第十八話 Beyond Another Darkness

 日は暮れて、既に夕刻。

 五十メートル天上に緑豊かな公園を頂いたコンサートホールは、既に観客で溢れていた。擂鉢状にくぼんだ客席はもちろん、その周囲を取り囲む立見席すら黒山の人だかりでごった返している。

 その立見席の中央、最前列にアラン等一行が陣取っていた。

 四人とその他の人々の間には、心なしか微妙に隙間が空いているように見える。触らぬマフィアに祟りなし、という理屈だ。

 それを嘆くように――ではないものの、カルティエは沈んだ面持ちでうつむいている。アランも同様に顔を伏せ、無言で奇妙な造形のソムリエナイフを眺めていた。

「二人ともずっとこの調子だな」

 エドガーが肩を竦めて言う。

 アランは合流してから。カルティエは、その前から目に見えてテンションが低くなっている。そんな二人の様子を見て、エドガーとシャーロットは顔を見合わせて首を傾げた。

「カルティエさんはともかく、お兄ちゃんは……失恋でもしたのかな?」

「違う」

 間髪入れずに否定して、アランはようやく平常な状態に復帰した。

 彼はソムリエナイフをポケットに仕舞い、自分の中で何かのスイッチを切り替えるように、右手の指を鳴らす。


 ―――ぱき、ぱき、ぽき、ぱき


 硬い革靴の底が階段を叩くような、順序だった快音が鼓膜に届く。それで以って自己の変革を完了せしめて、アランは隣に立つカルティエに目を向けた。

「カルティエ」

「―――! えっ、は、はひっ?」

「今一度改めて謝罪させて欲しい。君が今日の祭りに合わせて予定を練っていたのを知っていながら、団体行動から離れて不要な混乱を呼んでしまった。君が機嫌を損ねてしまうのもしょうがないと思う。それと同時に自分の不甲斐なさを痛感する。重ね重ね、本当に申し訳ない」

「いや、そういう訳ではなくてですね! アラン君のことは怒ってません! それに機嫌が悪くて黙りこくっているのではなくてですね、その、今は自己嫌悪で忙しいと言いますか……」

 ごにょごにょと、カルティエは言葉尻を曖昧あいまいに濁す。

 見当が外れた形となったアランは首を傾げ、何気なく問いかけた。

「と、いうと?」

「その……件のトライアド構成員が、ヒューマノイドと誤認して女性を――しかもこれから大舞台を飾ろうという、ミス・レナータを乱暴しようとしていた、ということについて、思う所がありまして。アラン君が偶然通りかかったから良かったものの、もしそうならなかったと考えると……それに結局、謝罪も出来ませんでしたし……」

「いや、流石にそれは君が責任を感じるようなことではないのではないか? 父親が組織のトップだと言うだけで、別に君自身が属員という訳ではないのだろう?」

 首を反対側に傾け、アランは問いを重ねる。カルティエはそれに答えず、沈痛な面持ちで曖昧に濁すのみだった。

 代わりに、横からエドガーが割って入る。

「まあ、その辺りは理屈じゃないからな。論理的には自分は悪くないと分かっていても、心情的な部分で咎めるものがあるって感覚は誰にだってあるさ。特にカルティエちゃんは、将来の夢がちとアレだからなぁ」

「? アレ、ってどんな夢なの?」

「ちょ、ちょっと! エドガー!」

 エドガーのあえてぼかした物言いに、シャーロットが食い付く。その一連の流れによくないものを察知したのか、カルティエが声を荒げてエドガーを止めに掛かるが、アランの絶妙な立ち回りによって完璧に妨害された。

