第四話 楽園の車窓から

 暗いトンネルの中を、凄まじい速度で蒸気機関車が疾走する。

 前方を照らすライトが闇を切り裂き、分厚い車体が空気を弾いて暴風を巻き起こしながら進む姿は圧巻だ。時速二百キロ近くものスピードで爆走するその雄姿は、見る者の悉くを圧倒する。

 ただし、搭乗している人間にその凄さを体感する術はないのだが。

「美味しい! このケーキ美味しいよ、お兄ちゃん!」

 先程出されたカット済みのケーキをフォークで切り分けて口に運び、シャーロットは幸せそうに顔を綻ばせた。

 空港や駅での乗り物に対する興奮はどこへやら、既にシャーロットの興味は全て持て成しとして出された茶菓子の方に向いている。だがそれも仕方がないだろう。景色のない暗い鉄道の中では、外など眺めていてもつまらないのは当然だ。

 だからこそ高級車両であるアランとシャーロットの乗る客室には、様々な娯楽設備が揃っているのだ。美味しいケーキと紅茶もその一つだった。

「…………」

 アランは無言で自身の皿へと視線を落とす。そこにはシャーロットのものと同じケーキがあった。

 クリームチーズと生クリームを混ぜて作られた、レアチーズケーキだ。

 クッキーやスポンジなどの下地がない代わりに、三つに分けられたチーズの層の間には赤黒いラズベリーのソースが凝り固まっている。分厚い白の間に挟まる紅のコントラストが実に美しい。

 更にトッピングとして丸く絞られたホイップクリームの上にチャービルの葉と、黒と赤の色が違なるラズベリーの実が、二つほどちょこんと乗せられていた。

 アランはフォークを手に取り、食べ易いサイズに切り取ってからケーキを口へと運ぶ。

 舌先で柔らかく蕩ける食感。

 そこから生じる渋みのあるやや尖ったラズベリーの酸味を、クリームチーズのまろやかな甘みが余すことなく包み込んでいる。二つの異なる味わいが絡み合って生み出す快楽は絶大だ。

 けれどそれだけではない。恐らくチーズの蛋白質を固めケーキを整形するために使用されたのだろう、レモンの爽やかな風味が後味として尾を引いている。それが無意識に次の一口を急がせるような、しつこさのないさっぱりとした美味しさを演出していた。

「うん、確かに旨いな。それに紅茶にも合う」

 もう一口ほどケーキを口内に放り込んでから、アランは紅茶を飲む。甘いケーキを渋みのある茶で押し流すのは実に良い塩梅だ。

 満足気に口元を綻ばせるアラン。その言を受けて、シャーロットは全く手付かずだった紅茶のカップに手を伸ばした。

 どんな味がするのか気になって仕方がないといった様子で、シャーロットは紅茶を呷る。赤みがかった金色の液体が、喉の奥へと流れ落ちた。しかし途端に彼女は目をすがめ、眉間にしわを寄せてカップを口から離してしまう。

 シャーロットは荒い動作でソーサーの上にカップを戻すと、渋い顔で呻いた。

「うぇー、なんか変な味。にが……いや、酸っぱい? のかな、これ?」

 えずくように舌を出し、首を傾げて唸る。どうやら彼女の好みには合わなかったようだ。舌が肥えていないから、というのも理由としてはあるだろうが。

(まあ、シャーロットはこういう嗜好品を摂るのはこれが初めてだろうし。味の良し悪しが分からないのは仕方ないか)

 胸中にて冷静に分析し、その上で納得する。しかし共感を得られなかったことが少しだけ残念なのか、アランの表情が僅かに委縮したものになった。

 アランは無言で机上へと手を伸ばし、テーブルの端に幾つか据え置かれた小瓶の一つ、シュガーポットを掴み取る。

 容器の蓋を開けると、その中から小さなトングを取り出し、それを使って同じく瓶の中に入っていた角砂糖を摘み取った。そしてシャーロットのカップに三個ほど白い塊を投入すると、シュガーポットからクリーマーに持ち替えて傾け、中の乳白色の液体を大量に注ぐ。

