第十七話 自殺考察(破)

 すったもんだの末幾つか試着させられたものの、最終的にアランの装いは普段着である背広姿に落ち着いた。

 鏡を睨みつつ襟を正し、身形を整えてから試着室を出る。

 すると、妙に不満気な顔をした二人組と遭遇した。レナータとエーリッヒは共に仁王立ちで腕を組み、唇をへの字に歪めている。

「……何か?」

「おもしろくないわ」

「ああ、おもしろくねぇな」

 揃って頷く二人を前にして、アランは蟀谷こめかみの辺りが痛んだように錯覚した。

 彼は呆れた様子で、億劫そうに口を開く。

「人を散々着せ替え人形にしておいて、開口一番がそれですか。無理やり袖を通させておいてよくもまあ……まさか、私自身が昨日の妹の二の舞になるとは思いませんでしたよ」

「心外だな。あそこまで酷いコーディネートをした覚えはねぇぞ。少なくとも俺は、だがな。まっ、後は若い者同士で決めるこった」

 言うが早いか、興味を失った様子でエーリッヒは店の奥に引っ込んでしまった。

 彼の突き放すような、素知らぬ振りめいた立ち振る舞いにレナータの頬が引きっている。

 彼女は乾いた笑みを浮かべながら、懸命に言い分を重ねた。

「ははは、まあ……そりゃ、最初に持ってきたのは確かに多少アレだったけど。それ以降の服は、ちゃんと似合うものを持ってきた筈よ。うん、その自信と自負があるわ。それに代金もこちらが負担するのだし、ほんのすこーしでも冒険心を出して、色々と検討してくれても……」

「いえ結構。そもそもの主旨は衣服の弁償だったのですから、これでいいんですよ。手荷物にしてもかさ張りますし、郵送するのも手続きが面倒だ」

「意外とものぐさなのね……」

 肩を落として残念そうにレナータがしょげる。その姿を見て、アランは内心で首を傾げた。

(俺の服装に対して妙に執着しているな、この人……)

 服屋であるエーリッヒはともかくとしても、歌手であるレナータがコーディネートに拘るのが解せない――とアランは考えるが、すぐさま、おかしなことではないだろうと考えを改める。

 歌手であるならば、演出としてある程度は舞台衣装などにも精通していることだろう。特に不審点にはなり得まい。

(さっきの電話が尾を引いてるのか? 何事も考え過ぎてるように思えてきた)

 例えば、と初めてこの店を訪れた時のことを思い出す。

 あの時はエーリッヒの狂態に対して、アランは拭い難い違和感と不信感を抱いた。しかし結局の所そんなものは気のせいでしかなく、結果は老年からくる病というごく有り触れたものでしかなかったのだ。

(余計な詮索は無用。俺はあの娘を護る――そのことだけを考えていればいい)

 アランは頭を振って、思考を切り替えるよう努める。するとそこに生じた意識の間隙かんげきに、するりと入り込むものがあった。

 弦を震わせ響かせる、厳かな音律。

 大小様々な弦楽器が奏でる美しい旋律は、まだ耳に新しいものだ。昨日に繰り広げられた催し物――エーリッヒ等一同が奏者を、シャーロットが踊り子を務めた一幕。その折に演奏された曲だった。

 音源は店の天井に仕込まれたスピーカーだ。どうやら店内BGMが切り替わったらしい。

「この曲は、確か……」

「―――――――――」

 琴線に触れ、直接震わせるような音の芸術。

 先日耳にしたそれを、アランは思い出す。電子によって再現された音の響きは完璧だが、しかしそれ故に何処か趣きが異っているように感じられた。

 仮に昨日の踊り子を擁した演奏会が大衆向けのエンターテインメントであるとするならば、これは差し詰め、個人の為の静かな娯楽であるといった所か。熱狂に値する力強さにこそ欠けてはいるものの、聞くほどに耳に馴染むような、豊かな親和性が精神に落ち着きをもたらしている。