 エドガーは茶目っ気たっぷりに片目を瞑って、言う。

「カルティエちゃんはさ、いつかトライアドのビッグボスことホァン・ガウトーロン――つまり自分の父親をこの手で逮捕してやるんだ……って十歳の時言ってた」

「おお! 正義! かっこいい!」

「なるほど。それがカチナドールを目指す原動的な理由になった訳だ」

 瞳を輝かせるシャーロットと、納得した風に頷くアラン。そんな二人の反応に顔を真っ赤にして一層縮こまりながらも、カルティエはしっかりと首肯を返した。

 そして一気に反覆し、自棄を起こしたように語気を強めて語り始める。

「そ、その通り、です。―――私はカチナドール・ココペリになって、必ず父様をブタ箱にぶち込んでやるんです! そしてトライアドの組織体制をブラックから完全に無害なホワイトへテコ入れしてやりますよ! その構想も大体できてますから!」

 固く拳を握って、演説さながらにカルティエが叫ぶ。

 エドガーとシャーロットが小さく拍手を送るのを尻目に、アランはふむ、と顎に手を当てる。

「意外だな。即日解体するものかと思っていたが」

「いえ、それがそういう訳にもいかなくてですね……」

 先程までの勢いは何処へやら、カルティエは歯切れ悪く目を逸らして指先を擦る。煮え切らない態度の彼女に「どういうことか」、とアランが尋ねようとするのを、エドガーが遮った。

「おっと、それは俺が説明しよう。―――まず前提として。アランちゃんとシャーロットちゃんは、今の人類の総数が盛期である旧暦時代と比べてどれくらい減ってるか知ってるか?」

「うーん……確か、今が五千万で……」

「旧暦時代は約七十億人ほどいた、とされている。……かつての繁栄は見る影もない、と言わざるを得ないな。何せ一パーセントにも満たない数字なんだから」

「その通り。壁の外の環境も荒れ果てているから、旧暦時代の尺度で言えば、人間という種は紛れもない事実上の絶滅種ってことになるな。ではそうなった現状、人類繁栄のために機械マニトゥが実施しなければならなかった政策とはなんでしょーか?」

 なぞなぞめかして、意図して明るくエドガーは尋ねる。

 シャーロットは難しそうに眉根を寄せ腕組みして考えているが、彼女が答えを出すよりも先に、アランは答えを口にした。

 といった様子で、吐き捨てるように彼は言う。

「意図的な中絶や堕胎の禁止ですか」

「正解。どんな過程で妊娠した子供であれ、どんな遺伝子情報を持って生まれた子供であれ、必ず母親は産まなければならない……って法律で決まってんのさ」

 語調は軽く、しかし神妙な顔つきでエドガーは頷いた。

(なるほど、確かにカルティエが説明するのは酷な内容だ)

 彼女の出生に関する情報データを思い出し、アランは自身の胸の内にどす黒い塊が満ち、喉の辺りでつっかえるのを自覚した。それはどろどろと溢れ、溶岩のように熱を持っている。

「子供は必ず親元から放され、施設で義務教育を行う――ってのも、その辺りが理由として関わってる。出産を義務付けている以上、国全体が育児の負担をするのが道理だって訳だからな」

 言いながら、エドガーは自分の手が無意識に懐へ伸びているのに気付き、それを下ろした。強いストレスを感じるとニコチンへ逃避したくなるという、彼の悪癖の表れだ。

 抗い難い欲求を、言葉を重ねることで噛み潰す。

「お題目の一つである思想の不純化を防ぐってのも本当なんだろうが、『親元から必ず引き放す』って法は、望まれなかった子供にとっては必要な措置だからな。特に先天的な疾患を抱えた子供なんかは……ぴたりと才能が一致する職業があれば大して問題はないが、そうじゃなきゃ―――」

「―――暴力団マフィアにでも入る以外に、選択肢がない」

 エドガーの言葉を補完して、アランは先刻遭遇したトライアド構成員のことを思い出す。

 顔付き、言動、挙動――その全てが異様であったし、またマニトゥの言によれば、人相の識別能力にも欠けているという話だった。

 無論、遺伝子に由来する先天的な病――それを持つ人間の全てが、まともな職業に就くことが出来ない訳ではない。けれど世の中には、必ず例外が存在する。本当にどうしようもない物事というものは、確実に実在するのだ。

