第五話 エーリッヒ・ツァンの愉快な洋裁店

「うわああああああああ! お兄ちゃぁぁぁあああああああああああああん!!」


 薄暗い店内に響き渡る悲鳴。それを聞き、アランは困った風に顔をしかめた。

 老人の一喝後に現れたのは、この店の従業員達だった。彼等四人の内の二人は十代前半の少女と妖艶な若い女性で、目にも留まらぬ早業でシャーロットを二階の試着室へと拉致したのである。恐らく今は着替えさせられている最中なのだろう。

 そして当のシャーロットは悲鳴を上げてこそいるもののその声音は黄色く、どこか楽しげだ。どうやら彼女なりにこの状況を楽しんでいるらしい。ならばわざわざ水を差す必要はないかと、アランは肩を竦めて小さく溜息を吐いた。

「ははは、随分と元気のいいお嬢ちゃんだな」

 声の主へ、じろりと眼球のみを動かして視線を向ける。

 そこには店主の老人――エーリッヒ・ツァンが立っていた。彼は先程の狂態が嘘であるかのように、笑い皺を深くして人当たりの良い笑みを浮かべている。

「それに坊主、お前もかなりやんちゃだ。ウチのを二人共一遍にのしちまうたぁ、末恐ろしい。もしかして格闘技かなんかやってんのかい?」

「……まあ、そんなところです」

 アランの体を頭の天辺から爪先まで一瞥いちべつして、エーリッヒは尋ねる。

 足元に転がる二人の男性店員――自身と同年代と思しき少年と顎髭あごひげを蓄えた中年男――に一度だけ目を向けると、視線を店主に戻してアランは曖昧に頷いた。

 シャーロットが拉致されるのと同時に、彼等もまたアランを着替えさせるべく襲い掛かったのである。そして彼が正当に自衛権を行使した結果として、二人は仲良く床に這いつくばる羽目になったのだ。

「キャーッ! やめてー♪」

「へへへ、口では嫌がってても、体は随分と正直じゃないか!」

「うぅ……やめてぇ……きついよぉ」

「くくくっ、オラ、もっと気合入れて締め付けな!」

「痛ッ!? なにすんのさ! なんでコルセット着付けてるボクが叩かれなきゃならないの!? って、ちょ、やめ……分かったからお尻を叩かないでよ!」

 悪乗りを加速させるシャーロットと女性店員。そしてその暴走に巻き込まれる少女の声が、二階から聞こえてくる。

「実に楽しそうな店だ」

「応ともよ。この際だ、坊主も楽しく着替えてみねぇか?」

「遠慮します」

 店主の声に反応して起き上がり、服の上から筋肉を膨張させて激しく肉体美を主張する店員二名。そんな怪人物達を正視してしまったアランは心底嫌そうに顔を歪めると、半ば吐き捨てるように店主の提案を一言で切って捨てた。

「そうか、そいつぁ残念だ。あの嬢ちゃんもそうだが、お前さんは見目がいいからな。着せてみたい服が幾つかあったんだがね」

「モデルが欲しいなら他を当たって頂きたい。……そうだな。今なら、二階で騒いでいるシャーロットという名前の女の子がオススメかと」

「……男モンの服なんだが?」

「男装の麗人、ということで意外と似合うかもしれないでしょう」

 間髪要れずにアランは真顔でうそぶいた。もっとも、視線はわざとらしく明後日の方向に逸らされているのだが。

 ともあれ、その振舞いからは意地でも試着しないという意思が明確に表れていた。まさに難攻不落といった様相である。エーリッヒは、彼の頑なな態度を崩すことはできそうにないな、と肩を竦めた。

「……まあ、気に入った服があれば試着して、似合いそうならそのまま買って帰りはしますが」

 視線を外したまま、アランが小声で呟いた。その一言に意表を突かれ、エーリッヒ達は目を丸くする。

 呆けた声であれがツンデレってヤツか、などと呟いた不届きな店員をギロリと睨み付け、しかし特に言及はしないままアランは周囲へと視線を移す。辺りに並ぶ完成済みの衣服を一瞥しながら、彼は薄暗い店内を散策した。