 そして実際、その見当は外れていないのだろうとアランは考える。電子音楽の利点は、『いつでも気軽に音楽が聴けること』にこそあるのだから。

 そう、無論――そんなことは弁えている。

 理解しているが、それでも感じずにはいられない。

 今空気を震わせているソレには、同じ旋律であるにもかかわらず、昨日聴いたものと比べて決定的に遜色そんしょくがあるように錯覚してしまうのだ。


 熱狂に値する力強さに欠けている。

 道行く人々を惹き付けてやまないような、魅惑的な魔力が全く感じられない。


 それは果たして、その時々に楽器を掻き鳴らす奏者達が放つものなのか、あるいはその音色に相乗して舞踏を披露したシャーロットが放っていたものであるのか、それは不明だ。

 けれどその正体を――胸にこみ上げてくるたかぶりの源泉を、自分が心の何処かでそれを理解しているのではないかと、アランは無自覚にそう確信する。


 何故なら――


 メトロノームか、鍵盤を叩くピアニストのように。規則正しく指を振って、タイミングを図っていた隣人の声が、不意に美しく胸の内に木霊したからだ。


「Ah……―――――」


 全く抵抗なく、するり、と耳朶じだの奥底へ滑り落ちる歌声。

 レナータ・ボーイトが、魔力を込めて音楽を紡いでいる。



 銀の世界が傾いた夜に 生まれ落ちた貴方の愛しい微笑み

 大切な一時よ 貴方はこの月の美しさを見届けた生き証人

 私の羽根であの船に追いつくの この空を抱く鳥のような

 あの人は言ったの 無垢なお前の傷跡だけが私の生きた証

 明日もまた世界が傾き 空はあの船出を見送っていくのね



 それは、静かだった。


 慎ましく静謐せいひつで、清流に溶け消える泡沫のような、その儚さに没入する。消えてしまいそうに曖昧でありながら、寝物語を言い聞かせるように確かな形を持つ整然と並んだ言葉の群れが成すかたちは、正しく子守り歌であった。

 気付かぬ内に瞼を閉ざし、アランはその声に無心で聞き入っていた。


 歌姫。


 彼女のような存在をこそ、そう呼ぶに違いないのだろうと――その時、アラン・ウィックは無意識に確信した。


「―――――」

 やがて曲が終了する。

 空気に擦り込まれた余韻に浸り、柔らかく残響する音の残り香に身を預ける。いつまでも包まれていたい心地良い脱力感を味わいつつ、けれど店内BGMが新たなものに切り替わるよりも前に、アランとレナータは正気に戻った。

「あっ……ご、ごめんなさいね。急に歌いだしたりなんかしちゃって」

 ハッとした後、顔を朱に染めてレナータがうつむきがちに言う。アランは頭を振り、穏やかな表情で和めた。

「いえ、むしろ流石と言う他ない……私個人としては、とても良い耳の保養をさせて頂きました。それに今は幸い我々以外に人はいないようですし、咎められる心配も薄いでしょう」

「そう? なら良かったわ。……でも、あら? 『流石』?」

 レナータは不思議そうに、アランの言葉を鸚鵡オウム返しのように呟く。彼女はしばらく悩んだ風に唸りながら腕組みしていたが、不意に顔を輝かせてぽんと手を叩いた。

「貴方、実は私の正体を知っているんでしょう!」

「えっ?」

 突然の指摘にアランの心臓が跳ねる。しかしそんな事情は文字通りに知ったことではないとばかりに、レナータはしたり顔で続けた。

「助けてくれたのはいいんだけど、その後スルーして立ち去ろうとしたり、全然私に興味ない風だったから最初は『美女が野獣に襲われている所に通りがかった謎のヒーロー』とかかと思ったけど――本当は、私のファンだったのね!」

「えっ」

「うんうん、そうに決まってるわ! 咄嗟に『流石』なんて言葉が出てくる理由なんて、それ以外ないと思うし。それなら納得だわ! あら、でもそれならなんで特に何も言わず立ち去ろうとしたのかしら?」

「あー……いや、それは―――」

「―――分かったわ! 過度に接触を持とうとしないその姿勢こそが、貴方の持つ芸術家に対する憧れや敬愛の重さ、その形なのね! 分かる、分かるわ! 私だって音楽家であると同時に、偉大なる先人達のファンなのだもの! 彼等が困っていれば無言で助けこそすれ、変に目立つことをしようとは思わないわ! もし仮に私が貴方と同じ状況に遭遇したなら、私だって変に騒ぎ立てるよりも、クールに去る方を選択するもの!」

