第三十二話 I wanna be your dog

 これは――今からおおよそ、一年前の出来事。


 薄暗い人工の路地を歩く。

 先導している女は全くの無言だった。先程の病んだ狂態とは打って変わって、一言も発することなく前だけを見据えて通路を進んでいる。君はその後を追って歩いていた。

 足を前に動かし進む度、首筋に触れる髪の感触が気持ち悪い。

 しかし君は決して不快感を面に出すことなく、非の打ち所のない優等生を演じている。その外面は天使のように清純だった。


 君は先生と共に、トライアドが秘密裏に建設した地下搬入路を使用し、ヒュペルボレオスの中枢施設――枢機基地ジオフロント・暗黒脳髄機構シャルノスを訪れていた。その理由は取引ビジネスのため。取引相手は今、目の前を歩いている女だった。

 取引そのものは無事に終了したのだが、現場に蜘蛛を模した機械の怪物が突如として襲来。これに応戦したトライアドの構成員二名が死亡するが、怪物はその後に君の手で制圧された。

 君が先天的に有する生体機能――熱量操作の魔術。その躍如である。

 怪物の制圧後、魔術に興味を持った取引相手の女によって君は、枢機基地ジオフロントの奥地へと強引に連れ込まれた。それが大まかな現況の粗筋だった。


 唐突に、女が足を止めた。


 進路上の通路は唐突に途切れていた。暗闇の向こうへ、天井に沿って等間隔で引かれた索道が四本、真っ直ぐに伸びている。

 四本の索道の内の一つに、チェアリフトが吊り下げられていた。女はそれに乗り込むと、君の方を向いて手招きする。

 白い女だ。

 白い肌を白衣で包み、三つ編みにした白髪を肩に垂らした姿。病的ともいえる白い装いは、陰鬱に落ちくぼんだ蒼い瞳を際立たせている。

 取引相手であった白い女の指示に従って、君は行儀よく座席に座った。

 リフトの肘掛けから枠状に伸びる鉄柵には、ずらりとボタンの並んだ操作用のリモコンが設えられている。白い女がボタンの一つを押すと、ゆっくりとリフトが動き出した。

 其処は、巨大な地下道だった。

 汽車が同時に四台は行き交えるであろう広さ。

 そこは主に物資と人員の輸送を目的に建設された設備であり、地面には大型の線路が並び、天井には複数の鋼索が這っている。壁面はなだらかな楕円を描いており、現在地を知らせる幾何学模様のマーカーが引かれていた。

 非常灯と誘導灯以外の照明は機能していないためか辺りは薄暗く、設置された機材のほとんどが剥き出しになっているからか、洗練されていない無骨な印象が強い。完全な移動用の設備であるからだろう、全体的に快適性を欠いた造りをしているようだった。

 時折、足元を貨物列車が通り過ぎていく。強烈な風圧に晒され、リフトが頼りなく揺れた。


「―――この世で最も優れた人形が何なのか、分かるかしら?」


 唐突に、白い女がひとりごちた。

 尋ねる風な口調だが、しかし君を一顧だにする気配すらない。彼女は肘掛けに頬杖を突き、君をおいてけぼりにしたまま、淡々と独り言を紡ぐ。


「旧暦時代には、死んだ愛娘にそっくりな人形をフランシーヌと名付け溺愛し、世話を焼いた哲学者がいた。

 彼を代表に、人間わたしたち考える生き物わたしたちであるが故に、何時の時代も妄執と妄想を連結させてきたわ。そしてそうであるが故に、空論フィクションの分野に登場する技術ガジェットのほとんどが人間リアル人形マシンを分け隔てる格差なんてものはあってないに等しいものとして設定され、不気味の谷を安易に越え行き来している。彼等は一体何を見ていたのか、そして何を望んでいたのか。

 ―――古来より、人造人間の創造は人類の夢だった。

 タロース、ゴーレム、エンキドゥ、アダムとイヴ、ホムンクルス、フランケンシュタインの怪物など、などと。有名無名を問わず、その存在は神話の時代より夢想され、長い永い歴史の中で――幾多の創作者と愛好家がこぞって試行錯誤を繰り返し、各々が思い描いた夢の発露を試みてきたわ」


 妄執としか言えない、常人には理解し難い徒労。

 その行動原理となっているものは、即ち彼等にしか理解できない願望である。


「工業や小売業に従事する拝金主義者が求める労働者ロボットとは違う。これは決して彼等の中にはない、夢追い人だけの浪漫。

 分かるかしら。人造人間の創造――その目的はただ一つ、愛でるため。愛されるため。故に求められているのは使用者ユーザにとって都合の良い愛玩物。そのための人型。それだけのもの。だからこそ、人々は意のままに動く人形を求める。その原動となっていたのは愛欲ではなく庇護欲。犬や猫などといった、小動物を飼い可愛がりたいと願う欲求と根源的な部分は変わらない。……人は人を傷付け、言葉は人を殺めるから、人の孤独は人では癒せない。だから、意思疎通のできないもの――単にに執着し、執心してしまうのよ」