 ぐるりと店の中を周る。その途中で、アランは不意に足を止めた。

「……? これは楽器、か?」

 訝し気に呟く。その視線の先にあるのは、大小様々な弦楽器だ。

 壁の一部を改造して作られたショーウィンドウの中に幾つかの楽器が並べられている。内装には艶やかな天鵞絨ビロードがふんだんに使用されており、素人目にも職人技とでも言うべき見事な趣向が凝らされているのが分かった。

 ただし、決して狭くないスペースをわざわざ確保してまでこの場に陳列しておくことの意味と意図だけは、どうしても分からない。

 飾られた楽器をガラス越しに指さし、アランは背後にいた少年の店員に顔だけ振り返って声をかけた。

「これも商品なのですか?」

「へっ!? あー、どうだったかな。じいさーん、ここの中古っぽい楽器って売り物ー?」

「んな訳あるかバカたれが! お前は顔洗ってウチの看板見直して来いッ!」

 少年の店員が尋ねるや否や、エーリッヒの強烈な怒号が返って来た。

 そして叫ぶだけでは我慢ならなかったのだろう。彼は作業台から凄まじい勢いで現れると、半ば突撃するようにして店の奥へ店員の背中を突き飛ばした。

「―――っ!?」

 どうやらかなりの威力だったようで、張り手の直撃を受けた店員は声にならない断末魔を上げて蹈鞴たたらを踏む。そして背中を摩りながら肩越しに振り返り恨めし気にエーリッヒを睨めつけるが、しかし怪光線すら放ちそうな老人の双眸に睨み返されると、血相を変えて脱兎の如く逃げ出した。

「あー……察するに、どうやらこれらの楽器類は非売品のようですね」

「あたりめぇよ。ウチは洋裁店だ、楽器屋じゃねぇ。まあ、興味があるならそっちの専門店を紹介してやっても構わねぇが?」

「遠慮しておきます」

 答えながら首を回し、改めて楽器へ視線を向ける。

 ショーウィンドウに並べられた弦楽器は五つあり、それぞれがビル群のような、高低差がバラバラの複数の壇に安置されている。欠損こそないものの色彩の濃淡が変わり木材の一部が斑に変色していることから、それ等全てが奏者と共に長い年月を過ごした上等な逸品であるのは明白だった。

 特に最も目を引くのはヴィオラだ。

 ヴァイオリン属の楽器であり、形状そのものはヴァイオリンと瓜二つである。しかしあちらよりも一回り大きく、円やかな低音を奏でるのが特徴だ。単独での演奏では今一つ映えない印象があるものの、一度合奏に加われば音の厚みと広がりを色濃く演出する縁の下の力持ち的な存在である。

 しかし手入れを久しく行っていないのか、美しい艶は埃によってかげっている。その有様は茶褐セピア色にせた古い写真を見ているかのようだった。

(なるほど、写真か。確かにここだけ他とは違ってる)

 指先でショーウィンドウに触れ、アランは目を細める。

 周囲の乱雑に積み上げられた衣類は元より、表に飾られていた病的な装いの人形達とも趣を異にするソレ。その様を例えるならば、誰かの記憶が形を持って具現化したものなのだと、そう表現するのが最適だろうか。

 共感、懐古、感慨――頭の中に湧き出る様々な感情を咀嚼そしゃくしつつ、アランはショーウィンドウに目を向けたまま、後方に立っているだろうエーリッヒに声をかける。

 しかしその瞬間、突如として痛烈な衝撃がアランの肩周りに炸裂した。

「あの、これは―――」

「YIPPEEEE!」

「ぐふぉぁああっ!?」

 甲高い歓声を上げて突撃してきたソレ。

 アランに背後から飛びかかり、肩に腕を回して抱き着いたのは、言わずと知れたシャーロットの仕業だった。

 アランは背中に張り付く少女を半眼で見やり、注意を試みる。

「……危うくガラスに頭から突っ込むところだったんだが?」

「そりゃ大変だ、ズタズタになって危なかったね! 楽器が! ごめんねエーリッヒさん、もう二度としないよ!」

「おう、次からは気ぃつけろよ」

「…………………………………」

 快活なシャーロットの声音と、エーリッヒの豪快な笑いが店内に響き渡る。その様子を見て、アランはとてもやるせない面持ちで硬直した。

 本来ならばもっと厳しく言い聞かせるべきなのだろうが、家主が許した手前、これ以上の追及ははばかられる。よってアランはこの件を一旦横に置き、別の話題を振ることにした。