「は、はあ……」

 ひどく興奮した様子でアランの両手を握り、瞳を輝かせてレナータがまくし立てる。それに気圧されてアランは曖昧に頷くだけに反応を留めるが、しかし内心ではそこまで委縮していなかった。

 むしろ心地良い感慨を抱いてすらいる。

(まあ……ことさら否定する必要はない、か。誤解はあるが、それでも―――――)


 ―――――自分が彼女の歌に心を掴まれた、紛れもない愛好者ファンであることは、最早何があろうと否定できないのだから。


 アランはふっと口端を緩め、淡く微笑んだ。

 それを見て、レナータは笑みをより深くする。彼女は自分の口元に指を当てて、『笑み』を指した。

「ふふ、貴方って笑うと可愛いのね。素敵だわ、仲良くなりたくなっちゃう。貴方はどうかしら? 貴方から見て、私はどう見えているのかしら?」

「……素敵な人、だと思います。うん、私は貴方の歌が好きだ」

 素直な感想が、アランから口を突いて出る。何の装飾のない言葉を受けて、レナータは照れた。彼女は楽しそうにはにかんで、歓喜を示す犬の尻尾のようにアランの手を握ったまま自身の手を上下に振る。

「ありがと、嬉しいわ! ところで気になっていたのだけど、敬語は止めてお互い自然体でお話ししない? 今までの貴方の言葉は、紛れもなく貴方の本心なのだとは思うのだけど……なんだか貴方らしくないというか。

 そう言われた瞬間――アランの顏に

 見る者にそう錯覚させるほど、アランの表情は目に見えて変化した。視線が出鱈目に泳ぎ、目が火花めいて白黒に瞬く。唇は引き裂けた醜い傷口のように歪み、ぶるぶると戦慄いていた。

「な――、は……あ、いや、は」

 狼狽えて後ずさり、片手で口を隠し、もう片方の手で目を隠す。どうしようもなく動揺し、しどろもどろになるが――しかし不意に、アランは

 軽く息を吐いてから、アランは言う。

。貴方がそう言うのなら、。これでいいか?」

「ええ! よろしくね、アラン君。私のことはレナータでいいから!」

「ああ……よろしく」

 アランは――再び淡く微笑んで、頷きを返す。するとレナータは華やかに破顔した。彼女は子供の手を取り、ついと引いて歩き出す。

「それじゃあ、その服のお会計を済ませたら街へ行きましょう。時間もあまりないものね!」

「はい、行きましょう」

 頷いて、子供はレナータの後に続く。

 得体の知れない一欠片ほどの不安――何か、形容し難い違和感を胸の内に抱いたまま、子供は黒い歌姫に手を引かれて危なげなく歩き出した。


 ―――――それでいいのBowwow


 不意に何処かから、犬の鳴き声が聞こえたような気がした。

 子供はちらりと後ろを振り返る。すると展示された服と服の隙間から、犬の面を付けた子供が僅かに顔を覗かせていることに気が付いた。

 犬の面の子供は言う。


 ―――――君はどうしたいのBowwow


 犬の面の子供から投げられた問いに答えないまま、子供は女に手を引かれるままに店を出た。


 * * *


 私はアラン少年と肩を並べて、祭りの只中にある街を行く。

 街道を縁取る店々は皆一様に扉を閉ざし、その代わりに露店の群れが顔を揃えて並んでいる。

 焼いたアーモンドや、豪快に弾けるポップコーン。クレープやケーキの生地と、それにトッピングされた生クリームや果物。熟成された甘いワインと、弾けるように注がれる発泡酒。軟らかく煮こまれた野菜に、直火で焙られる肉の塊。

 辺りは様々な匂いで溢れている。食欲を刺激する無数の香りが鼻孔を満たし、それに刺激されて腹の虫が蠕動ぜんどうした。

 私は頬を緩ませて、チョコレートソースのかかった苺のクレープにかじりつく。

 生クリームの円やかな甘みが口いっぱいに広がり、その奥底からスライスされた苺の酸味や、チョコレートソースのビターな旨味に舌鼓を打つ。冷たい外気に晒される中、温かい生地から伝わる温もりがひどく心地よかった。