 犬、という単語に反応し、君の肩が少しだけ跳ねた。

 そんな反応を気にも留めず、白い女は講義じみた独白を続ける。


「歴史上、人造人間の開発に幾人もの碩学が、幾星霜と心血を注いできたわ。私もまたその一人。

 幼い頃からの夢だったの。私はずっと自分の子供が欲しかった。、この手で造ることにした。

 長期間に渡る永い研究の結果、私は私の求める答えが人形にあると結論付けた。人形は独力で動けないからこそ、持ち主の庇護欲を掻き立て受動的ながらも主体的に自らの世話を焼かせることができる。それは子供も同じことが言えるわ。可憐な造形と未発達な知能は、見る者の庇護欲を刺激する。そして主体性を持たず従順で、その行動は最終的に親の元へ帰属するようにできている。子供にとって大人は神に等しく、絶対的な存在として君臨する。そしてその地位をより明文化させるために用意されたのが、工学ぶんがくにおける倫理行動三原則よ。

 人形ロボットは人に危害を加えてはいけない。

 人形ロボットは人に与えられた命令に従わないといけない。

 そして―――人形ロボットは前二つの規則に反する恐れのない場合に限り、自己を護らなければならない。

 私達エンジニアの間では当の昔に廃れた概念だけれど、子供に説く道徳観としては適当なものだから、今でも言い聞かせられているわね」


 一旦言葉を切り、白い女は懐に手を入れた。

 市販品の煙草とライターを取り出し、一本だけ咥えて火を点ける。甘い紫煙を吸い込み、吐き出し、白い女は続けた。


「極端な話、所詮、飯事は育児の真似事であり、人造人間の製造は出産の真似事でしかない。であればその逆もまた成立するのが道理ということ。実際、クローンやデザイナーベビーを人造人間呼ばわりする人もいるくらいだから。

 ―――総じて、子供以上に優秀な人形は存在しない。歴史がその事実を証明しているわ。何時の時代でも子供達は兵隊として、そして性の対象として、重宝され、酷使され、浪費されている。これは何も人間に限定した話じゃないわ。未成熟な母体の妊娠や、幼体に対し性交渉を試みる行為は、自然界では別段珍しいものではないもの。

 遺伝子に刻まれた本能によって、大人わたしたち子供あなたたちを愛するように規格プログラムされている。善くも悪くもね。もしも人とそれ以外とを別ける違いがあるとすれば、それはその行為そのものに、何か、特別な意味を見出すことの出来る知性があるかという一点に他ならないわ。

 ……とはいえ、倫理的な観点で言えば、褒められた趣味じゃないことも事実だけど。愛と言えば聞こえはいいけど、その手法や形には個人差があるし、下卑なものも少なくないから。貴方なら、身に覚えがあるんじゃないかしら?」


 そううそぶき、白い女は横目で君を一瞥いちべつする。

 対して、君は無言だ。端整な顔を微笑みで固定して、じっと前を見据えたまま身動ぎ一つせずピクリとも動かない。背筋を伸ばして膝に両手を重ね行儀よく座った姿勢も相まって、その姿は傍には人形にしか見えないことだろう。


 白い女は視線を前に戻した。


「私が開発したヒューマノイド技術――中でも組み上げたAIの知能指数は六歳児に相当する程度しかない。これを主観的な印象で『大したことのないもの』と評する人もいる。実際、人工知能としてはマニトゥに大きく劣るのは事実よ。それは否定しないわ」


 ……まあ、アレを『AI』と呼ぶのは語弊があるのだけれどね。


 白い女は、小声でそんなことを付け加えた。

 気を取り直して、何事もなかったかのように白い女は続ける。


「けれど、私の目的は頭のいい自我AIを造ることじゃない。私の目的は私の子供AIを造ること。だから必要なのは意思と存在の二つだけ。あとはただの余剰データでしかないのだから。

 ……でも、そんなものは誤魔化しだわ。

 話を最初に戻すけれど――言ってしまえば。私はね、ただ単に自分の子供が欲しかっただけなのよ」


 自嘲気味に笑って、白い女は歪んだ心情を吐露した。

 まるで長年に渡って体内に溜まった膿を吐き出すような、爽快ではないけれど、憑き物が取れた心地の顔。そんな疲れ切った表情で、人生で初めて抱いた感慨を噛み締める風に、白い女は語る。