 トライアドとは、そういった者達の受け皿でもある。

 だからあのマニトゥですら、その存在を許容しなければならない。それほどまでに、事態は捻じれて歪んでいるのだ。


 だから―――


「―――、きっと私が何とかしてみせます。必ず」


 固い決意を込めた言葉で以って、カルティエは沈黙を破り、断言した。

 その姿は気高く、正しい。正義そのものであるように見える。少なくとも、アランやエドガーはそう感じた。


 ―――――チクタク、チックタック


 時刻は五時五十分。

 空模様の移り変わりが虚ろなヒュペルボレオスでは、毎日六時間毎に尖塔の頂にある鐘を鳴らす慣わしとなっている。

 そしてレナータのコンサートの開始時間は、今から丁度一週間前――何百人もの人間が集団で投身自殺を行った時刻、六時丁度に夕刻の鐘が鳴り終えてから決行する、というスケジュールが組まれていた。

 いよいよ始まるということもあってか、会場のざわつきはピークに達している。

 その騒めきに便乗する形で、アランは予てから疑問であったことをカルティエに尋ねることにした。

「ところでカルティエ。君のその腰に付いているものはなんだ?」

 カルティエの背腰部を指さして、アランは尋ねる。それを受けてカルティエは、「これですか?」と腰に巻き付いたソレを軽く叩いた。

 一言で表すなら、それは小さなタルのようなものだった。

 金属質な銀と蒼のフレームに覆われた、角ばった円筒形の物体。カルティエはそれを分厚いベルトで腰に固定しており、あたかもウエストポーチの如く装着している。

「これは私が自作した専用の魔導書ライブラリです。成層圏プラットフォームを介して地下工房のサーバと繋がっていて、電子分解して保存した特定の物質を電送することができるんですよ―――」


 成層圏プラットフォーム。


 それは無線機を内蔵した飛行船を成層圏に常駐させ、移動局や中継局として利用し、広大な範囲での無線通信を可能とするシステムの名称だ。

 このシステムならば星暦紀元前において主流だった人工衛星を介した通信とは違い、巨大で煩雑な専用の無線設備や中継局がなくとも、手元にある簡便な携帯端末で電波の送受信が容易に行えるのである。まさに画期的なシステムだった。

 このシステムによってヒュペルボレオスは壁内はもちろん、壁の外にある遠く離れた基地コミュニティともリアルタイムで繋がることが出来る。


 これから始まるレナータの歌も、文字通りにあまねく全国へ届けられるだろう。


「―――ちなみにこれは一般的な音声入力式ではなく、ここにあるタッチパネルで暗証番号を入力することで、指定した物品を取り出せるという仕様です」

 そう言って、カルティエはポッド型魔導書ライブラリの側面に設えられたタッチパネルに四桁の番号を入力する。すると留め金が外れる音がして側面部の蓋が解放され、がらりと自動で展開した。

 歯車式開閉棚ラック・アンド・ピニオンの如く、金属の引き出しが外気に晒される。そこには拳銃が安置されていた。三十八口径の小振りな銃身と、それに合致する規格の弾丸が装填された弾倉マガジンがずらりと並んでいる。

 銃の銘は『カルメラ』――トライアドにて実戦配備されているモデルだ。


 カルティエは無言で棚を閉める。


 そしてもう一度四桁の番号を入力する。すると再びラックが開き、新たな中身を覗かせた。

 そこには、一挺の銃が固定されていた。

 しかし『カルメラ』ではない。全くの別物だ。その形状は既存の銃器と全く一致しておらず、白銀の銃身は大型拳銃のソレよりも更に分厚い。また銃把グリップの底部には弾倉ではなくケーブルが生え、その先端には電子機器の接続端子が備わっている。