 ちなみに私が甘味を楽しんでいる横で、アラン少年は分厚いハンバーガーを次々と口の中に収めている。彼の腕の中には、後五つも丸い包みが残っていた。


「―――歌おう、祝おう、楽しい祭りを!」

「―――悼もう、祈ろう、人々の鎮魂を!」


 様々な形の面を付けた小さな子供の一団が、歌いながら私達の横を駆け抜けていく。彼等は鈴が沢山付いた馬酔木に似た楽器を片手に、楽し気に振る舞っていた。


 人々は祭りを楽しんでいる。

 私達も祭りを楽しんでいる。


 露店には食べ物だけでなく、射的やカードにアームレスリング等、ゲームの類も沢山あった。これ見よがしに並べられた景品を一つ一つ眺めながら、時折店主を冷やかしたりしつつ、見物して回る。

 すると途中で、アラン少年が立ち止まった。

 彼は物珍しそうに、布の掛けられた棚に陳列された商品の一つを注視している。それはただのソムリエナイフだったが、どうやら旧暦時代の神様か何かの伝承をモチーフにした意匠を取り込んでいるらしく、かなり奇抜な形をしていた。

 バネ仕掛けの一工程シングルアクションで、留め金を外せば一瞬にして栓抜きスクリュー、ハンドル、ナイフが飛び出す仕組みであるらしい。

店主マスター、一勝負よろしいかしら?」

 私は、件の景品を掲げた店の主に声を掛けた。

 アラン少年がぎょっとしてこちらを見るが、こうなれば出たとこ勝負である。勝負金を支払い、テーブルに着く。黒いスーツ姿で且つサングラスを装備した、なにか既視感のある装いの店主と私は向かい合った。

 説明されたゲームの内容はシンプルで、ダイス三個を振り、何の目が出るか当てるというものだった。


 最終的に、ゲームは私の勝利で幕を下ろした。


 学生時代に友人とサイコロで遊んでいた経験が役に立った。おかげでサイコロに仕込まれた重りにも触れた瞬間に気付けたし、相手の素早いすり替え等のイカサマも難なく目で追えたので、楽に勝つことができたのだ。

 斯くして賞品のソムリエナイフは、無事アラン少年の手に渡った。

「……本当に貰っていいのか?」

「うん、いいのいいの。ただのお節介だから」

「ありがとう、ございます」

 アラン少年が頭を下げる。

 私が笑顔を向けてソムリエナイフを差し出すと、彼は俯きがちに面を伏せて、こちらの様子を伺うように見上げながら受け取った。

 一見しただけでは過度に恐縮した態度のように見えるが、恐らくはこれこそが彼の素の性格なのだろうと、そう思う。初対面の相手に対して大人を気取ってはいたものの、本当は素直で臆病で優しい……アラン・ウィックとは、きっとそういう繊細な人なのだ。

 その姿を見て、気の小さい穏やかな大型犬を連想する。

 私はそっと彼の頭に手を伸ばし、優しく撫でた。するとアラン少年は余計に縮こまって、しかしそれ以上に嬉しそうな、くすぐったそうな顔をした。


 聞く所によると、アラン少年は妹や下宿先の住人と一緒に祭りを見回っていた途中で逸れてしまったらしい。

 今はその人達と会するべく、集合場所に向かっている最中だ。

 時間的には幾何かの余裕があるため、比較的ゆっくりと進んでいる。しかし目論見とは大抵外れるもので、予想したよりも随分早く目的地に到着してしまった。

 そこは公園だった。

 公園とは人々の憩いの場である。それはこの国においても同様だ。

 地面は寒々しい色の大理石ではなく青々とした芝生に覆われ、周囲には木が整然と並んでいる。些か小規模ではあるものの、その佇まいは森と表現しても遜色はない。温かな緑が目に優しい、とても美麗な景観だった。