「ところで、シャーロット。気に入った服は見つかったのか?」

「うん! ホラこれ、見てみて!」

 宣言するとシャーロットはアランの背から勢いよく飛び降り、その場でくるりと回って見せる。その姿を端的に表すならば――はっきり言って、最早合成獣キマイラもかくやと評すべき異様な姿と化していた。

 色合いからして既に極彩色渦巻くサイケデリックな様相を呈しており、浮浪者の纏う襤褸ボロとは言わずとも、ツギハギパッチワークと見なされても仕方ない格好である。というかむしろ、アランにはそうとしか見えない。

 総じてそれはゴシックでカジュアルでロックでロリータでオリエンタルでパンクでパイレーツでエキセントリックな、まさに混沌カオスの権化とでも言うべき有様だった。

 そんな装いで無い胸を張りつつ、シャーロットはアランに評価を求める。

「どう、どう? 似合ってる? これってどんな感じ!?」

 アランはそんな彼女の頭の天辺から爪先までを幾度も視線でなぞり、それから淡々とした様子で口を開いた。

「飽きられて破れかぶれに手当たり次第服を着せられた、可愛そうな着せ替え人形みたいな感じだ」

「―――うん分かってた。分かってたけど、もうちょっとオブラートに包んだ優しい言葉が欲しかったよ!」

「……服に関係なくお前はかわいいゾ」

「投げないでー!」

 視線を明後日の方向へ向け、アランは棒読みぜんりょくで話を逸らしにかかる。しかしシャーロットは半ば追い縋る勢いで駄々をこねた。

「まったく……まあ、色々組み合わせて着てみたくなる気持ちは分かるけどな、流石にそれは悪ふざけが過ぎるぞ。試着が許されているとはいえ、それは商品なんだ。お店の人に冷やかしと取られてもおかしくない。ほら見ろ、エーリッヒさんが渋い面持ちでこっちを見てる」

 諭すように言い聞かせるアラン。しかしシャーロットは目を白黒させた後、もしかして、と認識の齟齬について言及する。

「んん? なんか勘違いしてる? 別にこれ、私が選んだんじゃないよ? お店の人にあれよあれよとよいではないか的な感じで装備されちゃった感じで、鏡見て皆で爆笑したからついでにお兄ちゃん達にも笑いを届けに来た……みたいな?」

「なんというか、それはそれでどうかと思うんだが……」

「確かに。済まねぇな嬢ちゃん、それに坊主。ちょっくら二階うえに行って来っから、少し待っててくれ」

 言って、エーリッヒはやや早足で店内を横断し、階段を上って二階へと姿を消す。すると次の瞬間、


「馬ッ鹿も―――――――んッ!」


 と、雷鳴のような怒声が、店内に響き渡った。

 老人特有の嗄れた低い声が、凄まじい迫力を伴って建物全体を震撼させている。まるで嵐の只中にいるような、あるいはすぐ近くで怪獣が暴れているかのような、そんな心地だ。

 しかし騒動はそれだけに留まらず、やがて女性二人分の悲鳴と罵倒スラングを加えて更にヒートアップする。

「『ばっかもーん』、か。文句はステレオタイプなのに、なんだか臨場サラウンドっぽく聞こえるね。不思議だね!」

「そうだな……そうなのか? というかこの建物、倒壊したりしないだろうな」

 二人揃って天井を見上げる。シャーロットは楽しそうな表情で、アランは心配そうに眉を寄せた。

 そんな二人の下へ、歩み寄る足音がある。

 一階に残っていた中年の男性店員だ。彼は温和な老犬のような人懐っこい笑みを浮かべて、アラン達に話し掛ける。

「いやぁ、すまないねお二方。普段はこうじゃぁないんだが、なんだか今日はじいさんも他の連中も妙にはしゃいじまってるみたいだ。いつもは客なんか一人も来ないからかねぇ」