「魔術をその身に宿した人間の遺伝子や染色体は、通常の人間のものとは大きく異なるわ。たとえるなら蟻と獅子くらい違う。蟻の卵に獅子の精液がかかった所で、子供なんてできる訳がない。寓話の怪物ミルメコレオの存在は、所詮、空想上の御伽噺おとぎばなしに過ぎない。だから私や貴方が子供を造るのは不可能に近い。……頭ではそんなことはとっくの昔に理解してた。でも、納得はしてなかったのね。私は私の子供が欲しかった。それが夢だった。だから代用品を造ってみることにした。

 つまり――結局は、全部ただの

 子供の頃にやっていた遊びと、大人になってから始めた研究。どちらも最初は目的と動機が全く別方向を向いていたのに、気が付いた時にはこうして一致してしまっていた。それが私の碩学としての在り方よ。六歳の頃から歩き始めた道は……思えば、遠くまできたものね」


 懐かしむように白い女は目を細めた。


 君は傾聴する傍ら、視界の端で壁面に描かれた標示を見やる。

 E017線からE056線への分岐点。その後E089線へ。


「まあ、結局その後に色々あって子供を産むことになったけど。でも親子関係は健全とは言い難いのが実情ね。……元々私が欲しかったのは、私の庇護欲を満たしてくれる何かでしかなかったのだし。自分が親として不適格である自覚はあるから、それは別にいいのだけれど。

 これまで、あの娘の成長過程は街の監視システムで見守ってきた。だからこれまではそれで十分だったし。でもだからこそ、あの娘のこれから先の行く末を見守ることが出来ないのは……本当に、心の底から残念だわ」


 細く長く溜息を吐く白い女。

 彼女はちらりと、隣に座る君の様子を盗み見る。それに気付き、君は白い女を見上げてにっこりと笑った。

 計算され尽くした角度で口角を上げる。自分の容姿や表情が相手にどういう印象を与えるか、君は熟知していた。美術品めいた完璧な笑み。その表情は、やはり人形つくりものじみている。


「……道中の暇潰しになるかと思って、自叙じじょの真似事をしてみたけれど。やっぱり私に子守りは無理だったようね。慣れないことはするもんじゃないわ」


 肩を竦めて嘆息し、白い女はチェアリフトのリモコンに手を伸ばした。

 停止のボタンを押す。

 リフトから降り、君達は枢機基地ジオフロントの通路を進んだ。やがて分厚い隔壁で閉ざされた行き止まりに辿り着く。

 隔壁には、カチナ・オルガンを象徴する紋章が描かれていた。

 白い女は隔壁の脇に設置された電気錠を操作する。カバーを開いて指先でパネル式のキーボードを叩き、開かずの間の封印を解いていく。


「ところで話は変わるのだけれど。貴方、先生のことは好き?」


 君は答えなかった。


「……そう。私はね、正直に言えばあの女が嫌い。

 エレナ・S・アルジェント――彼女は二千年前にチャールズ・B・クルーシュチャと手を組んでヒュペルボレオス建国に尽力した陰の功労者であり、そして現在に至るまで、永きに渡ってマニトゥに仕えてきた暗殺者エージェントでもある。表向きは善き教師として振舞ってはいるけれど、その実態は人間ではない。あらゆる詐術、魔術、拷問術に秀でた正真正銘の魔女。冷徹で残虐な、人の命をなんとも思わない外道でしかないわ。私が学生だった時は、当時の生徒に手を出して煽惑したりとかしてたしね」


 愚痴や陰口めいた言動だが、しかしその口調は相変わらず平坦なものだった。抑揚に欠けていて、機械が再生する人工音声よりも人間味がない。

 白い女は不意に肩越しに振り返ると、首を傾げた。


「今、私は貴方の先生の悪口を言ったのだけれど。怒らないのね?」


 そんなことを尋ねる。

 それに対し、君はやはり完璧な笑顔を以って返答とした。決して相手の話を遮らず、主張を殺し、思考を止め、無知を装うことで場を収める。

 表向きはあくまでも天使のように振る舞え。噂話は裏でしろ、教師おとなには隠れて行動しろ、遊ぶのは結構だが絶対に捕まるな。ヘマをしたなら、――それこそが、あの閉塞した学園で君が学んだ処世術だった。


「まあいいわ。さて、と。それじゃあ私はちょっと自分の研究室に行ってくるわ。ここの鍵を忘れてしまったみたいだから。戻ってくるまでに結構時間がかかるとは思うけれど、良い子で待っていて」