 総じて、その外観は銃器というよりもむしろ工具に近いものだった。


 カルティエは無言で棚を閉める。


「―――という訳で、この魔導書ライブラリに納まるサイズの物品なら何でも出し入れすることができるのですよ!」

 高らかに言い放ち、満面の笑みを向けてくるカルティエに対して、アランは頭痛を抑えるように自身の蟀谷こめかみを指先で叩く。

「遂に隠さなくなったのか……」

「お兄ちゃんが迷子になった時はデーンとフル装備になってたから、その時に色々吹っ切れたんじゃないかな」

 シャーロットが愉快気に微笑みながら所感を述べた。

 斯くしてカルティエは開き直り、どことなく沈んでいた雰囲気ムードも元の勢いを取り戻す。アランはそれを善いことだと感じた。

 祭りの最中――これからまさに死者への慰霊の歌が捧げられようという時に、陰気な空気は似合わない。


 ―――チクタク、チックタック


 ホールの片隅に設えられた、巨大な時計の針が進む。するとそれを皮切りに、街中に、国中に――世界中にあるスピーカーから聞き慣れた人工音声が迸った。

『やあ――やあやあ、皆の衆! 紳士淑女の皆様方、老若男女の皆々様方。年に一度、今日一日こっきりのお祭りを楽しんで頂けているかな?』

 マニトゥの口上が響き渡り、広場一帯に溢れていた騒めきが一瞬にして消える。

『此度は不幸な事故を予見して、毎年この日の目玉であった航空機コンテストは、残念ながら機体の展示のみに留めさせて頂いている。さぞ各関係者各所や熱心な観客の皆様にとっては残念無念、といった所だろう。けれどその口惜しさを、嘆きを、感嘆に変える催しを用意した! 現状、この楽園で用意できる最高位の芸術さ。これ以上はないという旋律を、遍く世界に届けよう。故に君達は存分に、これから始まる彼女の全てウタを堪能してくれたまえ!』


 ―――チックタック、チックタック


 ―――リィーンゴゥン、リィーンゴゥン、リィーンゴゥン、リィーンゴゥン


 秒針が十二を指すと同時に、間延びした金属音が遥か頭上から聞こえてくる。

 六時丁度を知らせる、ヒュペルボレオスの尖塔―――その頂にある鐘の音だ。


 それを合図に、ホールの舞台上に設えられた仕掛けが駆動する。歯車と発条、そして蒸気機関の働きによって各所のシャッターが展開し、その奥から昇降装置が押し上げられて昇ってきた。

 まず現れたのは機械だった。

 それは捩じれた無機物オブジェだった。無機的な光沢を宿した鉄の塊。歪曲し背の曲がった柱の先端で、球形の頭が項垂れている。そしてソレの全身は楽器で出来ていた。

 頭には喇叭ラッパの口が備わっていて、首は管楽器フルートになっているし、腹には太鼓が並んでいる。そして多段の鍵盤がスカートのように腰から下を取り囲み、それ等を操作する鉄の指が各所に生えていた。

 自動演奏楽器サーヴァント・オルゴール――蒸気機関によって駆動する、此度の舞台を彩る従者である。

 弧を描く形で三列の陣を組む従者達。その配置が意図する所は明白だ。そも彼等は脇役である。今より現れる主役をより目立たせる為の、単なる舞台装置に過ぎない。


 次いで、五人の人影が顔を出す。


 機械の従者達――その主が遂に壇上へ登場する。

 洒脱なタキシードを着たものが二人と、黒と黄色のドレスを着たものが二人。男女交互の組み合わせが扇状に並ぶその中心には、黒い衣装を纏った歌姫が陰鬱に俯いた態勢で佇んでいた。

 着ているのは喪服を思わせる、漆黒のマーメイドドレスだ。

 肢体の輪郭を浮き彫りにし、吸い込まれるように艶やかに映えるデザインと色彩に比べ、布地は分厚く絢爛に重ねられている。しかし豪奢なスカートに対して上半身は肩や胸元を大胆にも露出した、明け透けにして簡素な拵えに留まっていた。


