で、壁紙やフローリングの類は一切なく、灰色の建材が剥き出しになっている。更に碌に掃除をしていないこともあり、隅には埃が溜まり、至る所が黒黴くろかびによって侵食さていた。

 ウィルバーは洗面器の両端に手を突き、ひび割れた鏡を覗き込む。

 今のウィルバーが身に付けているのは長穿のみだった。異常に細身でありながらも筋肉の発達した肉体。灰色の肌。その表面が、不気味にうごめいていた。

 全身にびっしりと彫られた黒い刺青。

 悪という概念を戯画化したかのような、あるいは神の児に刻まれた聖痕のような。筆舌に尽くし難い奇怪な紋様。複雑な幾何学模様を描いたソレが、動いている。うねうねと、ぐにぐにと。ウィルバーの皮膚と肉の狭間で、虫のように這いずり、のたうち回っていた。

 刺青は絶えず形を変え、青や紫に変色する。癇癪かんしゃくじみたサイケデリックな面相ながら、それは何処か、蛸や烏賊が自らの体表の色を変えて周囲の景色に擬態する様子に似ていた。

 しかし、刺青の変態にウィルバーの意思は全く介在していない。

 刺青は、ソレ自体が生き物だった。ウィルバーとは違う、独自の思考と人格を持った、歴とした別個人。必死に身悶えて泣き叫び、親に向かって苦痛を訴える赤ん坊そのものだ。

 つまりは、寄生されている。

 病める時も、健やかなる時も。ウィルバーの都合とは関係なく、彼と赤ん坊は、常に一緒に在り続けなければならなかった。


 ただし、その実態は―――


 ―――――Eh-ya-ya-yahaah!

 ―――――HELP! HELP! ff――ff――ff――FATHER! YOG-SOTHOTH!


 顔も見たことのない父親に助けを求めている。そのあまりの鬱陶うっとうしさに心底から辟易して、ウィルバーは手酷い嫌悪と苛立ちで自らの表情を歪ませた。

 洗面台に設えられた蛇口の栓を捻る。

 蛇口から勢いよく流れ出る水に、ウィルバーは右手を浸した。

 文字通り、血の気も凍るほどに冷たい水が肌を洗う。指から手の甲、手首、前腕を通って肘へ。右腕の肘から先の全体に水が当たるよう位置を調節し、火傷の治癒に努める。

 昼間――アラン・ウィックによって負わされた傷は、癒えていない。

 殴られた顔は全く傷んでいない。一方で、魔術によって『』を爆ぜさせられたことで負った火傷は重篤だ。焼きごてを押し付けられているかのような痛みが、常時まとわりついて離れない。

 その痛みと苦しみに反応して、赤ん坊が泣き叫んでいるのだ。

「やっぱ不味かったよな、昼間のアレは」

 言葉とは裏腹に、声音に反省の色は全くなかった。

 しかし、軽率だったこと自体は素直に認めてはいる。アランに魔術を破られたのは予想外だったし、更にそれが原因で自分が手傷を負うなどとは、全く想像もしていなかった。からは注意が必要だろう。

 ウィルバーは水から腕を引き揚げると、口元へ持ち上げる。濡れた指先が唇に触れた。

 人差し指と中指が、唇を割ってその奥へと入り込む。

 指先が喉奥を撫でる。その次の瞬間、胃から酸っぱいものがこみ上げてきた。

「ヴォェエッ!」

 勢いよく嘔吐する。

 吐き出した吐瀉物の中には、一つだけ異物があった。一ドル紙幣だ。ウィルバーが魔術を発動するトリガーとして食べた代物で、胃酸に塗れてはいるものの、消化された形跡は見受けられない。