 ティースプーンで撹拌かくはんし、砂糖が完全に溶けるまでしっかりとかき混ぜる。赤みがかった金色の液体が、濃厚な蒸栗色に変化した。

「……?」

 シャーロットは蒸栗色の紅茶とアランの顔を交互に見比べる。アランは無言で飲んでみるよう促した。

 湯気の立つカップを両手で持ち、おずおずと躊躇ためらいがちに口を付けるシャーロット。しかし試しにと蒸栗色の液体を少量飲み下した瞬間、その表情は一変した。

「―――っ! 美味しい! さっきより甘くて、とっても飲みやすいよ!」

 目を輝かせ、シャーロットは嬉しそうにミルクティーを呷る。彼女は至福の表情でケーキを頬張り、紅茶でそれを押し流した。見ているだけで胸焼けしそうだと、アランは苦笑する。

(ほんと、至れり尽くせりで快適だ。空港ではやたらと待たされたし、あまり良い幸先ではなかったが、今回の観光は楽しくなりそうだな。……今は少しだけ味気ないが)

 紅茶とケーキに視線を落とし、次いで窓の外へと目を向ける。そこにあるのは濃密な暗闇だ。闇の帳は決して見透かせるようなものではなく、見えるのは窓に映るどこか残念そうな自分の顔だけである。

 以前アランがヒュペルボレオスを訪れ汽車を利用した際には、後列の旅客車両に搭乗したのだが、その時の娯楽といえば同乗者と話す以外になくとても退屈だった。しかし今回は嗜好品を摂りつつ妹と談笑できるなど、中々楽しい一時を過ごせている。だが窓の外が黒一色の暗闇というのは彼の言の通り実に味気ない。

 とはいえ、それに文句を言うのは筋違いだろう。そもそも汽車が走っているのは地下だ。美しい景色を期待する方が間違っている――筈、なのだが。

 線路上を爆走する蒸気機関車。その黒々とした鉄の車体が光を浴びて、どこか有機的な輝きを反射する。

 突如暗闇の只中に出現した光。その発生源は汽車の顔面に搭載された自前の灯りライトではなかった。線路の続く先――トンネルの途切れた地点から、ぼんやりとした陽光が差し込んでいるのだ。

 蒸気を吹き上げる汽車が、暗く狭い地下道を抜けて太陽の下へと猛然と這い出す。―――その瞬間、車窓を覆っていた闇が取り払われた。


「―――――あッ!」

「―――――おっ?」


 外の景色。それが現れた瞬間、リアクションの大きさこそ差はあるが、アランとシャーロットは同時に窓の外の光景を食い入るように見詰めた。

 見えるのは灰色の空だ。太陽の光が弱くぼんやりとしているからか、昼間であろうと星や月が鮮明に見て取れる。乾燥した寒空は雲の流れがとても速い。遠くには硬式飛行船が浮遊するようにぷかぷかと浮かんでいた。

 退廃的とすら言える煤けた空。しかしその直下にあるのは人間が築き上げた楽園である。

 分厚い石と鉄とコンクリートで出来た、凝った装飾の巨大な城壁。その内側には木枠に煉瓦や土、漆喰で固められた大小様々な家が所狭しと並び、幾つかの細長い電波塔がそびえていた。

 セオリー通りに目抜き通りがありはするものの、全体的に煩雑としていてまとまりがない。秩序なく建物が乱立している様は、子供がでたらめに造ったおもちゃの街のようだ。しかしそこには、人形ではない本物の人間が住んでいる。道を行き交う彼等は、街に様々な装飾を施していた。

 住民達の姿に絶望はない。努めて明るく懸命に、彼等は今日を生きていた。

「わわわ、すごいすごい! 見てお兄ちゃん、景色が綺麗だよ!」

「……ああ、そうだな」

 窓に額と両手を張り付け、シャーロットが歓声を上げる。微笑みを浮かべ、アランは頷いた。

 二人を乗せた汽車が走るのは、ヒュペルボレオスの象徴たる全高八千メートルの尖塔に似た形状の大都市――その縁に沿って敷かれた環状線だ。ただしそれは巨大な螺旋を描くものであり、緩やかに上へと昇っている。

 交通の利便を図るため、都市のあらゆる場所には鉄道が開通している。

 それだけでなく線路と汽車の数は今も尚増え続けており、それに合わせて街は拡張され次第に物理法則を無視した造形へと日々変貌しているのだ。

 故にヒュペルボレオスは、尖塔型という一風変わった形の美しい外観とは裏腹に、こと内部構造に関しては、機能的ながらも酷く混沌とした蟻塚の如き様相となっている。

 ちなみに、二人を乗せた汽車が走るのは都市の中腹で、目的地は上層部だ。

 尖塔都市上層部――通称首都は、国にその能力を認められた者しか居住を許されない、一種の上流階級に位置する者達の巣窟である。しかし立ち並ぶ建物のほとんどが国家機関に縁を持つ施設である為、貴族の住処にしては成金趣味が抑えられ、整然とした機械的な街並みを構築していた。