 衣服のポケットを分かり易く漁って見せて、白い女は肩を竦めると、きびすを返して歩き出した。彼女は君の横を通り抜け、元来た道へ引き返していく。

 君がその背中を見送っていると、不意に彼女は足を止めた。


「さっきまでの私の言葉は、全てカチナドールとして仕事で喋ったことよ。簡単に言えば聞き流されると困る台詞。でも今から私が言う言葉は、ただの私事だから、聞き流してくれて構わないわ。

 もし――もしも、貴方が私の娘に会うことがあったら。その時は、仲良くしてあげてちょうだい」


 決して振り返ることなく。

 それだけ告げると、白い女は今度こそいなくなった。


 彼女が立ち去り、引き返してくる様子がないことをしっかりと確認すると、君は予定通りに行動を開始した。

 今回――君に与えられた任務は、枢機基地ジオフロント奥地への潜入と諜報である。

 暴走した機械の怪物を魔術で排除し、その特異性によって白い女の気を引く。そして彼女の研究室などの枢機基地ジオフロント内の重要施設に君を連れて行くように仕向け、内部情報を記憶し、可能であれば施設内の機密データを入手するというものだ。

 そして今の所、任務は拍子抜けするほど上手くいっていた。

 君は電気錠を解除する専用の機器を懐から取り出すと、端子を摘まんで引っ張って内部のケーブルを引き摺り出し、床板の下に隠された非常用端末に接続する。そして機器を介して隔壁のコントロールを得ると、遠慮なく解放した。

 重い音を立てて、隔壁が開く。

 空いた隙間に即座に身を滑り込ませ、君は素早く辺りを一瞥した。

 内部の空間は存外に広々としたものだった。

 しかし実際のスペースとは裏腹に、辺りは奇妙な閉塞感に満ちている。灯りは等間隔に埋め込まれた足元のフットライトのみであり、頭上には深い闇が凝り固まっていて天井が視認できなかった。

 周囲には、黒い縦長の直方体が整然と並んでいる。

 それは幾何学模様めいて配置されており、一見した限りでは大型図書館を思わせる内装だが、しかしそれは本棚ではない。0と1を示す赤い信号ランプが無数に瞬く、サーバー用のハードウェア機器が形作った群体だった。

 床に敷かれた細長いレッドカーペットが、真っ直ぐに前方へ伸びている。

 事前に渡された資料にはなかったフロアだ。君は注意深く辺りを見回しながら、上質な絨毯じゅうたんを踏みしめて奥へと進む。

 中央に近付くにつれ、他区画とを隔絶する壁は扇形に狭まっていった。


 程なくして最奥に至る。


 祭壇じみた壇上に安置されていたのは、巨大なコンピューターだ。天井や床には機器を中心として無数の配管が張り巡らされている。旧暦時代のテクノロジーの名残か、円盤自奏琴ディスク・オルゴールに似た巨大なハードディスクが本体に突き刺さっており、ゆっくりと回転していた。

 その形は大型管楽器パイプオルガンに似ていた。

 段状に重なった多数の鍵盤型のキーボードの上に、楽譜台めいたモニターが設えられている。

 君は早足で壇上へ昇ると、ポケットからスティック状のメモリーカードを取り出す。そしてそれをコンピューターに突き刺した。

 後は機械の仕事だ。予めインストールしておいたプログラムが起動し、接続したコンピューターに記録された情報をコピーして勝手に盗み出してくれる。


 君が呆とモニターを眺めていると――不意を打つ形で、一本の動画が再生された。


「…………………………………………なに、これ?」


 小さなウインドウに映し出されたのは、■だった。

 ■が、様々な体格の男達に囲まれ、嬲られている。


「これは、いったい、なんの記録……―――」

『―――お答えしよう。君の■が凌辱されている映像さ。分かり易く言うなら児童ポルノかな? いやはや、なんともまあ惨いものさ』


 君の呟きに、やけに軽薄な声が答える。

 その声の音源は人の声帯ではない。どうやら周囲のどこかに設置された拡声器スピーカーから聞こえるものであるようだった。


『ちなみに、君の■のものだけでなく、君自身のものもあるよ。?』


 平然とうそぶく人工音声。それと同時に、複数あるモニターの全てが小さなウインドウの群れに埋め尽くされた。

 見覚えのある様子と、見覚えのない光景がぐちゃぐちゃに混ざり合う。

 まるでモザイクアートみたいだ。

 経験則か、あるいは本能から沸き起こる衝動に押されてか――全力で現実から戦略的撤退を試みる君を甚振るように、声は続く。


『これはトライアドが闇市で流していたのを、秘密裏にボクが押さえたものさ。品そのものは比較的に有り触れたものでね。青空教会が趣味で撮った映像を、実益を求めて三合会トライアドに二束三文で売り渡し、そしてその商品を政府カチナ・オルガンが児童虐待その他アレコレの証拠品として確保、押収したもの――という訳だ。