 観察していて愉快なものではなかった。

 だから――という訳ではなく。極自然な物理法則によって、一ドル紙幣を含む汚物は全て蛇口から溢れる水に流され、下水へと消えて行った。

「―――……あ~あ。もったいね」

 思ってもいないことを呟く。

 実際、としては安かろう。

 アラン・ウィックはウィルバー・ウェイトリィの魔術に対処できる――たった一ドルでこの情報を得られたことは、今後のの活動において大きなプラスの要素となるだろう。


 とはいえ、だ。


「ムカつく。ムカつくなぁ、ムカつくムカつくムカつく! ムカ着火ファイヤーだろこんなん! 腕は痛ぇし、糞弟はうるせぇし。損ばっかじゃん! ホント、マジでやってらねぇ~~~!」

 叫ぶと同時に、凄まじい勢いで上半身を捻る。頭は腰の高さまで移動し、反対に腕が跳ね上がった。

 鞭のように振るわれた右腕の拳が、鏡に叩き込まれる。

 一切の加減も躊躇もなかった。その結果、鏡は甲高い音を立てて砕け、右手は裂けて血が溢れ出る。手に細かな破片が突き刺さる。それを、ウィルバーは半ば搔きむしる勢いで乱雑に払った。

 傷口が酷いことになるが、当人に気にした様子はない。治療する気など毛頭ない。破片を取り除いたのは、ただ単に異物感が許せなかっただけだ。

「ヴェァアアアアアア! ファッキンシットストレェ―――スッ!」

 割れた鏡も、右手の傷も。全く意識に入っていない。

 ウィルバーは乱暴に頭を掻き毟りながら、きびすを返して歩き出した。

 裸足が乱暴にコンクリートの床を叩く。

 洗面所を出て居間へ。他に部屋はない。そして家具も碌にない。精々が寝袋と小型の冷蔵庫、それから携帯端末の充電器があるくらいだ。

 ウィルバーは冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出すと、キャップを開けて、直に口を付けて中身を呷る。

 口内にこびり付いた胃酸を洗ってから、一気に飲み干した。

 空になったペットボトルを無造作に放り捨て、ウィルバーは部屋の真ん中に置いてある寝袋の上に腰を下ろす。どっかりと座り込み、胡坐あぐらを掻く。そして手狭な空間を四角く区切る壁――その一方を見上げた。


 そこには、大量の写真が貼ってあった。


 それは全て、一人の少年の姿を写したものだった。顔だけのもの、全身像、あるいは端に写っているだけのものまで。そこに写る彼は、全くカメラに視線を向けていない。つまり――隠し撮りした写真であることは明らかだった。

 実際にウィルバーが撮ったものもあるし、他人に依頼して撮らせたものや、果ては監視カメラの録画データから盗んだ画像もある。

 壁に貼られた写真の幾つかは、刃物でズタズタに引き裂かれていた。

「次は何して遊ぼっか。なあ――子犬ちゃん?」

 長穿のポケットからバタフライナイフを取り出し、刃を引き摺り出す。染みも汚れもない、銀色の無垢な刃。その輝きを舌先でなぶるようにねぶってから――大きく後方へと振り被る。


 腕が振るわれ、ナイフが中空を突き破った。


 斯くして、ナイフの先端は見事、目当ての写真に突き刺さる。

 それは一番お気に入りの写真だった。件の少年が、少年の妹と楽し気に笑い合っている姿を写したものだ。

 ナイフは、少年の妹の顔面を射抜いていた。

「命中♪」

 軽快に口笛を吹く。そして、仰向けに寝転がり、腹を抱えて笑う。

 耳元で聞こえる赤ん坊の泣き声に負けないくらい、大声で笑った。


 壁の写真は、全てアラン・ウィックを映したもの。


 ウィルバー・ウェイトリィは狂っている。


 アラン・ウィックという少年かいぶつの熱にてられ、完璧に狂っていた。


 * * *


 翌日。

 通常のカリキュラム通りに講義へと出席したアランだったが、一限目の時点で既に満身創痍の様相を呈していた。

「…………」

 顔色は真っ青で、目元には濃い隈が浮き出ている。机上に肘を突き、前傾気味の姿勢で頭を抱え、口を半開きにして呻いている。その有り様は、明らかに健常とは程遠いものだった。