 黒い髪に銀の瞳を持つ歌姫と、楽器を携えた四人二組の奏者が整列している。


「―――――?」

 その情景を目にして、アランは強い既視感に眩暈を覚えた。

 よくよく見て見れば、壇上に上がっている奏者はエーリッヒの店で見かけた店員達だった。彼等は一様に不敵な微笑みを浮かべて、各々が手にした弦楽器を大事そうに抱えている。

 そこにヴィオラを持った老人の姿はない。その状況からは――何故か、酷く悪意的な諧謔かいぎゃくを感じさせた。


 ―――リィーンゴゥン、リィーンゴゥン、リィーンゴゥン、リィーンゴゥン


 やがて鐘の音が途絶え、重い余韻だけが残響する。それが完全に溶け消えない内に、奏者達が楽器を構えた。


 直に聞こえる弦楽器の音色。

 そこに相乗するのは、機械の従者達が発する伴奏だ。無数のハンマーが鍵盤と太鼓を叩き、蒸気の息吹が管楽器フルートを鳴らす。そしてそれ等の演戯――その全てが、都市中のあらゆる場所に設えられた無数の音源メディアから放送されていた。

 会場にいる人々は奏でられる旋律に耳を傾け、電波を通じて世界中がそれに共感する。

 この世の万物が、地上に存在する遍く生命が、その音を聞いていた。


 その中心に立つのは、黒い歌姫だ。


 黄昏。逢魔が時。魔の時間。昼夜の判別が付かない、二色の空を女は頂く。

 東と西。灰色と漆黒。太陽と月夜。曖昧に、けれど明確に世界が真っ二つに割れた今日この時―――――空の境界を背負った歌姫は、ただ悠然と佇んでいた。


 荘厳な旋律が造る坩堝の真ん中で――俯いていた黒い女が、貌を上げる。


 黒い髪。銀の瞳。白い肌。

 美しい顔立ちが露になる。


 その様相が孕んだ感情は窺えない。

 真剣に張り詰めているのではなく、けれど冷静に達観しているのではない。機械のように、昆虫のように、ただ無機質な何かが彼女の表情カオを塗り潰していた。

 無貌。

 人間らしからぬ全くの無表情――それが不意に、嘲笑するように



 此処に生と死の天秤を眼前へと翳し 諸人の罪を測るる

 なれば冥界へ船出する警笛を鐘に神曲の幕よいざ上がれ



 そうして、遂に造られた歌姫は産声を上げた。

 レナータ・ボーイトは歌う。純粋に、無辜に、滑稽に――無我にして無想の境地で弔鐘の歌を唄う。


 その声色は美しい。

 その言葉は美しい。


 耳を通して、脳髄の奥へと音が浸透する。その音律は聞いた者の魂を直に掴んで揺らし、夢のような心地に誘わせた。

 魔力の宿る歌声。無常な、形の無い芸術。

 揺蕩うように聞き入る観客達が、背筋を総毛立たせる感動に涙して、次々と眠るように目を閉ざしていく。視覚を断ち、聴覚に全神経を集中させたいのだと、彼等の脳が無意識に判断を下した結果だった。


 まるで魔法に掛ったように、人々は歌に聞き惚れる。

 まるで麻薬に溺れるように、人々は楽に身を委ねる。


 その時――会場にいる全員が、街にいる住人が、世界中に存在する総員が、それ等の全てが集団で催眠術にでもかかったかのように、一人の女の歌声に聞き入っていた。

 音楽に浸り、その美しさの悉くを誰も彼もが堪能する。

 すると脳の奥で、頭の裏の方で、何かが閃くのを人々は知覚した。

 鮮烈で新鮮な、尊い光。空気。そんなものが自分達の周りに在るような気がして、人々は目を開く。すると彼等は驚愕によって、一様に目を見張った。


 


 瞼に閉ざされた暗黒を潜り抜けて。灰色に閉ざされた空を貫いて。

 闇を超えた先にあったのは、無限に広がる蒼穹だった。。しかもそれはかつての記録にあったどんな景色よりも数段、圧倒的に美しいように思えた。

 丸く白い太陽と月が青い空の端に在り、その境を無数の色が縁取っている。虹のように鮮やかに、けれど淡い色彩が濃密に塗り重なった風景。それは赤と橙と黄と藍と紫と、もっと沢山のスペクトルで構築された色の境界線であった。