 憩いの場としてはこれ以上ないほど相応しい場所だ。事実として、そこにいる人々の表情は一様に柔らかい。

 噴水に腰掛ける老人達は談笑に花を咲かせ、キャンパスを広げる青年は思い思いに筆を走らせている。若い男女は睦言に精を出し、ベンチに腰掛ける背広の中年男達は、皆が悟りを開いた賢者のような面持ちで静かに景色を眺め、子供達は楽し気に公園の端から端までを舞台にして追い駆けっこを繰り広げていた。

 楽園における平穏な一幕を眺めつつ、私とアラン少年は公園内の屋台で買った菓子を頬張る。小さな紙袋を持ち手にしたそれは、棒状の揚げ菓子チュロスだった。

 こんがりと焼けた狐色の生地が、全体に塗されたシナモンの香りと相まって、大変食欲を刺激する。数刻程前にも色々食べたので空腹感は特になかったのだが、そこはそれ。一口かじってみれば、腹の虫がもっと寄越せと蠕動する始末だ。我ながら自制心が足りないと自嘲しつつ、それごと口内のものを飲み下す。

 サクサクとした硬い歯触りが実に小気味良い。素朴な甘みを嚥下えんげしつつ、私は満足感に舌鼓を打った。

 咀嚼され、菓子と撹拌された唾液が食道を潜って胃へと落ちる。潤いを失った口内は砂糖でべたつき、喉がひどく渇いた。その感触は不快――ではないけれど、それでも違和感は強い。

 欲求の赴くまま、私は反対の手に持つ紙コップに軽く口を付ける。

 紙コップの中には薄く湯気の立つ黒い液体が満ちている。チュロスと同じく屋台で販売していたホットコーヒーだ。香り高いそれを一口啜って口内のべたつきを押し流し、ほっと一息吐く。

 ふと見上げると、公園の真ん中に植えられた巨大な樹が視界に入った。

 その幹は太く精悍で、けれど枝先に咲く花弁の色は淡く美しい。風に吹かれ枝がそよぎ、花びらが舞う様は壮観だった。

 桜。その花言葉は『精神の美』。

 一度はこの地上から姿を消したものの、現代の卓越した科学技術によって蘇生した植物、その一つである。

「……穏やかなんですね、どこもかしこも」

 不意に、隣のアラン少年がぽつりと呟いた。

 私はその言葉の意味する所がよく分からず、思わず小首を傾げてしまう。しかし次の瞬間には、彼の言いたいことは概ね把握できた。

「つい最近、万単位の死人が出た割には――ってことかしら?」

「まあ、そんな所です。でもよくよく考えてみれば、死を悼んでいる人間が態々、祭事中に表に出るなんてことはない……か。失言だった」

 私と同じく、桜の樹を見上げながらアラン少年は言う。

 桜の樹の下には死体が埋まっている――きっと彼は、そう考えずにはいられない性質なのだろう。人々の喜びの下には悲しみが眠っているのではないかと邪推するのは勝手だが、その認識を人に伝播するのはよろしくない。

 とはいえ、流石にそこまで彼の性根は捻じ曲がっていないとは思う。けれど、失言であることまでは否定できないだろう。


 だがまあ、強いて言うなら。


「その辺りは、当人の感情次第だからね。明るく振る舞って悲しみを吹っ切りたいって人も、そりゃ一定数はいるんじゃないかな。でもその努力を察したのなら、それを尊ぶのも哀れむのも無粋ってもんだよ、少年。まっ、旧歴時代は宗教だの何だので、その辺りのことがちょっと面倒くさかったみたいだけどさ」

 そう言って、私はまだ温かいコーヒーを舐めた。

 それからその場で踵を返して、後ろを向く。そこにあるのは転落防止用の高い鉄柵と金網、そしてその手前から生える手摺だ。

 私は手摺に片腕を預け、反対の手を振ってアラン少年に私と同じ方を向くようジェスチャーを送る。

 私達がいる公園は首都の南端にあり、壁内の景色を展望できるよう半ば高台のように突き出た形となっている。そこから見えるのは絶景だ。

 月と星と太陽がぼんやりと灯る灰色の空と、城壁内に広がる色取り取りの家屋の群が対比となって美しく映えている。高度では飛行船に、躍動感では汽車の車窓から観る景色に劣りはするものの、直に地面に足を付けて見下ろす俯瞰には、前二つとはまた別の趣きがあるように感じられた。