 そこより下層の風情は清貧の一言に尽きる。似通った構造の建物が規則正しく整然と佇む様は、まるで子供の玩具のようだった。

 著しく娯楽に欠けた場所だ、というのがアランが抱いた正直な感想だった。

「良い所だね。なんだか、みんな楽しそうに暮らしてるみたい」

 窓に張り付いていた状態から姿勢を正し、シャーロットは微笑みを浮かべて、静かに感慨深い様子で呟く。

 飛行船の俯瞰ふかんからは決して見えなかったものたち。それをより近い所から知覚できたことには意義がある。頭の中の想像と現実を照らし合わせ、その都度誤差を修正。普通の沼と底なしの沼を見紛うことがないように、シャーロットは己の実感を元にしてヒュペルボレオスに対する情報イメージを更新していた。

「…………」

 感想に相槌を打つことはせず、アランは無言のまま目を細めてシャーロットの様子を観察する。

 値踏みするような不躾な視線だが、しかし当の本人は気付いていない。シャーロットは外の景色を眺めながら、紅茶とケーキを楽しげに食んでいる。しかしケーキのほとんどを食べ終えた所で、ようやくアランの視線に気が付いた。

「? どうかしたの? お兄ちゃん」

「……口の端にクリームがついてる」

 小首を傾げて尋ねるシャーロットに、アランは表情を変えないまま、自身の口端を指先で叩くことで応えた。するとシャーロットは顔を真っ赤にしてうつむき、ホットパンツのポケットからハンカチを取り出してそそくさと口の周りを拭う。しかし幾ら拭ってもクリームらしきものの感触はなく、ハンカチにも汚れ一つない。

 これは一体どういうことなのか、とシャーロットはアランを半眼でめつける。すると彼は肩を竦め、飄々ひょうひょうとした仕草で冗談だ、とうそぶいた。

「……お兄ちゃん、そういう冗談は悪趣味だからやめた方がいいよ」

「そういうお前こそ作法を身に付けた方がいいな。はっきり言ってがっつき過ぎだよ。美味いのは分かるけど、女の子なんだからもう少し慎みを持ちなさい」

 静かな語調で諭し、優雅に紅茶をたしなむアラン。その表情はまるで教わった知識をひけらかす子供のように得意気だった。

「むぅ……そんなこと言ったって、このケーキ、ヒュペルボレオスでも大人気のお菓子なんだよ? 全ッ然需要に供給量が追いついてない破格の品なんだよ? おいしさに我を忘れるのもとーぜんってもんなんだよ? だから仕方ないんだよ」

 自らを納得させるようにうんうんと何度も頷き、シャーロットは最後の一切れをフォークですくい取る。意外と大きめだったのだが当の彼女は気にした様子もなく、嬉しそうにケーキを頬張り、一口で片付けてしまった。

「大人気ねぇ……今日ここに着いたばかりとは思えないほどの情報通っぷりだな」

「まぁね。飛行船で貰ったこの携帯端末を使えば、それくらいの情報ならいくらでも手に入っちゃうのだよッ!」

 どこか呆れた様子で皮肉気に言うアランに対して、シャーロットは自身の携帯端末を取り出すと突き出し、胸を反らしてわざと得意気な顔で自慢する。いわゆるツッコミ待ちのボケだ。ただし相手は実兄アラン、シャーロットの予想では適当な相槌を打たれるか、そもそもネタそのものをスルーされるかのどちらかだろうと内心で当りを付けている。

