第十九話 Suicide Cycle 1

 此処に生と死の天秤を眼前へと翳し 諸人の罪を測るる

 なれば冥界へ船出する警笛を鐘に神曲の幕よいざ上がれ



 青空の化身の下、黒い歌姫の歌唱が虚空に響く。

 ソレが見下ろす地上には、ただ狂乱があった。知的生命体が狂い果て、醜く死に絶える様があった。ソレはただ、その有様を楽しそうに眺めていた。

 ――ソレを見上げる人々は、ソレが自分達の狂乱と騒乱を楽しんでいるものと信じてやまなかった。



 お前の心臓は掌へ 魂は樹の枝葉に乗せ 躰は翼の上に



 ヒュペルボレオス全域に設けられた鉄道を、蒸気機関車が疾駆している。

 その先頭車両――青と黒のビロードで彩られ、絢爛な照明シャンデリアで照らされたホテルのような内装。そこには等間隔に三つのドアが並んでおり、左端にある『01』とネームプレートの打たれた部屋には、二人の人間がいた。


 客席は無人である。

 人の気配がするのは、隣の寝室からだ。


「―――――」


 女が嬌声を上げながら、男の上でゆらゆらと揺れていた。

 女は長く伸ばされた色素の薄い金色の髪をバレッタでアップにまとめ、白い項を惜しげもなく晒している。

 髪と同色の瞳は蕩けるように緩み、ふっくらとした唇は蠱惑的に弧を描いていた。控えめな化粧に反し、その艶やかな美貌と豊満な肉体は男好きしそうな女の典型そのものだ。

 そんな彼女が着ているのは、車両の内装と同じく青と黒を基調とした制服だった。糊の利いた清潔な布地は汗で汚れ、着崩されて半ば脱げている。

 高級車両であるその客室には、様々な娯楽設備が揃っている。美味しいケーキと紅茶、そして

「―――――」

 女はだらしなく表情を弛緩させて、激しく腰を上下させる。その豊満な体を支える腕は、下敷きになった男の首に掛かけられていた。

 女の細い指が、醜く肥大した男の首を絞め上げている。


 汗が煌く、退廃極まる歪な光景。

 その後しばらくして女は達し、男は逝った。


「―――――」

 女はその態勢のまま数秒痙攣けいれんした後、不意にふらりと立ち上がる。そして幽鬼めいた足取りで車窓へと向かった。

 大きな窓を、がらりと開く。

 暴風に煽られ、女の髪が乱れた。しかし女はそれを直す素振りも見せず、また特に何か言い残すでもなく――まるでそうするのが天命であったかのように、彼女は実に呆気なくそこから飛び降りた。


 車内スピーカーから、黒い歌姫の歌声が響き渡る。



 両目の内 右目は焼いて潰し 盲いた左目で混沌を視よ



 駅のホームに、汽車の到来を告げるアナウンスが響いた。

 タイル張りの床と、照明や街灯が点在するそこはとても明るい。しかし線路上は闇で塗り潰されており、その内を窺うことはできなかった。

 断崖にも似たそこには、転落防止用の柵があるのみだ。

 そしてそこには何人もの利用客が並んでいる。汽車の到着を今か今かと待ち構えている彼等は、しかし普段とは全く異なる様相で列を組んでいた。

 縦列ではなく横列。あたかもその場にいる全員が友人同士であるかのように、一人一人が腕を組んで策の前に並列して立っている。それが鎖の如く何重にも重なって、ホーム全体にひしめいていた。


 まるで群生する昆虫のような有り様。


 そこに一筋の光が雪崩れ込む。到着した汽車が放つライトの輝きだ。

 汽車は勢いを全く殺すことなく、湾曲した線路を全速前進で走破し――案の定勢い余って脱線し、ホームに頭から突っ込んだ。


 血液と臓物と鋼鉄とが、混ざり合って乱舞する。

 その中で、瓦礫に埋もれ紅く塗られた放送用のスピーカーから、黒い歌姫の歌声がノイズ混じりに響き渡った。



 虚無の書記は死者の書を携え混乱と湾曲した時間を記す



 その時、女は丁度夕食の支度に取り掛かっていた。

 野菜を俎板まないたの上に置き、等間隔に包丁を入れていく。とん、とん、とん、と耳に心地良い、家庭的な音がモダンなダイニングキッチンに響いていた。

 その隣でぐつぐつと、鍋が煮えている。

 女の齢は二十代の後半といった所で、緩くウェーブのかかった明るい色の髪を一つに結っている。顔立ちは幼く陽気な雰囲気で溢れており、高い位置で結ばれたポニーテールを揺らす姿はやんちゃな老犬を連想させた。