「……?」

 散漫に辺りを一瞥していたアラン少年だったが、不意にある場所で視線が止まる。この高台の直下――五十メートルほど距離を隔てたそこには、巨大なコンサートホールがあった。

 綺麗な擂り鉢状に整えられた剥き出しの施設には、幾つもの客席が並んでいる。最低でも千人は座れるだろうか。その中央には円形のステージがあった。

 そんな古典劇場オルケーストラを思わせる施設に、少なくない数の人が集まって何かをやっている。目を凝らして見てみれば、どうやらカメラなどの機材の設置作業をしているようだった。

「あれは……」

「今日のお祭りの目玉イベント、そのステージよ。一応、今朝から正式にスケジュールも公開されているわ。で、その主役が―――」

「―――貴方、という訳だ。歌姫、ミス・レナータ」

 言葉尻を繋げて、アラン少年が悪戯っぽく笑う。私はその表情と、歌姫という称号に、思わずどきりとしてしまった。

 思わず照れてしまう。

 面映ゆく頬を掻く。そんな私を見詰める少年の瞳が、特別眩しく感じられた。けれど不意に、その輝きが僅かに濁る。

「どうかした?」

 私は首を傾げた。

 アラン少年はぎくりと一瞬だけ目を見開いてから、躊躇いがちに口を開く。

「いえ……少し、いや、かなり野暮なことを考えてしまって」

「と、言うと?」

「どのような形であれ、その……死に関連した催しで歌うことを、貴方はどう思っているのだろうか、と」

 慎重に手探りで言葉を選びつつ、アラン少年は言った。

 私はそれを聞いて、なんとなく彼の言いたいことを察する。なのでその確認の意味も含めて、したり顔で一つ質問を投げてみた。

「アラン君。貴方、確かこの国の外で育った人だって言ってたわよね。だから分かり辛いのかもしれないけど……―――このヒュペルボレオスではね、死ってそんなに重いものじゃないのよ」

「……?」

「今のヒュペルボレオスの文化とかなにやらは、旧暦時代のものがほぼそのまま流用されているわ。でもその中で不合理だと切り捨てられたものが多くある。……ほら、この国って、壁で囲まれてるじゃない? 大きすぎて拡張も出来ないし、だから使える土地は限られてくるワケ。余分なものを作るスペースがないのよ。さて――ここで問題です。狭い土地の中で生きなければならない状況下で、機械マニトゥが真っ先に排除した旧暦時代の施設とはなんでしょう?」

「―――墓、ですか」

「その通り。ついでに青空教会を始め、旧暦時代の宗教もマニトゥが全て取っ払っちゃってるわ。だから壁外のヒュペルボレオス傘下の施設とは違って、ここでは亡骸は全て焼却されて廃棄されるの。だから死は特別なものじゃない。ものと一緒」


 捨てられるの。


 最低限、その一言は飲み込んでおく。

 医療技術が発展し、個人の平均寿命が大きく延びた現在では、私達楽園の民にとって死はやはり縁遠いものでしかない。別けても自然死というものは。そうでない場合は、言葉は悪いが他人事と言う他ないのだ。

 けれど土地が有り余り、尚且つ死の危険で溢れた壁外の環境では、死というものが絶えず意識され、自然に特別視されるようになったとしてもおかしくはない。

 アラン少年も、きっとそういう手合いなのだろう。死を不吉なものと考えている。いや、その認識そのものは間違ってはいないのだけれども。

「でももちろん、流石に路傍の石と同義ではないわ。だから今日、私は歌うの。自殺した人々を……いえ、違うわね。死んでしまった人々――その死を悲しんでいる人達を、慰めるために」

 確信を込めて、断言する。

 するとアラン少年は何も言わず、何かを諦めたような、どこか寂しそうな微笑みを見せた。

 ……私は何か間違えてしまっただろうか。いや、きっとそうではないのだろう。ただこればっかりはのだと、私は納得せざるを得なかった。

 重い沈黙が暫しの間場を満たす。

 気まずい。私の方から何か新しい話題を振るべきだろうか――と考えていた所で、先んじてアラン少年が口を開いた。

「一つ、聞きたいことがある。死が特別なものではない、というこの国における共通の見解は概ね理解できた。では、それなら、貴方自身はどう思ってるんだ?」


 死、というものについてどう思うか。


 それは死を想えメメント・モリ――なんて、哲学や芸術に属する類の質問ではない。死を特別視しない街で生きてきた私が、『死』というものをどう思っているのか。その純粋な所感を尋ねられているのだ。