「そういうそちらも、閑古鳥の相手には飽きたようで」

「はは、言ってくれるねぇ。図星だから言い返せない。まーぁ、気持ちいい声で鳴いてくれる鳥の方に目移りしちゃうのは、仕方がないことだと思わないかい?」

 へらりと人柄の良い笑みを浮かべ、店員は肩を竦める。

 対してシャーロットはチッチッと舌を鳴らしつつ指を左右に振り、気取った様子で異を唱えた。

「いやいや、良い鳴き声が聞きたいなら、むしろこっちから努力しなくちゃ! 何事も特訓あるのみってね。さすれば閑古鳥といえど、いずれ美しい歌声を響かせずにはいられないであろう! さあ――鳴かぬなら、鳴かせてみよう、カンコドリ!」

「わざわざ閑古鳥を鳴かせてどうするんだよ……」

 額を押さえ、呆れた様子でアランは言う。

 その一方で何を間違えたか分かっていないのだろう、シャーロットは不思議そうに小首を傾げる。それを見て、アランは複雑そうに苦笑した。

 二人の間に何処となく微妙な空気が流れる。それを払おうと、男性店員はやや空元気気味に笑って舌を回した。

「ま、まあ……お嬢ちゃんの言う通り、客寄せに歌とか踊りとかの路上パフォーマンスは定番だよねぇ。それにホラ、この埃塗れの楽器とかいい感じに物寂しそうな音を奏でたりしそうだしさぁ!」

「―――何が埃塗れで薄汚いって?」

 唐突に耳へと圧し掛かる低い声。先程まであった筈の騒音は何処へやら、いつの間にか静けさに満ちていた店内にその声は重く響き渡った。

 年の功だろうか、店員は取り乱した様子を見せず、飄々と口を開く。

「……おかしいなぁ。薄汚いなんて言った覚えはないし、それに今のはどっちかっていうと、貶すよりフォロー寄りの台詞だったと思うんだけどねぇ」

「わーってるよ。ったく、少しも驚きやしねぇ。可愛げのない奴だ」

 二階から降りて来たエーリッヒ・ツァンが嘆くようにぼやいた。その後ろには通夜のように陰気な顔をした二人の女性店員と、気落ちした彼女らに珍しそうな視線を向ける少年の姿があった。先程エーリッヒに叩かれ店の奥に逃げた店員だ。

「さっきはすまねぇな、話を途中で放っぽり出しちまってよ。詫びにホラ、これ」

 背後の三人には触れず、エーリッヒは脇に抱えていた布の塊をシャーロットに差し出した。

「今嬢ちゃんが着てるのは女三人楽しんで、楽しみ抜いて選んだ服だ。それにケチ付ける気はねぇし、実際のとこ悪かねぇ。だが俺はあえてこっちの服を推させて貰うぜ、嬢ちゃんよ。―――こいつは当洋裁店の店主、頑固爺のエーリッヒ・ツァンが仕立てた自信作だ。……良ければだが、袖を通してみてやってくれねぇか?」

 その言葉は、いっそ懇願に近かった。

 楽しかったというシャーロット当人の言葉を組んだ上で、身内の失礼を詫びている……といった雰囲気ではない。とは言え、似合っていないと怒鳴り散らしたにもかかわらず更にひどい風貌にさせてしまったことを反省している風でもない。

 無論、もしかしたら意識の根底にはそれがあるのかも知れないが、少なくとも彼の表情からはそういった後ろめたい気持ちは全く感じられなかった。

 だから、だろうか。シャーロットは特に疑う様子もなくエーリッヒが差し出した服を手に取ると、快活に笑いながらそれを見せびらかすように自分の体に合わせて掲げ、アランに尋ねる。