 ちなみに、ここにある動画の削除は認められない。職務上、こういったものも厳重に保管しておかなければならないからね。犯罪組織は犯罪組織と癒着するものだから、資料として取っておかなければならないのさ。実際、こうして役に立ったことだしね。―――ああ、そうそう、もちろんこれ等は決してボクの趣味で集めた訳ではないよ? その辺りのことは誤解せず、しっかりと理解してほしいものだね』


 声は長々と御託を垂れている。その言葉は君の耳を通り抜けて右から左へ流れていくばかりで、ちっとも意味が分からない。

 なので、君はただ一言だけ尋ねることにした。


 お前は誰だ、と。


 声は喜悦をにじませて、芝居がかった台詞を読み上げる。

 氾濫はんらんする下卑な動画を背景と舞台にして、不意にモニター上に一人の小人の姿が脈絡なく躍り上がった。

 ソレは、幼い少女のすがたを象っていた。

 褐色の肌と、肩甲骨の辺りまで伸ばされた白い髪。形の良いアーモンド形の紅い瞳を細めた姿は、鷲の羽根を模した髪飾りなど、野生的要素を取り込んだ紅いゴシックロリータ衣装と相まって、どこか霊的な神秘性を感じさせた。

 少女の像は道化じみた仕草で腰を折り、気取った様子で一礼をする。


『では名乗らせていただこう。ボクの名はマニトゥ。この楽園ヒュペルボレオスの管理人をしている者だ。どうか以後、末永くコンゴトモヨロシク』

「…………」


 名乗りに応えることはせず、君は黙して慎重に思考を巡らせる。

 状況は逼迫ひっぱくしていた。

 マニトゥに――敵に、潜入がバレた。であれば、これからどうするか考えなければならない。最低限度の方針として、脱出するか捕縛されるか、どちらかを選択する必要があった。

 君としてはどちらでも問題はなかった。だからこそ即決しかねたのだが。

 魔術を使用すれば脱出は容易であり、たとえ捕まったとしても、どのような拷問を受けた所で何も喋らないし死なずに済むという確信がある。重要なのは、マニトゥがどの段階で君の存在を感知したのかだ。

 もしもこの場に来てからなのであれば、今すぐに逃げればそれで済む。

 しかし、もしもそれ以前――特に先生の存在や白い女との取引まで把握されているのなら、大至急、白い女を殺しに向かう必要があった。


『おっと、ボクのねぐらで物騒なことを考えるのはやめてもらおうか。そこはこの世に三つしかない格差解析機関トリスメギストスの一柱、サードヘルメスの本体がある場所なのでね。更にそのフロアの直下には本体ボクもある。手荒なことはせず、どうかボクの話を最後まで聞いて欲しい』


 言い分に反して、モニターに映るマニトゥの姿は尊大だ。

 彼女は無数にあるウインドウの一つを椅子に見立ててその上部に座し、足を組んでいる。


『さて。こちらとしてはもっと長々と御託を並べたいところではあるのだけれど、生憎と今後の予定が詰まっているのでね。無粋だが、まずは単刀直入に本題だけ告げさせて頂こうか。―――ねえ、君。青空教会を抜けて、ボクの駒にならないかい?』


 つまりは―――――寝返れ、と。

 マニトゥは君にそう言っている。


『今の君の労働条件は最低最悪、悪辣極まるものだ。それに対してこちらは、完璧な福利厚生を備えたクリーンでホワイトな職場だよ。完全な週休二日制で基本的に残業はナシ。仮に残業があったとしても、きちんと適正額の残業代が支払われる。もし職場でナントカハラスメントの被害にあったとしても大丈夫、ボクがきっちり対処してあげるから安心したまえ。スキルがない、自信がない、という新人君にもしっかりと対応できる教育システムも導入している』


 これは明らかに悪魔メフィストーフェレの誘惑だ。

 胡散臭い文句を並べて、マニトゥは君をたぶらかそうと企んでいる。その誘いに乗ろうなんて気は微塵も湧いてこなかった。ただ、君の頭には先程見た映像が脳裏にこびりついて離れない。

 そんな心ここに在らずといった様子の君が食らいつくであろう文言を、マニトゥはしっかりと用意していた。


『当然、この契約の福利厚生の対象は、君の配偶者や家族にまで及ぶ。もし君がボクの許に来るというのなら――君の家族の生活と身の安全は、楽園の名に懸けて、絶対的に保証すると約束しよう』