 しかしアランの取った反応は、シャーロットにとって予想外のものだった。


「んん? そんな機能があるのか、これ」


 首を傾げていぶかし気に呟き、アランは自身の携帯端末を取り出した。

 携帯端末の電源を入れ、画面を指先で叩いて操作する。しかししばらくすると彼は凄まじく嫌そうな顔をして、端末の電源を切ってしまった。

 アランは不機嫌そうに携帯端末を仕舞い込むと、テーブルに頬杖を突いて黙り込む。暫しの間、客室に重い沈黙が流れた。

「お兄ちゃんってもしかして、こういうの苦手?」

「……………………………………ノーコメントだ」

 居心地悪そうに目を逸らし、アランは唇を尖らせる。どことなくムキになっている子供じみた彼の姿が可笑しくて、シャーロットは思わず噴き出してしまった。

 そんな彼女の反応が流石にしゃくに障ったのか、アランは咎めるように鋭い視線をシャーロットへ向ける。

「いくらなんでも笑うことはないだろ」

「ふふっ、うん、そうだね。ごめんね。……でも以外だなぁ。お兄ちゃんにも苦手なことってあるんだ。私ができることは、大抵できちゃうんだと思ってた」

「俺も人間だからな。残念ながら、できないことの方が多いさ」

 肩を竦め、心の底から嘆くように溜息を吐くアラン。その表情は傍から見てもよく分かるほどに残念そうだ。つまり彼は、割かし本気で自分にできないことの方が多いという現実を憂いているのだろう。

 真に万能な人間ものはこの世に存在しない。けれど人は、往々にして自分にも他人にもその性能が万能であることを求めている。それはアランも例外ではない。

 彼はシャーロットの兄であり保護者だ。一人の人間を護る立場にある以上、真に『万能』であろうと務め、常にそうであるようにと想うのは人として当たり前の願いだろう。

 そんないじらしい彼の心の内をどのように捉えたのか、シャーロットは信頼し切った表情で、これ以上ないくらいの得意げな顔でほくそ笑む。

「そっか。じゃあここは一つ、私が一肌脱いでお兄ちゃんに携帯端末の使い方をご教授してしんぜよう」

 言うが早いか、シャーロットは即座にアランの隣に座り直した。そして自身の携帯端末を見え易いように掲げ、指先で操作して機能の一つ一つを丁寧に説明する。


「―――でね、さっきも言ったんだけど、このケーキを作ってるお店ってかなり大手のお菓子屋さんなんだって! ほら、このブログに載ってる写真見てよ。こんなに大きくて立派な建物なのに、中に収まり切らないくらい沢山の人が毎日来てるみたい! すごい行列だね! それでこのお店のケーキなんだけど、さっきのチーズケーキ――これは『甘酸っぱい黒クランベリーソース白双子の恋レアチーズケーキ』っていうんだけど、一日に百個しか売ってない限定商品なのに二時間くらいで完売しちゃうんだって! すごいよね! でも首都には他にもいっぱいお菓子があるみたいなんだ。もちろんお菓子だけじゃなくて、色んなお肉とか野菜とかを使った料理があるみたいで―――」

「お、おう……」


 ―――携帯端末の説明から一転し、完全にグルメの話に切り替わっているのだが、しかし当人に気にした様子はない。アランもケーキの名前に突っ込みを入れるかどうか迷ったものの、結局は言及しないまま相槌を打つのみに留めた。

 シャーロットは楽し気に風聞を話し、アランは静かに微笑みを浮かべて聞き入っている。そんな昼下がりの穏やかな午後の一時を、車窓から飛び込む陽光が美しく彩っていた。


 * * *


 汽車から見た風景とは違い、ヒュペルボレオス首都の街並みは近代的で整然とした造りではあるものの、色合いからして酷く寒々しいものだった。

 視界に入るのは大理石とコンクリート。青と灰色で構成された機械的にして幾何学的な都市の景観を、厚着をした住民達が早足で通り過ぎて行く。襟を高くして口元を隠し、極限まで露出を抑えた彼等の姿は、他者の存在そのものを拒んでいるようにすら見受けられた。

 しかしそんなものは知ったことではないとばかりに――シャーロットは灰色の寒空の下踊るように路を駆け、文字通り全身で新天地の空気を堪能していた。

「……はしゃぐのは構わないがね。こけたりするなよ、シャーロット」

「あははっ! うん! 了解Iaーッ!」

 アランのやんわりと注意する声に分かったと応えつつも、しかしシャーロットは全く自重した様子もなく、なだらかな下り坂を元気に駆けている。そして度々振り返っては、気だるそうに重々しく旅行鞄を引き摺るアランへぶんぶんと手を振った。

 汽車で見せた恥じらいは、どうやらあの時だけのものだったらしい。

 いじらしく静かに縮こまっていたシャーロットの姿と、目の前で飛び跳ねる活発な少女の姿を頭の中で照らし合わせ、アランは思わず苦笑した。

「……まあ、元気なのはいいことか」

 思わずそんなことをひとりごつ。流れる時は穏やかで、楽園の名に相応しく平和そのものだ。だからこそ、今日この日まで大切な家族と共に生き残れた奇跡を、アランは喜ぶ。しかしその一方で、払拭し難いわだかまりのせいで素直に現状を受け入れられない面もあった。