 ―――――黄昏。


 旧暦時代においては有り触れた、けれど何よりも美しいとされた風景。そして今はもう失われた筈の世界――青空が、確かにそこに存在していた。


 歌姫はその景色を――青空を謳歌うたう。


 まさしく世界が違って見える。

 誰もがその有様を平然と受け止めて、人々は世界の美しさに酔いしれていた。

 けれど――ああ、

 何人かが気付き始める。その美しさの裏には、度し難い何かが隠れているのではないかと。そのあたかも美しいように見える色彩の群れは、被食者を魅了するために食虫植物か何かが鎧った擬態のようなものなのではないか、と。


 そして事実として―――――その予感は、当たっていた。


 小さな波紋が広がるように、少しずつ、誰かがソレに気付いていく。

 最初は小さな変化だった。形容し難い不安感のようなものが、胸中に満ちていく。そしてそれが溢れた頃に、哀れな諸人は嗅いだこともないような悪臭を知覚するのだ。

 そして変化は聴覚にも訪れる。

 あれほど美しかった筈の旋律が、何か衝撃的な罪深いものへと変わったように聞こえてくるのだ。

 それはあまりにも音程が低く、不快だった。

 まるで苦悶による合唱や不当に死した者共の嘆き、不吉に引き伸ばされた獣の鳴き声や怒号、そういった自然の内包した負の側面、そのものを煮詰めたような不快極まる玉虫色の音色をしていた。


 異変は嗅覚、聴覚、と続いて――やがて、視覚へと移る。


 目に見えるのは青空。青い空、空――いや、

 そう、誰かが首を傾げる。そして次の瞬間に絶句する。

 。太陽と月――彼等が先程までそう思って見上げていたものを見詰めて、唐突にそう確信したのだ。

 白く濁った曖昧な輝きは、まさに見開かれた目玉そのものだった。そう理解した瞬間、空の色彩――濃淡の境界そのものが、全く別のものに見えてくる。


 それは巨大な生物だった。


 その時、誰かが理解した。

 空とは虚空ではないのだと。頭上一杯に広がるこの空一面は、青黒い生物の体躯の表皮に過ぎないのだと。かつて打ち上げられたロケットや人工衛星が、一体何に呑まれて消えてしまったのか――その正体を。

 太陽と月の満ち欠け、空模様の変化や濃淡。そういったものは、天上を覆い尽くすあの醜悪な化け物の一面に過ぎなかったのだと。美しいように見えた色の移り変わり――赤と橙と黄と藍と紫への変異は、一部の生物が保有する迷彩のような、悍ましい肉の誤魔化しでしかなかったのだと―――――やがて、誰もが理解する。

 誰かに言われるでもなく、人々はこの宇宙に広がる恐怖を次々と認識する。

 自分達の頭上を塞いでいた灰色の空は、そこにある存在からこの世界を覆い隠し、認識させないための閉じ蓋フィルターだったのだ。無機質で無感情なソレは、不定形の怪物が降り注いでこないようにするための安全装置だったのだ――と。

 ぎょろりと、太陽と月だったものがうごめく。それを見た誰かの喉が引きった。


 それは邪悪だった。

 それは醜悪だった。


 悍ましい魔笛フルートの音色で讃えられる、青黒い怪物。この世を埋め尽くす不定形の化け物。人知の及ばぬ沙汰の外、完全な埒外に在る魔なる物。


 其は魔王。

 其は万物の王。


 死という概念、それが目に見える形を持って具現した姿。


 混沌という究極の虚空に座す暗澹あんたんたる渦動――その中心に在るもの。最早邪神としか形容できない、惑星全土を包む白痴にして強大な生命体が、好奇心に満ちた眼差しで全人類を見下ろしていた。

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