 さて、私にとって死がどんなものか? そんなものは決まっている。

「死は――とても怖いわ。私は、死のうとは思わないの。絶対に」

 実に申し訳ないが、それが私の答えだった。

 自殺者の慰霊を歌う身には相応しからぬ言動だと取られても不思議はない。けれどアラン少年はそれを詰るでもなく、むしろほっと溜息を吐いていた。

「なるほど。それを聞いて、少し安心しました」

 私もそれを聞いて安心した。

 彼が何について安心したのか、それは定かではないけれど。

「そう、それはよかった。とは言ったものの、大抵の場合、望みがある内は誰だって死ねないわよね。むしろ『死ねるか!』って感じ?」

「うん、俺もそう思うよ。むしろそれが普通なんだと思いたい」

「そうそう。嫌なことがあっても、乗り越えようと努力すれば乗り越えられるもんよ。私も無銘からの叩き上げだしね。『待て、然して希望せよ』、とはよく言ったものだわ」

「……大デュマ、ですか?」

「ええ。実のところ、愛読書よ」

 片目を閉じて、悪戯っぽく笑って見せる。それに釣られて、アラン少年も笑みを返してくれた。


 ―――リリリリリリリリリリリリリリリリッ


 不意に、コートのポケットに仕舞ってあった携帯端末が律動する。私は目礼で少年に断りを入れると、それを取り出して電話に出た。

「―――――」

『―――――』

 幾らかの言葉を交わしてから、通話を切る。そして私はもう一度アラン少年に頭を下げた。

「ゴメン! 私、この後のイベントのことで急に予定が入っちゃって、今から事務所に戻らなきゃならなくなった!」

「そうですか。分かりました。では、次は舞台で。必ず聴きに行く」

「うん! それじゃ―――」

「―――あっ、ちょっと待って」

 空の紙コップを握り潰し、今まさに駆け出そうとした所で呼び止められる。私は肩越しにアラン少年を見返して、首を傾げた。

 アラン少年は逡巡するように、言葉を探すように、口を意味なく開閉させる。暫くそれが続いたが、やがて彼の中で『言いたいこと』が輪郭を帯びて形を持ち、そのまままるごと大気に吐き出される。

、集団自殺は、どういう扱いなんだ?」

「―――――は?」

「この国の住民にとって、死が軽いものだというのは分かった。だから死にたくなった者は、死にたくなった時に死ぬ。貴方と同じように、。……ねぇ、ミス・レナータ。そういった人間が、何の合図や打ち合わせもなしに、どうして何百人という単位で自殺なんてしたんだろう?」


 それは過去に、一週間ほど前、実際にあった話。


 集団、というよりはまるで群体のような動き。それによる一斉の身投げ。

 なるほど、それは確かに不可解だ。あまりにも理解不能、摩訶不思議。超常現象めいていて、だからこそ私には事の真実など思いもつかない。

 けれど――ああ、


 ―――――チクタク、チクタク


 私の中で、何かが音を立てて切り替わる。ギアの変わる歯車のように。あたかも何かのスイッチON/OFFが押されたかのように。

 私は口端を歪めて唇で弧を描き、ひらりと片手を上げてみせる。

「それは分からないわ。でも、そうね――。もし私の目の前にとても悍ましい化け物がいて、そいつにひどく惨たらしい殺され方をするとして。もしその状況下で、私の手に拳銃ピストルがあったなら。私は戦うのではなく、自殺する方を選ぶわ」


 ―――


 唇が動く。体が動く。

 私は右手の人差し指と親指を立て、それを拳銃に見立てて蟀谷に押し付けた。そして桜の樹を背後に、自殺する真似をする。

 ふざけた寸劇を終えると、私は踵を返して歩き始めた。

 振り返る間際のアラン少年の表情がどんなものだったかは、逆光が邪魔で伺うことが出来なかった。

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