「アラン君、大丈夫ですか? 無理はせず、保健室で休んでいた方がいいのでは……」

 傍で心配そうに眉を下げるカルティエの提案に、アランは頭を振って答えた。その仕草が眠気を飛ばそうと試みているように見えたのは、気のせいではあるまい。

「俺のことはいい。それより君は? 俺と同じで、昨晩は一睡もしていない筈だが?」

「私は大丈夫です! 七徹までなら余裕ですから!」

 答えるカルティエの笑顔とサムズアップは、あまりにも眩しかった。眩しすぎて眩暈めまいがする程だ。アランは眉間を指先で摘み、意識を保とうと努力する。

 しかし、どの程度持つものか。

 このままではまともに講義を受けられないだろうということは、アラン自身も自覚していた。

 それに、気になることもある。

「…………」

 アランは無言で、視線を教室の隅にある座席へ傾ける。

 それから溜め息を吐いてから、大儀そうに席を立った。

「……少し席を外す」

「あ、やっぱり保健室に行きます?」

「いや、お手洗いに。ついでに何か飲み物を買ってくるが……欲しいものはあるか?」

「いえっ、大丈夫です! どうかお気遣いなく!」

「そうか。じゃあ、行ってくる」

「行ってらっしゃいっ!」

 去り際にひらりと手を振って、アランは教室の内部を移動し、外の廊下へ向かって歩いて行く。

「…………」

 扉を出る直前に、教室の隅にいる、とある人物へ視線を向けた。

 一瞬、目と目が合う。

 その人物は、アランを見ていた。観察していた。今だけでなく、教室にいる間中ずっとだ。

「―――――!」

 今の一瞬で気取られていることに気付いたのだろう。顔を背け、アランから視線を切る。その様子を確かめてから、アランは何の感慨もなく鼻を鳴らし、二度とその人物に見向きもすることなく――静かに教室を後にした。


 それから所用を済ませ、近くにあった自動販売機の前に立つ。


 そこは休憩所として用意されたスペースで、飲料水の自動販売機が三台ほど設置されている他、テーブルや椅子などもあった。

 三台の自動販売機に展示されている商品は、その全てがコーヒーとエナジードリンクだった。ある種のブラックな社会的狂気が垣間見えるラインナップにげんなりしつつ、アランは適当に目当てを付けた商品の購入ボタンを押す。

 そして携帯端末をかざして代金を支払おうとしたのだが、不意に横から邪魔が入った。


 ―――ピッ


 簡素な電子音が鳴り響き、次いで、閉所から缶が落ちる音が自動販売機の中から聞こえてくる。

 取り出し口にまで落下してきた商品を、褐色肌の小さな手がさらった。

「……あの、これ、どうぞ」

「………………ありがとう」

 礼を言って、差し出された缶を受け取る。しかし言葉とは裏腹に、アランの表情から読み取れる彼の感情が『感謝』の類でないことは明白だった。

 それに気付き――支払いを横取りした少年が縮こまる。

「あっ、その……ご迷惑、でしたか……? アランさん……」

 上目遣いで見上げ、今にも泣きだすのではないかと心配になるほど弱々しい声音で訪ねてくる矮躯の少年。装着した黒縁の眼鏡の分厚いレンズ越しに見えるアッシュグレイの大きな瞳は、叱られた子供みたいに涙で潤んでいた。