「…………」

『迷っているのかい? 迷う理由なんてないだろうに。それとも思考が停止したまま動いていないのかな? もしもーし?』

「……………………」

『まったく……思い出してみたまえよ。君にとって、本当に大切なものはなんなんだい? 護るべきものは? 護るべき価値とは? 君は今までの苦痛の日々を、一体んだい?』

「…………………………………………」

『大切な家族のため、だろう? 君は心身共に不能だからね。伴侶を迎え入れて新しい家族を造る、というのは不可能ではないがいささか困難だ。従って、既に在る者以外に君の家族は存在しない。病める時も、健やかなる時も、君を愛し、君を敬い、君を慰め、君を助ける者は、この世界にたった一人しかいないという訳さ。で、そのたったひとりきりの家族が――この有り様だ』


 ―――パチン


 マニトゥが指を鳴らす。軽快な音に合わせて、モニター上に幾つかの資料が表示された。どうやら何かの報告書らしい。その文面に目を通していく内に、君の体内を巡る血が音を立てて下がった。

 現在、君の■は妊娠しているらしい。それも三人目だとか。

 報告書には写真が添付されている。■が布に包まれた何かを抱いていた。その姿はよくわからない。オイなのかメイなのか、そもそもヒトですらないようにみえた。きっとおなかのなかにいるさんにんめもこんなかたちで、まぁるい、おめめが、かわいくてきもちわるくておぞましくてふかいでたまむしいろでなにがなんだかわからないから、だから、だから、だから、だから、だから、だから―――――


 ―――――


 気が付けば、君は自分の頭を掻きむしっていた。指に絡まった髪が皮膚ごと千切れ、頭皮に血が滲む。しかし傷は直ぐに塞がった。

 首筋に触れる髪がひどく気持ち悪かった。

 君は衝動に任せてひとしきり髪を毟り、燃やしたところで、ふと唐突に。君は昏い全くの無表情――奈落の穴の底を思わせる無貌の亀裂から、声を木霊させた。


「……言え。?」


 ニヤリ、とマニトゥが嗤う。


『では本題に戻ろう。簡単な話さ、君にはボクの手駒カチナドールになって貰いたいんだ。もしも君がこの楽園の地下から動くことができないボクの代わりに、手足として動いてくれるというのであれば、必ず君の家族の身の安全を保障しよう。それとついでに、公的に復讐ができる役職も与えてあげようじゃないか。

 なあ――したいだろう、復讐。

 君は悲劇に涙する性質ではないし、然して生き物の殺害に喜悦する類の阿呆でもない。ただ許せないから、ひたすらに怒る。それだけのものだ。なら、それだけでいいじゃないか。君は君のやりたいようにやり、やりたいように生きたまえ。何故なら――君はもう庇護されるだけの子供ニンギョウではなく、立派な大人ニンゲンなんだからさ』


 瞬間、モニターが一斉に暗転ブラックアウトする。

 色を失った黒い液晶に、誰かの姿が映り込んでいた。

 そこにいたのは見知った子供ではなく、見覚えのないひとりの男。

 零れた墨が固まったような乱れた黒髪と、闇の中で輝く篝火かがりびのような赤い瞳。白い皮膚に覆われた顔は骨格からして精悍な造りをしている。顔立ちは端整で人形じみているが、真っ赤に血走った眼と奈落のように暗い口が生物的な狂気を色濃く孕んでいた。

 屈強な総身を覆うのは、少しだけ薄汚れた物乞い風の衣装。その背丈は、君自身が思い込んでいた自分の印象の姿と比較して、

 確かに、そこには何もできない無力な子供の姿なんて、何処にもありはしなかった。


 思えば――きっと、この瞬間に。

 が死んで、が生まれたのだ。


『……古来より、復讐は娯楽として親しまれてきた。巌窟王モンテ・クリスト然り、悲劇王ハムレット然り。そして彼等が振り撒く悲劇と懊悩もまた、人々の愉しみの一つとなった』


 滔々とうとうと、マニトゥが最後の問いを投げる。


『深淵を覗く時、深淵もまたそちらを覗いているものだ。復讐は必ず新たな復讐の火種を育てる。そうなれば、辿るであろう末路もまた先達と同じ道だろう。王道、という奴さ。さてここで質問だ。―――君は巌窟王モンテ・クリスト悲劇王ハムレット、どちらになりたい? どちらの道を歩むのかな?』