 女の姓はマグワイアといった。

 つい一週間前――先日の集団自殺者の記録リストには、彼女の夫とその両親が含まれていた。彼等は皆トライアドの構成員であり、何かにつけて狂乱し暴力を振るい、性欲処理を強要する。そういう一家だった。

 彼女が身籠った経緯は、同じ施設で育った先輩のヴュアルネ・クルーシュチャのケースとほぼ同じだったという。

 常に憎悪を抱き続ける、そんな毎日だった。

 如何にして法の目を掻い潜り、憎い夫一家にどんな復讐をしてやるか。常にそれだけを考え続けていたのだ。

 それが唐突に、自死という形で決着がついてしまった。

 最初は受け入れられなかった。憎悪の対象がいきなり消失した事実は、彼女の心を狂わせる。自分の手で殺すために夫一家を蘇生させるにはどうするべきか、などという馬鹿な妄想にふけったのも一度や二度ではない。

 しかし次第に、彼女はそれが為るべくして為ったものだと認識するようになった。唯一手元に残った赤子の存在が彼女を正気へと返し、母として、一人の人間として奮い立たせたのだ。

「私がぁ、この子ををぉ、しっかり育てなきゃねぇ」

 口の端を歪に捩じり上げて弧を描き、マグワイアが赤子に笑いかける。


 その視線の先にあるのは鍋だった。


 鍋の中では煮物が程よく煮込まれており、ぐつぐつと泡立つ水面の下には、およそ五キログラム程の重さの肉隗が沈んでいた。


 ―――とん、とん、ざく、ぶじゅる、ぶじゅる


 俎板を叩く小気味良い音に、不快な水音が混ざる。

 マグワイアは包丁を入れ続けた。野菜を切り終えて、その進路上にある左手をも指先から無理やりに裁断していく。その度に血飛沫が跳ね、微笑んだ顔を彩った。

 狂気に満ちた夕餉ゆうげの支度。


 ダイニングにあるテレビのスピーカーから、黒い歌姫の歌声がキッチンへと流れ込んでいる。



 四肢を断ち罪の重さを比べる者は降りて恐怖を解き放つ



「…………結局、仕事は終わらんままじゃったのぅ……」

 黒服の男が、とぼとぼと街を歩いている。サングラスに隠された彼等の面持ちは沈痛そのものだが、しかしそんなものは周囲の惨状に比べれば、あまりにも暢気過ぎると言わざるを得ないだろう。

 青白く煙る青と白の大理石で構成された街並みは、既にその面影を失っている。

 辺りには無数に赤い花が散華していた。

 一秒毎に誰かがビルの屋上から落下して路面に叩き付けられ、路地裏を見れば、誰かがコンクリートの壁にひたすら頭を打ち付けて赤い染みを量産している。

 誰もが狂っていた。

 清々しいほどに狂って、その果てに自死していた。

 無論、彼の相棒も例外ではない。元からおかしな言動の多い男だったが、今となっては輪をかけて好調極まっていた。彼は行進マーチのように腕を上下に振って、高らかに声を張り上げている。

「夢ト現ハ紙一重! 歌ハアノ世ノ晴レ舞台! 踊ル世間ハ爆発スル郵便受ケニ搭乗シ、須ラク空ノ彼方ニ散ル定メ! 白痴ノ落トシ子ハ夢ヲ見ル、胎児ヨ胎児ヨ、何故踊ル! コノ世ガ夢ニ過ギナイト理解シテシマッタノガ恐ロシイノカ!」

「昇進、したかったのぅ……」

「見ヨ、あれコソガ偉大ナルゆーとぴあノぱろでぃ、不浄ナルふるーとノ音色ニ導カレシ父ナル母ト子ノ礎トナリシ顕現シタ空ダ! 夥シイマデノ青空ノ凱旋ダ! 晴レルヤ晴レルヤ、時計ハ狂ッタ秩序ヲ嘔吐シ、混沌ハ狂乱シタ知性ヲ嘲笑シ、母ナル物ハ全テノ父ト乳ヲ遅々ト抱擁シ愛撫セン! オオ! 晴レルヤ、晴レルヤ!