 ―――アブドゥル・アルハザード・ジュニア。


 アランやカルティエと同じく、オルガン・アカデミーの工学科及び風紀委員会作業班に所属する生徒である。

 いぶかし気に目をすがめ、片眉を上げるアラン。

 先程からずっとアランを観察していた者の正体は彼だった。更に教室からここまで、ずっと後をつけてもいた。紛れもない不審者だ。

「えと、昨日の、お昼の時のお礼に、と思って……思ったんですけど……差し出がましいことをしてしまって、すみません……」

「……いいや、謝る必要はないよ。もう一度言うが、ありがとう」

 表情を人当たりの良いものに切り替えて告げる。内心の不信感はおくびにも出さない。アラン・ウィックの処世術だ。

 その効果は覿面てきめんで、ジュニアがほっと安堵したのが直ぐに分かった。

「…………」

「…………」

 缶のプルトップを開け、開封する。そして中の液体を喉に流し込んだ。

 糖分とカフェインを大量に含んだ清涼飲料水が、瞬く間に脳に染み渡る。ケミカルな印象の味付けはアランの好みではなかったが、その効能は実に素晴らしいものだった。

 何口か飲んで間を置く。

 ジュニアに立ち去る様子はない。彼はチラチラと、アランの様子を伺っている。何か話したいことがあるのだと、十二分に察せられた。

「……どうした? 俺に何か用があるのかな、ジュニア」

「あっ、はい……!」

 微笑みの仮面を張り付けて尋ねると、我が意を得たりとばかりに、ジュニアは喜色ばって頷いた。

「実は、その……ウィックさんに、お願いがあって……!」

 俯き立ちに目を伏せ、もじもじと両手の指の腹を擦りながらジュニアが言う。

 それからしばらくの、間。

 アランが苛立ちを堪えて辛抱強く待っていると、ようやく意を決して、ジュニアは顔を上げた。

「おれ、強くなりたいんです……! お願いします! おれを、鍛えてくれませんかっ!?」

 言い切らない内に、勢いよく深々と頭を下げる。

 お願いされたアランの嘘偽りのない本音といえば―――

(面倒臭いな)

 ―――だった。

 受ける理由も義理もない。だが、ただ断っただけでは食い下がってくるだろう。そういうをしている。ならば一笑に付して手酷く追い払うのがベストなのかといえば、そんな筈もない。

 相手は工学科はおろか、風紀委員作業班でも接点を持つ人物だ。下手に禍根を残すような真似は出来ない。

 実に、面倒だった。

 優し気な表情の仮面を張り付けたまま、アランは口を開く。

「……君が俺の何を買っているのかは知らないけど。悪いが他を当たってはくれないかな。俺はどうにも、他人にものを教えるのには不向きでね。特に体を鍛えるのなんて、どんな指導の仕方をしてもパワーハラスメントになりかねないから。俺みたいな素人じゃなくて、プロが監督するキャンプにでも通った方がいい」

 努めて、相手の神経を逆撫でることがないよう注意しながら説く。

 だが本心は別にしても、アランの言っていることは出鱈目ではなかった。

 彼はエレナ・S・アルジェントから武術の手解きを受けているが、その内容といえば非常に過酷であり、事実上の不死身であるアラン以外の者では到底耐えられないものだった。そしてそんな方法での鍛え方しか知らないアランに、まともな指導など出来る筈がない。それがジュニアのような、明らかにひ弱な人間となれば猶更だ。

 そんな現実を知ってか知らずか。ジュニアはショックを受けた風に泣きそうな顔をするが、アランの予想通りに食い下がる。

「あっ、で、でも……! おれ、どんなにスパルタでも耐えて見せます! 文句も言いません! だから……―――」

「―――そもそもの話をしようか」

 半ば強引に、ジュニアの懇願を断ち切る。

 アランは缶に残っている中身を少しずつ呷りながら、言う。

 その口調は、普段の彼の者ではない。記憶の中にある、とある人物を模した仮面ペルソナを、無意識に被っていた。

「格闘技における才能とは何か、分かるかな?」

「え……っと、その……相手の動きを見切ったり、弱点を見抜いたりする、センス……ですか?」

「それも大事だな。だけど一番重要なのは――才能だ。そして格闘技における最大の才能とは、当人の体格だよ。

 大きく重くなれるかどうかは個人差がある。そして当然、そうなれた方が強い。逆に言えば、君みたいに小柄でせっぽちな体で格闘技をやるのは、物凄く不利で不向きなんだ。だから―――」


 ―――そんな君が格闘技をやるのは、はっきり言って時間の無駄だ。


 口から出かかった言葉を強引に飲み込んで、アランは先を続けた。

「……だから君の場合、もっと別のことに取り組んだ方がいいと個人的には思うね。そもそも君は一流の碩学だろう? 俺みたいに体を動かすことしか能がない奴とは違うんだ。強くなりたいという向上心は大いに結構だが、君は自分に出来ることを伸ばしていった方がいい」