 問いに対して、君は頭を振った。


 巌窟王モンテ・クリスト――彼は復讐を成就したものの、その為に重ねた幾つもの罪科や未練の懊悩から自らの命を絶とうとした。

 悲劇王ハムレット――彼の復讐は自分と仇敵のみならず、関わった者の悉くが屍山に埋もれ血河に溺死し後に何も残さなかった。


 その二種の末路こそが復讐劇の王道。であれば、君の選ぶ道は―――


『―――なるほど、それは重畳。いいね、これは末永く楽しめそうだ』


 君の答えに満足し、楽園を運営する人工知能は、心底愉し気に笑った。

 こうして、君は悪魔メフィストーフェレと契約を交わした。

 その直後、何よりもまず優先すべきは家族の身の安全であると主張した君は、ヒュペルボレオスの壁外で青空教会が運営する街に囚われた■を奪還すべく、マニトゥが用意した高速飛行艇に搭乗して出立する。

 そして街に到着し、君が見たものはといえば―――――


 ―――――■してやる。


  男と、男と、男と、男と、男と、男と―――それから。


 ―――――■してやる。


 黴と埃で汚れた狭い部屋には青臭くすえた悪臭が広がっていてその中心に白く汚れた■がいて腕に抱いたなにかよくわからないものに乳をあげていて。


 ―――――殺してやる。


 彼女は帰って来た君に気が付くと顔を上げていつものように嬉しそうに笑っておかえりなさいって微笑んで腕の中のなにかよくわからないものを掲げてその顔をこちらに見せて。


 ―――――殺してやる、殺してやる、殺してやる。


 ミて、このコ、ワタシやおニイちゃんにそっくりだよってワラってました。


 ―――――殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる―――――


 * * *


『―――――……オヤ?』


 時計男が首を傾げた。

 彼は顎部から伸ばしたケーブルの端子をアランの眼球に接続し、視神経を介して直に脳へ電気信号を送るという形で、彼の記憶を整頓し覗き見ていた。しかし意に反して唐突に、再生していた記録は暗転し打ち切られてしまった。

 異常事態である。

 時計男はすぐさま、端子の機能を使ってアランの脳の様子を診断する。


 結論から言えば――アラン・ウィックは死んでいた。


 再生される記憶に強烈なストレスを感じ、それを中和するために脳内麻薬を過剰に分泌。致死量に至っていたこと。そして脳の血管が軒並み断裂し出血したことで脳圧が急激に変動――その結果、アランは脳死状態になっていた。


『おお、アラン・ウィックよ、この程度で死んでしまうとは情ケナイ!』


 ゲラゲラと、歯を打ち鳴らす髑髏ドクロのように大笑する。背中を逸らして、腹を捩って。出来ることなら両手も打ち鳴らしたいところだが、しかし片腕がもげているのでそれは叶わなかった。

 何にせよ、これで遊びは御仕舞ゲームオーバーだ。

 マニトゥとミスカマカスの勝負は、引き分けということになる。どちらもその勝利条件を達成できぬまま、駒が壊れてしまったからだ。


 マニトゥ側の勝利条件は二つ。

 時計男を首領とする敵性力の排除と、制御を奪われた階差解析機関トリスメギストスの奪還。


 対するミスカマカスの勝利条件は一つ。

 アラン・ウィックの手で階差解析機関トリスメギストスを破壊させることである。


 奪われた駒であるアランを自陣に連れ戻すためには、本人を説得するよりもまずマニトゥに手放して貰うのが手っ取り早い。故に彼が理性を失くして激昂し、怒りに任せて魔術を行使するように仕向け十重二十重の策を張り巡らせてきた。

 しかし予想以上にアランの理性は堅硬だった。結果として彼は、時計男の思惑を、自らの命と引き換えに見事打ち破ったのである。


 人の死によって上がった喜劇の幕が、人の死によって落とされた。

 となれば拍手喝采で幕を閉じたいところであるが、しかしそうは問屋が卸さない。時計男は熟睡する人間を起こそうとするように、物言わぬ死体を揺さぶる。


『アラン、アラン、死んでいる場合ではありマセンヨ。ほぅら、起きてクダサイ。朝デスヨ。起きてください、朝ですよ、朝ですよ、朝で―――――』


 ―――――唐突に、ふざけた台詞が裁断された。

 死体が動いたのだ。

 脳死した筈の少年の両腕が動き、時計男の顔を鷲掴みにしている。人間の限界を超えていると思しい凄まじい握力によって、時計男の外殻が歪み、ひしゃげ、潰れた有機部品から汚穢おわいな汁が滴り落ちた。


『オ、おおオオオオ……』


 時計男が呻く。

 彼の右目に備わったセンサーが、懸命に屍を凝視した。

 死体の額が縦に割れている。皮膚が裂けているのだが、しかし血は一滴も零れていない。けれどその隙間からは赤い色が覗いていた。


 それは―――――眼だった。


 血とは全く異なる赤。闇の中で煌々と輝く篝火を思わせる、紅玉ルビーの宝石めいた赤い瞳孔。それが屍の額に発生していた。

 額の肉が左右に分かれ、皮が剥ける。すると隠れていた瞳孔と白目が完全に露になった。赫然と燃えるぎょろりとした丸い瞳は、最初から一度も視線を動かすことなく、時計男を睨め付けている。