 ―――――アッ、ソレジャ定時ナンデ、上ガラセテ貰イヤス」

 二人組の片割れが懐から拳銃を取り出し、その銃口を咥えて引鉄を引いた。

 火薬が弾け、鉛玉が飛び出し、撃ち出された弾丸が男の脊椎を破壊する。それが致命傷となり、男は即死した。

 膝からくずおれる男の死体。

 それを横目で眺め、残された男は溜息を吐く。

「はあ……こんなんなら、産まれてこん方がよかったわ」

 そう呟いてから、男は歩き出す。その直後、上から降ってきた投身自殺者の頭蓋が頭頂部に激突して男は死んだ。

 折れ砕け、皮膚を突き破った頭蓋骨の隙間から、血を吸って鮮やかなピンク色に染まった脳漿のうしょうが零れ落ちる。そのぷるりとした表面を震わせるのは、街中に設えられた放送用のスピーカーから爆音で奔る黒い歌姫の歌声だった。



 鏡に映るは悪疫の後宮 身形を整え三千世界を魔で没す



 薄暗い地下の底で、白い女が制御卓コンソールを操っている。

 そこはヒュペルボレオスの地下に広がる、ジオフロント式の研究施設だ。無数の機材に囲まれたその場所は、胎動卿と呼び声が高いヴュアルネ・クルーシュチャ碩学の研究室である。

「フンフンフンフン、フンフンフンフン。フンフンフンフン、フーンフフーン」

 ベートーヴェン交響曲第九番第四楽章、『歓喜の歌』。

 旧暦時代から現代にまで残る偉大な音楽を口にしながら、ヴュアルネは夢中でディスプレイを凝視しつつ、忙しなくキーボードを叩いている。

 黒い画面に表示される赤い文字の群れ――その表記の一部が着々と変更され、設定が改竄かいざんされていた。

 彼女がヒューマノイド技術を生み出す過程で誕生した、死体を機械で動かす術。一種の死霊魔術ネクロマンスとすら言える超常の技術により誕生した怪物達――ソレに施された戒めが、次々と解除されているのだ。

 怪物達は問題なく起動状態へと移行し、続いて格納庫のハッチが解放される。その後どうなるかについては、最早考えるまでもない。

「フンフンフンフン、フンフンフンフン。フンフンフンフン、フーンフフーン」

 最後の工程を終えて、ヴュアルネは深く椅子にもたれかかった。安っぽいクッションの感覚に背中を預け、没入感に浸る。

 制御卓コンソールの隅に置かれた旧式の小型ラジオから、黒い歌姫の歌声が響いていた。

「…………」

 ヴュアルネは終ぞ満足に言葉を交わせなかった娘の姿を想いながら、白衣の懐に手を入れる。内ポケットに無造作に突っ込まれたソレは、拳銃だった。

 銃の銘は『カルメラ』――トライアドにて実戦配備されているモデルだ。

「フンフンフンフン、フンフフフンフン。フンフフフンフンフンフンフン」

 彼女は楽しそうに微笑んで鼻歌を続けながら、硬い握把グリップに両手を添えて持ち上げ、銃口を蟀谷こめかみに押し付ける。

「フンフンフンフン、フンフンフンフン。フンフンフンフン、フーンフフーン♪」


 ―――――良き青空を!