「どう、似合いそう?」

「とてもよく」

 シャーロットには黒がよく似合う。

 この黒いドレスは星を魅せる夜空のように、きっと彼女を美しく飾るだろう。

「えへへ、じゃあ試着してみるね! エーリッヒさん、ありがとね!」

「おう……オラ、お前らもボーっとしてんじゃねぇ! さっさと着替えを手伝って来やがれ! それから今度は絶対に余計なことすんじゃねーぞ!」

 エーリッヒに怒鳴られると、半ば呆然自失な状態だった二人の女性店員が飛び上がり、「了解Iaー!」と悲鳴を上げてシャーロットの後を追った。

「…………」

「なんだよ、言いたいことがあるなら言ったらどうだ?」

 アランの無言の訴えを受けて、エーリッヒが居心地悪そうに言う。その語気は力強いがどこか壁際に追いやられた犬の威嚇いかくめいていて、あまり迫力がなかった。

「今のはただ単に、シャーロットに気を回しただけではありませんね?」

 エーリッヒの顔を注視して、アランはとても優し気な口調でした。

 口調と表情こそ穏やかだが、その眼差しに笑みはない。それは相手の皺一つ、表情の僅かな濁りすら見逃すまいとする猛禽類のような、機械的な目付きだった。


 ―――出会ってからそれほど時間は経っていないものの、アランには先程のエーリッヒの様子がとてももののように思えていた。


 相手が傷つかないように言葉を選び、遠回しに着替えるよう仕向ける。なるほど、それは普通の対応だろう。だがエーリッヒがそれをやるのは、あまりにも。客商売としては有り得ないことだが、入店時のようにその場で衣服を引ん剝いて、強引に着替えさせる方がまだそれらしいというものだ。

 しかしそれはあまりにも朧気で、違和感としては不確かだった。

 ただ単に出会った当初は彼の機嫌が悪かっただけで、先程の態度の方がエーリッヒの素なのかもしれない。むしろそう考える方が自然だろう。しかしアランの直感が掻き鳴らす警鐘が、相手を無償で信じることを拒ませていた。

 そんな彼の意図を察しているのか、それとも気付いていないのか。エーリッヒはあーとかうーとか呻いていたが、最後には勘付かれちまったか、と嫌々口を開く。

「……あのドレスはな、俺が孫娘の誕生日に作ってやった服なんだよ」

 随分と髪が抜け落ちた頭をガリガリと掻き、エーリッヒは恥じ入るようにアランや店員達から顔を背けた。

 それを聞き、アランは店員達を見やってから無言で人差し指を天井に向ける。それを認めた二人の店員は、揃って力強く頷いた。どうやら先程二階に上がって行った少女の店員がその孫娘であるらしい。

「あいつがまだ十四の時だ。歌手になりたいって言ってたからな、いつかその夢が叶いますようにってドレスを作ってやったんだよ。そしたらめちゃくちゃ喜んでくれてな……だがあの野郎、『このドレスを着るのは私が本物の歌姫になって、その初舞台に立った時よ』なんて言ってな。結局一度も袖を通すことはなかった。まあ、ただ単に成長して着れなくなっちまっただけだがな。ハハ、笑える話だろ?」

 そう言って、エーリッヒはアランの背中をバシバシと叩いた。

 その仕草からは、出会った当初の気難しそうな様子は微塵も感じられない。ここにはただの孫思いな好々爺がいるだけだった。

「つまり何時か夢見た孫の晴れ姿を、シャーロットを通して見てみたいと……そういう訳ですか」

「まあ、な……そういう思惑が全くないとは言わねぇよ。だが今までずっと大切に保管してた新品同様の代物だし、何より絶対に似合う筈だ。それだけは保証する」

 古着を掴まされそうになっている、と思われるのが嫌なのだろう。エーリッヒは一転して真面目な面持ちで、念を押すようにアランの顔を凝視しながら言った。

 その様子から、あのドレスが余程思い入れのある品なのだろうと理解する。

 しかし理由を把握しても尚、アランの中の違和感は消えなかった。むしろ強くなっている。けれどその正体が何であるのか、未だに判別がつかない。

「分かりました、その辺りの心配はしていませんから離れてください。顔が近い」

「おっと、こいつはすまねぇ」

 頭の高さまで両手を掲げ、上体を引かせて抗議する。するとエーリッヒはおどけた様子で潔く半歩退がった。

 距離が空くのを確認してから、アランは気取られないようにホッと息を吐く。彫刻のように消えぬ皺が刻み込まれた老人の顔はいやに迫力があって、急に近づかれると実に息が詰まった。