 目が合った――と時計男が認識した瞬間、ソレは炎を噴いた。

 燃える参眼。

 額と両の眼窩に埋まる三つの眼が、同時に発火する。溢れ出した炎は一瞬で死体の頭部を覆い、皮膚を溶かし肉を炭に変えた。

 頭蓋骨がメキメキと音を立てて変形していく。燃え上がる喉から奔る燃焼音は、獣の威嚇する唸り声に似ていた。

 明らかな脅威である。それは最早死体ではなく、人間ですらない。あらゆるものを破壊し鏖殺し尽くす化け物だ。


 その異常を前にして――時計男は歓喜していた。


 最後の最後に、時計男は自らの勝利を確信した。

 そもそもソレは始めから人間ではない。魔術を己の生態として仕込まれた生物兵器だ。人と人でないものを掛け合わせて造られた怪物である。故にそれは無から有を生み出すことすら可能とし、人の手にはあり得ざる奇跡すらその身に起こす。


 死からの復活は、古来より神の児にのみ許された特権だ。

 であるからが故に、神と人の混血児であれば、死からの蘇生など出来て当然に決まっている。


『おお――おおおオオオオ!  待ち侘びていマシタヨ……遂に目覚めたのですね、神の落トシ児カチナドール! これでこの遊戯ゲームは吾輩ノ勝利ダ! さあ遠慮は無用です、跡形も無く全てを吹き飛ばしてしまイナサイ!』

 耳障りな時計男の声。それを食い破ろうと、怪物が口を開く。

 炭化した頬肉が、バキバキと音を立てて引き裂けていく。

 焼けた怪物の頭部は骨を残して焼滅していた。そしてその骨ですら、生前の面影を残すことなく変形している。その形状は人の頭骨ではなく獣――特に犬のモノに酷似していた。


 怪物の顎から炎の唸り声が漏れる。

 時計男の拡声器スピーカーから爆笑が溢れる。


 其処は既に正常な物理法則が機能しない、暗澹あんたんとした混沌に支配された空間。生者は何人であろうと立ち入れず、死者の怨嗟の声だけが共振する、狂気だけで完結した世界。それだけの場所、それだけの宇宙。欺瞞の機械と憤怒の害獣がぶつかり合い、救済の魔女が世界の終末を告げる喇叭ラッパを吹いて楽園に真の終わりをもたらす刻。


 何もかもが終わる。

 その時――声を、聞いた。



 待て、然して希望せよ。



 果たして、それは一体誰が言った台詞だったか。

 それは死者の怨嗟の声だった。復讐者の言葉だった。自殺した誰かの怨念だった。だからその声は怪物の耳に届き、炎の毛皮を逆撫でた。


(ああ――そうだった。俺は貴方の仇を討つって、約束したんだった)


 憤怒の獣が、懐かしい感慨を思い出す。

 瞬間、炎が消えた。

 強風に吹かれたように紅蓮の炎が後方へと薙いで、そのまま消失する。後に残されたのは、目玉を機械によって貫かれた少年の貌だった。

 少年は新品の上着のポケットに手を入れ、中に入っているものを取り出す。

 それはソムリエナイフだった。どうやら旧暦時代の神様か何かの伝承をモチーフにした意匠を取り込んでいるらしく、かなり奇抜な形をしている。

 少年はソムリエナイフの留め金を外す。

 パチン、と小さな音を立てて、凶器というには小振り過ぎる刃が飛び出した。


 ―――ありがとう、貴方のおかげで目が覚めた。


「そうだ、俺は彼女の仇を討つ。俺は巌窟王にも、ハムレットにもなりはしない。この復讐は俺だけのものだ。絶対に、誰にも渡したりなんかしない―――――!」


 獰猛に宣言し、黒い少年は時計男の胸にナイフの小さな刃を捻じ込んだ。

 硬い金属分品だろうが弾性のある有機部品だろうが関係ない。指が折れようが掌が裂けようが知ったことではなかった。ただ全力で、敵の体の奥へ奥へと腕を突っ込み――そして、流れ出る血液を燃料にして、遠慮なく体内から爆裂させた。


 轟音が空間を震撼させる。


 爆発で黒煙が舞い視界を閉ざす。その中で――黒い少年は勝者として君臨し、胸に大穴を開けた敗者が崩れ落ちる様を見下ろしていた。

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