 最期にそう叫んで、ヴュアルネは引鉄を引いた。

 薬莢の中に仕込まれた火薬が炸裂し、爆発が鉛玉を押し出して頭蓋を貫通する。狭く薄暗い室内に爆音の余韻が響き、水と肉の崩れる音がした。


 後には黒い歌姫の歌声が残るのみである。



 生命よこの世界を謳え 幾星霜の赤い砂漠を越えて

 生命よこの境界を謳え 無限の犬と鳥と蛸を従えて


 我は時を織りし者

 我は知を這わせし者

 我は有を産み落とす者

 我は玉座にて微睡みし者

 我は白痴にして盲目なる者

 我は形なく無にして有なる者


 我は魔王

 我は万物の王


 青き空の下 境界線を越えて母胎の玉座へと旅立つ

 夜明けの輝きを胸に灯して 泡沫の夢は空に溶けて消えるだろう


 * * *


 カルティエはただ茫洋と空を見上げていた。

 なにがおこっているのかは、よくわからない。けれど世界が粉々に壊れてしまったという事実だけを、彼女は正しく理解していた。

 毒の滴る触手に取り巻かれるような、仄暗い恐怖に戦慄する。

 多脚の蟲に背筋を這い回られているかのように、全身の肌が総毛立つ。

 巨大な蜘蛛に牙を突き立てられ、体内に消化液を流し込まれて内側から腐り溶かされているかのように――ぞくりと、臓腑の内から寒く凍て付く。


 青く澄み渡った空が恐ろしかった。

 それを見てしまえば必ず破滅するのだと、彼女の本能が告げていた。


 なのに決して目を逸らすことが出来ない、強烈な魔力がそこに渦巻いている。異次元めいた色彩の乱舞に取り憑かれたように、カルティエは蒼く澄んだ闇を凝視し続けた。

 やがて細部が鮮明に視えるようになってくる。けれどその直前に、その悪夢めいた景色は完全に闇の中へ閉ざされた。

 まるで世界から自分だけが隔離されたような感覚。それに混乱してカルティエは思わず手足を振り回すが、何かに掴まれ無理やり抑え込まれてしまった。

 一体、何がどうなっているのか。

 カルティエは何度もその問いを口にする。すると闇の中――すぐ目の前に、赤く燃え上がる三つの眼差しが自分を直視していることに気が付いた。

 顔にくっ付くほど間近に、その参眼が在る。

 普段のカルティエならその異様な様に悲鳴を上げる所だが、しかし今はそんな気にならなかった。むしろ闇の中に浮かぶソレに自ら焦点を合わせて、じっと眺め続ける。

 やがて闇は輪郭を持ち、人の形を象った。

 ソレはアラン・ウィックという少年の容をしていた。


 篝火かがりびのような赤い瞳が、直ぐ目の前に在る。


「……戻ったか」

 アランの小さな呟きが、額を通して伝わってくる。そのことから、カルティエは自身と彼が額をくっ付け合っているという事実に、なんとなく思い至った。

 額が、彼に抱かれた肩が、押し付けられる胸板が、とても温かい。その温かさにおぼれてしまいたいという考えが、少女の脳裏を過る――が、それを察していとうたか、アランはカルティエから離れた。

 名残惜しそうに眉を困らせて、カルティエは地面に座り込んだまま呆然と周囲を見渡す。


 辺りには誰もいない。

 自分と、アランと、エドガーと、シャーロット以外には、誰も。


「こ、れは……」

「青空教会が使った催眠兵器の効果だ。シャーロットを引き戻すのに手間取ったせいで、君の救出が少し遅れた。すまない」


 ―――――催眠兵器。


「なんですか、それは。私は、一体、なにを……何だったんですか、あれは」

 一時的な麻痺で治まっていたショックが、一気に表層へ表れる。カルティエはひどい恐慌状態に陥るが、アランは正面から再びそれを抑え込んだ。

 片腕で彼女の両腕を胴と一緒くたに縛り、もう片方の手で彼女の両目を優しく覆った。身動きと視覚を不意に断たれ、カルティエは動揺する。そしてそこに生じた隙に付け入るように、アランは彼女の耳朶じだへ言葉を擦り込んだ。

「落ち着け。。幻覚だ。あんなもので常識は覆らない、君の理性が崩れることはない。だから落ち着いて、ゆっくり息をして……」

 言われるがままに、カルティエは深呼吸を繰り返す。

 アランが触れている箇所からじんわりと氷解するように、凍えていた彼女の身体が温まる。やがて骨肉から完全に冷たさが失われ景気良く血が巡り始めた頃、カルティエはようやく本調子に復帰した。

 それを認めてから、アランはカルティエを拘束する腕を緩める。闇から復帰した蒼い瞳は、完全な理性の輝きを取り戻していた。

「アラン、君……貴方は、一体……」

「説明は後だ。今は時間が惜しい、直ぐに此処から離れるぞ。―――シャーロット、行けるか?」

「んん―――……うんん? ん、うん」

 深く眠気に埋没した返事が聞こえる。

 カルティエが首を伸ばしてみると、アランの後ろにシャーロットとエドガーが身を寄せ合って座り込んでいる様子が確認できた。

 シャーロットは酷い二日酔いに陥ったかのように、顔色を青白くして唸っている。そしてその隣に座しシャーロットの頭に首と頭を預けたエドガーは、何故か白目を剥いて気絶していた。

 その頭には、巨大なこぶがある。

「あの、エドガーは何故あんな怪我を―――」

「―――アレはいわゆる、コラテラルダメージというものに過ぎない。教会のテロ行為から逃れるための、致し方ない措置だ。という訳で、失礼」

「あっはい……―――って、きゃあ!?」

 真顔でうそぶくアランの言葉に頷くカルティエ。その言葉尻は、頓狂な悲鳴によって振り払われた。

 アランがカルティエを右肩に担ぐ形で、彼女の体をひょいと抱え上げたのだ。

「な――なな、な、なにをするんですか!?」

「避難だ。ほら行くぞ、シャーロット。気分が悪い所申し訳ないが、ソレはお前が運んでくれるか?」

了解Iaー……」

 シャーロットは目を擦りながら立ち上がると、倒れたエドガーの体をいとも容易く持ち上げて、アランと同様に彼を右肩に担ぎ上げた。そして二人は示し合わせたように、両足を鞭のようにしならせて全く同時に跳躍する。