 あの時ああしていれば、こうしてさえいたら。そういう後悔もある。けれど今彼の胸につっかえているのは、これで良かった筈だと思い込みたいという自己欺瞞に他ならなかった。


 瞼の奥で、紅い閃光が瞬く。

 それは一年も前の出来事だ。


 ―――脳裏に浮かぶ光景は、地獄そのもの。

 破壊し尽くされた文明と、業火により粉砕された死骸の群。血と硝煙、肉が焼ける不快な臭いの真ん中で、生きていた人間はと言えば、たった三人だけだった。

 その内の二人は逃げた。必死に逃げた。だが、一人は―――


 ―――君のこと、愛してるよ。


 彼女の口端からぽつりと漏れたその一言が、まるで呪いのように。気持ち悪いほどの粘性を伴って、耳に絡みついて放れない―――――


「―――――お兄ちゃん!」


 気付かぬ内に足を止めて呆と立ち尽くしていたアランに、シャーロットが声をかける。

「…………」

 俯きがちだった面を、緩慢な動作で揺り上げる。視界に入るのは朗らかに微笑むシャーロットの顔だった。

 いつの間にか隣にまで戻ってきたシャーロットが、アランの手を引いている。

「……どうかしたのか、シャーロット」

 口から出た声色は、アラン自身が予想したよりも幾分穏やかなものだった。

 それを視て、シャーロットは笑みを深める。彼女は向日葵ヒマワリのように愛らしく破顔して、口を開いた。

「ホラ、お兄ちゃん、あそこのお店。いっぱいお洋服があるみたいだよ」

「ん? ああ、そうだな。多分ブティックってヤツだろう。結構……いや、かなり高級志向が強そうだが」

 シャーロットが指差した建物を見上げ、アランはどこか呆けた口調で呟く。

 近代的な――あるいは近未来的な様相の住居や店舗が整然と並んでいる中、唯一バロック建築の古めかしい意匠を組み込んだ瀟洒な建物があった。その白い壁面から突き出たショーウインドウには、ビロードやレースのカーテンに飾られた小さな舞台に退廃的ゴシックながらも華やかな衣装を纏った人形マネキンが立っている。

 人形は全部で五体。

 洒脱なタキシードを着たものが二体と、それぞれ黒と黄色のドレスを着たものが二体。それが二組に分かれて互いに抱き寄せ、互いの手を取り合っている。石膏で出来た彼等の仕草ポーズは決して動くことのない静的なものであることが明白であるものの、頭から手足――その指先にまで至る計算され尽くした角度と精巧な配置が見る者に一種の流れを思わせ、不思議な躍動感を演出していた。

 しかし最も目を引くのは、その四体の間に挟まれた人形だった。

 寒冷地ヒュペルボレオスでは珍しい、肩を剥き出しにしたワンピースタイプの薄いドレス。そこから覗く肌は異様に白く、力無く垂れ下がった関節は丸い球状の部品で出来ていた。

 項垂れるような体勢で座り込む球体間接の人形ドール。横で踊るマネキン達が二十代の紳士や淑女と思しき体格であるのに対して、その人形は二十代後半の女性を模して作られていた。

 ソレは深く項垂れて肩を落とし、大胆にも硬い大腿を剥き出しにして座り込んでいる。端整な顔面に埋め込まれた銀色の瞳は半ばまで閉ざされており、その視線がどこを向いているのか知れない。やや癖のある艶やかな黒髪は、無造作に床に垂れていた。

 ―――気怠げな佇まいでありながらどこか奇妙に扇情的な、ひどく退廃とした様相の人形だ。明らかに悪目立ちし過ぎている。これでは服と人形、どちらが商売道具なのか分かったものじゃない――と、アランは考える。

「ねね、お兄ちゃん。こういうのを芸術的……って、言うんだよね?」

 アランの服の裾を引っ張りつつ、シャーロットは覚えたての言葉を試しに使ってみた、というような調子でアランに尋ねる。

 アランは少し悩むように沈黙を置いてから、とぼけたように小首を傾げつつ口を開いた。

「……さあ。たぶん、間違ってはいないんだろうけどさ。少なくとも俺は、これを芸術の類だとは思わない」

「そうなの? なんで?」

「なんか気に入らないから」

 シャーロットの疑問を一言でばっさりと切って捨てる。そして彼は人形への興味を失ったのか、そっぽを向いて視線を明後日の方向に逸らしてしまった。しかしシャーロットは目の前の見世物に興味が尽きないようで、深く腰を屈めて人形の頭を熱心に見詰めている。