 言っている最中で、アランは自身の口端が自嘲気味に歪むのを自覚した。

 才能がない。

 それはアラン自身が、師であるエレナ・S・アルジェントから何度となく浴びせられた言葉だった。それをどの口で偉そうにご高説を垂れているのかと思うと、心底から馬鹿馬鹿しくなる。

 エレナ・サスピリオルム・アルジェントを殺したことで、アラン・ウィックのたがが外れた。

 それは彼に様々な影響を与えた。その多くは精神的なものだったが、肉体にも大きく作用している。最たるものが身長だ。シャーロット救出の際にエレナと決別してから――アランの身長は、一年で三十センチ以上も伸びた。

 無論、魔術である。

 肉体を再生させる機能の応用。それが無意識に働き、アランの肉体を大型に進化させたのだ。

 とはいえ、アランが師から『才能無シ』の烙印を押された原因は、何も体格だけに限った話ではないのだが。


 どちらにせよ―――


(同じことが出来ないなら、格闘技なんてやるだけ無駄だ)

 苦しいだけだ。痛いだけだ。進んでやる必要などない。そして、それにアランが付き合ってやる義理もない。

 だが、ここは科学の発達した人類の叡智の園――ヒュペルボレオスである。魔術を使わずとも、体を大きくする術など幾らでも存在する。

 旧暦時代の時点での技術ですら、身長143cmしかなかった少年が、ホルモン剤の投与と骨延長の施術によって、約五年で体格にして身長170cm・体重67kgになった例もあるのだ。そしてその少年は、後に世界一のサッカー選手として讃えられるまでに成長した。

 無論、誰もがそうなれる訳ではない。

 体格の問題をどうにかしても、またそれ以外の壁が立ち塞がるだろう。それこそ先程ジュニアが口にしたセンス辺りが最有力だ。何せ当のジュニア自身、自分にそんなものがあるとは思っていない。


 それでも―――


「でも、あの、おれは、ですね……」

 再び俯きがちになるジュニア。懸命に縋り付こうとするが、それも中々形にならない。それでも諦めきれず、ジュニアは必死に右往左往する。

 次に彼が何か言い出す前に、アランは話を打ち切ることにした。

 残っている缶の中身を一気に全て呷ってから、告げる。

「兎に角、君の頼みは受けられない。この話はこれで終わりにしよう」

 空き缶をゴミ箱に捨てて、アランは踵を返して歩き出した。

 その後を追って、尚もジュニアは乞うた。

「あっ、ま、待ってください……! おれ、ウィックさんじゃないとダメなんです! イヤ、なんです! お願いします!」

「……………………」

「えと、お金なら、払えます……それに、物でも、用意できるものは、ぜんぶ! なんでもしますから、お願いします! ウィックさん! この通りです……っ!」

「…………………………………………」

「おれ、本当に強くなりたいんです……! その場で、適当なこと言ってるとかじゃ、ないんです! なんだってできます! なんだって耐えられます!」

「…………………………………………………………………………………」

 口をつぐみ、黙殺するアラン。歩幅や歩く速度の違いもあり、二人の距離はみるみる内に隔たれていく。

 苛立たしかった。

 アランは顔を歪めて、密やかに舌打ちする。寝不足の頭が重い。些細なことで怒りが込み上げてくる。それをこの場で発散したい衝動に駆られるが、そんなのはみっともない八つ当たりだ。