 二人は立見席の柵を乗り越え、空いた観客席をも踏み越えて瞬く間に音楽ホールを横断した。

 弾むような衝撃と浮遊感が交互に連続する。

 その悪路を進む自動車めいた感覚に揺さ振られ、カルティエは目を回し、エドガーが目を覚ます。二人は三半規管の乱れに翻弄され、吐き気を催した。

 顔色を真っ青にして、二人は堪えるように両手で口を塞ぐ。そして衝撃に振り回されぬよう腹筋に硬く力を入れて態勢を整えた所で、ふと視界の端に、何か黒いものが映り込むのが見えた。

 コンサートホールの直上――五十メートルを隔てた距離にある公園に、何かがいる。

 それは、あまりに巨大だった。

 公園に設えられた転落防止用の金網と鉄柵越しに、太陽を背にして色濃い影を落としている。ずんぐりとした巨体を捻り鎌首をもたげる様は、最早怪獣と言う他なかった。

 そして実際、その認識は間違っていなかった。

 それは死だった。死という名前の怪物だ。

 死んだ、死んでいる、これから死ぬ――そういったもの達の群れであり、人間という動物の成れの果てだった。

 鎌首が傾ぎ、ソレの頭が前のめりに落ちてくる。

 塊は空中で分散し、拡散し、方々へ散ってから――


 ―――――グシャリ


 そんな音が、幾千幾万と重なって聞こえる。

 無人のコンサートホールは一転して、屍の散乱する棺へと成り果てた。まるで生ゴミが敷き詰められた箱に紅いペンキを流し込み、それを辺り一面にばら撒いたような惨状が出来上がる。

 身投げしたことで死んだ死体、公園に集った時点で圧死していた死体、死体、死体、死体――裂けて砕けて割れて散った死体の群れが、滅茶苦茶に散乱していた。


 その中心にあるのは――古典劇場オルケーストラを思わせる、コンサートホールの舞台である。


 その上に、アランとシャーロットが跳び乗った。そして二人は自失状態になったカルティエとエドガーを、木製の床の上にそっと下ろす。

 ぎしり、と。人の重みで床が軋んだ。

 壇上には彼ら四人と、黒い歌姫の姿しかない。奏者を務めた男女四人組はその役割を電子へと置き換えて、いつの間にか雲隠れしていた。

 無言のまま、アランが舞台の真ん中を行く。

 黒い少年と、黒い歌姫が相対した。赤と銀の瞳を錯綜させて、貌を無で塗り潰した二人が無言で睨み合う。


 黒い少年は憤っていた。

 黒い歌姫は嗤っていた。


 自前の感情――燃え上がるような憤怒を爆発させるアランに対して、レナータはこの世の全てを嘲笑うように、不敵に微笑んでいた。

 その表情は、。そして彼女の顏の原型オリジナルとなった女性のものとも全く異なっていた。

「……から目を放したのは、間違いだった」

 思えば、片鱗は幾つもあった。

 しかし恩師であった女性と瓜二つの人相――そして彼女の素直で温かな人柄に絆され、知らず知らずの内にそこから目を背けてしまっていた。


 アランはその笑みを知っている。

 アランはこの邪悪を知っている。


 黒い少年は険しい顔を歪ませて、怒りのままに黒い歌姫へ感情をぶつけた。


「これは全ての仕業か。―――――!」


 焼き付くような激しい怒号を浴びても尚、黒い歌姫は不敵に笑った。

 レナータはドレス越しに、その薄い胸に両手の爪を突き立てる。そして力任せに皮を掻き毟った。

 黒い布地が裂け、皮膚に爪が食い込み――破れる。

 その下にあったのは紅い血肉――。無機質な、陶器を思わせる白い骨格フレームだった。


「……


 エドガーが呟く。

 レナータの腹部と胸部の一部が展開し、内側に収められていた赤や青のコードや褐色のパイプ、繊細な歯車機構を露呈させる。そしてそれらをぶちぶちと砕き、押し上げながら、中からメガホンに似た形状の巨大なスピーカーを屹立させた。

 喇叭ラッパ状に広がる先端の表面が震え甲高くハウリング現象を起こしてから、ケタケタと、薄気味の悪い声が鼓膜を打つ。

 人間らしく憤る獣に対して、人間を模した機械は歪な嘲笑を返すのみだった。

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