 そんな妹の様子に肩を竦めつつ、アランは何気なく店の入り口前に設置された看板へと視線を投げ掛けた。


 ―――看板には、こう書かれている。

 エーリッヒ・ツァンの洋裁店。貴方だけに似合う服を仕立てます。


(貴方だけに似合う服、ね)

 看板に描かれた文字を心中にて唱え、アランはショーウィンドウのガラスに映る自身の姿に目を向けた。

 糊の利いた白いシャツと、その襟元を締める赤いネクタイ。その上に菱形襟ノッチドラペルの黒いジャケットを羽織り、下半身には上着と同色の長穿を穿いている――という、背広じみた格好だ。紳士然とした大人びた服装ではあるが、未だ十六歳のアランには少々そぐわないように見える。

 ただし、アランは服が自分に似合うかどうかについてはあまり気にしていない。問題なのは、着用できる服のストックがほとんどないということだ。

(着の身着のまま、急いでここまで来たからな。俺もシャーロットも、手持ちの服は飛行船の売店で買ったものだけだ。……俺の分はともかく、シャーロットの服はあと何種類か買っておいた方がいいか)

 ほとんど空に近いキャリーケースの持ち手を指先で叩きつつ、アランは手持ちの資金が幾らだったか考えようとして――とても面倒になったのでやめた。

 アランは無言で、隣に佇むシャーロットを見やる。彼女は先程と同じ体勢のまま、ショーウィンドウに展示された人形達に魅入っていた。

「気になるか、シャーロット」

「うん、ちょっとね。なんでこんなの店先に飾ってるのか、興味ある」

「……うん、確かにそれも気になるな。でもまあ、とりあえず入ってみないか? もしかしたら中にはもっと過激なモノがあるかも知れないぞ」

「それだと看板に偽りありだね。服屋さんじゃなくて、お化け屋敷の間違いになっちゃう」

 くすくすと微笑んで、シャーロットはアランを見上げる。二人は視線を交わらせ、笑みを浮かべて小さく頷きあった。

 実際に服を買うかどうかはともかくとして、店に入ってみることにしたのである。なので早速、アランとシャーロットはショーウィンドウの近くに設置された入り口の方へ踵を返した。

 シャーロットが先行し、重厚な木の扉を押し開けて店の中へと身を滑り込ませる。アランはその後を追う途中で、一度だけショーウィンドウへ目を向けた。

 明らかに服ではなく、人形の方をメインとして据えている展示物。それそのものに違和感は特にない。ただその趣きが、

 楽しげに踊る四体の人形達――その細い首筋には、結ばれた荒縄が括り付けられている。しかし最も目を引くのは、その四体の間に挟まれた人形だった。

 黒いドレスを着た、球体間接の人形。。根元から無残に焼き切られ、人形の足元に転がっている。虚ろに濁った銀色の眼球が、床に垂れる己の黒髪を凝視していた。

「…………」

 視線を前へと戻し、シャーロットに倣って静かに扉を潜る。

 薄暗い店内は完成済みの衣服で溢れ返っていた。その種類は多岐に渡り、防寒性に優れた無骨なものから、服としての機能性を排した過激カジュアルな見た目のものまで様々だ。その中には店先に飾られていたドレスの類も幾つか見受けられた。

 埃っぽい店内を見回りながら、アランとシャーロットは奥へと進む。布とレースの海を掻き分けた先には、店主と思しき一人の老人がいた。

 無精髭を生やした強面の老人はアラン達に背を向け、作業台にかじり付いたまま微動だにしない。彼は客の来店に気付いた様子もなく、小型の蒸気機関で駆動するミシンを巧みに操って黙々と布を縫い合わせていた。

「あー、お仕事中に失礼します。表の看板を見て立ち寄ったのですが……」

 躊躇いがちに声を掛けると、老人の肩がびくりと震えた。

 彼は間接の錆びた人形のような動きで、ゆっくりと振り返る。そして肩越しにアランとシャーロットの姿を認めるや否や、大きく目を見開いた。


「―――――なんだその格好は! 全ッ然似合っとらん!!」


 薄暗い店内に老人の甲高い絶叫が木霊する――と、同時に。

 地面を這うように身を低くして疾駆する四つの影が、二人へと襲い掛かった。

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