 自制に自制を重ねる。しかし、どうにも限界が近い。その自覚があった。

「だからお願いします、ウィックさん、おれ……―――!」


 ぴたり、と。


 不意にアランが足を止める。

 話を聞いてくれる気になったのかと、ジュニアは一瞬だけ喜色ばった。だが――すぐに目の前の背中から発されるただならぬ気配を察知して、戸惑い狼狽うろたえる。

「あの、ウィックさん……?」

 恐る恐る呼び掛ける。

 アランの顔は見えない。だが、彼が怒っていることは明白だった。それどころか、この場で殺されるのではないかとジュニアは直感する。


「―――だと?」


 呟く声は、あまりにも小さ過ぎた。

 彼の独り言にジュニアが反応するよりも前に。次の瞬間には、既にアランが動いていた。

「えっ―――」

 突然、目の前からアランの大きな背中が消える。それと同時に、凄まじい力で右手を引っ張られた。

 瞬きの内に間合いを詰めたアランは、ジュニアの腕を掴んで捻り上げ、彼の小さな体を壁に押し付けて固定した。そしてジュニアの頭の横の位置の壁面に強く手を突き、ぐっと顔を寄せる。

 黒い、無貌。

 顔に穴が開いていると勘違いしてしまいそうになるほど、今のアランの顔からは表情というものが消え失せていた。奈落のような暗黒が、ジュニアの瞳を覗き込んでいる。

「懐くのは勝手だがな。いい加減にして貰おうか」

 篝火かがりびのように、赫然かくぜんと燃える赤い瞳が間近にある。

 開かれた口には、獣そのものの鋭い牙が並んでいた。


 喰い殺される―――


 そう思い込み、ジュニアの身体ががくがくと震える。歯の根が鳴る。突然現れた目の前の恐怖に捕らわれ、釘付けになっていた。

 錯覚である。

 全ては恐怖心が見せる幻に過ぎない。アランの様子は何も変わっていない。彼は獣でも怪物でもなく、人間だ。

 故にアランは、告げる。

「さっきのジュース、君は『昨日のお礼』だと言っていたな。それ自体は結構だ。だが君は一つ、勘違いをしている。―――俺は君を助けた訳じゃない。アレは単に、俺が不快だったから止めさせただけだ」

 互いの鼻に息が掛かるほど距離が近い。掴まれた手首が痛み、全身が金縛りにあったように動かせない。今のジュニアは呼吸すら止まっていた。

「―――――」

「俺は虐めっ子が嫌いだが、それ以上に虐められっ子はもっと嫌いだ。……分かるか? 不快なんだよ、君達が」

 それはアランの過去トラウマに端を発する台詞だったが、しかしジュニアがそんなことを知る筈もない。

 みっともない八つ当たりだった。

 感情の制御が出来なくなっている。

 だが構うものかと、アランは続ける。

「俺の周りをうろちょろするんじゃない。目障りだ」

 言いたいことを一通り言い終え、アランはジュニアから離れた。

 腰が抜けたのか。解放されたジュニアは、その場にぺたりと座り込む。そして呆然とアランを見上げた。

「あ、あ……ウィック、さん……おれ、そんな、つもりじゃ……っ」

 とうとう、涙が零れた。

 震える唇の隙間から譫言うわごとが漏れる。完全に怯え切った様子のジュニアを見下ろして、アランはばつが悪そうに眼を逸らした。

「……それに君は、カルティエとも不仲だろう。君も彼女も、互いを避けているのがはたから見ても分かる。理由は知らないし、興味もないが……それでもしがらみはあるものだ。

 彼女は俺と、俺の妹の家主だ。彼女に不義理な真似は出来ない。

 いずれにせよ、俺が君を鍛えるのは無理だ。悪いことは言わないから、諦めて他所を当たれ。ウィルバーをどうにかしたいなら、専門の機関に相談しろ。……これでこの話は終わりだ」

 顔をしかめて決まりが悪そうに告げてから、アランは踵を返して歩き出した。

 足早に去って行く背中を静かに見送って、ジュニアは静かに拳を握る。

 掴まれた手首が痛んだ。その痛みをまるで大切なもののように胸に抱えて、黒く大きな背中を見詰める。

 怖かった。

 けれど、それ以上に―――

「―――……ダメ、ですよ。そんなの」


 おれは、強くならないといけないんです。


 意気込み、願う。涙に濡れた瞳には、しかし確かな意志が宿っていた。

 憧れる感情は、誰にも止められない。たとえそこが先のない袋小路だったとしても、諦める訳にはいかなかった。

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