「……ところで、そろそろ脱線した話を戻したいのだが。構いませんか?」

「あん? それは別に良いけどよ、一体何の話をしていたんだっけか……ああ、もしかして試着したい服が見つかったか?」

「違います。この楽器についてですよ」

 そう言って、アランは手の甲で背後のショーウィンドウを叩いた。

「あぁ、お前が顔面を突っ込みそうになった時の話か」

「その覚え方は今すぐにやめて頂きたい。……それで、どうしてここに楽器の展示を? この店は楽器屋ではなく洋裁店だと聞きましたが」

「別に大して面白れぇ話でもないんだがな……どこぞの楽師が指を故障して引退して、こうして未練がましくかつての人生の象徴を飾ってるってだけだ」

 左手をひらひらと振って、下らないと吐き捨てるようにエーリッヒは言う。その様子は先程に比べて実に素っ気ないものだった。

 指を故障した楽師というのは、考えるまでもなくエーリッヒのことなのだろう。

「では、楽師から服職人に転職を?」

「まあな。完全にイカレちまう前に見切りをつけて、道楽として始めたんだよ。もっとも、最初にやろうって言いだしたのは俺の連れ合いだったんだがな」

 懐かしむように目を細め、エーリッヒは顎髭を撫でた。

 その顔からは表情がすとんと抜け落ちていて、関心が薄いように思える。恐らくは楽師としての自分と、それに関連する事柄のほとんどを既に過去のものとして切り捨てているのだろう。手入れされず埃に塗れて傷んだ楽器がその証左だ。

 しかし不意に一瞬、その瞳に宿

「ああ、そうだ――

 目を見開き、汗の滲む掌を徒に開閉させる。目に見える変化は少ないものの、明らかに先程までのエーリッヒとはが致命的なまでに異なっていた。

「俺達の演奏会を録画した映像ビデオを、あの馬鹿孫に見せたことがあってな。あいつはまだ十になる前だったか。ともかくそれ以来だ、あいつが音楽をやりたいだなんて言い出したのは。最初は俺と同じでヴィオラを始めたんだが、どうしても上達しなくてなぁ」

 生気は熱意となり、少しずつ加速していく。その言は最早アランに言い聞かせているのか、それとも意味のない独り言なのか傍からは判別できなかった。

 エーリッヒは捲し立てるように、先を続ける。血走った眼は照明を浴びて狂気じみた光を照り返し、ぬらぬらと不気味に輝いていた。

「だが歌の方は上手かった。楽器はからきしだったが……―――歌の才能があったんだよ、才能が! だから何時か、あいつが歌い手で俺達が奏者っていう、家族一丸となった楽団をいつの日か必ず再結成するって、そういう約束んだッ! それが! でも、ああ、あいつに一体なにが―――――」

「―――――オヤジさん、落ち着けって。そう興奮しちゃ体に障るだろ?」

 喋り過ぎて文字通りに舌の根本が乾き軽い麻痺を起こしたのか、エーリッヒが上体を丸め曖昧に言葉を切る。二人の店員は労わるように、その萎びた背を撫でた。

(……なんだ、今のは)

 エーリッヒの狂態を前にして、アランは瞠目する。

 今のを老人の痴呆と断ずるのは簡単だろう。だが支離滅裂な部分を除けば、錯乱している割には話の筋自体は通っているし内容も鮮明だ。問題があるとすれば、それはオチが全く不明な点だろう。

 対処法の知れない怪談ほど無責任で分かり易い恐怖もない。

 けれどもアランにとっては驚きと恐怖心よりも、この店に来てから言葉を交わす内に少しずつ増大していった違和感――その正体が目の前にぶら下がっているのではないかという確信の方が強かった。


 エーリッヒの言葉、一家の接客態度、ショーウィンドウの楽器と歪な人形達。

 それ等はまったく別の事柄だ。しかしたった一つの見落としに気づくことが出来れば全ての点と点は繋がり必ず答えが出せるのだと、アランは強く確信している。


 この際ならばエーリッヒ本人から話が聞けなくとも構わない――そう判断し、アランは二人の店員に声を掛けようとして、

「あの、失礼。今の彼の言い方だと、件のお孫さんはまさか―――」

「―――話はすべて聞かせてもらった! 私にいい考えがあるッ!」

 突如として弾丸の如く階段から飛び降りてきたシャーロットの叫び声によって、何もかもが掻き消された。

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